TOMATOの手帖

日々の生活の中で出会う滑稽なこと、葛藤、違和感、喪失感……などをとりとめもなく綴っていけたらと思っています。

市役所

2023年10月29日 | エッセイ
横浜市役所が新しくなったというので、行ってみた。
移転してもう3年ほどになる。
場所は港のすぐそば、地下鉄の馬車道駅直結という。
役所関係の用事は地元の区役所と保健センターで事足りるので、本庁に行くのはもしかして初めてかもしれない。
せっかく駅直結とうたっているのに、降りる駅を間違えてしまい、関内駅から歩くことになった。
日差しが強く散歩するには暑過ぎる中、道路の表示にしたがって進む。
と、ここがその建物らしい、と知ったときには、驚いた。
え? これが市役所ですか!!
青空を背景に、シューッと空まで延びた建物が、光を反射して建っている。
それはまるで役所というよりは超豪華ホテルのよう。
観光地のど真ん中にあるために、周囲のホテルと見まがうほど。
30階以上あるのだとか。
低層階には、今風の商業施設なみに、しゃれたカタカナのお名前もついており、中にはセブンイレブンや薬局、レストラン、スーパー、パン屋さん、フードコート。
『お弁当』ののぼりを立てた店には、500円程度とお手頃価格のお弁当が種類も豊富に山積みになっている。
これなどは、ここで働く市役所職員のためだろう。
本を読みながら飲食ができる書店もある。
観光客を見込んでか、横浜の土産物売り場もちゃっかりある。
休憩するためのテーブルや椅子もそこここに置かれている。
窓を大きくとってあるので、全体がとても明るく解放感がある。

昼時だったので、混まないうちにと見学もそこそこにおにぎりカフェなるものにはいって豚汁セットを注文した。
12時をまわったころ、上の階から降りてきた職員が行列を作り始めた。
昼休みの1時間が1番、この界隈が賑やかになるのだろう。
各飲食店もテイクアウト用のお弁当を店先に出しているので、優柔不断なわたしなど、「どれにしようかなあ」と迷っているうちに、昼休みが終わってしまいそうである。
ひと息ついたら席を立ち、先ほどのお弁当屋さんで夕食のお弁当でも買おうかしら‥‥と立ち寄ってみると、すでにすっからかん。
やはり毎日のこととなると、お手頃価格のお弁当はどこの役所でも人気のようだ。
同じ公務員でも、働く環境ってこうも違うのね。
そういえば、わたしのいた職場の建物って、古くさいところばかりだったなあ、としみじみ回顧。

せっかくだからと、みなとみらい地区にまで足を延ばした。
AIR CABIN(ロープウエー)がひっきりなしに頭の上を行き来している。
近未来的と言えなくもないが、黒い色のせいか、形がトンボの目玉のようでもあり、ちょっと不気味な感じを醸し出してもいた。

みなと横浜=山下公園やマリンタワー、というイメージが染みついていた。
が、しばらく来ないうちに埋め立て地区もどんどん広がり、マンションや企業、商業施設も建ち並び、市役所もまき込んでどんどん進化していたのね、と「浦島花子」の気分である。
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おせち

2023年10月22日 | エッセイ
郵便局やスーパー、デパートでおせちの予約が始まった。
実家では、もう何年も前から手作りはおしまいにして、こうしたところで予約している。
どれがいいかとパンフレットをめくっても、どれもこれも同じに見える。
ここのおせちがおいしかったから今年も是非、というのがない。
年始のテレビを見ながら、しゃべりながら食べるので、味に関してはうわの空なのである。

3年前の正月は、コロナ真っ盛りの時期で、出来合いのおせちを分けてもらって自宅でひとりもそもそと食べた。
こんなによくよく味わいながら食べたのは初めてであった。味わうと、より一層味気なく感じられた。
ひとりで正月を越す経験も初めてだった。
紅白歌合戦も見ずに早々に床に就いた。除夜の鐘が遠くから聞こえてきた。
おせちも紅白も、なんだかんだ文句をつけながら複数人で経験してこそのものだと知った。
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あっちにこっちに行ったり来たり

2023年10月15日 | エッセイ
両親の通院に付き添う。
車を持たない我が家はタクシー頼み。
いっぺんに、あそこもここもとできるだけ多くの用事を済まそうとするので、ほとんど1日がかりである。

最初は脳神経内科。
母は脳梗塞の後遺症以来、足元や頭がふらついたり、重かったりするのが再発の前兆でないかと日々気にしている。
「頭をなるべく動かさないほうがいいんでしょうか」「頭が重いので、なるべく寝転んでいたほうがいいのでしょうか」などと、姿勢次第で再発が防げると思っている。
同じ質問にも、嫌な顔をせず朗らかに聞いてくれる医師だとわたしは思うのだが、「こうしなさい」と具体的なアドバイスをもらえないのが、母としては不服らしい。
「先生」と名前のつく方がたに、絶対的な権威のようなものを求めているのかもしれない。
長谷川式のスケール検査では、「野菜の名前を言ってくださいって言われたんだけど、そりゃもう冷蔵庫の中身を思い浮かべて、次から次へと言えたわよ」と、自慢している。
認知症検査の結果もシロ。
結果的には、「あまりにも脳梗塞を気にし過ぎて、高齢者ウツのような状態になっていますね」と締めくくられて、さらに母は不満そう。
高齢者、という単語が気に障ったらしい。
これでは、自分の気に入るような意見を言ってくれる医師を探し当てるまで満足しないだろう。

次に眼科へ。
父は重度の緑内障だ。
かなり視野が狭まっているらしいが、日常生活はなんとか送ることができている。
さらに見栄っ張りなので、母とは正反対で、弱音の1つもはかない。
不便さをことさら嘆くこともない。
それがえらいようでもあり、かえって痛々しいようでもある。
左側の視野が前回の検査よりも、さらに狭くなっていたので目薬の処方が変わった。
白内障もある。
処方された目薬は4種類。
1日に注す回数も、1回、2回、4回、とてんでんばらばらである。
目薬は錠剤と違い、いっぺんに注すことができない。
時間間隔をみながら注し洩れがないように管理するのは、健常者でも至難の業だ。
注したら〇を付けるような表を作って壁に貼ったが、この表に〇を付けるのを覚えているかどうか。
ますますおぼつかないことになっている。
実家と自分の家を行ったり来たりするよりも、いっそ実家に戻った方が楽なのではないかと思うことが多くなってきた。
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にやにやする

2023年10月06日 | エッセイ
電車の座席に座ってぼんやり見るともなく周りを眺めていると、スマホを見ながらにやにやしている人が目につくようになった。
これまでマスクの下に隠れていた笑顔が、表に出始めたようだ。
動画か、ドラマか。
それともメールの文面にウケているのか。
または思い出し笑いか?
あまりにも楽しそうに笑っているので、つい、じいっと相手の顔を見つめていると、ふと顔をあげ、こちらと目が合ったとたん、スッと真顔に戻る。
こちらの視線は感じるものらしい。

ずいぶん前に、同僚数人と出張の帰りに食事をした。
「見ててごらん。あの女性、絶対こっちを見るから」
同僚のひとりが自信ありげにそうおっしゃる。
その女性は、わたしたちとは3つほど離れたテーブルに座って、友人らしきかたたちとおしゃべりをしていた。
案の定、1分もたたないうちに、彼女は、くだんの同僚のほうをハッと見た。
「ほうらね」。
つまり、視線というオーラは、それほど近い距離ではなくても、食事中でも、友人との会話中でも伝わるのだということを、くだんの同僚は言いたかったらしい。

さて、職場では相変わらずマスクが必須アイテムである。
ここ2,3年の間に異動してきた同僚の素顔を知らないというのはあたりまえになった。
水分補給のためにマスクをとった瞬間だけが素顔を知るチャンスなのだが、すっぴんだったり、マスクの影響で鼻の周りが赤くなっていたりするので、何か見てはいけないものを目撃してしまったような気がすることもある。
口元が隠れているので、感情も伝わりにくくなった。
上機嫌なのか、不機嫌なのか、それともそのどちらでもないのか。
言葉だけでは判断がむずかしいことがある。
そこで、「わたしは今、笑っていますよ」というのを示すために、敢えて、目を細める人が増えたような気がする。
そういえば、ケアマネさんも、努めて目をニコニコマークにして、「今、微笑んでいますよ」というのをアピールしていた。
これには、頬に少しの力が必要である。
簡単なようで、意識しないとなかなか身につかない習慣である。
いかに、今までは、口元だけに感情表現を頼り切っていたかを実感する。
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