TOMATOの手帖

日々の生活の中で出会う滑稽なこと、葛藤、違和感、喪失感……などをとりとめもなく綴っていけたらと思っています。

今年ハマったドラマ、アーティスト、絵本作家、…そしてスコーン

2011年12月30日 | インポート
先日は、テレビドラマの『家政婦のミタ』にハマったという話を書いた。

 最終回、果たしてミタさんは笑うのか…というのが巷の関心ごとであった。
「業務命令」で笑えと言われて笑ったたとしても、凡人ならば不自然になると
思うのだが、そこは演技力のミタさん、大変自然で、本人が、笑っているのに、
周りは泣いているのも、感動的であった。
 
 ミタさんが悪役を引き受けて、誤解されたまま去って行くという
後味の悪い結末にならずに、本当によかった。

 現実の世界で、親切な医療関係者、福祉関係者に出会ったりすると、
こんな方が、自分のお姉さんであったら、とか友人であったらとか、母であったらとか、
思ってしまうのだが、それは単に、「役割」に憧れているにすぎない。
 素ののままの相手を好きでいられるかは、また別の話しであるというのが、最終回の言いたいことの
ひとつであったように思う。

  さかのぼって、9月。
7連休であった。
 連休をいかに長くとるかということにも、熱心であった。
それはともかく、以前、友人が「冬ソナ」のストーリーについて熱く語っても、
「フーン」とまるでひとごとであった。
それどころか、
「いつも、ニヤニヤしている男の人って好きじゃないんだよね」と、
大して知りもしないのに、ポスターの写真だけで判断していた。
 それが7連休をどう過ごすかに思い至ったとたん、
ケチをつけるなら、実際見てみないとわからない。
「喰わず嫌いはいけない」というわけである。
 冷やかしのつもりでTSUTAYAの韓流コーナー足を踏み入れ、
とっくにブームが去って、全巻そろった冬ソナを借りたのである。
 初めはこのように、「お試し」であった。

 神出鬼没に現れるヨン様。
頻繁に、かつ絶妙なタイミングで行われる立ち聞きと盗み聞き。
 何度も何度も、固く交わされた後、まるで何もなかったかのように、あっさりと「反古」にされる約束。
そんなことあるわけないじゃん、と思いつつ、次はどうなる、その次はと、
気がつけば、全7巻を瞬く間に借り尽くし、最終章は2度も繰り返して見る始末。
 しばらくの間、テーマソングが頭の中をぐるぐる回り、登場人物の名前が
親しみを持って感じられ、彼らが友人のように近づいて感じられた。
 かのファーストレディが、これにハマり、韓国語を習い始めたという気持ちが
わかるような気さえした。
 そういうわけで、わたしの7連休は冬ソナに染まって終わった。

 何かにハマると、頭の中が「そればっかり」になる。
他のことが手につかなくなるので、以来、TSUTAYAの韓流コーナーには近づいていない。

 出会いは、何も、生身の人間ばかりであるるとは限らない。

 韓流コーナーに見切りをつけたわたしが、次に立ち寄ったのは、
TSUTAYAの音楽CDのコーナーである。
 買ったばかりのウォークマンにお気に入りの曲を入力しているうちに、
出会ったのが、加藤登紀子さん。

 彼女の、存在は、ずっと前から知っていた。
知床旅情や百万本のバラも、好きな曲であった。
 他の曲を聞いているうちに、伸びやかで張りのある声にすっかり魅せられてしまい、
今では、ことあるごとに、彼女の歌聞きたさに、イヤホンを耳につける。
家で、カフェで、電車の中で……
 こういうのを縁というのだろう。

 文章でハマったのが、佐野洋子さんである。

 彼女は『百万回生きた猫』を執筆された絵本作家である。
昨年、乳がんでお亡くなりになり、その追悼として、生前のエッセイが次々に
出版されている。
 本業が文筆家でないだけに、人に感心してもらおうとか、共感させようとか思って
いないような飾らない文章である。
 震災後、どんなに言葉を尽くしても、ナマの経験を語ることはできないと思ったことも、
彼女の腹の底から湧き出るような、言葉に惹かれた理由かもしれない。

 認知症を病んだ母上との会話の次のくだりは、何度も何度も読んでしまう。
佐野さんが 母上の寝床にもぐりこんで思わず言う。
「母さん、私しゃ、疲れてしまったよ。天国に行きたいね。一緒に行こうか。どこにあるんだろうね。
天国は」
 すると母上が曰く、「あら、わりとそのへんにあるらしいわよ」。

 そして、最後を締めくくるのは、やはり食欲。
スコーンである。
今や、コンビニ、パン屋さん、スーパー、カフェにいろんな種類の
スコーンが置かれるようになったが、わたしのおススメは、麻布十番の住宅街に
ある小さなお店。
 中で食事もできるのだが、テイクアウトの惣菜やデニッシュも売られている。
あまりの種類の多さに、ショーケースの前に立つと頭が真っ白になる。
 焼き立てのメープルくるみスコーンはサクサクとした食感。
このお店のマワシ者ではないのだが、
「今まで生きてきた中で一番おいしいスコーン」
である。
 年内は、本日までの営業ということで、電話で「お取り置き」をお願いして、
早速これから、買いに出かける次第。
 (全く好きダネ、わたしも)

 「われわれの脳みそは、葛藤やルール、夢中になれるものを作りださずにはいられないものである」
とは、わたしの主治医から聞いた話しだが、全くそのとおりである。
 切羽詰まった悩みごとがないならば、その状態におとなしく甘んじていればいいのに、
平和なら平和なりに、わざわざそれに逆らうように、つまらぬ葛藤や、悩みとも言えないような悩みを作りだす。

 先日、血液検査で、中性脂肪が多いという結果が出たばかり。
以来、「脂肪の吸収を押さえる黒ウーロン茶」を飲みながら、甘いものを食べている。
 それもこうした大脳皮質の生み出した「お祭り騒ぎ」のひとつなのだろう。

 ともあれ、来年こそは、そのぐらいの熱心さをもって、生身の人間様にハマってみろよ、
と突っ込みを入れて、2011年を終えたいと思います。

 ☆よいお年を☆

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ダブルス

2011年12月28日 | インポート
 高校の時に同じクラスだったNさんは、キューピーの歌♪目はぱっちりと色白で♪といった
顔立ちそのものだった。

 背が高くバスケットボール部に所属していた。
髪の毛をショートに決めた彼女は、制服のスカートよりも、体育の時に着る上下そろいのジャージが似合った。
 右に左にと小刻みにボールを操りながらバスケットの下までくると伸びやかにシュートを決める。
その瞬間は、普段の物静かな彼女とは、違って勇ましく見えた。
 普段が控えめで、おとなしかったからこそ、なおさら印象深かった。

 学校というところは、何かと言うと、出席番号順、つまりアイウエオ順にことを運ぶ。
わたしの苗字は真ん中よりも、やや後ろ寄り。順番としてはまずまず、申し分ない位置であった。
 そしてもうひとつ、Nさんはわたしのすぐ後ろであったので、話しをする機会も多く、
何となく気持ちが浮きたった。

 体育の時間のことである。
隣のクラスとの合同で、バトミントンの試合が行われた。ダブルスである。
手っ取り早く組み合わせを決めるためか、例によって、出席番号順にペアが組まれた。

 この時ほど、いたたまれない思いがしたことはない。
運動神経のいい彼女にしてみれば、ある程度のところまで、勝ち残りたいに違いない。
しかしペアの相手ときたら、こともあろうか、わたしである。
 体育は他の科目と違い、運動の出来不出来は、一目瞭然である。
失望を顔に表さず、うるんだ大きな目で「頑張りましょう!」と言ってくれたが、
わたしに気を使っての慰めとも、お愛想ともとれた。

 バトミントンといえば、小学校の時にクラブにはいっていた。
しかし、小学校の頃のお転婆な経験は、所詮お遊びに過ぎなかったということは、
中学高校と進むにつれ、段々とわかるようになっていた。

 試合が始まった。
わたしのラケットに当たったシャトルコックは、どういうわけか、
相手側のネットすれすれの所にポトリと落ち、あるいは、コートの線ぎりぎり、際どい場所に
落下した。
 その度に相手側が右往左往する。
 多少は狙ったかもしれないが、さほどの運動神経を持ち合わせているわけでもない。
 コントロールを越えた力が働いていた。

次のチームとの試合も然りであった。
 こうして、同じような「手口」で、結局わたしたちは、決勝戦まで進んでしまった。
 ここまでくるとは、全く思ってもいなかった。
彼女に至っては特に、ペアの相手がわたしだとわかった瞬間から、すでに諦めていただろう。
 思いもかけず、立て続けに微妙な技が決まるので、面白がって前に後ろにと、
調子にのっているうちに、ここまで来たといった感じであった。

 決勝の相手は、バレーボール部の強豪チームであった。
Nさんならともかく、わたしになぞ負けてたまるかと、闘志満々であった。
 気合いが入り過ぎていたのか、それとも舐め過ぎていたのか、やはり
右に左にとバレーボールチームも翻弄した挙句、わたしたちが優勝してしまった。

 勝った瞬間のNさんの笑顔を今もよく覚えている。
たかだか、体育の授業の中で行われた試合に過ぎない。
 しかし、彼女の足を引っ張らず、それどころか、その喜びに多いに役立ったということが、
わたしは大変うれしかった。

 こういうのを、「火事場の馬鹿力」などと、色気のない言い方で呼んだりするようだが、
アレは、恋の力であったと、今なら思う。

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ここではない、違うどこか

2011年12月26日 | インポート
 結婚して住んだのは、宇都宮だった。

住んでいた家から自転車で20分も走ると、鬼怒川の支流に出た。
土手の上には、「鬼怒川サイクリングコース」という札が立っている。
子供の頃住んでいた町を流れる鶴見川でもなく、京浜急行の窓から眺める多摩川でもない、
広々とした川に沿って、きれいに整備されたサイクリングロードがまっすぐに延びていた。
 わたしにとって、鬼怒川は、1泊2泊で行く温泉の町だった。旅行鞄をさげて、列車に乗って。
気軽に行ける観光地のひとつに過ぎなかった。

 子供が生まれてからはレンタルの乳母車に載せて、あるいは自転車のチャイルドシートに載せて、
町中をあちこち移動した。
 移動というよりも、放浪、あるいはさまよう、といった方がよかったかもしれない。
近所の保育園、ドラッグストア、コンビニ、大型スーパー、小学校……。
2週間に1度だけやってくる移動図書館。

 そうやってわたしは、あの街に馴染もうとしていたのだろうか。
 駅前から四方に伸びるペデストリアンデッキ。
ターミナルからひっきりなしに発着するバス、ビジネスホテル、タクシー乗り場。
路線バスがぎっしりと詰まったように走っている道路に沿って、
町で1番賑やかな商店街が伸び、突き当りには、市役所や図書館といった、公共機関がかたまっている。
 新幹線の止まる地方都市にありがちな光景の広がるこの街に。
 
 朝の子供番組を見終えると、待ちかまえていたように近くのスーパーやドラッグストアに買い物に出かけた。
ベビーフードやおむつ、夕食の具材……。そしてその足で公園に立ち寄る。
午前10時を回ったばかりの公園には、いつも誰もいなかった。それぞれに家事に忙しい時間帯だ。
公園デビューという単語はまだなかったが、時間帯を選べば、
同じ年頃の子どもがいるお母さんと顔見知りになれたかもしれない。
 それがわかっていながら、時間を例えば、午後2時とか3時とかにずらしてみるということもしなかった。
 公園のベンチに息子を立たせると、写真を撮った。
乳幼児ほど、ひと月の変化が手に取るようにわかる存在はない。
ちょっとしたしぐさや顔つきをフレームの中におさめることにやっきになっていた。
写真を撮るためだけに公園を訪れている、といった感じだった。

 2DKの小さなマンション―モルタル造りの2階建ての建物は、どう見てもアパート以外のなにものではなかったけれど、
大家さんの名字を付したマンション名で呼ばれていた―に戻ると、おぶいひもを解き、
息子を畳の上にころがしたまま、そこいらにちらばったままの新聞広告に目を通した。
外出後の興奮も手伝って、息子はまだご機嫌だ。ぐずらないうちに、泣き出さないうちに―。
せかされるような、落ち着かなさがいつもあった。

 小さな子供がいてもできる仕事、拘束時間の短い仕事を探した。
近所のヤクルト販売店が出していた求人広告が目についた。託児所付き。
フルタイムで働いてきた、ということもあって、外に出て働くということは、さして大変なことのようには思えなかった。
 少なくとも、赤ん坊を一日中抱いたまま、気付けば夕暮れ時になっているといった、この生活よりは。

 求人広告を読み漁るようになったのは、結婚してこの街に住むようになってからすぐの頃だ。
狭い家の中でこなさなくてはならない家事などたかが知れている。
1週間分のメニューを決め、朝のうちに下ごしらえをし、曜日ごとに決めた掃除の日課をこなす。
 時計代わりにしていたNHKの連続ドラマを挟んだとしても、せいぜい9時だ。
圧倒的な1日の時間をどう使っていいのかわからなかった。
ふと目に留まったのは、新幹線の車内販売のアルバイトだった。
ワゴン車を押して、車両から車両へ、コーヒーだのお弁当だの、おつまみだのを売って歩くあれだ。
この仕事なら、列車を降り、改札口を出ることはできなくても、
とりあえず上野まで戻ることがきる、とそう思った。

「行く」ではなく「戻る」―。

 山手線のホームを慌ただしく交錯する人々。
電車の発車のベル、アナウンス。
いつのまにか遠ざかってしまったそれらの光景が、喧騒が、懐かしく蘇った。

 上野まで戻って、どうしたかったというのか。
そのアルバイトの勤務体系がどうなっていたのかは、わからない。
おそらく、片道の勤務を終えたあとも、ゆっくりと休む間などなく、
とんぼ帰りにまた下りの列車に乗って戻ってこなくてはいけなかっただろう。

 ある時は、在来線に乗って、埼玉の大宮にあるデパートに出かけた。
東京・横浜にもある大型のデパートである。
宇都宮から大宮までは、鈍行列車で一時間余り。
それが、とてつもなく遠くに思えた。
宇都宮から大宮、大宮から上野、上野から横浜。
路線図で眺めるとそれぞれの区間は大した距離ではない。
しかしそれらをすべて足し上げると、ちょっとした小旅行、十分な長距離列車の旅になるのだった。
 もともとデパートで買い物をする趣味などあったわけではない。
しかし大宮のデパートの店内はどこか物足りなく、馴染みの商標も、よそよそしく感じられた。

 頭の中で栃木県を北部と南部に分け、宇都宮が東京からより遠い北部に分類されることを確認しては、
せめて南部の小山だったらよかったのに、などと詮ないことを思っていた。

 親戚や近所の誰それの話、実家の近況報告については、時々来る母からの電話でわかる。
わたしがいなくなっても、横浜の実家では、今までと変わらない日常が淡々と営まれているようだった。

 先日、宇都宮を訪れた。

 ほぼ、20年ぶりだ。
駅前には、餃子の看板がそこかしこに飾られている。
いつのまにか、ここは餃子で有名な町になっていた。

 住んでいたアパートの近所に行ってみようと、記憶を頼りにバス停を探したが、
見つからない。
あれほど頻繁に出ていたバスルートがなくなっていたのだ。

 タクシーを拾って、うろ覚えのバス停の名を告げる。
見覚えのある外科医院や小学校、銀行はあるが、
記憶の中のそれらの位置やたたづまいの多くが現実とは大きく違っていた。
 住んでいたアパートは新しく塗装が施され、何棟かに増築されていたが、
同じ大家さんが運営していた、4畳半一間の小さな戸建住宅は、多くが廃屋となり、板が打ちつけられていた。
 平日の昼間のこと、ありえないとは思いつつ、元夫とバタリと出くわしたらどうしようかと、緊張しながら歩いた。

 当時は新幹線で行くしかすべがなかったが、あれから湘南新宿ラインができ、2時間半ほどで行けるようにはなった。
宇都宮駅の構内で、「逗子」という馴染みの駅名を掲示板で確認したときは、
随分近くなったものだと思った。

 しかし、私にとっては、やはり当時と同じように、よそよそしい町であった。

 家の近くを流れていたのが、鬼怒川ではなく、鶴見川、あるいは多摩川だったら、
あるいはあの生活の成り行きも、どこか違ったものになっただろうかと、
これまた自嘲気味に思ったりするのである。



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黒リュックの男

2011年12月24日 | インポート
 この季節になると、黒いナップザックと、サングラス、スキー帽をかぶった男性の姿を巷に見かけるようになる。
極くありふれた、なんでもない様相である。
 しかし、この姿を見かけると、震災の日、すべての電車が止まり、バスを5台乗り次いで帰宅した日のことを思いだす。

 あの夜、どのバスに乗っても、黒いナップザックを背負い、スキー帽を目深にかかぶり、
サングラスをはめた男性がひとり、乗っていた。
 そろいもそろって、わたしの立っている場所近くに席を占め、あるいは、立っていた。
そして、これもそろいもそろって、幼児のひとりでも押しこめているのではなかいかというほど、パンパンに
膨れ上がった黒いリュックを背負い、そして、自分の置かれた状況について、半ばひとりごとのように
ののしっていた。
 やっと通じた携帯電話で、保育園のお迎えについて、保母さんらしき人と連絡をとりあっている
女性に対して、
「さっさと、電話、切れよ」
と、忌々しげにつぶやき、
 道路が大渋滞してバスが遅々として進まないことに腹をたて、運転手の技術に
ケチをつけていた。
 停電になり、信号機も街灯も消え、まるでバスは山道を走っているようだった。
サングラスや帽子のために、顔もはっきりとわからないが、同一人物がどこまでもついてくるように
思えた。
 乗り換えるたびに、なぜかその男はわたしの近くにいた。

 
 ああいった状況では、シルバーシートもへったくれもない。
おばあさんが、ギュウギュウ詰めの乗客に押しつぶされまいと、細い腕を精一杯伸ばして、
手すりをしっかりと握っていた。
 放心状態だったのだろう、その顔は、無表情であった。

 バスに詰め込まれた誰もの関心ごとは、一刻も早く家に帰ること、それだけであった。


 駅の構内は、情報を求めて、皆が、右往左往していた。
バスは動いているのか、いないのか。
バス停はどこにあるのか。
誰かが質問をしていれば、耳をすませ、聞き覚えのある駅名とわかると、わたしも同じ方向
へ走った。
 駅員さんも、混乱する構内の安全確保をするだけで、精一杯のようであった。
 いつもだったら、難なくたどりつける家に帰るのに、なぜこんなに苦労するのか。
無力感でいっぱいだった。

 ずっと立ちっぱなしで腰がくだけそうになりながらも、わたしを支えたもの、
それは希望であった。
 この駅からあの駅へ、そして次の駅へ…バスのルートが頭に浮かんだ。
見たところ、周囲の家は、建っているようだ。
 我が家だけが、つぶれているということもないだろう。
 シャワーを浴びて、温かい布団にもぐりこむ…その場面だけを何度も頭に描いていた。


 黒い男に追いかけられるようにして、夜中の11時頃、家にたどり着いた。
家の中は真っ暗で、もぬけの殻。
 トースターが床にころがり落ち、タンスの引き出しがわずかに開き、玄関先に飾ってあった木彫りの
人形が下に落ち、足が欠けていた。

 その日の朝方、体調を崩した父が入院、付き添って病院にいた母共々、地震の影響で
家に帰れなくなっていたのだった。
 家に誰もいないのならば、公衆電話の長い列に苛立ちながら並んだりせずに、バス停の列に並んでいればよかった。

 「てんでんこ」という言い伝えがあるそうだ。
津波がきたら、それぞれが、まずは自分の身の安全を図って逃げるべきだという教え。
 これによって、多くの子供たちの命が救われた。

 これは何も津波ばかりにあてはまるわけではない。
お迎えや保護の必要な家族がいるのでないならば、それぞれがまずは自分の身の安全の確保を
はかった方がいい。
 気持ちが高ぶってしまい、どうしても受話器を握ってしまうのはわかるが、
連絡は、落ち着いてからでも充分。
 お互い、無事でいるならば、必ずあとで会えるのだ。


 あれから10か月近くがたった。

 津波の想定区域が変更され、職場のあたりは、最大10メートル余りの
津波がくるという。
 2階建ての事務所はひとたまりもないだろう。
 観光地にあるために、景観を守るということで、あまり高い建物は建てられないらしい。
新しい「想定」を前提に、ハザードマップなるものが、作られるそうだが、
どれだけの切迫感を持って対策が練られるのだろう。

「まさか、もうあれだけの巨大な津波は来ないだろう」
と、根拠もなく、楽観的になってはいないだろうか。

 かくいうわたしも、震災後しばらく持ち歩いていた非常食のシリアルは、
賞味期限が迫っているという”現実的”な理由から食べつくしてしまい、
飲料水も、この夏の猛暑に、飲んでしまい、補充さえしていない。

 このおうちゃくぶりに、言い訳をするならば、常備しておけるようなものの多くは、
避難所に行けば、なんとかなるものばかりとも言える。
 本当に大切なものは、、どこに行っても、もはや取り戻すことはできないのだ。

 あの夜、途方にくれた無力感は、未だに尾を引いている。

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親の”逆七光”

2011年12月21日 | インポート
昼休み。
職場のロビーで、ウォークマンのコードがからまったのでほどいていたら、
「編み物ですか?」
と同僚が近寄ってきた。
近眼の彼女、どうやら、ヒモ状のものをあっちこっちやってるのを、見間違ったらしい。


 手先が器用だったら、ちょっとした合間の時間がさぞかし充実するだろうな
と思うことは多い。
カルチャーセンターの講座を見ても、手芸工芸関係など、手先を使うものが多い。
あるいは絵心があったらなあ、と思うこともある。

 手芸にしても、料理にしても、家庭科系の科目に対する、わたしのコンプレックスは根強い。

 唯一、小奇麗にできたのは、刺繍であった。
うまくできると、好きにもなる。
母に教わりながら、小学生のころからチクチクやっていた。
 中学校の家庭科の時間、刺繍の宿題を提出したところ、
女性教師に、
「お母さんにやってもらったの?」
と失礼なことを聞かれた。
 嫌味な先生で、わたしは日頃から彼女のことが嫌いであった
男女同権を叫び、そのことに賛同したり関心をもって話しを聴いてくれる生徒
だけを、いわゆるエコひいきするというウワサの先生だった。
 家に帰り、母にこのけしからん誤解の話しをすると、
「わたしはこんなに下手じゃないわ」
と言われ、2重にへこんだ。

 手先の器用さというのは、遺伝しないものなのか。
母は、内職に編み物をひきうけてくるほど、こうした方面の能力が
優れていた。
 運動神経が抜群の人間は、種目にかかわらず、大概のスポーツが人並み以上に
できるのと同じように、彼女は家庭科系統の分野に優れていた。

 好きこそものの上手なれ。
不器用でも、楽しんでやっていれば、そのうちそれなりに、納得のいくものができるのではないか
とは思うのだが、家の中に、娘のわたしから見ても、上手だなあと思うものが、
ずらりずらり飾られていれば、どうしたって、目が肥えて、目標値のレベルがあがってしまう。
 張り合うというわけではないが、そこで嫌になってしまうのかもしれない。

 選ぶ職業にせよ、趣味にせよ、親と同じものを選ぶのを嫌がる心理は、
こんなところにあるのではないだろうか。

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