TOMATOの手帖

日々の生活の中で出会う滑稽なこと、葛藤、違和感、喪失感……などをとりとめもなく綴っていけたらと思っています。

休日出勤の怪

2011年01月22日 | インポート
 今日は、職場にある受水槽タンクの清掃日であった。
年に1度行われる。
清掃中、一時的に断水となることもあって、休日があてられる。
 業者への支払担当者ということで、わたしが立ち会うことになった。

 休日出勤は、ずいぶん前に、病院の医事課に勤めていた時以来である。

1年余り、籍を置いたが、どうしても自分の居場所とは思えず、そのまま
異動になった病院勤務であるが、ひと月に1度、土曜日の、半ドン出勤は、
どういうわけか、嫌いではなかった。

 医事業務を委託されている会社の方と、ふたりひと組の当番制であった。
 土曜日は、基本的に休診日である。
 仕事と言えば、急患の受付や、ポツリポツリとやってくる、支払いの対応だけである。
 平日のように、子供の患者の泣き叫ぶ声、走り回る音、それを上回る保護者の金切り声も聞こえない。
 廊下を歩くスタッフも、早歩きではなく、普通の速度で歩いているように見える。
 入院施設もあるので、建物の中には、それなりに大ぜいの人がいるのであるが、
外来の方はしいんと静まり返っている。
 その静けさが、平日と対象的で、際立っていた。
 電話もほとんど鳴らず、スタッフも滅多にやってこない、
何にも阻まれずに、たまった仕事を片付けるのは、爽快であった。

 さて、本日。
事務所につくと電気はついておらず、誰も出勤していないようである。
年度初めと違って、この時期は、休日にまで来てこなす仕事もないのだろう。
  電気をつけ、 暖房のスイッチをいれると、吹き出し口から、ボオーッと勢いよく風の
送られる音が聞こえる。
 たったひとりのために、暖房をつける、ちょっとした罪悪感と、贅沢な感じ……。
 
 業者さんはまだ来ていないようだ。

 席に座り、ぼんやりと事務所の中を見回す。
  職員の数の多い職場のこと、平日は、朝出勤すると、すでに室内は、
ざわついており、気の早いお客さんがすでに、カウンターで
接客を受けていたりする。

 人気のない室内が、さらに広く感じられる。

  柱時計の数を数えてみる。
丸い飾りけのない時計に混ざって、この建物ができた時から
あると思われる、年代ものの、柱時計がひとつ。
 室内の空気を循環させるための扇風機が、数台。
右側の壁際に並んだキャビネの上は、本棚になっていて、資料や専門書が、
ぎっしり詰め込まれている。
 普段は、職員のほうに、目が向いてしまい、こうしたものに注意が全く
いっていなかったことに気付く。

 やがて清掃業者がやってきたので、挨拶をして、鍵を渡す。
するともう、さしあたって、することがなくなった。
 医事課にいる時のように、たまった仕事もない。
 そもそも、土曜日には、パソコンの会計システムは、動かないのである。
 
 隣のS氏の席に目をやる。

 机の上にある、スヌーピー柄のペン立てには、筆記用具に混ざって、
先日事務所で発見された、落とし物の、証明写真が差してある。
 落とし主が見つかったら、早速手渡そうと思って、取ってあるのだろう。
 職場で起こるすべてのことに、責任をとろうとする、S氏らしいことである。
 机の左端には、大中小と切り分けられたメモ用紙が、几帳面にクリップに留められて
置かれている。
 真ん中には、決裁のおりた大量の書類。
それらを覆うように、オレンジ色の大ブリなハンカチが、かかっている。
 コーヒーの空き缶が、置いたままになっているのは、
仕事の途切れることのない、S氏のこと、どうやら、”捨てるヒマ”もなかったらしい。

 手道無沙汰をもてあましたので、お茶の時間にする。
コーヒーだのお茶だのは、平日でも飲んでいるのだが、
なにぶん、人通りの多い職場のこと、さらに隣のS氏に用事を頼もうと、
職員がすぐ脇で、順番待ちをしていることもあって、
なかなか落ち着いた気分で、休憩できないのである。


 かくして、2時ほどで、清掃が終わった。
今日やったことと言えば、挨拶をして、鍵を渡し、お茶を飲みつつ、
どら焼きを食べ、完了届に確認のサインをし、鍵を受け取って、車庫の戸締りを
したことぐらいである。
 どら焼きはともかく、これだけだったら、何も職員をひとり、わざわざ
休日出勤させなくても、守衛さんにお願いすれば済んだことである。

 こんなことを書くと、
「光熱費、税金から出てるんですけど!!
 しかも、暖房の設定温度、バカみたいに上げやがって」という
お叱りの声が聞こえてきそうである。

 が、まあ、早起きして、電車を乗り継ぎ、てくてくと歩いてここまでたどり着き、
とりあえず、用事は足りたのであるから、その辺は、免じてやっていただきたい。

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買い過ぎたトマトは、誰の責任か

2011年01月13日 | インポート
 昨日、上野千鶴子氏後援の、ジェンダーコロキアムを聴きに行った。

 カウンセラーの信田 さよ子さんが書かれた、『ザ・ママの戦略』『生存戦略としての依存症』についての、
書評セッションである。
 彼女のブログに書かれていた紹介文、「ママが好きだと言えば、マザコンと言われ、キライだと言えば、
親不幸だと言われる。ちょうどいい距離を保ちながら、愛することはできないのか」に惹かれたのである。
 ひとことで言って、母と娘の境界線、がテーマである。

 小さな教室に、ぎっしりと集まった聴衆者は、ほとんどが女性である。
その人数たるや、主催者側が驚くほどで、一時、用意したレジメが足りなくなった。
 信田さん人気もあるだろうが、娘の立場から、母の立場から、心理的な距離について、
日頃、重いものを抱えている人が多いということだろう。

 母娘の葛藤は、家の中の、例えば台所といった片隅で起こるような、ほんの些細なできごとの、
積み重ねである。

 正月の2日間、わたしは母手作りの、おせち料理を食べた。
両親と食事をするのは、昨年の正月以来、1年ぶりである。
 たわいのない話しをしながら、食事は進んだ。
 長年馴染んだ、味と会話は、やはりどこか、落ち着くものである。

 その和やかな雰囲気に気を良くした母親が、正月が終わってからも、
いそいそとやって来て曰く、
「このトマト、安かったから、つい買い過ぎちゃったのよお。食べて食べて」
見るとトマトが山になって、食卓の上に積まれている。

 それが片付かないうちに、今度は、
「野菜は身体にいいから……」
と、タッパーにてんこ盛りの手作り総菜が、食卓の、まさにわたしの座る位置に、
鎮座している。

 買い過ぎちゃったから…の類は、これまでにも、よくあることであった。
父親の偏食が、極端なため、その分、わたしに回ってくるのである。
 よく言えば、おすそ分けといったところだろうか。
 そのたびに、わたしは、いつ何を食べるかといった計画(というほど、大げさなものでもないが)、
を変更せざるをえなくなる。

 確かに、彼女の料理はおいしい。
しかも、野菜は、身体にもいい。
年寄りを喜ばすと思って、そのくらい食べてやりゃいいじゃないかと思うのだが、
どうも素直に感謝することができない。

 ”良かったら食べてね”と、一見、控えめな申し出なのだが、
いざ断ると、すこぶる機嫌が悪い。
「せっかっく身体にいいと思って作ってやったのに」
「いらないならいいわよ、捨てといて」
と、全人格を否定されたような勢いである。

 こうなってくると、母親を傷つけたのではないかという罪悪感と、
罪悪感を抱かせた彼女に対する怒りが湧き上がってくる。
 
 食べても、食べなくても、後味が悪いのである。

 しかし、果たして、買い過ぎた食材は、一体誰の責任だろうか?
 買う時点で、多過ぎるのは、わかっていることである。
わかっていながら、なぜ、何度も何度も、”つい買い過ぎる”のか?
 後始末してくれる、娘の存在を、初めっから、想定していないだろうか?

 それとも、こんなことを言うのは、バチ当たりなんであって、
せっかくの”好意”なのだから、ありがたく、いただいておくべきなのか?
 夫との間の、満たされない部分を、娘に肩代わりしてもらおうとする母親の話は、
しばしば耳にするが、偏食の激しい夫を持った責任を、娘がとるべきなのか?―

 当事者研究というのがあるそうだ。
自分の抱える問題を研究しながら、その問題と共存していこうというものだ。
 親とのやりとりで、感じる、違和感、怒り、心もとなさ、…
それらを対象化して観察する―。
 わたしの研究テーマは、さしずめ、
「買い過ぎたトマトは、誰の責任か?」ということになるだろう。
 
これは好意?
それとも、押しつけ?
 他人とのやりとりで感じてしまう、こんな疑問も、おそらく、
母親とのやりとりに影響されているのかもしれない。

 セミナーは、
「もっと母親に冷たい娘が、増えてくれればいいと思っています」
という、信田さんのコメントで、おひらきになった。
 誤解を招かないように、言い添えれば、これは、母親に対する罪悪感で、いっぱいになりながら
自分の人生を費やして欲しくないという、彼女から娘たちへのエールなのである。

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コーヒーな日々

2011年01月03日 | インポート
 出勤途中に、コーヒーのチェーン店がある。

 朝、その前を通るたびに、
「ああ、ここで一時間ばかり、寄り道したい、サボりたい」
「サンドイッチを食べながら、まったりしたい」
 という誘惑にかられる。

 そんなに行きたいのならと、、この年末年始の休暇中、
普段から食べたいと思っていたものを食べ、過ごしてみたいと思っていた過ごし方を
してみようと思い立った。

 「有給休暇は、20日までしか繰り越せない、それなれば、消化しないと、損、損」
といった、小役人の見本のような考えもあり、ため込んだ休暇を一気に使い果たさん
と、なんと、年末年始は、12連休。
 いい機会である。

 何も、コーヒーのチェーン店に限らなくてもいいのだ。
丼物の店、パスタの店、おいしそうない店はたくさんある。
 平日の昼間っから、今まで食べたことがないものを、食べに行ったっていいのだ。

 しかし、一旦店にはいると、少なくとも、2時間は長居したいたちである。
そうなってくると、店の雰囲気が知れていて、
行き慣れた、コーヒーのチェン店に、どうしたって、落ち着くことになる。

 果たして、この休みの間、店の丸いテーブルを占拠して、
読みたい本を、読むことができ、妄想に浸ることもできた。
 しかし年が明ける頃になると、さすがに、飽きてきた。
 インスタントラーメンや、家でかきこむカレーライス、
職場の事務机で食べる冷凍食品ばかりの手作り弁当でさえ、なつかしく思えてくるではないか。

 自由と言えば自由。
凧糸の切れた凧のような、心もとなさ。
 そうかといって、遠くに飛んで行くには、冒険心も、体力も、もはやない。
 この定年後を予測させるような過ごし方。

 ヒトはある程度、「拘束」が必要なのではないか。
行く場所があり、こなすべき仕事があり、座る席があり、
待っている同僚がいる。
(まあ、待たれているのは、わたしではなくても、電卓叩く、ロボットでもいいのだけど)

 この、普段は、わずらわしいとしか思えないような状況の有り難さがわかるための、
休暇だったとも言えなくもない。
 制約あって初めてわかる自由のありがたみ…とは、今更言うまでもない。

 明日4日は、初出勤。
明けましておめでとうございます、の挨拶のたびに、席を立ったり座ったりして、
出勤後1時間ぐらいで、早くも事務所を抜け出したくなるのだろう。
 
 スーパーに寄れば、あれほど山のようにあった、かまぼこや黒豆の類が
綺麗に片づけられ、その賑わいに乗り切れなかったことに一抹の寂しさを感じながらも、
なんとなくホッとするのだ。

 そして、コーヒーショップの前を通るたびに、
「寄り道して行きたい」
「コーヒーの一杯でも飲んでいきたい」
「新しいサンドイッチが発売された~」などと、
相変わらず、横目で睨みながら、駅に向かう日々が続いていくのだと思う。

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福袋

2011年01月01日 | インポート
 昨夜は、大晦日を自覚しようと、紅白歌合戦を観てみたが、
歌のタイトルと、歌手の名前の区別がつかず、舞台いっぱいに広がって踊り、歌いまくる面々の
動きについていけず、早寝を決め込む。

 さて、元旦の朝といえば、分厚い朝刊である。
ポストの入り口に入りきらないらしく、わざわざ門をあけて、内側に置いてある。
この分厚さ、配達員泣かせなのではないか。
 中身はほとんど広告で、情報量の多さの割には、というか多過ぎるせいからなのか、
読んだ後に、あまり印象に残らない。
 それがわかっていても、福袋の中身を開ける時のように、楽しみではある。

 近所のコーヒーショップは、住宅地にあるせいか、正月は休みである。
そのため、ふた駅電車を乗り継いで、ショッピングセンターの中にあるコーヒー店に向かう。

  このコーヒー店、外側に面して窓を大きくとっていて、採光も充分なので、
ぼんやりと外を眺めたり、本を読んだりするのに、もってこいである。
 外の景色がよく見えるということは、外からも、こちら側が
丸見えということである。
 ガラス窓の外側に、長蛇の列ができている。
ダウンを着こみ、マスクをし、防寒グッズに身を包んだ家族連れ……。
 そう、言わずと知れた、福袋である。
 ショッピングセンターのどこかの店舗で、売り出しているのだろう。
  「並ぶ」ということしか、することがない行列の人々が、暇つぶしに、コーヒー店の中を、
見るともなく眺めているので、何となく落ち着かない。
 入場制限をしているのか、列は延々と途切れることもなく、ゆっくりとガラス窓の前を進んで行く。

 何年か前、横浜のデパートの福袋に、朝も早よから、並んだことがある。

「最後尾は、こちら」という、立て看板まで出ていて、地下2階あたりから、
福袋の売り場のある9階まで、階段をうねうねと曲がり、食器売り場を横切って、列は続いた。
 袋の隙間から、中をのぞき見、感触をさぐり、重さ軽さを天秤にかけ、
ようやく選んだ福袋。
 中から出てきたのは、LLサイズの男物のシャツだったり、原色のトレーナーで、パジャマとして
着るのも憚られるようなものだったり、ボリュームをつけるためのクッションだったりと、
期待が大きい分、あっけなさとともに、取り残された思いがした。

 言うまでもなく、お楽しみは、「中を開けるまで」
朝刊と同じである

 年賀状の返事を書き、ふと目をあげると、さきほどの列が、かき消えている。
入場制限が解かれたのか、それとも用意した福袋がすべて完売したのか。
 いずれにしても、店の”在庫”が、ある程度、一掃されたことだろう。

 ざわついてきた店内の雰囲気に、何となく落ち着かない思いがして、外に出る。

 初詣に行くのか、年ごろの男の子が、
この日ばかりは、両親と一緒に歩いている光景を目にするのも、正月ならではである

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