2年の研修期間を経て、私は独立して自分で仕事を始めることにしました。
独立開業と時を同じくして、学生時代に付き合っていた女性と結婚しました。
彼女は京都で染織の勉強をしていて、2年間の離別生活でした。
家具作りのことを全て習得したつもりはありませんでしたが、
もう後は自分でなんとかするしかないという感じでした。
最初は機械付きの作業場を借りて仕事を始め、
一年後に現在の工房の建物に移ったときに借金をして、基本的な機械設備を揃えました。
最初の借り入れの返済期間は5年間でしたが、
初期の頃は売り上げも少なくて苦労して返済した覚えがあります。
その後も必要に応じて他の機械や工具もこつこつと買い揃えてゆきました。
工房経営のことはほとんど教わらなかったので、暗中模索の出航でした。
帳簿も付けもよくわからず、商工会の指導員さんに教わって覚えました。
図面描き、見積もり、材の買い付け、営業、みな手探りで自分でするしかありません。
特に品物の値段の付け方は難しい課題です。
安ければ経営が成り立たたず、高ければ売れないのは当たり前のことです。
しかし、ことはそれだけではない。
見積もりが安すぎて信用されず、仕事を断られるようなこともありました。
自分の感覚で値段を付けてもいけないことも学びました。
最初の頃の取引先は村内にある森林組合のお店でした。
そのお店に来た注文家具の仕事を頂いて収めていました。
その頃は特に夢中で仕事をしていたので、値段以上の仕事を手間暇をかけてしました。
出来た物が良ければ褒めていただき、また注文を頂きました。
結果的には宣伝費を品物に載せて世に送り出したような形です。
材木の仕入も難しい課題でした。
丸太の見立て、値踏みなどは身銭を切って経験を積むしかありません。
買った丸太を製材したらまるまる使えなかった、なんてこともありました。
木工、特に伝統工芸などは良い材を使って仕事をしてナンボみたいなところがあります。
注文が来てもちょうどよい材が手元になく、苦労してあちこち探し回ったりしたこともあります。
それに懲りて、お金が無くてもやせ我慢をして材を買い込むようになりました。
木は自然のものなので、出会いは一期一会です。
いつでも同じものが手に入るわけではないので、よい出ものがあったら買わないと次はありません。
惚れた丸太を買うために借り入れもしました。
丸太の製材は樹木が板になる瞬間に立ち会うことが出来る素晴らしい経験です。
製材の後、皮をむいたり桟を入れて干す作業は重労働ですが、
材に対しての愛着がまし、仕事の喜びになりました。
最初の頃は頼まれてデパートの催事にもよく出かけました。
部材を加工しておいて、売り場で引き出しなどを組み立てて仕上げるような実演販売です。
主に大阪や神戸などの老舗デパートで、一週間ほどの出張です。
そのような場所でのお客さんや同業者との交流はとても実入りのある経験になりましたが、
人前で接客しながらの作業はかなりのストレスだったようで、
帰ってきてから原因不明の腹痛に襲われたりしました。
何年か経つうちに群馬クラフト作家協会や上野村木工家協会などが設立され、仲間が増えてゆきました。
お客様との出会いも増え、群馬県内はもとより、埼玉や東京に納品に行くようになりました。
何をどう作ればよいかは、結局、お客様が教えてくれました。
私の作風を気に入ってご注文を頂くのですが、
何を作るのか、どう使うのかはお客様がすでにプランを持っていらっしゃいます。
お話をお伺いして、どのような物をお求めなのかをくみ取り、少しばかりの私の意見を混ぜ、
お客様が欲し物を作るのが私の仕事です。
木のことは結局、木が教えてくれました。
不適切な使い方をすると必ずしっぺ返しがあります。
いろんな失敗をしましたが、無垢の木の性質に逆らってはいけないことを木に教わりました。
木は素晴らしい素材です。
美しく、ぬくもりのある、自然からの賜物です。
この世界に入って22年経って今思うこと。
お客様は自分や家族のためにお部屋にこんなものが欲しい、という思いからご注文をくださいます。
私はお客様とご相談して、そんな思いを受け取ってお客様のことを思いながら家具を作ります。
お客様は私の家具がやってくるのを楽しみに待っていてくださいます。
物作りになりたいということだけが最初の動機でしたが、
いつしかそんなお客様とのお付き合いこそが、私の喜びになってゆきました。
そして怖いこと。
木材が枯渇しつつあるということを強く感じます。
このたった20年間でも、良い材が手に入りにくくなってます。かつ値段が上がっています。
それが原因で注文があっても材が無くて仕事が続けられなくなるのではないかと不安です。
今回でこのこっぱずかしい話は終わりです。
あらためて、今までお世話になった方々に御礼申し上げます。ありがとうございました。
これからもよろしくお願いします!
独立開業と時を同じくして、学生時代に付き合っていた女性と結婚しました。
彼女は京都で染織の勉強をしていて、2年間の離別生活でした。
家具作りのことを全て習得したつもりはありませんでしたが、
もう後は自分でなんとかするしかないという感じでした。
最初は機械付きの作業場を借りて仕事を始め、
一年後に現在の工房の建物に移ったときに借金をして、基本的な機械設備を揃えました。
最初の借り入れの返済期間は5年間でしたが、
初期の頃は売り上げも少なくて苦労して返済した覚えがあります。
その後も必要に応じて他の機械や工具もこつこつと買い揃えてゆきました。
工房経営のことはほとんど教わらなかったので、暗中模索の出航でした。
帳簿も付けもよくわからず、商工会の指導員さんに教わって覚えました。
図面描き、見積もり、材の買い付け、営業、みな手探りで自分でするしかありません。
特に品物の値段の付け方は難しい課題です。
安ければ経営が成り立たたず、高ければ売れないのは当たり前のことです。
しかし、ことはそれだけではない。
見積もりが安すぎて信用されず、仕事を断られるようなこともありました。
自分の感覚で値段を付けてもいけないことも学びました。
最初の頃の取引先は村内にある森林組合のお店でした。
そのお店に来た注文家具の仕事を頂いて収めていました。
その頃は特に夢中で仕事をしていたので、値段以上の仕事を手間暇をかけてしました。
出来た物が良ければ褒めていただき、また注文を頂きました。
結果的には宣伝費を品物に載せて世に送り出したような形です。
材木の仕入も難しい課題でした。
丸太の見立て、値踏みなどは身銭を切って経験を積むしかありません。
買った丸太を製材したらまるまる使えなかった、なんてこともありました。
木工、特に伝統工芸などは良い材を使って仕事をしてナンボみたいなところがあります。
注文が来てもちょうどよい材が手元になく、苦労してあちこち探し回ったりしたこともあります。
それに懲りて、お金が無くてもやせ我慢をして材を買い込むようになりました。
木は自然のものなので、出会いは一期一会です。
いつでも同じものが手に入るわけではないので、よい出ものがあったら買わないと次はありません。
惚れた丸太を買うために借り入れもしました。
丸太の製材は樹木が板になる瞬間に立ち会うことが出来る素晴らしい経験です。
製材の後、皮をむいたり桟を入れて干す作業は重労働ですが、
材に対しての愛着がまし、仕事の喜びになりました。
最初の頃は頼まれてデパートの催事にもよく出かけました。
部材を加工しておいて、売り場で引き出しなどを組み立てて仕上げるような実演販売です。
主に大阪や神戸などの老舗デパートで、一週間ほどの出張です。
そのような場所でのお客さんや同業者との交流はとても実入りのある経験になりましたが、
人前で接客しながらの作業はかなりのストレスだったようで、
帰ってきてから原因不明の腹痛に襲われたりしました。
何年か経つうちに群馬クラフト作家協会や上野村木工家協会などが設立され、仲間が増えてゆきました。
お客様との出会いも増え、群馬県内はもとより、埼玉や東京に納品に行くようになりました。
何をどう作ればよいかは、結局、お客様が教えてくれました。
私の作風を気に入ってご注文を頂くのですが、
何を作るのか、どう使うのかはお客様がすでにプランを持っていらっしゃいます。
お話をお伺いして、どのような物をお求めなのかをくみ取り、少しばかりの私の意見を混ぜ、
お客様が欲し物を作るのが私の仕事です。
木のことは結局、木が教えてくれました。
不適切な使い方をすると必ずしっぺ返しがあります。
いろんな失敗をしましたが、無垢の木の性質に逆らってはいけないことを木に教わりました。
木は素晴らしい素材です。
美しく、ぬくもりのある、自然からの賜物です。
この世界に入って22年経って今思うこと。
お客様は自分や家族のためにお部屋にこんなものが欲しい、という思いからご注文をくださいます。
私はお客様とご相談して、そんな思いを受け取ってお客様のことを思いながら家具を作ります。
お客様は私の家具がやってくるのを楽しみに待っていてくださいます。
物作りになりたいということだけが最初の動機でしたが、
いつしかそんなお客様とのお付き合いこそが、私の喜びになってゆきました。
そして怖いこと。
木材が枯渇しつつあるということを強く感じます。
このたった20年間でも、良い材が手に入りにくくなってます。かつ値段が上がっています。
それが原因で注文があっても材が無くて仕事が続けられなくなるのではないかと不安です。
今回でこのこっぱずかしい話は終わりです。
あらためて、今までお世話になった方々に御礼申し上げます。ありがとうございました。
これからもよろしくお願いします!