牛込日乘

日々の雜記と備忘録

ラッセル「協調について」(1/2)

2009-07-09 00:16:42 | Translations

 近年では、民主主義の影響下にあって、協調の美徳というのは、かつて服従がそれに位置していたのと同じ場所を占めてきた。時代遅れの校長であれば、ある少年に対して、従わないということを言い立てるだろう。現代の女性教師であれば、ある子供に対して、彼は協調性がないと言い立てる。その意味するところは同じことである――その子供は、どちらの場合でも、教師が望むことが出来なかったのであるが、前者のケースにおいては教師は政府のように振る舞い、後者のケースでは人民、つまりほかの子供たちの代表のように振る舞う。新しい合い言葉〔協調〕は、古い合い言葉〔服従〕と同じように、従順さとか、被暗示性とか、群衆本能とか、前例踏襲とかを推奨するという結果になる。それによってもたらされるのは、独自性、自発性、超越的な知性といったものを妨害するという結果である。およそ価値あることを成し遂げてきた大人が「協調的」だったためしはなかった。通例、こうした人間は孤独を好んできた。また、本を持って隅っこに隠れようと努めてきたし、同世代の野蛮人たちの注目から逃れられることが一番幸せだったのだ。芸術家や作家、科学者として際だっていた人間のほとんどすべては、少年時代に嘲笑の的になったり学校仲間の軽蔑の対象になったりしていた。残念ながら教師たちは群衆の側につくのがほとんどであったが、それは変わった少年がいるというのは彼らを悩ませることになるからである。

 子供たちの中にある、飛び抜けた知性の徴に気づくことと、何か普通でないことによってもたらされるイライラを抑制することは、すべての教師が身に付けるべき訓練の一つでなければならない。これが成されないとすれば、アメリカにおける最良の才能を持つ人間たちの多くは、十五歳になるまでに迫害されつまはじきにされるだろう。協調的であるということは、理想として掲げるのには問題がある。自分一人だけで生きるのではなく共同体と関わりながら生きるということは正しい。しかし、共同体のために生きるというのは、共同体〔の全員〕がすることであれば〔個人も〕しなければならないということではない。劇場の中にいて火事に遭い、集団パニックが発生したとしよう。いわゆる「協調」といわれる以上の道徳性を身に付けていなかった人間は、パニックの集団に加わってしまうだろう。彼は群衆になびかずに自立できるだけの、いかなる内的な力をも持ち得ないからである。戦争に突入しようとしている国家の心理というのは、あらゆる点でそっくりである。


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