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気心は未だ若い「老生」の「余話」

このブログは、閑居の間に
「言・観・考・読・聴」した事柄に関する
 雑感を主に綴った呆け防止のための雑記帳です。

大相撲寸評

2015-05-26 05:47:39 | 時評

 場所での関脇「照ノ富士」の初優勝が何かと話題になっている。その筋の記者達は、同力士を“平成の星”角界の新たなホープ“などと称賛している。確かにTV観戦していてもその強さが光っていた。「稀勢の里」戦などで見せたあの強さは、「白鵬」以上に鋭く、力量感のある一番だった。

今後同力士は、モンゴル出身4番目の横綱候補の可能性を秘めた新大関として、次の名古屋場所からは、大いに活躍することだろう。

その相撲に例えると、昨今も、政治の面では中国に常に「上手」で組まれ、韓国には、世界遺産問題などで今度は、又しても「小股すくい」を食わされている実に嘆かわしいことである。日本に対し、常々強がりを云う中韓からの出身力士は現在幕内では1名だけである。韓国出身力士は今はいない。その理由は、その国のGDPその他国情にも関係あるのだろうが、両国のスポーツ関係者は、日本におけるモンゴル出身力士の活躍振りをどう見ているのだろうか。

そのことは、又別の機会に語ることにする。それにしても国技の大相撲界は12年前の朝青龍以来、蒙古勢に完全に席巻され、和製横綱どころか、和製大関さえ極めて望み薄の趨勢でありとても残念なことだ。

下表は、当方流に纏めた夏場所の国別出身力士の戦績表だ。国別力士の勝率なども毎場所似た傾向があり、モンゴル勢は数だけでなく、その強さも際立っている。

戦績以外のことで付言したいことがある。それは、外国人力士のうちでも特にモンゴル出身力士は総じて、日本語も実に堪能で能弁なことだ。尤も、巨漢の「逸の城」のように言葉数の少ない力士もいる。しかし、「逸の城」同様、僅か在日4年なのに、「照ノ富士」のように表情や表現力豊かに日本語を話す力士が多いのもモンゴル力士の特徴の一つである。

余談だが、モンゴル出身力士が早く日本語をものにして上手に話せる理由の一つは、実は、蒙古語が日本語や朝鮮(韓国)語と同様、言語学的にはウラルアルタイ系の言語に属し、文法の構成・語順が同じだからだとも云われている。確かにそうかもしれない。

それにしても、殊の外稽古熱心な外国勢に対し、邦人力士には外人勢のような堅忍不抜、不撓不屈、平たく言えば、「ハングリー」さも「ガッツ」も足りないことが、日本勢不振の根源のような気がするがこれは老生の愚痴だろうか。


古くて新しい「憲法関連問題」(5-終稿)

2015-02-27 14:50:48 | 時評

「諸外国における国民の防衛意識と責務」というようなタイトルは、我国では禁句に類するイメージとひびきのある言葉だと誤解され易い。しかし、諸外国ではそうではなく、国民の防衛意識は総じて高く、憲法で明確に「兵役義務」を設けている国々も多い。

近年に至り「徴兵制」を廃止して「志願制」に移行又はその過程にある国もあるようだが、まずは、兵役義務に関する諸国の憲法関係条文(下表)を暫し概読して頂きたい。

一瞥しても明らかな通り、上記に例示の諸国は、いずれも祖国防衛を国民の責務として明文化している点である。だが、我国では、こうした事実が殆ど伝えられることはないし、勿論学校で教わることもない。に顕著なことは、ロシア以下旧ソ連系の諸国の兵役規定では、「祖国防衛は国民の神聖な義務又は偉大な名誉であり権利である」と明示されていることである。

そう明記されている理由・背景には、これらの諸国に共通したML主義(マルクス・レーニン)流の戦争観があり、その戦争観によれば、戦争には「正義の戦い」と「不正義の戦い」があり、祖国防衛や植民地解放の為の戦争は「正義の戦争」で、帝国主義者が行う侵略戦争等は「不正義の戦争」だと云う戦争観が今も生きているからだろう。

「防衛は義務であり、名誉であり、権利である」としている諸国の「防衛に関する国の常識」、「諸国民の公正と信義」を信頼することにより平和が担保され、憲法9条のお蔭で、戦後の平和が維持されて来たとする傾向も顕著な国の「防衛意識やその関連常識」は正に正反対である。

今なお信条(心情)的には「親中露系で現憲法擁護サイド」の人達は、同系諸国の憲法に明記されている国民の防衛意識や兵役義務に関する諸規定をどう評価しているのだろうか

当方は、もとより兵役義務化を望む者ではない。我国で今後、仮に憲法改正賛成の世論が多数を占め、自衛隊が晴れて「軍隊」として容認される情勢に至っても、国民に兵役義務を課すような国防体制は採るべきではないし、そんなことを志向する改憲論は絶対に避けるべきだと思っている。

何故なら、国内では多年に亘り、兵役忌避感情が既に完全に定着した国民感情になっていること。加えて将来人口や社会構成上「兵役制」を採れる国情ではないからだ。とはいえ、「国の安全保障と国民の責務」は密接に絡んでいる故に、改憲の際には、「自らの国は自ら守る勇気と気概を持つべし・・」とする趣旨の文言が、改正草案のどこかに明記されて然るべきであると願っている。

この点に関し、自民党の改正草案(24.4)の前文には、「・・日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重し・・」云々と規定されているが、この程度の表現で良いのか疑問だし、議論の余地はなお残っているのではなかろうか。

これまで5回に分けて、現行憲法に関する「当方なりの疑問点を改憲の立場」から観てきた。偏見や誤解も多々あるかも知れない。この「古くて新しい憲法に関する問題」としては、他にも、1.緊急事態対応、2.改正手続き3.衆参両院や地方自治体の在り方4.環境保全5.財政関連規定等見直し又は新設すべき項目や条文は少なくない。

与党内には、ハードルの高い9条(戦争放棄)96(改正手続き)」は後回しにして、最初は、「緊急事態や環境保全関連等」院内外で多少でも合意を得られ易い、憲法上の不備を補う加憲」の方向からの憲法改正を志向する動きもみられる。

いずれにしても憲法改正の道程は「厳しくて不透明だ」。しかし、現行憲法については、どの条文も見直や改正の必要がない。就中、9条は「平和憲法の象徴」だから未来永劫決して改正してはならない」とする憲法観で良いのか。答は、「NO」だと当方は硬く信じている。

願わくば、努めて5年以内位に、我々の子孫と日本の未来のためにも、日本の現状と将来を見越し、世界に大手を振って宣言出来るような『新しい憲法』が制定施行されることを切望し、拙い所論を閉じることにする。 (概読頂いた諸氏に心から感謝する。) 


危険地域での取材・報道の自由に関する疑問

2015-02-08 18:49:11 | 時評

「シリア」への渡航を計画中だったフリーカメラマンに対する「旅券返送命令」が実行された。このことに関し、渡航・取材と表現・報道の自由の問題が又話題になりつつある。

概してわが国では、取材・報道等の自由の問題は、絶対不可侵の権利の如く取扱われている。反面、取材・報道の必要性や限度・取材手段の妥当性・取材対象情報の有用性等についての議論はタブー視されている傾向がある。

フリ-ジャーナリスト諸氏は、現地に行って観なければ解らない情報を収集して、国内外に向けてその内容を発信する崇高な目的と理由が我々にはあると主張される。確かにその一面もあるのだろう。

だが、果たして危険を冒してまで、紛争地域周辺での取材活動を行う絶対的な理由や必要性が果たして本当に有るのか否か。事前にどの程度真剣に検討し、そのための対策を立てて取材されているのかは当人しか解らない

「2邦人の人質殺害事件」の際も、事件の経緯は縷々報道されたが、事件後も「何故取材に入ったのか」「何故その必要があったのか」等に関する報道は、マスコミ関係機関から一切報じられては来なかった。それは何故なのだろうか。

注意勧告等に反しての取材間、不幸にして被害事件に巻き込まれた場合、当然のこととして政府関係者以下は、貴重な時間、労力、経費を厭わず全力で救出活動を行うことしなる。

反面、無事危険を回避して帰国した取材者は、業として行った成果として、講演会・写真展・取材記等により、相応の経済的還元を受ける。事故があれば、理由・経緯の如何を問わず「国」が関わり、無事帰国の場合は、その筋から相応のフリ-ジャーナリストとしての評価を受ける。何だか腑に落ちない気もする。

今回の「旅券返送命令」の実行を契機に、邦人の安全を考慮して行われる諸勧告、規制規則、慣行や社会通念等にそぐわない取材や報道規制は、今後より正しく行われてしかるべきだ。

2邦人の人質殺害事件後「安易な自己責任論はよくない」とか、「政府の救出活動が適切だったのか詳しく検証が必要だ」とかの主張が最近報道されている。その主張にも一理ある。

問題は、「イスラム国」支配地域に限らず、海外の要注意周辺国での取材や報道の慣行や規制等は現状のままでいいのか、今後どうあるべきか、についてマスコミ側からの報道があって然るべきなのにそれが、殆どないのは何故なのか、不思議である。

要は、「自己責任論」の問題を含め、もっと正面から取材・報道の自由と統制・規制に関する問題についての議論があって然るべきではないだろうか。

 

 

 


「イスラム国(ISIL)」報道に関して思うこと。

2015-02-06 12:54:30 | 時評

いつから、国家でもない一種の極右軍事宗教集団のような「イスラム国(ISIL)」という極悪組織の動向が注目されるようになって来たのだろうか。

その遠因・近因についてはこれ迄縷々報道・解説もされて来ている。その遠因・近因を除去する諸策を確実に推進すれば、同集団の崩壊は可能な筈だ。しかし、それが難しいが故に大変厄介な国際問題になっている。でも例えば、関係国が厳格に提携対応して●外国からの戦闘志願員の流入阻止●食糧・武器・弾薬・燃料等の補給兵站に関する闇ルートの完全遮断等を行えば相当の効果はある筈だが、何故そう出来ないのか、何が問題なのかと云うような事柄に関する報道や解説はあまりされていないのは何故なのか●空爆参加有志連合による対応だけでは、目的達成迄にはあと2~3年もかかるとのことだから、このテロ集団「殲滅」の戦いは未だ初期段階なのだろう。

ところで、自らをカリフ(預言者ムハンマドの後継者)と称して「イスラム国(ISIL)」の最高指導者として同集団を統括しているとされる「アブ・バクル・アル・バグダディ」は、「カリフ制国家(預言者ムハンマドの後継者によるイスラム諸国の共同国家)」建設のため、敵対するものすべてを暴力的に打倒・抹殺する恐怖思想を行動原理としているようだ。

その本性は、彼等が邦人人質殺害後改めて世界に宣言した最近の声明を観る迄もなく明らかである。過日彼等が発した「テロに関する声明」を聞いて当方が想起したことがある。それは、かって、「欧州に怪物が、共産主義という怪物が出た・・との書き出しで始まる有名な「共産党宣言」の中に、「共産主義者は、その目的があらゆる現存する社会条件を暴力的に打倒することによってだけ達成出来ることを公然と宣言する」とした一文があることだ。

前記の「宣言」は,後年世界の約1/3が、社会主義国化したその国づくりの理論的教書にもなった古典書である。古い話で比較の背景・条件や対象は勿論異なるので一概には云えないが、「イスラム国(ISIL)」も、世界に脅威を与える狼軍団のよう存在で、カリフ制国家(新イスラム支配体制)樹立のための暴力的闘争手段を基本としている点で、前記宣言に通ずる原理があるように思うのだ。

 何故、武装闘争を基本とした集団なのか、凶悪な暴力肯定を前提とする主義・主張のどこに、どんな問題があるのか、過日NHKの「イスラム国(ISIL)に関する報道特集」は、その辺の事情を知る番組としては、極めて有益であったように思う。

しかし、総じて云えることは、最近の「イスラム国(ISIL)」に関する報道を見聞きしても、伝えられるのは、事件の経緯や現状等の説明や解説が殆どで、視聴者は一連の事件を「ドラマ的感覚」で何度も見せら、観ている感じがしている。もっと「イスラム国(ISIL)」等過激諸集団の「悪性」をその宗教思想・主義の面からも取り上げて解説し、正しい知識を啓蒙する報道姿勢があってしかるべきなのに、マスコミ各社ともその努力が概して不備不足していると当方には思えてならない。

この傾向は、国内で近年発生し続けている不可解な「殺人事件」等に関する一連の報道についても云えることだ。「悪の真似事連鎖」に類する事件が何故起き続けるのか、どうすれば、そうした事件の連鎖的発生を防止乃至は減少させることが出来るのか、国・関係機関や識者等はもっとこの観点からの報道姿勢や努力があってしかるべきではないか。

「イスラム国(ISIL)」という狼軍団を宗教思想面で中東地域だけでなく、世界の脅威集団として拡大させないためにも、日本を含め関係各国は、彼等の宗教原理思想や行動原理に関する批判的啓蒙を機会ある毎に、更にもっと伝える努力を続けて貰いたいものである。

世界的にそうした地道な努力の成果が、結果的には「イスラム国(ISIL)」への心情的同調者を生み出さず、テロの脅威に屈しない抑止効果に繋がるのではないかと思う。


「邦人被害事件と自己責任論についての批判」に関して思うこと。

2015-01-25 12:53:18 | 時評

事態の進展が不透明な中で、今回の事件について「安易な自己責任論を問題にすべきではない」との識者の意見を報道で何度か拝聴した。確かに尤もな指摘ではあるのだろう。

しかし当方は、その問題に覆いを懸けた議論ばかりが話題になってはいけないと思っている。過去にも諸々の類似例があるが、危険地域における個人的取材に関し、当方が以前から感じている疑問等は次のようなことだ。

1、取材の絶対的必要理由と公益性についての疑問

今回もそうだが、この種事件が生起する度に、危険を冒してまで単独現地取材する理由とその必要性について、どの程度の公的な意味があるのか、あったのかという問題は当方の兼ねてからの素朴な疑問である。

紛争地域での悲惨な現状を危険を顧みず、現地取材して世界に発信し、世界平和に貢献したいとの純粋な取材動機や目的・理由は確かにそれなりに理解は出来る。

確かにその動機や目的について当事者は、大いに社会的正義を意識しているのだろう。しかし、全く独自・フリーな立場で、一種の業として取材行為を行うことそのことに対し、第3者が、どんな公の大義や公益性を認めているのか、当方は大変疑問に思う。

何らかの形式で、国や自治体等との委託契約等を交わしての取材活動であれば、話は別だが、そうでない取材活動についての社会的要請やニーズは、当事者が認識している程、果たしてあるのか否か甚だ疑問である。

2、二人の邦人が、今回の取材にあたり事前にどんな被害想定をし、被害が生起・拡大した場合のその影響性について、どんな認識をしていたのかについての疑問

最悪の場合、個人・家族としても最悪の不幸を招くことになることについて当事者は、十分認識しているのは当然のことだ。しかし結果的に個人が招いた危機が、自国のみならず、関係国の外交姿勢や国の威信について如何なる影響を齎すことになるか、ということについて、事前にどの程度の自覚と認識があったのか、この問題は大いに問われるべき問題である。脅迫されて「云わされている」にしても、救出に関し批判的情報が発信されていることは、当然の帰結とは云え、誠に憤激の極みである。

国は人命最優先で、当面の政務を遂行している。しかし、かくなるに至った「そもそもの原因」が那辺にあったのか、十分に問題にし、教訓を汲み取るべきである。そのことを避けて、国の救出活動の成否や事件と国の外交姿勢との因果関係等の問題のみが、今後議論の対象になるようであってはならないであろう。

3、危険紛争地域に対する厳密な渡航条件の審査と運用

如何なる地域への渡航であれ、その「渡航の自由は最大限保障されるべし」とする風潮は、わが国でも顕著である。だから今回の2邦人の渡航も可能だったのだろう。

しかし、今次事件の教訓に鑑み、今後は渡航希望者の安全確保と国としても、リスク回避の観点から、今後はより実効性のある渡航条件の審査運用についての対応も必要である。

いづれにしても、危険地域で個人的動機・目的のため海外活動を行う個人や関係グループに対しては、当該個人や関係者の生命を守る観点からも、時・場所・場合に応じた渡航規制は適正に実施されるべきだし、関係者も進んで協力する姿勢が特に必要であると思う。