TOMATOの手帖

日々の生活の中で出会う滑稽なこと、葛藤、違和感、喪失感……などをとりとめもなく綴っていけたらと思っています。

便座シートは進む

2011年02月26日 | インポート
 朝の通勤時のできごとである。

 電車が駅に着いたので、立ち上がると、隣に座っていた年配の女性も立ち上がり、
わたしの耳元でささやいた。
「あの、ちょっと。何かうしろから出てますよ」
 振り返って見れば、背中から何か垂れ下がっている。
なんと、自宅のトイレで使っている粘着型の、便座シートではないか。

 ここへたどり着くまでに、一体何人の人々に目撃されただろう。
あれ?なんだろう、と思いつつも、関心も持たずに、素通りしてくれた人ばかりではないだろう。
グフフフ…、あれって、トイレのあれだよね、と気付きつつ、内心爆笑している人もいただろう。
 朝の用足し以後、ズボンのウエスト部分にこんなものを挟んだまま、自転車に乗り、
ホームにたたずみ、こうして平然と、電車に乗ってきたのである。
 知らぬが仏とは言うけれど、気付かないということは、かくも恐ろしく、大胆なことである。

 とりあえず、あのまま職場に足を踏み入れなかったことに、感謝。
言いにくいことを、敢えて、知らせてくれた見ず知らずの女性にも感謝。
 不安定な位置を保ちながらも、下に落っこちもせず、はるばるくっついてきた、
便座シートにも、なぜかしみじみとしたものを感じたのであった。

 さて、もうじ来年度である。

 職場でも、新年度に備えた作業が行われ始めた。
そのひとつに、清掃業者と搬送業者を決めるというのがある。
金額が大きいので、入札によって業者を選ぶことになっている。
最近は、電子入札といって、パソコン上で、行うのだそうだ。
 これだと、候補の業者を、わざわざ事務所にまでお呼びだてしなくてもいいのである。

これは予算担当の仕事、つまり今年は、隣席S氏の仕事である。
……のはずであった。

 が、班長I氏、土壇場になって曰く、
「そりゃ、清掃業者や搬送業者に直接支払いをする、TOMATOさんの仕事でしょう」
 都合のいい解釈の仕方である。
職場ではよくあることだが、「丸投げ」である。
フォローするからという甘い言葉に、うっかり引き受けると、
責任者および担当者に仕立て上げられ、挙句に、知らぬ存ぜぬ、担当者に聞け、ということになる。
 あれこれ仕事を抱え、やりきれなくなっということだろう。

 突然私の頭の中は、「ニュウサツ」という、見慣れない文字でいっぱいになる。
まずは、作業ができるような状態に、パソコンを設定するとことから始めなくてはならないらしい。
マニュアルが、パソコン上にあるからと、1ページ目を見ると、に135分の1ページと表示される。
つまり全部で135ページあるということである。
 おそらく全部が必要というわけではないだろうが、どの部分がさしあたって必要なのかがわからない。
昨年度分の、プリントアウトしたものがあるのだが、
そもそも、どのように入力すればそのようなものができるのかがわからない。

 ブログを書いているということと、パソコンに詳しいということとは、全く別の話である。
ひとたび、パソコンの調子が狂うと、受話器片手にサポートデスクとのやりとりで、まる一日つぶれるのである。
 
どう考えても無理である。
時間もない。
固まった脳みそに、さらに堅いロックがかかる。

 結果、出た答えは「できましぇん」。

 課長に相談すると、
「そんなに難しことじゃないと思うけどなあ~」
「みんなで手分けしてやれば、いいんじゃないのお?」
「まあ、できるだけフォローするから…」
とひとごとのような、お返事が返ってくる。

 難しいいことじゃないんだったら、あんたやれよ、と言うセリフが、わたしの喉元まで出かかる。
みんなで手分けするったって、あんた、封筒貼りじゃないんだから。
使えるパソコンは一台、責任者をきちんとひとり決めて、その人が自分のパソコンで
最後まで手続きから何からやらなくてはならないことぐらい、
契約の世界に疎いわたしでも、想像がつくわさ。
 フォローなんていう言葉も、聞こえはいいが、結局はお手伝いに過ぎない。
忙しい人を捕まえて、ちょっとお願い、手伝ってくださいなどと、言いにくいではないか。
そもそも、何を手伝ってもらっていいのか、わからないのである。

……などと、丸投げされた怒りが湧きあがる。
こういう仕事は、男性の領分だろうが、などという自分に都合のいい考え方も、脳裏をかすめる。
そもそも、便座シート挟んで街中歩くおばちゃんに、そんな難しいことは、無理なんです!

 一旦、できません!の方向に、方針が決まると、考え方も、言い訳も、行動も、すべてそっちの方向に邁進する。
妥協の余地はない。
 都合が悪くなると、長期に休職する職員の多いこの業界の「風習」を軽蔑しておきながら、
結局わたしも、春先の体調の悪さを武器に使い、この仕事、丸投げしてきた班長I氏に、
丸投げし返して、一件落着となる。メデタシ。

 アサ―テイブトレーニングというのがある。
アサ―ションとは、一方がまくしたてるのではなく、相手の気持ちも大事にしながら、
お互いが歩み寄っていき、最終的には、双方納得のいく形にもっていくという自己主張の方法である。
 が、職場のような利害対立の現場では、そんな理想的なことを言っていられない場合も多い。

勝つか負けるか。
食うか食われるか。
目には目を。
 自分の身を守るには、相手が納得しようがしまいが、いた仕方ない。
いざとなったら、自分のやり方でやっていくしかない。
 
 このテのトレーニングを受けることに、どうも乗り気がしないのは、
その時になったら、正当なアサーションなどどこかへ吹っ飛んでしまい、
せっかく習ったのに……という空虚感だけが、あとあとにまで残ることがわかっているからかもしれない。















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韓流デビュー

2011年02月19日 | インポート
 そうとう遅ればせながら、初めて「韓流ドラマ」を見る。

 毒舌の絵本作家、佐野洋子さんが、エッセイの中で、
「韓流ドラマに身を持ち崩し、抗がん剤の副作用から救ってくれるほどの幸福感を与えてくれた」
と絶賛する、かの国のドラマとは一体どんなものなのか、俄然興味が湧きあがったのである。

 あれほど、日本中が、ヨン様ヨン様と騒いでいる時には、全く見向きもせず、
レンタルビデオ屋に行っても、特設された韓流コーナーは素通りだったのに、
人間、一寸先は、わからないものである。

 結果的に、「わたし、やっぱり、ああいうのって、どうも苦手」と言おうにも、
まずは、見てみないことには、始まらないではないか。

 漏れ聞いていた評判から思い描いていた、かの国のドラマのイメージは、
「すれ違い」である。
 例えて言えば、古いところで、「君の名は」。
多少新しいところで、(と言っても、35年ほど前だが)、山口百恵さん主演のテレビドラマ、「赤いシリーズ」。
 惹かれあっている者同士、会えそうになると、何だかんだと、邪魔が入る。
誤解が生まれる。
状況が変わって、振り出しに戻る……。
 本人同士が、ストレートに連絡が取り合える携帯のある今の世の中なら、
絶対にあり得ないシチュエーション。
 見ていてじりじり、ストレスが高まりそうな展開である。

 本日借りてきたのは、『イル・マーレ』。
イタリア語で、「海」だそうである。
2000年に住む彼女と、1998年に住む彼が、文通を始める。
彼らを取り持つのは、海辺に建つ家の小さなポストと、コーラと名付けられた小型犬。
 高床式に建てられたその家は、満潮になると、ぽっかりと海に浮かぶ小島のようになる。
  初めは半信半疑だったものが、やりとりを続けるうちに、
段々と手紙を読むのが楽しみになり、日々の暮らしへの
張り合いにまでなっていく。
 その様が伝わってくるようである。

 そういえば、携帯にせよ、パソコンにせよ、活字のやり取りに慣れてしまったが、
手書きの手紙なんていうのを、最近年賀状以外に書いたのはいつだろう。
 ポストをのぞく時の気持ちって、こんなだったよね、と思い起こさせる。
 
 話しの展開を、理屈で理解しようとすると、わからない。
整合性をつけよう、つじつまを合わせようとすると、ますます、頭の中がこんがらがる。
それなのに、感情が動く。
鼻のあたりが、むずむずとする。
 単純なのに、涙のツボは押さえている。
お隣の国だけあって、感性が似ているのかもしれない。
 理屈でわからなくても、そんなものは、頭の中でいくらでも、補えるもののようである。
 日本でも、ブームを巻き起こし、レンタルビデオ屋に、特設コーナーまでできた理由もわかるような気がする。
  かの国の方々が、人前で、大泣きをする場面をニュースで見かけるが、
映画やドラマの世界でも、感情をストレートに発散させるものが、好きなのだろうか。
 
 長いシリーズものに挑戦する根気はない。
 しかし、例えば、素直な気分になれない時(な~んていうセリフも、久々言った)、
この特設コーナーに、時々出没しそうな自分である。

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吸わんぞ~

2011年02月07日 | インポート
受動喫煙防止条例が施行されて、もうじき1年になる。

「吸わない人には、吸わせない」
このキャッチフレーズとともに描かれた絵柄を、最初見た時には、正直たまげた。
長い鼻の先にタバコをくわえた象と、さも嫌そうに顔をそむけた白鳥。
スワンと象の組み合わせ、名付けて
“吸わんゾウ~”。
無論、プロのコピーライターに頼んだのではあるまい。
なぜ、スワンが英語で、象が日本語なの?というつっこみも
敢えていれまい。
滑稽に思えた絵柄も、啓発のポスターや、ポケットティッシュなどで、さんざんお目にかかっているうちに、
それなりに、親近感が出てきたようである。

この条例の甲斐あって、飲食店に入り、はからずも、タバコの煙を吸わされて
不快な思いをすることはほとんどなくなった。
禁煙と喫煙の部屋を分けている店が格段に増えたのだ。

それだけに、外で、前を歩いている人のくわえタバコの煙が、
もろにこちらの鼻に吹き込んでくると、なぜこの広い場所で、
わざわざ煙を吸わされにゃいかんのだ、と余計に腹立たしい思いがする。

子供の頃、家に漂うタバコの匂いを、わたしは嫌いではなかった。

ヘビースモーカーの父は、60代前半にお腹の手術をするまで、
それこそ寝ても覚めても、タバコを吸っていた。
休日、外から帰ってくると、タバコの匂いがする。
それは父が家にいるという印であった。
いたからといって、どうということもないと思うのだが、強いていえば、
安心感といったものだろうか。
父がいると、母の機嫌がよかったのかもしれない。

子供のわたしにとって、家に漂うタバコの匂いは、休日の匂いであった。

しかしそれも子供の頃まで。
巷で言う蛍族のごとく、換気扇の近くやベランダでひそやかに吸ってくれるのなら、
可愛げもあるのだが、居間のドアを申し訳程度に少しあけたまま吸うので、
父親の吸うタバコの煙が嫌でたまらなくなった。
世間で、煙害が説かれ始めたということもある。

それが影響したのか、わたしの息子も、祖父のタバコを嫌い始め、
彼が吸い始めると、トレーナーの前襟で鼻と口をすっぽりと塞いでいた。
思春期を迎え始めていた息子と、わたしの父との関係が、
何となくしっくりといかなくなり始めたのは、タバコのせいばかりとは思わないが、
ちょうどその頃からである。

禁煙など試みたこともないのに、何かのきっかけで、ぱたりと止めることもあるらしい。

職場の副所長がそうである。
仕事中、姿が見えないなあという時は、大抵、ガレージで一服していた。
この寒い中、そんなにまで吸いたいものかねえ…と部下一同にあきれられていたものだが、
つい最近、孫の誕生を機にぱたりと止めた。

タバコを吸っている姿が、妙にサマになっているという方も、いることは確かだ。

これはもちろん主観的なものである。
好感を持っている方の、タバコを吸う姿は、(大人のおしゃぶりであるという説もあるのにかかわらず)、
大人の男を思わせて、好ましく見えたりする。
わたしのかかっている医師は、以前、診察室でタバコを吸っていたが、
それさえも、なんとなく風格を感じさせるものに思えた。

逆に、あまりいい感情を抱いていない人の吸うタバコの煙は、ことさら煙たい。

20年以上も前、勤めていた民間の会社では、当時はどこもそうだったと思うのだが、
煙害など今ほど説かれることもなく、仕事をしながら、自分の机の上でスパスパ吸っていた。
わたしの隣にいた先輩社員は、かなりのヘビースモーカーだったので、
空気の流れによって、煙はこちらに流れてくる。

初対面に近いうちは、仕事や同僚そのものに慣れるのに精いっぱい、
お互い、いい印象を保とうとするのだが、殊勝な気分は、そう長くは続かない。
段々にアラが見えてくる。
なんとなくこの人、虫が好かない……、苦手だわあ~といった意識が芽生えてくる。
そうなってくると、彼の吸うタバコの煙が、段々と、耐えがたいものに思われてきた。

ネガティブな感情と言うものは、決して一方通行ではない。
それとなく相手に伝わるものだ。
わたしは感情が表に出やすい性分であるので、なおさらのこと。
彼がタバコを吸い始めると、隣の席から、あからさまに、ウチワや下敷で、
遠慮会釈もなく、バッサバッサと仰ぐので、ただでさえ、ぎくしゃくし始めていた関係性が、余計悪化した。

分煙禁煙の風潮が高まっても、というか、だからこそ、昔からのお客さんを大切に、
と言う趣旨で、敢えて喫煙可を保つ喫茶店も健在である。
これほど有害が叫ばれながらも、一足飛びに「違法」とならないのは、
一概に切って捨てることのできないものが、背景にあるのかもしれない。


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ベーグルパンをかじりながら

2011年02月04日 | インポート
 ここのところ、根深いドライアイも手伝って、夜も早よからご就寝。
時刻は午後9時。保育園児でも起きている時間帯である。

 これでは、時間がもったいない。
何とかせねばと思いついたのは、「朝活」である。

 そうは言っても、この時期、温かい布団から早目に抜け出すには、
それなりに、”お楽しみ”が必要となる。
 思い浮かんだのが、職場の最寄り駅にあるコーヒーショップで見かけた売り文句。

―もっちりベーグル、クリームチーズ付き、温めてどうぞ―

 これなら、いけそう。

 かくして、エサにつられて、1時間早く家を出る。

 先日、休日出勤した時には、同僚がいない事務所の風景が全く違うものに
見えたが、町の様子もしかり。
 同じ通勤経路なのだが、時間をずらしただけで、電車に乗っている顔ぶれが違うせいか、
風景が微妙に新鮮に映る。

 この時期、早朝の車中でちらほら見かけるのが、小学生の娘息子と母親の組み合わせ
である。
 私立中学の受験に向かうのだろう。
 試験の間際まで、最後の仕上げに、余念がない。
 問題集やノートを広げた子供の隣では、母親がその手元をのぞきこみ、
あれこれ話しかける。
 手提げ袋から、おもむろに分厚い『小学国語辞典』など取り出して、熱心にめくり始める。
 中学受験ともなると、母子二人三脚で、頑張ってきただけに、親の思い入れも、強いのだろう。

 はるか昔、自分が受験生だった頃の心境は、ほとんど覚えていないのだが、
保護者の気持ちというのは、いまだ、記憶に新しい。

 息子の受験が、差し迫ったある日のこと。

 職場の事務机に置かれたクリップケースを、誤って落としてしまい、中身が床に散らばった。
ばらまかれたクリップのひとつひとつが、受験生のように思われて、
机の下にもぐりこみ、ホコリだらけになりながら、拾い集めた。
 心境としては、
「補欠でもいいから拾って!」
といったところだろうか。

 マスクは欠かさず、電車で隣り合わせに座った人が咳込んだりしようものなら、
ムッとしながら、車両を変え、家の中に風邪を持ちこまないようにし、
 もし、インフルエンザにかかったら、家に帰らずウイークリーマンションにたてこもろうと、
近くのマンションを検索した。

 試験当日に至っては、電車が遅れて、試験に間に合わなかったら…などと運行情報を
ネットでチェック。
 「鉛筆を忘れた」
と、取りに戻ってくるのではないかと思うと、外出するのも、憚られた。

 手が届かずに、拾い残したクリップがひとつ、あったわけでもなかろうが、
あともう1年、ということに決まった時には、
桜散る、どころか、すべての桜の木が、将棋倒しに、根こそぎ倒れたような気がしたものだ。

 今となっては、全くもって滑稽の極みであるが、すべてのことに、ナーバスになっていたのだ。

 久田恵さんが、ご自身のエッセイで、
「葛藤のない人生は、つまらない」
と書かれていたが、何度も反芻してしまう光景は、得てして、もうコリゴリと思うようなできごとであることが多い。
 自虐的な自己満足といったところである。

 さしあたり、やきもきすることもなく、こんな風に、モーニングセットをぱくつきながら、
昨夜の夕刊などめくって過ごすことができるのは、幸せというべきなのか、それとも物足りないというべきなのか。

 以前、都心の私立幼稚園を受験するのに、その願書を出すべく、
夜明けから郵便局前に、列をなしている
親ごさんのことがテレビニュースになっていたが、
先着順でもないのに…、などと、彼らのことを笑うことはできない。

 9時の受付まで、家でじっとしてなどいられないという心境は、ひとごとではないのである。

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