TOMATOの手帖

日々の生活の中で出会う滑稽なこと、葛藤、違和感、喪失感……などをとりとめもなく綴っていけたらと思っています。

パヤッパー♪

2022年11月27日 | エッセイ
巷では、ワールドカップの話題で盛り上がっている。
「中立」の立場のように感じていたNHKのアナウンサーでさえ、「いよいよ今日、あと〇時間ですね!!」などと全国民の期待を代弁しているように熱く語るので、そのたびに、どうにもサッカーに興味をもてないわたしは、おいてけぼりをくったような気分になる。
ましてや、日本人でありながら他国を応援しているかたは、肩身が狭いだろう。
サッカーは冬の季語なのだそうで、そういう意味では、オリンピックよりも(言い方は変だが)格が上なのかもしれない。

冬といえば、あとひと月ほどで、紅白歌合戦である。
出場者が毎年これほど取り沙汰される番組も珍しい。
例えば真夏の平日昼間に、同じ内容の歌番組があったら、絶対に録画してまで見ないであろうと思うのに、大晦日のあの時間帯にあるがために、年中行事のひとつとして、つい見てしまう。
今年はどんなオープニングなのかしらと、夜の7時過ぎになるとその瞬間を見逃すまいとそわそわする。
しかし、いざ番組が進行し始めると、数で勝負したようにしか見えない同じようなグループが次から次へと登場して、歌詞もなんだかはっきりとは聴き取りづらく、華やかに跳んだり舞ったりして去っていくパターンに段々と飽いてくる。
歌のタイトルなのだか、グループ名なのだか区別がつかないのも、わずらわしい。
間に挟まるようにして、出場回数が何十回という大御所が登場すると、知り合いに出会えたような安堵感があるものの、最近では歌謡番組そのものがあまりないせいか、昔々に流行った歌をかすれた声で歌って、それが痛々しい。
それなら、裏番組の懐メロを見ていたほうがいい、などと思ってしまう。

最近では、昭和の時代に流行ったテレビドラマを放送しているチャンネルがあり、録画して見ることがある。
そのうちのひとつ、「パパと呼ばないで」には、子役時代の杉田かおるさんが出演している。
なんてかわいらしいのかしら、と、子供心にも思いながら見ていたが、今の子役よりもずいぶんと、ませた演技をさせていたのねえ、と当時は気付かなかったことに気付く。
電話ボックスに飛び込んで、あれこれと慌てたふうに話すのも、携帯電話がない時代ならではの風景である。
今は亡き名脇役の方がたの姿も懐かしい。
「パヤッパー」という女性の声が、合の手のように、話のちょっとした継ぎ目に差し挟まれるのも、そういえば、あった、あった、こういうのが! とかえって新鮮である。

とまあ、なんとなく、昭和とともに自分自身もだいぶん時代遅れになっているのを感じる今日この頃である。

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蛙の子は蛙

2022年11月21日 | エッセイ
10日ほど前、両親の診察に付き添ったときのこと、母がMR検査を受けている間、待合室で父となにげなく交わした会話である。
父親が、「俺はなんやろうかなあ、プライドっていうのか、こんなことはつまらんことだし、いけないって頭でわかっているのやけど、どうしようもないんだ」と唐突に話し始めた。
なんのことだろうと聞いていると、曰く「歩け、歩けとうるさく言われると、歩きたくなくなるんや」とぽつり。
確かに、今から歩こうかな、と思っている時に、母から先を越されてガミガミ催促されると、あげかけた腰をまた下ろしたくなるものだ。
医師からも、歩行訓練のためになるべく歩いたほうがいいと言われたばかりである。
さらに曰く、「外を歩くやろ。女の人に抜かされたりすると、追い越したくなるんや。でも今はそれができないからなあ」。
自分の歩行能力の衰えがわかってしまうことも、外に出たくない理由らしい。
やむをえず通院のために外出するときにタクシーを呼ぶのも、しんどいからというよりも、ヨチヨチトボトボ歩みの遅い自分の姿を、ご近所さんに目撃されたくないのかもしれない。
父は若い頃、わたしの通っていた幼稚園の運動会で、「親子競争」を1位で走りぬけたほどの健脚である。
水泳部にもはいっていたので、体力に自信があったのだと思う。
だからこそ、今のすり足状態がふがいなく、はたからも心もとなく見えるのが耐え難いのだろう。
そういえば、脳梗塞で倒れた父方の祖母も、近所の知り合いに車いす姿を見られるのを嫌がって、リハビリを拒み、ベッドの上で3年間過ごして亡くなった。
聞くまでもないと思ったが、「じゃあ、介護認定をうけてデイケアへ通うなんていうのは嫌だろうねえ」と聞いてみると、「それは嫌だなあ。同じ会社の部下だった奴らに見られるかもしれんやろ」と予想通りの答えがかえってきた。
かつての同僚の何人かが、近所に住んでいらっしゃるので、こうした施設で鉢合わせする可能性があるのを恐れているのだ。
こんなふうに、見栄を張り続けられても、支えるわたしたちが今後、困ることになるかもしれないなあ、などと思いつつ、それでもよくぞ本心を言ってくれたと感心しながら聞いていて気が付いた。
わたしも、こうした父の性分と同じことに。
高校生のとき、自転車に乗っていて、同級生に先を越されたわたしはむきになって、追い越したことがあった。
最近の例でいえば、職場で、あり得ないほど早く仕事をしあげて、(本当はヘロヘロなのに)どうってこともない風を装って、「どや顔」をしてみせたこともある。
他人と我が身をひき比べては、落ち込んだり距離をとったり、張り合ったりと、無益でひとりよがりな争いに自分で自分を追い込んできた。
いけないことだ、つまらないことだと頭でわかっているのに、という父のセリフは、そのままわたしの実感でもある。
もしかしたら父は自分のことにかこつけて、「おまえも俺とそっくりだから、気を付けろ」と忠告してくれようとしたのかもしれない。
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付き添い

2022年11月11日 | エッセイ
両親の通院に付き添う。
昨年は父が認知症の診断をうけ、今年は「足元がひょろひょろする」というのがきっかけとなり母に小さな脳梗塞が見つかり、図らずも、ふたりそろって同じクリニックに通い出したのである。
なんとも頼りない限りである。
実家に出かける前は、一段と衰えた彼らの姿を想像して、憂鬱であったが、実際に会って話をすればそれほどでもなく、あらかじめあれこれと不安がっているよりも、現実に目の前にしたほうがたいしたことがなかったということは、よくある話だ。
実家からクリニックまで、タクシーに乗りこむとき、普段はわたしひとりが追い立てられるように乗って帰るのが実に寂しかったが、今日は久しぶりに3人そろって乗るのであって、それが妙に懐かしいような、心強いような、守られているような感じがした。
足元がおぼつかなくなっても、認知機能に障害があっても、血管が少々詰まっていようと、やはり親は親なのかもしれない。

診察の結果、父は、薬を増やすと下痢をするので、少量のまま半年ばかり続けることになった。
わたしのほうも、せっかく来たのだからと何だか張り切ってしまい、小脳の萎縮が歩行障害の原因ですか?とか開発中の薬のことまで先生に質問して、後から考えると、知ったかぶりに聞こえたかもしれないと、実にいたたまれない思いがした。
父も、知ったかぶりをするたちなので、先生からすれば、やっぱり親子だな、と思ったかもしれない。

 母のMRの結果は、脳梗塞が小さくなっているとのことだった。
結果が出るまでは不安だったらしく、わたしが細かく調べてせっせとプリントアウトしてきた父の介護認定の手続きの話や、地域包括支援センターに相談に行こうという話など、熱心に耳を傾けていたが、梗塞が小さくなっているのがわかったとたん、元気が出てきたらしく、「やっぱりお父さんの介護認定の申請は、まだ、先でいいわ。わたしもまだお父さんの世話するくらいは大丈夫そうだから」と、けろりとしている。
あれだけいろいろ調べてきたのに……、父も、母もなんだか乗り気だったのに、と拍子抜けしたが、結局のところ、人は自分のしたいようにするのだというのがわかった。
特に高齢になればなるほど……。
訪問介護など、他人の手を借りるということにも抵抗があるのかもしれない。
今のところわたしにできるのは、介護についての情報を調べて提供することと(それは後々、自分自身のためにもなる)、今回のように、ただいっしょにそこにいること、それぐらいである。
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最終回

2022年11月06日 | エッセイ
テレビドラマ『一橋桐子の犯罪日記』が終了した。
犯罪計画を練っていくうちに、桐子さんが孤独ではなくなっていく過程は、お約束的ながら、そのドタバタ劇を楽しむことができた。
影響を与えあって、お互いに気にはかけながらも縛らないというような親しい関係性をうらやましく思う。
桐子さんなら、農村の空気にすぐに馴染んでご近所さんとも仲良くやっていくのだろうな、というのを予感させる。
宇崎竜童さんが、♪港のヨーコヨコハマヨコスカ~♪の雰囲気そのままに、いい味出していた。

ドラマの最終回というのは気になるものだ。
新しい問題が発生したら物語が終わらなくなってしまうので、そう目新しいことは起きるまいと思いつつも、確かめずにはいられない。
見そびれると、いつまでも気になる。

朝の連続テレビ小説では、最終回の15分間でどのような結末を迎えさせるかが気になって、毎日見ているわけでもないのに、その回だけ見ることがある。
ヒロインには、たいてい若い女優さんがなることが伝統的に?決まっているので、老後まで演じさせようとすると、こちらが面食らうことがある。彼女たちが高齢を迎えてこのようになりました、メデタシ、というのを伝えたいのだろうが、頬もふっくら、肌色もよく若いままなのに、頭だけ白髪交じりにしたり、歩き方だけちょっとたどたどしくしたりして、妙に不自然なのである。
年月の経過に、キャストの演技が追い付いていっていない。
演じているというよりも、「仮装」しているといったらいいのか。
志村けんさんが、コントでおばあさん役をやっていたが、高齢者の特徴だけを誇張すると、どうしても”お笑い”になってしまう。

『おしん』のときは、配役が3人も変わったために、その都度、年齢にふさわしく、最終回の場面もそうした違和感はなかったが、最近の例でいうと、沖縄料理の店を扱ったドラマ。
ヒロインの姉妹が今にも亡くなりそうだったので、どうなることかと最終回まで引っ張った挙句、ヒロインだけでなくそのまわりにいらした若者たちがことごとく白髪頭を乗せて、ぞろぞろと出てきたときは、見ているこちらが恥ずかしくなってしまったほどである。
病身の姉妹も、急に健康体になったらしく、それをセリフでちらりと説明して終わりに。
無理やり年月を経過させなくてもいいのに……とそのたびに思う。
だったら無理に観なければいいのだが、とも思う。
わたしの伯母のように、「人生そんなにうまくいくわけはない!」と断固、この朝のシリーズを見なくなった人もいる。

あれこれ文句を書いてしまったが、それだけ最終回によせる期待は大きいのである。
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初耳

2022年11月04日 | エッセイ
コロナ感染者の数も減ってきていたところに、全数把握も終了したので、ひと山超えたような、”終わった”感がしていた。
4時45分以降に発表される東京都の感染者数を確認する習慣も、いつのまにかなくなった。
外国人の入国規制緩和だの、旅行支援だのという景気のいいニュースが前面に出始めて、ニュースに占めるコロナの話題自体、少なくなった。
次世代向けワクチンを開発しているという話にいたっては、これから生まれる人たちのためのものであって、もはや無関係な感じがしてしまう。
が、よーく見てみると、ジワッジワッと感染者数は増えてきているのですね。
年末年始あたりには次の波が来るだろう、という予想は誰もがしていたと思うが、なんだか思っていたよりも早いペースである。

先日ポストを見ると、ラベンダー色のこぎれいな封筒がはいっていた。
最近ちょっと気分を変えようと、安売りしていたマスクを買ったのだが、その色と同じである。
なにかしら、と手にすると、5回目のワクチン接種券。
「え、なんで?」5回目なんて、全然全然全然聞いていなかったんですけど!それともわたしがぼんやりしていただけ?4回目だって、そうとう迷ったのに。
「ご」という響きのせいか、40代より50代のほうがずっと高齢のように思えるのと同じで、4回より5回のほうが、重く感じられる。
来年の1月〇日以降に接種できますというご丁寧な案内とともに、接種間隔は今後短縮されます、とも書かれている。
3か月間隔になるという話は小耳に挟んでいたが、ということは、1月〇日に接種したら、6回目は4月〇日に、7回目は7月〇日に……ってことだ。
延々とまわり続けるループ。
接種するから次の案内が届いてしまうというジレンマ。
3か月ごとに発熱したり筋肉痛がしたりおなかこわしたり……ってどんどん体が打ちのめされていきそうである。
60歳以上や医療関係者などにしぼっていた4回目枠を、まずは広げるのが先では?という”痛み分け願望”がもやもやと湧く。

重症化しないで済んだかどうかは、接種しなかった場合と比較できないのでわからない。
これだけ蔓延したのだからすでに1度ぐらいは感染したような気もするが、無症状で済んだのは、ワクチンのおかげか、それとも体質のせいか、それこそ、打たなかった場合と比較できないのでわからない。
感染者数の公表とワクチン促進は抱き合わせ。
発表をやめない限り、元の生活には戻れそうにない。
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