ヤマアカガエルの産卵に春を知る日

山里の日々の生活と自然、そして稼業の木工の話

ガビチョウ

2013年04月10日 | 日記
月曜日、末っ子の中学校の入学式に行きました。




中学校は普段住んでいるところよりも少し標高が高いので、ちょうどソメイヨシノが一分咲きくらい。
と、思っていたら、同席した父兄に聞いた話によると、
鳥が花芽を食べてしまうのので、花が少ないんじゃないかということらしい。
「ガビチョウ」という外来種だって。


そういいえば2~3年前から急に現れた鳥がいる。
大きさはヒヨドリより一回り大きくて、やたらピーヒャラと鳴いてそこらを飛んで回る。
ふるまいもずうずうしい。
いい声だな、とちょっとは思ったが、そのうちうるさく感じてくる。
野鳥の図鑑を見ても載っていないし。
「チョウセンウグイス」と呼ぶ人もいる。




こいつだ。
自宅の庭で撮った写真。


調べると、なるほど外来種らしい。中国、東南アジア原産。


ガビチョウは「峨眉鳥」かと思ったら「画眉鳥」と書くらしい。
いわれると隈取が京劇の様に見えてくるから不思議。

中国にいた時、街角で鳥籠を持ち寄って鳥を鳴かす趣味の人たちを見たが、
この鳥だったのだろうか。今となってはわからないが。

外来種が侵入してきた過程をまざまざと見たことになりました。







火曜午前中、春の強風で壊れた材木倉庫の屋根を修理して、お昼まで少し時間があったので、
工房の川向こうにある宝蔵寺というお寺のしだれ桜を見に行きました。






村内には「中正寺のしだれ桜」という有名な桜がありますが、この宝蔵寺のもなかなか良い。
もう少し咲きはじめの方が色が濃くて好きだけれども。





山門に立派な梵鐘があった。近くにいたのに知らなかった。
鳴る音も聞いたことがない。





土蔵もある。昔は白壁だったのであろう。

修業の地を探して(回顧 その2)

2013年04月08日 | 木工
木工屋になるための修業の場を探す旅が始まりました。



まず親に自分の進路について報告に行きました。
不思議と反対はされませんでしたが、
あとで訊いたら、やはりそれなりに心配はしていたようです。
(あたりまえだ。)

親から援助を受ける気はなかったので、
問題は、仕事を覚えながらもどう生活をしてゆくかということでした。
昔ならば弟子に入って仕事を覚えながら食べさせてもらうような道もあったでしょうが、
当時でも徒弟制度のようなものはすでになく、
いかんせん私は年を取りすぎていました。(当時24歳)
弟子なんか採ったらやってけないというような話はその後行く先々で聞くことになります。



親に話したせいで、親戚筋から上野村で木工をやっているから見に行ったらどうだろうといわれました。
上野村で木工をやっていることは、その時まで知りませんでした。

上野村は群馬県の最南部、西は長野県、南は埼玉県の秩父地方に接しています。
私は前橋市の育ちですが、
上野村は群馬県内でも六合(くに)村と並んで僻地の代名詞として知られていました。
(六合村は合併して今はありません)
最近は聞きませんが、「群馬のチベット」なんていわれていたこともありました。
1985年に日航機墜落事故があったことでも有名です。
高1の時、友人3人で自転車旅行で訪れたことがありました。
長野県側からの峠を登りきるのがとても大変だった覚えがあります。

村を訪ね、のちに仕事の師匠になった職人さんや村長さんにお会いしてお話を聞きました。
いわゆる村おこし事業で近年新たに木工業を始めたとお聞きしました。
もし来るなら、最低限の生活の保障を頂きながら仕事を覚えることが出来るということでした。

とりあえず返事は保留し、他の産地なども探してみることにしました。



しかし当時、私は本当に何も知りませんでした。
どこに行けば私のしたい物作りを始められるのでしょうか?
今ほど情報がなかったのも事実です。
伝統工芸を紹介する書籍などを見てみましたが、あまり参考になりません。
この業界にいる人ならだれでも知っているような、
例えばジョージ中島や黒田辰秋やハンス・ウェグナーも知らず、
オークビレッジもKAKIも知りませんでした。



秋葉原の駅前にパズルを売る店がありました。
(秋葉原デパート・コスモ物産。今はない)
その中に見事な寄木細工のからくり箱があり、一つ持っていました。
小田原の職人さんのものでした。
それを思い出し、小田原にある神奈川県工芸指導所というところを訪ねて行きました。
小田原城の隣にその施設はありました。(今は名前も変わってそこにはないらしい。)

話の内容はあまり芳しくありません。
職人さんには弟子を採る余裕がない、ましてよそから来た者は受け入れない、云々。
木工工場の簡単な作業ならあるかもしれないとか。
あまり歓迎はされてないない感じを受けました。
仕方なく製造の工程の見本などを眺めて帰ってきました。




松本市に有名な家具屋があると聞いて、中央線の夜行列車に乗って尋ねてみました。
同乗の客は山登りの人たちでした。
朝早く着きすぎて、お城の公園のベンチでしばらく寝ました。

市内に立派なショウルームがあり、
電話してアポを取っていたので会社の人事課の方がちゃんとお会いしてくださいました。
街中なのにすぐ近くに工場があり、案内していただきました。
狭いけれどひとりひとりの職人さんの作業する場所があり、
たくさんの道具や作りかけの部材が置いてあり、とても好感が持てました。

私が自分の考えていることを説明すると、先方のお話はこうでした。

まず、私の年齢のことをいわれました。(しつこいようだが当時24歳くらい)
職人になるならもっと早く来ないとと。
小柄なのは職人に向いてると言われたのが印象的でした。(わたし160cm)
本当は10年くらいの修業が必要なのだけれど、促成で5年くらいでもやれないことはない、と言われました。
来る気があるなら採らないことはない、と言われましたように感じました。

ただし、ウチで必要なのは決まった物を作り続ける職人だから、と言われました。
デザインするのはデザイナーがいるからと。


なるほど、そりゃそうだよな、と思いました。


なぜか、始める前から私は、一匹狼で自分で考えた物を作るというスタイルは決めていたので、
その会社の求める人材ではない訳です。

ここでも考えてみれば、一企業を訓練校代わりに使おうとすることなど、失礼な話です。
会社にはそんなやつを採用するメリットは一分もありません。
ここに厄介になるわけにはいかないなあ、ということで退散です。

松本の町を散策し、古本屋で家具関係の本など買って東京に帰りました。




あと2か所ほど行きましたが、どこも同じような話です。

仕事をして資金を貯めて、授業料を払って仕事を覚えた人の話も聞きました。
失業保険をもらって訓練校に行くのがひとつのセオリーだということはあとで知りましたが、
新卒の私が使える手ではありません。




さて、どうしよう。



上野村は条件は良いが、産地としては若いという不安がありました。
指導してくれる職人さんは東京で長く茶箪笥などを作ってきた
手道具などの重要性を説く人で、その点は好感が持てました。

上野村は標高は高くないものの襞の深い山奥の村で、かなり不便なところです。
しかし中途半端な地方都市などよりも、
思い切ってここから始めてみるのも面白いかな、と思い始めました。
子供の頃、親に連れられて夏になると登山に行っていました。
その時に見たカジカカエルの鳴くような山村の風情が好きだったこともありました。



上野村にお世話になってみよう、そう決めました。



もう1月になっていました。

就職希望の学友たちは華やかに内定をもらっていました。
今の学生さんたちが聞いたらら羨ましがるような、バブル経済の末期の1991年でした。


(つづく)



雨降り。

2013年04月03日 | 日記
今日は雨降り。



一日納品にでかけて山に帰ってきたら、木々の芽吹きが進んでいて驚いた。




カスミがかかったように新芽が出るこの頃の山は最高です。
住んでいないとこれは味わえない。
雨が降っているので実際にカスミもかかっています。

春の今頃は雨が降っても樹が吸い上げてしまうので川の水があまり増えない、と地元の人は言います。






工房の近くの天神様の山桜を今回は川の対岸から遠景で撮ってみる。
やっと色がある世界が戻ってきたなあ。
手前にまだ梅が咲いてます。






モクレンがやっと咲いてきた。






カタクリも咲いている。
落ち葉が雨に濡れてて鮮やかな色。






少し増水した川のほとりで鷺が魚を狙ってた。





猟期が終わって、鹿がよくやってくるようになった。
畑にとっては害獣です。
近づいても逃げない。






仕事の方は、、、



椅子作り。今回はみな座面が木のものばかり。
三種類の木が混ざって作っています。
黒はブラックウォールナット、茶色はクルミ、白はミズナラ。

リポデのビンにはシンナーが入っています。






家具工房 独立・創業 20周年(回顧 その1)

2013年04月01日 | 木工
注文家具の工房を立ち上げて、この4月で20年がたちました。


まあ、「創業」というほどのものではありません。
木工の仕事を覚えた研修施設を出て、こつこつ買いそろえた道具をもって、
機械が一通り揃っている森林組合の小屋をお借りし、
自分の作った製品を売ってお金をもらう生活を始めたのが20年前。
26歳でした。

1年後、今いる場所に工房を移し、借り入れをして機械を買い、材木を買い、そのまま19年。
この風変わりな稼業を続け、木で家具や小物を作ることで生計を立てて家族を養っています。


木という素晴らしい素材に出会い、木の美しさに励まされ、
多くのお客様に支えられて今日までやって来ることが出来ました。

丸太を買って製材に立ち会うような材の仕入から、
営業、デザイン、制作、塗装、記帳、納品まで
全てのことをほぼひとりでする個人工房スタイルを貫いてきました。


この仕事を続けてこられたことに深く感謝しつつ、
20周年のこの機会に、この道に入った頃のことや今でこそ思うことなどについて、
何回かに分けてお話しできればと思います。




まずは注文家具の工房を始めるそもそものきっかけからお話したいと思います。


大学4年になり、私は職人になることを決心しました。

誰もが進学や就職のことを考える頃、
私も職を得て暮らしていくことを考えざるをえませんでしたが、
しかし私にはどうしても会社員になっている自分が想像できませんでした。
面倒くさい人間関係が苦手だったということもありました。
幼いころから工作が好きだったので、物を作ることを仕事にしたいと思いました。
自分の頭で考え、自分の手と体を使って物を作る職業に着こうと決めました。
好きなことを仕事にして、それに打ち込む人生を送りたいと思いました。

しかし普通に大学まで来てしまった人間としては
その決心に至るまではそれ相当の葛藤や紆余曲折がありました。

特に作りたい物や憧れた作家がいたわけではありません。
ただ、物を作る仕事がしたかったのです。



最初に思いついたのは楽器制作です。

音楽が好きで、特に大学時代は熱心にジャズバンドでベースを弾いていました。
しかしそれだけ一生懸命にやると、逆にいかに自分に音楽の才能がないのかがよく分かります。
コントラバスの修理、調整をする方にお話を聞いたりもしました。
良い音とは何か、よい楽器とは何か、といったようなことは繊細な感覚の領域です。
結局、自分の音楽的な耳に自信がもてず、楽器作りに進む気にはなりませんでした。



そのころから、やるなら木や竹などの生物素材がいいと決めていました。
土や金属ではなく。

しかし、20年前の当時でさえ、どうすれば職人・もの作りになれるのかわかりませんでした。
徒弟制度はすでになく、仕事を覚え生計を立てるための道筋はまったく見えませんでした。
今ならネットの検索などでいろいろな情報が手に入るでしょう。
訓練校があるのは知っていましたが、もう学校には行く気がありませんでした。



なんでも手に入る情報から当たってみました。

近しい友人のお父様が著名な竹細工の作家で、九州まで会いに行きました。
大分は粗野な北関東の育ちの私から見ると、雅なところです。
竹細工は主にお茶の道具のようでした。
その方には本当に歓待して頂き、御恩が出来ました。
今思うと失礼な話ですが、私は本当にどうしても竹細工がしたくてお伺いしたのではなく、
そのような仕事をしている方のお話が訊きたかったのです。
ずうずうしくも、弟子を採ったりするのかとも尋ねました。

その方とのお話はとても実りの多いものでした。
もの作りの道は簡単ではないとのこと。
力のある作家さんでも作品作りだけだは食べていけず、
食べるための仕事をして作家活動をしているようなお話も聞きました。
大学まで行って職人になるのはもったいないのではないかとも言われました。


大きな岐路になった話は、こんなことです。

竹細工は使用目的が特殊だと。(例えば茶道など)
同じもの作りでも、例えば焼き物や木工品ならばもっと日用品としての需要があるので
そんな方面でやってみてはどうかと。

「なるほど、木工か。」と思った。

いま思えば、私は試されていたのかもしれません。
どうしても、どうしても竹細工がやりたい気持ちが私にあったなら、
許されて私は九州に修業に行き、今は九州の人間になっていたのかもしれません。
でも私はその点いい加減だったので、
ならば木工屋にでもいいかと、思ってしまった。
木工なら家具作りがかっこいいかな、みたいなチャラい発想で。


かくして、私は家具職人への道を探す「就職活動」へと軸足を固めてゆきます。



(つづく)