気心は未だ若い「老生」の「余話」

このブログは、閑居の間に
「言・観・考・読・聴」した事柄に関する
 雑感を主に綴った呆け防止のための雑記帳です。

実家との変わらぬ絆

2014-06-28 12:33:32 | 感謝
世間では、兄弟姉妹であっても両親他界後は、実家とは「断捨離」状態になることがかなり多いご時勢である。だが、当方の場合は自慢じゃないが、その実家との関係は大変良好で、そんな関係が弟の代になって以降も20年余も続き現在に至っている。
当方の実家では、弟夫婦が民宿兼鮮魚仲買人の家業を継いでいる。
ところで、実家とは、自分が生まれた生家・親の棲家だとの本来の解釈からすれば、5年前に建替えられた今の家は、当方の実家だと云えないのかも知れない
でも大変ありがたいことに、新しい実家に所用で帰省する度に、何時も暖かく迎えられ、気兼ねなく滞在出来ることは老夫婦にとってはこの上ない幸いであり、常々感謝している。
今週、実家の長男の慶事と両親の法事で帰省した際も、つくづくそう感じたし、お陰で故郷の良さを存分に嗜むことも出来た。
その最大の理由は、弟の妻・女将が人間的にとても素晴らしい人だからであると思う。勿論、実弟が当方に変わらぬ厚意を示して呉れていることも大きな条件の一つだが、何と言っても肝っ玉母さんのような性格の女将のお陰で、当方夫婦が実家と変わらぬ関係を今もなお持続出来ているのである。
であるのに、今日迄、実家には何の貢献もしていない当方としては、何時も申し訳なしの感深しであり、この分では今後も徒に時のみが経過して行くのみである。
頼り甲斐少ない兄夫婦かもしれないが、片目を閉じて我々のことを今後も変わらず観て貰いたいものである。

一言の感作

2014-06-01 07:17:56 | 感謝
日常生活の色々な場面で、こちらが当然のことだと思って為したり、話したりしたことに対し、”ありがとう”と云われたり、時にはこちらが特に迷惑だとは思ってはいないのに、”ごめんなさい””すみません”と云われたりする経験は誰にでもよくある。
その度に心がほんのり癒される想いがするものである。逆に、自分としては諸々協力している積もりなのに、家庭でも偶に”ありがとう”の一言が足りないと指摘されたりすることもある。何故そんな指摘の言葉が返されるのか一瞬理解出来ず自問する場合もある。
そんな時は、”ありがとう”や”思いやり”についての認識のミスマッチの原因は、多分自分の方にあるのだろうと善意に解釈し、努めて言い返すことはしないようにしている。
僅かな一言がケースに応じ、対人関係上大きなプラスやマイナスの結果を齎したりもするからである。
いずれにしても、この世は信頼関係で成り立っているし、一人では決して生きてはいけず、必ず誰かの世話になっているのだから、「思いやりと感謝」の気持ちを忘れず余生を大事に生きて行きたいものだ。