過日、義母の一周忌法要で1年ぶりに福井の美浜に帰省した。
爽やかに晴れた秋の若狭の海や空、周囲約5kmのわが故郷日向湖の周りの景色もすべてが新鮮だった。当方はこの寒村の漁村で育ち、若くして故郷を離れて既に65年余が過ぎた。つくづく、「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず」の感深しだが、いつ帰省しても、身内親戚縁者との親密な交流も出来たし、もてなしも受けた。
今回も、とても有意義な法事帰省だった。
義母(当方の従姉)は、若い頃から人一倍の働き者で義理人情に篤いお人だった。
法要前、仏壇の遺影に正対し焼香している間に、96歳で天寿を全うした義母との諸々の思い出が動画の如く脳裏をよぎった。
程なく「法要」が始まった。住職の読経に合わせて会席者一同が唱える「般若心経」に続いて、「修証義」「観音経」の三経の読経をもって約40分程の法要は終わった。
常々感じていることだが、このお経のうち、誰にとっても解り易いお経は、「修証義」(しゅしょうぎ)である。このお経は、曹洞宗の宗旨を広く一般檀信徒に普及させる主旨により平易な語り調で書き説かれているからであろう。
最近特に法事の度に感ずるのは、一般に広く知られている般若心経同様、この修証義(第一章:総序、第2章:懺悔滅罪、第三章:受戒入位、第四章:発願利生、~第五章:行持報恩)の意味内容が、当方にとっては、年毎に深みを増して心にしみ込んで来ていることである。これも歳の所為であろう。
その修証義(第一章)の最初の部分には概要次のようなことが書かれている。
生とは何か、死とは何かを明らかにすることが仏教徒の根本問題です。・・・・生き死にこそ、仏教の一番大事な問題として考えなければなりません。
人としてこの世に生まれることは得がたいことであり・・・私どもは、何かの奇跡で人として生まれて来ただけでなく、滅多に巡り逢えない仏教にもめぐり逢えました。かけがえのない今の人生、この人生を無駄にして、露のように儚く、諸行無常の風の吹くままに任せて終わらせてはなりません。
死期はいつ訪れて来るのか、露の命はいつどこで消えるか分かりません。我が身は、自分だけのものでもなく、又人生は時の移ろいゆくまま、少しの間も引き止めおくことは出来ません。
少年の頃の若さ溢れた紅顔はどこに行ってしまったのだろうか。今更探し求めようとしても跡形もありません。よくよく考えれば、過ぎ去ったことは二度とめぐり逢えないことばかりです。ましてや死に直面すれば、権力者も、友人や後輩も、家族も、金銀財宝も助けにはならず、たった独りであの世に旅立たなければなりません。どこまでも自分についてまわるものといえば、善き行いと、悪しき行いだけです…云々と修証義の文言は続く。
最終第五章では、この世に生を受けて仏にめぐり会えたことを感謝し、この恩に報いることが、私共の信仰であり、修行であり、その生き方こそが仏の姿であると教えている。
当方は今以て無信者であるが、読経していると己と仏の世界も、すべては因縁によって繋がっていて、この世にはとどまり続けるものは何もないこと。遠からず、己も仏に導かれて彼岸に至ることになるのだから、既に「人生のロスタイム入りした自分」もそのロスタイムをより有効に活用するとともに、「己の終生と宗教との関わりのこと」についてもより真剣に考えたいと思った。
気が合って気さくだった義母は、法事を通じそんなことも当方に暗示して呉れていたようにも感じた。