ヤマアカガエルの産卵に春を知る日

山里の日々の生活と自然、そして稼業の木工の話

修業の地を探して(回顧 その2)

2013年04月08日 | 木工
木工屋になるための修業の場を探す旅が始まりました。



まず親に自分の進路について報告に行きました。
不思議と反対はされませんでしたが、
あとで訊いたら、やはりそれなりに心配はしていたようです。
(あたりまえだ。)

親から援助を受ける気はなかったので、
問題は、仕事を覚えながらもどう生活をしてゆくかということでした。
昔ならば弟子に入って仕事を覚えながら食べさせてもらうような道もあったでしょうが、
当時でも徒弟制度のようなものはすでになく、
いかんせん私は年を取りすぎていました。(当時24歳)
弟子なんか採ったらやってけないというような話はその後行く先々で聞くことになります。



親に話したせいで、親戚筋から上野村で木工をやっているから見に行ったらどうだろうといわれました。
上野村で木工をやっていることは、その時まで知りませんでした。

上野村は群馬県の最南部、西は長野県、南は埼玉県の秩父地方に接しています。
私は前橋市の育ちですが、
上野村は群馬県内でも六合(くに)村と並んで僻地の代名詞として知られていました。
(六合村は合併して今はありません)
最近は聞きませんが、「群馬のチベット」なんていわれていたこともありました。
1985年に日航機墜落事故があったことでも有名です。
高1の時、友人3人で自転車旅行で訪れたことがありました。
長野県側からの峠を登りきるのがとても大変だった覚えがあります。

村を訪ね、のちに仕事の師匠になった職人さんや村長さんにお会いしてお話を聞きました。
いわゆる村おこし事業で近年新たに木工業を始めたとお聞きしました。
もし来るなら、最低限の生活の保障を頂きながら仕事を覚えることが出来るということでした。

とりあえず返事は保留し、他の産地なども探してみることにしました。



しかし当時、私は本当に何も知りませんでした。
どこに行けば私のしたい物作りを始められるのでしょうか?
今ほど情報がなかったのも事実です。
伝統工芸を紹介する書籍などを見てみましたが、あまり参考になりません。
この業界にいる人ならだれでも知っているような、
例えばジョージ中島や黒田辰秋やハンス・ウェグナーも知らず、
オークビレッジもKAKIも知りませんでした。



秋葉原の駅前にパズルを売る店がありました。
(秋葉原デパート・コスモ物産。今はない)
その中に見事な寄木細工のからくり箱があり、一つ持っていました。
小田原の職人さんのものでした。
それを思い出し、小田原にある神奈川県工芸指導所というところを訪ねて行きました。
小田原城の隣にその施設はありました。(今は名前も変わってそこにはないらしい。)

話の内容はあまり芳しくありません。
職人さんには弟子を採る余裕がない、ましてよそから来た者は受け入れない、云々。
木工工場の簡単な作業ならあるかもしれないとか。
あまり歓迎はされてないない感じを受けました。
仕方なく製造の工程の見本などを眺めて帰ってきました。




松本市に有名な家具屋があると聞いて、中央線の夜行列車に乗って尋ねてみました。
同乗の客は山登りの人たちでした。
朝早く着きすぎて、お城の公園のベンチでしばらく寝ました。

市内に立派なショウルームがあり、
電話してアポを取っていたので会社の人事課の方がちゃんとお会いしてくださいました。
街中なのにすぐ近くに工場があり、案内していただきました。
狭いけれどひとりひとりの職人さんの作業する場所があり、
たくさんの道具や作りかけの部材が置いてあり、とても好感が持てました。

私が自分の考えていることを説明すると、先方のお話はこうでした。

まず、私の年齢のことをいわれました。(しつこいようだが当時24歳くらい)
職人になるならもっと早く来ないとと。
小柄なのは職人に向いてると言われたのが印象的でした。(わたし160cm)
本当は10年くらいの修業が必要なのだけれど、促成で5年くらいでもやれないことはない、と言われました。
来る気があるなら採らないことはない、と言われましたように感じました。

ただし、ウチで必要なのは決まった物を作り続ける職人だから、と言われました。
デザインするのはデザイナーがいるからと。


なるほど、そりゃそうだよな、と思いました。


なぜか、始める前から私は、一匹狼で自分で考えた物を作るというスタイルは決めていたので、
その会社の求める人材ではない訳です。

ここでも考えてみれば、一企業を訓練校代わりに使おうとすることなど、失礼な話です。
会社にはそんなやつを採用するメリットは一分もありません。
ここに厄介になるわけにはいかないなあ、ということで退散です。

松本の町を散策し、古本屋で家具関係の本など買って東京に帰りました。




あと2か所ほど行きましたが、どこも同じような話です。

仕事をして資金を貯めて、授業料を払って仕事を覚えた人の話も聞きました。
失業保険をもらって訓練校に行くのがひとつのセオリーだということはあとで知りましたが、
新卒の私が使える手ではありません。




さて、どうしよう。



上野村は条件は良いが、産地としては若いという不安がありました。
指導してくれる職人さんは東京で長く茶箪笥などを作ってきた
手道具などの重要性を説く人で、その点は好感が持てました。

上野村は標高は高くないものの襞の深い山奥の村で、かなり不便なところです。
しかし中途半端な地方都市などよりも、
思い切ってここから始めてみるのも面白いかな、と思い始めました。
子供の頃、親に連れられて夏になると登山に行っていました。
その時に見たカジカカエルの鳴くような山村の風情が好きだったこともありました。



上野村にお世話になってみよう、そう決めました。



もう1月になっていました。

就職希望の学友たちは華やかに内定をもらっていました。
今の学生さんたちが聞いたらら羨ましがるような、バブル経済の末期の1991年でした。


(つづく)