気心は未だ若い「老生」の「余話」

このブログは、閑居の間に
「言・観・考・読・聴」した事柄に関する
 雑感を主に綴った呆け防止のための雑記帳です。

年始雑感・この1年を次の1年に繋ごう。

2019-01-19 14:28:44 | 交情

新年早々切ない話しだが、今年の賀状交換で最も気になったこと。

それは一方通行になった賀状の件数や、体調不調を憂う賀状が急に増えた(10余通)ことだ。

難病で長期入院中のポン友の奥さんからの賀状や夫婦で闘病中の旦那からの賀状も途絶えたりする等10余通の該当諸氏の消息が特に気になっている。

お互いこの歳だから、相手先にも諸々の事情がある筈なので、気になるものの消息確認は、今年も交誼の程度に応じ別途考えることにしようと思う。

 案の定、15日過ぎてから、前記とは別の友のご長女から、は昨年来病気療養中で賀状も書けない状態である旨の知らせを受けたり、ある先輩の奥さんからは、主人は昨年春に他界したとの寒中見舞を受けたりもした。

他にも2件、訃報を知らずに賀状を差出して失礼してしまった。

何れは我が身にも、似たような状況が生ずることになる訳なので、その場合、知友人に対する連絡はどうすべきか?このことは、終活の大事な決め事の一つなので、早速パソコンの住所録を最新の状況に更新し、古い住所力は全て破棄した。

更に、以上のような交誼事情の変化等も有之なので、新年早々妻子には、自分が入院闘病中だったり、死亡しても、知友人への直後の連絡等は厳に慎むよう再徹底した。

頂いた賀状や寒中見舞文の多くは、今年も老病関連の弱音が目立つものが殆どだった。

しかし、中には、「‥最近、生き方~逝き方の振り子の振幅が少なくなってきたかな・・と感じますが、まだまだ未来を見たいものです。お互いに頑張りましょう 」と書いてきた友からの一文もあり、「以って銘すべし」だと再認識している。

何はともあれ、当方も持病と上手に付き合いながら、当面はこの一年も次の1年に繋ぐ為、弱気を抑え、何処までもプラス志向で生きたいと切に願っている。 


賀状観感・交友時変

2017-01-07 11:51:12 | 交情

酉年の賀状は概して華やかなものが多い。そんな賀状を今年も頂いた。中には、「年に一度生きてる証しの便りです」と手書きしている賀状とか、「来年からは失礼します。長年の厚情ありがとう。」と書き加えた賀状もあった。加齢とともにそんな友の心情もよく解る。手に取りながら長年の交流に感謝した。

当方は賀状を「親戚・縁者」GPと「あいうえお」別に区分して3年前分迄の賀状を保管している。今年も前年同様の要領で整理した。それが下表である。因みに、今年賀状を差出した数は180枚(200)、頂いた数は150枚(175)である。20年前頃迄は300枚以上のやり取りがあったのだから、この間の交流関係は、時の流れとともにある面空しく萎み、来年以降更に萎んでゆくだろう。*()内は昨年の枚数

頂いた賀状の中で、老令の嘆きを書き記す友の気持ちもよく解る。今年特に気になったことは、若い頃から親しくしている知友人からの賀状が数通来ていないことだ。●今年賀状が途絶えた友はどうしたのだろうか、●末期癌の奥さんの看病で疲れている、と昨年の賀状にあったM君とその奥さんのその後の事情はどうなのか、●パーキンス病で病院暮らしの続くH君の奥さんからも今年は賀状なしなのだが、どんな様子なのだろうか。近況について気になる友については、改めて伺いと確認のはがきを出したい。

更に聊か嘆かわしく思ったこともある。それは、歳は未だ50前後の後輩なのに、年寄り染みたような一筆書きをし、その内容が如何にも消極退嬰的で、かつ、先行きについての前向きの願望表明がない後輩が、かなり多いことである。

そんな後輩には、当方がもう45年余も付き合っている今年98歳の老師の人生訓を聞かせてやりたいものだ。当方は、「黄」さんと呼んでいるこの先輩から、「弱気は損気」「人生一生挑戦」等と発破をかけられて来た。そんな「黄」さんの口から、今日に至るも「もう俺も年だから・・・体もボロボロ・・もう駄目になったよ・・・」などという「老齢の嘆き」を一度も聞いたことがないことだ。

「黄」さんからの今年の賀状には「敬祝你们健康大长寿」と書かれている。俺を見習って大いに長生きしろよ!と激を飛ばされているような思いである。老いて気勢天を見続けているこの爺さんは、当方にとっては、かけがえのない「人生の師」でもある。「黄」さんの賀状を眺めながら、改めてそう思った。          

 


合縁回路の即通性

2016-05-30 19:08:49 | 交情

人の縁は、その人夫々、程度の差はあるがいずれも見えない糸でしっかり繋がっているものである。この1週間の間に当方は、北海道在住のF君とT君の二人と約50年振りに、メールと電話で近況交流をし、つくづくそう思った。

メールで交流したF君は、若い時代の当方に対する認識も実に正確で、昔青春を共に過ごした記憶の数々を鮮明に覚えていた。現役引退後、5期20年に亘り市会議員を務め終え、ゆっくり老後を迎える積りでいた時期に奥様を病気で亡くされたT君は、聊か元気がないように感じられた。

確かに電話の声には、往年の張りはやや薄れてはいた。でも声のトーンや明瞭な語り口は、往時と全く変ってはいなかった。

T&F君も当方も、昨年共に傘寿の坂も越え、既に老境に入るに至ってはいる。しかし、気力はお互いに未だなお若い積りであることには変わりはなかった。在道の仲間26人の中では、メールの相手のF君が気力・体力共に異次元の世界にあるようだとT君が言っていた。素晴らしいことではないか。他の仲間達もみんなそう評価しているとのことだ。

だからだろう。F君は今も広い土地を活動の場にして手広く自家菜園に勤み、悠々自適の状態だとT君からも聞かされた。

共に偶には行き来して、「友あり遠方より来たる。又楽しからずや」などと言いながら歓談する機会は、もうなかろう。しかし、時空を超えていつでもその気になれば、即時に繋がる合縁を共有している友がいることは、老生にとって掛替えのない誇りであり、自慢である。

だから、今後も生ある限り、往時にタイムスリップしても、即時に回路が繋がる昔仲間と親しく交流する機会を持ち続けたいものである。

 


恵まれた交友関係

2014-06-01 10:00:25 | 交情
自分の人生は悔い多き人生だと思うがしかし、有難いことに交友関係には大変恵まれた方である。だから、この点ではさして悔いはない。
論語に「益者三友、損者三友。直を友とし、諒(りょう)を友とし、多聞を友とするは益なり。便辟を友とし、善柔を友とし、便侫(ねい)を友とするは損なリ」とある。
前者は正直、誠実、博識な友。後者は不正直、不誠実、饒舌な友のことだと書かれている。益者・損者の判断は相対的なもので、相互の立場、環境、条件で捉え方も変わるけれども、長年の交友関係を通じて観ればかなり客観的な評価が出来る。
騙されたり、裏切られたりした時や一時的にそうなった友もいた。しかし、いずれもそれなりに避けて通れない事情があったのだろう。今では許せてみんな良い友達ばかりである。
自分の交友関係は、交際している仲間内では多い方だし、よく続いている方だと自認している。そんな友人達の誰がどの益友に該当するか、そんなことは強いて区別して考えることもなかろう。友情不変な友こそが、真の友であり、持つべき友である。自分はその点でも恵まれていると思っている。