気心は未だ若い「老生」の「余話」

このブログは、閑居の間に
「言・観・考・読・聴」した事柄に関する
 雑感を主に綴った呆け防止のための雑記帳です。

法事の際の随想

2018-09-30 14:40:57 | 信仰

 過日、義母の一周忌法要で1年ぶりに福井の美浜に帰省した。

爽やかに晴れた秋の若狭の海や空、周囲約5kmのわが故郷日向湖の周りの景色もすべてが新鮮だった。当方はこの寒村の漁村で育ち、若くして故郷を離れて既に65年余が過ぎた。つくづく、「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず」の感深しだが、いつ帰省しても、身内親戚縁者との親密な交流も出来たし、もてなしも受けた。

今回も、とても有意義な法事帰省だった。

義母(当方の従姉)は、若い頃から人一倍の働き者で義理人情に篤いお人だった。

法要前、仏壇の遺影に正対し焼香している間に、96歳で天寿を全うした義母との諸々の思い出が動画の如く脳裏をよぎった。

程なく「法要」が始まった。住職の読経に合わせて会席者一同が唱える「般若心経」に続いて、「修証義」「観音経」の三経の読経をもって約40分程の法要は終わった。

常々感じていることだが、このお経のうち、誰にとっても解り易いお経は、「修証義」(しゅしょうぎ)である。このお経は、曹洞宗の宗旨を広く一般檀信徒に普及させる主旨により平易な語り調で書き説かれているからであろう。

最近特に法事の度に感ずるのは、一般に広く知られている般若心経同様、この修証義(第一章:総序、第2章:懺悔滅罪、第三章:受戒入位、第四章:発願利生、~第五章:行持報恩)の意味内容が、当方にとっては、年毎に深みを増して心にしみ込んで来ていることである。これも歳の所為であろう。

その修証義(第一章)の最初の部分には概要次のようなことが書かれている。

  

生とは何か、死とは何かを明らかにすることが仏教徒の根本問題です。・・・・生き死にこそ、仏教の一番大事な問題として考えなければなりません。

 人としてこの世に生まれることは得がたいことであり・・・私どもは、何かの奇跡で人として生まれて来ただけでなく、滅多に巡り逢えない仏教にもめぐり逢えました。かけがえのない今の人生、この人生を無駄にして、露のように儚く、諸行無常の風の吹くままに任せて終わらせてはなりません。

 死期はいつ訪れて来るのか、露の命はいつどこで消えるか分かりません。我が身は、自分だけのものでもなく、又人生は時の移ろいゆくまま、少しの間も引き止めおくことは出来ません。

少年の頃の若さ溢れた紅顔はどこに行ってしまったのだろうか。今更探し求めようとしても跡形もありません。よくよく考えれば、過ぎ去ったことは二度とめぐり逢えないことばかりです。ましてや死に直面すれば、権力者も、友人や後輩も、家族も、金銀財宝も助けにはならず、たった独りであの世に旅立たなければなりません。どこまでも自分についてまわるものといえば、善き行いと、悪しき行いだけです…云々と修証義の文言は続く。

最終第五章では、この世に生を受けて仏にめぐり会えたことを感謝し、この恩に報いることが、私共の信仰であり、修行であり、その生き方こそが仏の姿であると教えている。

当方は今以て無信者であるが、読経していると己と仏の世界も、すべては因縁によって繋がっていて、この世にはとどまり続けるものは何もないこと。遠からず、己も仏に導かれて彼岸に至ることになるのだから、既に「人生のロスタイム入りした自分」もそのロスタイムをより有効に活用するとともに、「己の終生と宗教との関わりのこと」についてもより真剣に考えたいと思った。

気が合って気さくだった義母は、法事を通じそんなことも当方に暗示して呉れていたようにも感じた。

 


心の拠りどころ

2016-01-13 17:22:11 | 信仰

時々妻宛てに送られてくるキリスト教系の小冊子に、同年代のある方が、次のような投稿をされている記事を読んだ。その記事全文は次のとおりである。

私は83歳の浄土真宗の仏教徒です。しかし、宗教に垣根を持たず、いかなる宗教の人達ともお付き合いをさせて頂きました。自分の信ずるものをしっかり守って信じて生きている人達に敬意を表します。お送り頂いた小冊子はゆっくり読ませて頂きました。仏教にも、このような解りやすい言葉で書かれてあればと、ずっと考えていました。

最近の世情は、誠に惨憺としたものです。仏教徒の一人として悲しく嘆いています。何んでもいい、心の拠り所を持ってほしいと願っています。と、僅か220字弱の短稿を読んで投稿者の真意が、当方には実によく伝わってきた。

当方の実家は禅宗だが当方は無宗教。妻は若い頃からのクリスチャンである。当方は強いて言えば仏教徒系である。これ迄、般若心経に関する諸種の解説書も読んだし、般若心経の全文は記憶している。

経文を見ずに全文書くことも出来る。手元にある「修証義」(宗旨を檀家向けに解り易く書いた教え)の他に、和英対訳の聖書をごく偶に開いて読んだりもしている。

世知辛い世の中を生きていく上で、「心の平安は命の糧のようなもの」だから、当方のように、無信仰の人にもその人なりの「心の平安を求める心」がある。

そこで、その心を特定の教義により、如何に純化し揺るぎ無いものにするか、現世では、その選択肢が余りにも多様であり過ぎる。それ故に「心に宗教心があっても、色付きのない宗教心を有する凡人」が日本では特に多いのだろうと思う。

因みに、前記の投稿が掲載されていた冊子の末尾に、「我らの信条」として次のようなことが紹介されている。

既成の教派とは違うが、【求める”もの”と”方向性”は実に明確で、成程「然り」ではないか】と感じた次第である。現代に生きる我々は、”その人なりの、はっきりした心の拠りどころを持つこと”は、必要不可欠な心得であろうと思う。

我らの信条

我らは、日本の精神的荒廃を嘆き、大和魂の振起を願う。

我らは、日本人の心に宗教の復興を願い、原始福音の再興を祈る。

我らは、無教会主義に立つ。従っていかなる教会・教徒にも属せず、作らず、ただ旧約聖書に学ぶものである。

我らは、キリスト教の純化を願うが、日本の他の諸宗教を愛し、祖師たちの人格を崇敬するものである。

我らは、政党・政派を超越して、愛と慈善と平和をもって、日本社会の聖化を期し、社会正義と人類愛を宣揚するものである。

キリストは言いたもう。

”すべて労する者、重荷を負う者、われに来たれ、われ汝らを休ません”


素晴らしきかな賛美歌

2014-09-14 12:41:05 | 信仰

9月7日、都内港区北青山の「ウラク青山」で「東京美浜会」と称する年1回の郷里の会に出席した。毎年来賓として来会される町長・所掌の課長はじめ、1年振りに再会する郷里の会のメンバーとも親しく懇談し、懇親を深めることが出来た。例年同様大変有意義な集いであった。一つ気になったことは、今年集った30数名の出席者の中では、当方が最年長になってしまったことだ。

懇親会の余興の際、特別に招かれた「2人のハープ奏者」による演奏に合せ、全員で「ふるさと」や「愛燦燦」などの名曲を歌った。実に楽しく心和むひと時だった。5曲の最後に賛美歌255番「いつくしみ深く」も演奏された。

何故、宴席でこの曲が演奏されたのかは知らないが、当方が知る賛美歌の中では、この賛美歌は、最も親しみを感じ「イエス=然り」と心底思える素晴らしいメロディと歌詞であると思っている。

演奏にあわせ口ずさみながら、過去何度か職場で苦渋の経験をした頃に、何故かこの賛美歌を口ずさむことにより心を癒したことが思い出された。

いつくしみ深き 友なるイエスは  罪とが憂いを とをり去りたまう

こころの嘆きを 包まず述べて  などかは下ろさぬ 負える重荷を 

いつくしみ深き 友なるイエスは  われわの弱気を 知りて憐れむ

悩み悲しみに 沈めるときも  祈りにこたえて 慰めたまわん

いつくしみ深い 友なるイエスは  かわらぬ愛もて 導きたもう

世の友われらを 棄て去るときも  祈りに答えて 労わりたまわん 

記述のとおり、過去の職場で諸々の苦難があった際、ふと思い出されて、何節か口ずさむことにより、心が癒されるこの賛美歌は、だから当方の隠れた愛唱歌でもある。

どんな歌にも、聴く人に対する「呼びかけや語りかけ」があり、その手法や内容は当然異なるが、共通していることは、歌には”人の「心」に響く無形の力がある”ということだ。

その中でもこの賛美歌は、宗旨・宗派・信仰の有無にかかわらず、聴く人の心に響く名曲ではないかと思う。

  

 


長生きは形骸也か

2014-07-02 15:38:20 | 信仰

実家での法要(6月24日)の際、久し振りに僧侶に随誦して修証義の経文を詠んだ。出席者全員が読経するので、法要の場にいることを実感出来るとてもよい慣わしである。読経は般若心経に始まり、日々善行感謝の教えを説いている第5章行持報の章で終るがその章の中に当方が傍線を付した文言がある。この部分について当方は、以前から次のように解釈している。「いかに長生きをしていても、その間報恩の気持ちを蔑ろにし、善行がない生き方をしているようでは、人としての内面は空虚になり、徒に生きているだけで、そんな生き方ではいけないのだ。経文中の100歳云々は、年令の単なる例示で、100歳も生きすることを戒めている訳ではない」と。・・

果たしてそんな自己流の解釈でよいのか、帰京後Netで前記傍線カ所を含む経文前後の解釈を調べた。その解釈は次のようになっている。

「時が経つのは矢よりも速く、人の生命は草の葉の露よりもはかないものだ。どんな手段で、過ぎ去った一日を取り返すことができるであろうか。むなしく長生きしたところで、後悔ばかりの日々と、悲しむべき肉体が存在しているだけだ。しかしそんな煩悩に支配された百年の間に、一日でも誠実に生きれば、百年の生涯だけでなく、来世の百年も救われる。この一日の生命は、かけがえのない大切な生命である。だから誠実に、生きる生命を、自分自身でも敬うべきだ。私達の生活によって仏の生命が顕れ、仏の大いなる道が通じるのだ。」と。・・当方の解釈に、さして間違いがないことを確認出来た。また、ありがたいことに、加齢と共にこの種のお経の意味もよく解るようになって来ている。「歳を重ねると人は一般的に信仰心が篤くなる」ものだが、仏教に限らず、やはり宗教には「人を啓発する」無窮の力があるのだろう


人夫々の信仰心

2014-05-31 09:25:09 | 信仰
当方は信仰とは、「何かの宗教を受け入れてそれを生活信条の中心にした考え方・生き方をすることだ」と思っている。では宗教とは何か、人間に何故宗教や信仰が必要か否か、疑問の輪が広がるがここではそのことには触れないでおく。
我家は、当方を除き娘達その家族を含めオールクリスチャンである。約50年前、都内神田のYMCAで挙式した祭、妻は既に洗礼を受けていた。結婚後故あって挙式時の司式牧師宅に暫く世話になっていた頃、そのK牧師に「貴方もまず、信じなさい。さすれば心も豊かになり生き方も変わるのだから・・」と何度も諭された。その後も妻達が世話になって来た別の牧師諸氏から同様な説論を受けた。しかし、その勧めを受け入れることなく今日に至っている。
所詮、信仰はその人の心に関する問題だから、他律ではなく自律的に何かを信じて求めたいと思う「時期・場合」に求めれば良いのではないか。受入れの時期の遅速は問題ではなかろう。反社会的な教義集団でない限り、どんな宗旨の信仰を受け入れるか、それは基本的にはその人の意思によるべきだろう。では、貴方は何を信じているのかと問われた際は、私は「仏教」わけても「般若心経」を信じていると答えている。何故なら僅か300字足らずで書かれている「般若心経」には、人の心のあり方から三世(過去・現在・未来)や無限世界に関する真髄が凝縮して説かれており、時に無声で称えることにより「然り」と思えるし心の平安を感ずるからである。
これ迄この関連の参考本もかなり読んだ。教本を見ずに全文を書くことも称えることも出来るのが老生のささやか誇りでもある。