TOMATOの手帖

日々の生活の中で出会う滑稽なこと、葛藤、違和感、喪失感……などをとりとめもなく綴っていけたらと思っています。

もうしょ(猛暑)~がない日々

2020年08月15日 | インポート
なるべく外出を控えるようにと言われなくても、喜んで家にいたくなるほどの猛暑。
最高気温の話か、発熱の話か、もはや区別つかず。

先日買い物に行ったスーパーでは、「感染症拡大防止のために、なるべく従業員に話しかけないでください」という店内放送が流れ始めた。ここまではっきりと言い切っているお店を初めて見た。
せっけん箱がどうしても見つからず、店員さんに在庫確認したかったのだが、たかだか100円ぽっちのせっけん箱のために、嫌がられるのもなあ、と渋々引き上げた。
ここにあるじゃないの、よく探しなさい!と母によく言われたものだ。きっとせっけん箱も、場所を聞くまでもなく、すごくわかりやすいところにあったのだろう。

花屋の前を通ると、赤、ピンク、白といった夏らしい色の花が並んでいる。
殺風景なベランダを埋めたくて、つい、ひとつふたつ買って帰りたくなるが、平日の昼間、水やりをする人がいないところに連れてこられた花は不幸なのではないか、と思って素通りする。
(根っこが伸びず全滅した朝顔や、実がならずに固い葉っぱだけ育てて終わったラデッィシュの姿も脳裏にちらつく。)
お店にいれば、たとえ、その他大勢の花に埋もれてしまっても、マメに水やりしてもらえるだろうから。
なにせ、わたしの部屋のベランダは西向きで、日差しを遮るものもなく、夕方には、干した洗濯物がすっかりひからびているのだ。

絵本作家の佐野洋子さんの本をまとめ買い。
彼女の文体は、きれいごとがなく、腹の底から率直に語られているようで、それでいて意味が深い。
ステイホームによって、本の数が増え本棚におさまりきらなくなった。

「こういう状況だから……」と言って(言い訳して?)、行きたくないところに行かずに済ませたり、やりたくないことをやらずに済ませられることも多い。悪いことばかりではない……けれど。


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ピンポーン♪…の心理

2020年08月01日 | インポート
 バスの中の話である。
子供のころは、自分の降りるバス停がアナウンスされると、他人に押される前に、いちはやく自分でブザーを押すのが楽しみだったという話はよく耳にする。
隣にすわったお母さんが「まだよ、まだよ」と小声で諭している声がうしろのほうから聞こえる。子供のほうは今か今かと、ブザーをつかまんばかりに手をかざし、耳をそばだて、わくわくとその瞬間を待ち構えているのである。
 しかしそんなけなげさは、子供時代だけだ。
 長じると、今度は逆に、いかに自分がブザーを押さないでバスを降りることができるかに心をくだくようになる。ブザーに接触したことによる感染症リスクを避けたい、などという最近始まった話ではない。
降りるのが自分だけだとわかっているならよい。なるべく早く押して運転手さんにお知らせしたい。しかし、同じ停留所で降りる人がほかにもたくさんいるのなら、なるべく自分で押したくない。自分がブザーを押すという労力をはらったのに乗じて、他人が楽をしたとわかると、なんだか損したような気分になるのである。もちろん、たいした労力ではない。あくまでも気持ちの問題である。

 職場の力関係は、時間外の通勤バスの中にまで及ぶ。
副所長や課長などの管理職のかたがたは、わたしたち下っ端が同じバスに乗っているのを知っているせいか、絶対に自分でブザーを押そうとしない。たとえ目を合わさなくても、目の端っこで、存在を確認しているのだろう。通勤電車やバスでの立ち位置や座る場所は、ひとによってたいてい決まっているものだ。
「次は○○です」放送が流れる。
「しーん」
誰も押さない。信号をひとつ越えふたつ越え、職場近くのスーパーが見えてくる。
目的の停留所はもうすぐそこだ。
このままでは、運転手さんは誰も降りないものとみなして、通り過ぎてしまう……と、ついに、いたたまれなくなったどなたかが、耐えかねて押す。
「ピンポーン」
一同ほっとする。降りそびれずにすんだということに対して。そして自分が押さずにすんだことに対して。
朝っぱらから実にばからしい意地の張り合いであるが、それが今日一日の運勢を決めるかのようである。
圧力に負けてつい押してしまい、いざ降りようとすると、自分のあとからぞろぞろと出口に向かって出てくる人々を見ると、なにやら複雑な気分になる。
 そうした無言のさぐりあいがいたたまれないのか、バス停が案内されるやいなや、すかさずピンポンしてくださる同僚がいたが、彼女はこの3月で定年退職してしまった。彼女は保健師という立場もあり、日頃から気配りの人で、そういう性分はこんな場面にもあらわれるのだろうか。
 自分がやらなくても、ほかの誰かがやってくれるだろうという心理は、なにもバスのブザー押し場面だけに限ったことではない。

 一方では、今か今かと待ち構えている子供の存在を知りながら、わざと先に押しちゃうおとなげない気持ちもなんとなくわかるのである。


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする