気心は未だ若い「老生」の「余話」

このブログは、閑居の間に
「言・観・考・読・聴」した事柄に関する
 雑感を主に綴った呆け防止のための雑記帳です。

最近感じている三つの怪

2016-07-14 13:40:45 | 時評

1、「改憲勢力2/3」という用語がやたら目立つマスコミの論調

このフレーズは、「改憲は時代の流れに背き、その論に組することは宜しくない」との牽制の意図を込めた造語だと当方は解釈している。確かに、参院選前後からこの用語をやたら見聞きする。

憲法改正の本丸は間違いなく憲法9条だ。本丸を正さずして憲法改正の成果は完結しない。9条は、それほどの重みと意義のある改正対象条文だから、時間をかけ英知を出し合って慎重に改正すべき剣が峰に位置する条文だ

他にも現憲法上の問題点は広範多岐に及ぶ。例えば「・・諸国民の公正と信義に信頼して国の安全と生存を保持する・・」とする他力本願的な国の安全の基本に関する憲法前文の規定や、前文そのものの構成・内容上見直しの余地は多々ある。現憲法には、国民の権利に関する規定が多い(10条~40条)が反面、国民の義務として規定されていることは極めて少ない。

更には、「裁判官の報酬は在任中減額することは出来ない(70条~80条)」との規定のことや、暫定的な国会権限の代行(101条)や第一期参議院議員の任期の特例(102条)を定めた規定など、今では全く死文化した憲法制定当時の規定がそのままになっている。

憲法を素直に通して読めば、不可解な記述がいろいろ目につく。そんな欠陥があるのに一字一句も改正不可で、改憲の動きは、時代に逆行しているかのように吹聴する論調には不快感さえ覚える。

2、「自衛隊違憲論」者や政党からは今も聞こえてこない「自衛隊縮小」乃至「解散論」

自衛隊違憲を綱領にも規定して重視している政党が、このことを選挙公約に掲げた例をこれまで殆ど見たことはない。世界で有数の軍事力を有する自衛隊は、立派な軍隊なのに憲法上の位置づけが、不明確なのは世界の軍の中では自衛隊だけだ。

前身の保安隊以来、継子扱いのままだ。認知されていない自衛隊が、「安保法制の主軸・主役」になっている。ならば自衛隊をその主役の座から降せばよかろう。そのためにも本来的主張である「自衛隊の縮小乃至解散」について「自衛隊違憲」論の立場に立つ政党や識者はそのことを何故強く、継続的に語らないのか。

それは、自衛隊の存在価値を現状では認めざるを得ないが故に、堂々と選挙の度等に自衛隊解散・縮小を説けば党のイメージ低下になるし、集票にも影響すると観ているからだろう。誠に硬骨なご都合主義の立場ではなかろうか。

重ねて憲法改正反対論者に問いたい。9条改正絶対不可とするなら、何故今迄自衛隊縮小乃至解散の世論喚起を疎かにして来たのか。今後もこの、そもそも論に触れず、只管オウム返しのように「安保法制」廃止、「9条改正」反対を叫び続ける積りだろうが、その認識が不可思議でならない。

3、当座凌ぎにしか観えない野党4党共闘の怪

先の参院選で野党4党共闘は一定の成果を収めたことは確かだ。だが実態は、4党共闘ではなく2党共闘だ。しかも、共産党票のお陰で民進党が面子を保った形だ。都知事選でもこの構図で選挙戦が戦われる。

は今や共産党票を抜きに単独では、政治の動きに大きな流れを作れない政党になり下がっている。だから、民主党時代から引き継いでいる同党綱領中の「・・未来志向の憲法を国民とともに構想・・」とか「・・日米同盟を深化させる・・」とする「改憲志向で安保体制堅持の政党」なのにそんな主張を昨今は全く封印し、「安倍政権のもとでの憲法改正の動きには組しない」などと、共産党寄りとも受け取られ易い姿勢を示している。民進党はこの分では今後も「我が党は、改憲には否定的な政党ではありません」とは云わないだろうし、云えなくなるだろう。

野党第一党としての矜持はどこかに行ってしまった感じがする。かって安保反対闘争の大きな節目(1960年、1970年)の時でも、当時の社会党は、党の主体性を貫き、社共共闘を組みはしなかった。

今日の民進・共産両党はどちらも腰が軽く、党としての主体性があるのかないのかよくわからない。どちらがどう引っ張りあって出来た都知事選での共闘体制なのか知る由もない。昨今の民共両党は「政策協定よりも単一の共通目標優先、戦略より戦術優先」の政党運営をやっているようで、これまたどこか違和感が強い共闘の怪だ。


老人閑居して惰眠を貪る事勿れ

2016-07-04 20:50:51 | 人生

過日、昔の仲間の集まりが都内であった際、初参加で15年振りに会ったN君が「皆さんご無沙汰致しておりましたが私も元気で、年寄りになりました。ところで皆さん、年寄りだからこそ、教育(きよういく)と教養(きようよう)が必要だという話をご存知でしょうか・・・と近況を交えて話し出した。

当方は、以前何かの雑誌で読んだことがあるので、「例の話だな・・」と直感した。だから特に興味はなかった。しかし、現役当時から能弁なN君が喋り出すと何か如何にも新鮮な感じもしたし、周りの同輩は興味ありげに聞き入っていた。この話、実はNet等でも紹介されているので、ご存知の方も多かろうから、詳述は割愛する。

要するにこの話は、駄洒落話しの類で、簡略に解すると「・・高齢者はとかく家に引き籠りがちになり易いので、健康の為には、教育(今日行くところ)と教養(今日用がある)ことが大切だ・・」ということを同音異義語の比喩で示唆して呉れている話である。

確かに高齢者向けの尤もな話だとは思う。N君の話を聞きながら自分も、今日行くところは、自ずと限られ、今日の用もその都度見つけて対応しているが、そんな自分でよいのかな・・それに、真面目な話し、若い頃から随分諸々の教育を受けて来た筈だが、果たして年相応の教養が身についているのかな・・とふと感じたりもしている昨今である。

今日行くところは、特になくても、例えば近くの図書館や公民館・書店等に行き、最近の国内外の事件や話題等(例:英国のEU離脱問題の行方、バングラデシュでのテロ事件の遠因・近因、参院選の与野党の主張の差異や選挙の見通し)について諸資料を手掛かりに常識として整理し直す等やるべき用はいくらでも見出す事が出来る

だから、やることを見出しもせず、年だし何もやりたくないと消極退嬰的な気持ちになり、家に籠るようなことだけは絶対にしないぞ!!と心に決めているし、日々そのように実行している積りである。

兎に角、体力気力が衰えても、「老人閑居して為すこともなく只管惰眠を貪る」ことの無いようにしたいものである。これが、満81歳になった老生の切ない今の願いである。