歳を重ねると楽しいとか賢くなるとか・・・・みんな戯言なんだよ。

感じるままに、赴くままに、流れて雲のごとし

世の中はやっぱり雨降り風間なのだ。

2021-01-13 | その他

年が変わって12日が過ぎた。晴れる日が多くて去年の夏の雨降りの日々のことなど思い返しいる。

はっきりとした意味はないながら、一種、淡い哀愁の匂いが漂うのを感じている。

早朝の寒気が全身を包む眠気を追い払って気分が良くなっていくのが判ったりする。今まで感じたことのない感覚。

端の人が見れば「ちょっと、こいつ、おかしいんじやないの?」

そんな笑みを浮かべているんじゃないかと客観的に自分自身を眺めている。

かつては3日間ぐらいの徹夜仕事などへっちゃらにこなしていて、仕事の一段落は真夜中のバーカウンターで吹っ切ってい

た。睡眠は怠惰な証で家に帰る時間は午前零時を過ぎなければ怠け者と罵声を浴びせられる。

そんな恐怖心がいつもあった。

毎日同じことの繰り返しを野良猫のように怯えていた。

そして、今、そんな怯の日々の真っただ中にいる。

 

しかし、快適なのだ・・・・目的のない一日が、行く当てのない日々、スケジュール表が真っ白であることが・・・

と、言って毎日寝て暮らすわけではない。

決めた時間に目を覚まし、ごみ出しを終え、歯磨き洗顔のあとに家じゅうを掃除する。

多少の疲れが筋肉に叫び声を上げさせた頃、朝食を摂る。そして、ゆく当てのない一日を始める。

一日の全ては思いのままなのだ。猫のように気ままに我儘に行動するだけ。

さて何をしようかと考えたりすることが苦手だったりすると、それは「退屈」な時間となってしまう。

しかし、そうはさせない。風に吹かれながら木々のざわめく声に耳を傾ける。ベンチに腰掛けて耳を澄ましていると風の鳴る音とは別の音が聞こえてくる。しかも、その音は大きくなったり小さくなったりしている。

そうか、この樹木は息をしているのか・・・・そんなことに気が付いたりしている。

まだまだ知らないことだらけなんだ。

知ったかぶりは、もう、やめよう。

けっこう長い間生きてきた。でも、まだまだなんだ僕も・・・・

 

どんな不幸なめぐりあわせにも、泣いたり絶望したりするようなことはないだろう。

外部の条件によって左右されない。仕合せも不仕合せも自分の内部で処理をし、自分の望ましいように変えてしまう。

幸不幸は現象であって、不動のものではない。


金木犀の香りが漂いはじめると振り返ることがある。

2020-10-08 | その他

静かな暮らしは退屈でやりきれなくなって気が変になるのでは・・・そんなことを思っていた。

ある程度の歳を重ねれば、時の流れは緩やかで秋口の夕方に吹く風のように穏やかで、ヒリヒリした気持ちを落ち着かせてくれる。

鴉は寝床に帰るために仲間たちに鳴き声で確認しあい、漆黒の羽を慌ただしくばたつかせている。

昼と夜の狭間には魔物が表れ、人の心に緩みを与える。

そんな時に金木犀の匂いを嗅いだりしてしまうと、眠っていた記憶が呼び戻されたりする。

 

ちょうど一年前に七年にも及ぶ闘病の末、彼女は死んだ。10月6日。午後2時の事だった。

その一週間前、そこそこ親しかった友人から電話がスマホに入っていた。

留守電に「電話をくれ」と力のない声で伝言が残されていた。

僕は伝言を聞いた瞬間に思った。彼女が死んだな・・・・。

最悪で厭な知らせには鋭い感が働いたりする。

8年前、「卵巣がん」ステージ3と診断された。そんな病状を知らされても不思議なくらい落ち着いていた。

嘗ての友人たちは僕に対して腫れ物に触るような態度になった。

死んだ彼女とは小学校6年生からの付き合いで、ガキの頃から彼女は一方的に近づいてきて、独断的に行き場所を決めたり

主導権はいつも彼女だった。

そんな付き合い方が高校を卒業するまで続き、20歳にプッツと切れてしまった。

原因は僕が東京に来てしまったからだった。

特別な理由があったわけじゃなかった。

東京へ逃げ出してきたのは・・・・物の弾みのようなものだ。

膨らませた風船を破裂寸前に吹き口の指を離せば勢いよく上に舞い上がってしまうようなものだ。

 

その時の彼女の心境、その時の風景、その時の会話が蘇っては消えずに心に積っていく。

後悔と呼ぶべき思いが僕を責めたてるけれど、何処かで無責任な声が聞こえる。

ただ、もう少し辛抱強く優しく彼女の話を聞いておけばよかったと思う。

それも今までに何度も思った事だった。

彼女は心の中に浮かんだ春先の生暖かい風のような思い付きを口にするだけ。

僕の彼女への思いには自分の気持ちを疑っていることを告げるだけだった。

そう、よくあるパターンなんだ。「自分の気持ちがわからへん!」だった。

そして、僕はイラつきを隠せなくなってしまうのだった。

そんな他愛もない幼い心の揺れるぐあいを、包み込めないままに時を過ごしてしまった。

 

涙も流さないし、葬式にもいかなかった。友人たちは多分、僕を責めるだろう・・・・

正直な気持ちが僕にあるとすれば、まだ、彼女の死を認めていないんだ。

 

 


女はいつだってホントのことに溢れる事柄をあっさり口にされると腹を立てる。

2020-09-02 | その他

近頃では自分の意見を吐くとき、必ず決まってこう言う。

「私はただの何も知らない平凡な一介の主婦ですが・・・」と前口上を吐く。

無知で平凡であることが今や正義なのだ。

そう、今じゃ無知で平凡であることを、暴力だと感じる男がほとんどいないのだ。

そして男までもが、そうした思想を無暗に振り回すようになってしまった。

世間の自尊心が台所に仕掛けられたゴキブリ取り器に捕捉され外へ出られなくなってしまっている。

家々の片隅から湧きだした"ただの、何も知らない、平凡な一介のゴキブリ"のようなファシズムが

通い慣れた酒場まで奪い取ろうとしている。

それは、過去の過ちを検証も反省もせずに、先へ進もうとする。

誰も結論を出せずにいる。結論など出しようがないのだ・・・と諦めてしまう。

だからなのだろう。

 


ひょっとしたら"熱中症"じゃないの?と思わせぶりな態度の雲に出会った。

2020-08-12 | 日記

それにしても・・・暑い。暑くてたまらない。地球は確実に滅びようとしている。いや、そうではない。人類が滅び去る時が近づいているのだろう。それも仕方あるまい。好き放題やってきたのだから。経済発展が人間を幸せにするのだと頑なに信じてきたのだからしょうがないのだ。国も企業も果たすべき責任の対象に地球を組み込まなかった。地球も己自身が生き延びる方法とし我々を除外しようとする。それは自然の流れというものだ。

テレビではコロナと騒ぎと同様、日本中でどの県が高温地域なのかをランキングして見せたり、熱中症予防は水を飲め!だとか諸々・・・・またまた庶民の判断に下駄を預ける。自然現象だから誰の責任でもない。だから、各自奮闘努力せよ!と煽り立てる。知りたいのは原因なんだ。1日に何十人の人が死んでしまう原因なんだ。テレビに向かって叫びだしたくなってしまった。

民主主義にしちゃ成金のこの国は、すべてが合議制。だから個人が責任を負うことは滅多にない。過去の過ちに決着を付けずに、いや結論を出せずに先に進もうとする。優秀な政治家が不在なのだ。

伝染病対策にしてもそうだ。感染拡大を止める方法は誰でもが知っている。役人が得意とする過去の事例を紐解けば判明する。感染者とそうでない者をハッキリさせればいいだけなのだ。人の行動は自ずと限られ、自分で考え、判断することになる。しかし、なかにはそう分かっていても行動できない人もいる。そんな人たちをいかに助けるかが政府の役割のはず。問題はいたってシンプルなのに複雑化させて人心を掌握しようと企てる。危機は人の心を鷲掴みするにはもってこいなのだろう。共通の敵を見出し、具体的に指をさせば人々は熱狂する。

いつまでたっても変わらない。同じ間違いを繰り返す。

それが人間なのだろう。

人はいかに多くの経験をし、その経験を積み上げてもそれで自分を肯定したり、満足することはできない。現在ある状態のなかで、自分の望ましい生き方をし、そのなかに意義をみいだしてゆく、というほかに生き方はないのだから・・・。

 


雨は降り続いている。湿った空気の中、ドアを開けて彼女の中へ・・・・

2020-07-29 | その他

降りやまぬ雨はもしかしてあるんじゃなかろうか?

そんな疑問が頭の中で消防車の早金のように鳴っている。

このマンションの敷地に居座っている野良猫3匹は雨を避けながら太々しく居眠りしている。実に羨ましい。

彼らが当たり前だと思える。

それは、その行動やしぐさがとても自然だからだ。

僕も見習いたい!と、最近、思う。部屋に閉じこもってじっとしているのも心地の良いものだけれど、雨音だけを頼りに雨を避けながら快適なネグラを探し出すのもさぞ楽しいことなんではないだろうか・・・・・

いつまでたっても安住の地などないのだが、しばし休む場所を見つけるには才能が必要。

野生の感覚という死滅してしまった危機感覚。いまの人々には必要なモノの一つだ。

考えるな!感じるんだ!かってブルース・リーは弟子に映画の中で叫んだではないか。

考えてはダメ・・・というより、遅いのだ。これからはそんな生存危機感覚が必要になっている。

そんな気がするんだ。これだけ自然の法則に抗い続けた人類は、膨大な債務を返す時がやってきている。

まだまだ知恵と行動で凌げるはず。そんな根拠のない自信にどんな意味があるのだろう?

しかし、今のこの現状は良い機会だと思う。

何もかもが停止せざるを得ないなかで考え込むことが大切なのだ。生きるとは何か?にはじまり如何に生き、そして死ぬかをマジで考えるいい時間の流れなのだろう。しばしの間はうずくまり、膝を抱え込み芋虫になった気持ちで、いつ死んでもいいような生き方を、いや、自分自身にとって望ましい生き方というのはどういう生き方なのかを震えながらも辛抱強く考え身体を動かすことが必要なのだ。

そう、残された時間はそんなに多くはない。

答えを持たぬ風に向かって、胸を張り、力一杯足を踏ん張り、フロントを歩く時が来たのだと、感じるのだ。