気心は未だ若い「老生」の「余話」

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 雑感を主に綴った呆け防止のための雑記帳です。

新安保法制反対論の背景雑感

2015-09-10 12:42:52 | 時評

集団的自衛権の行使を可能とする「武力攻撃事態法」など関連10法案と、海外で他国軍を後方支援するための「国際平和支援法」からなる新安保法制案について、各種世論調査の傾向は、賛成約30%、反対約70%となっている。

しかし、だから廃案にすべしとする論調は、将来に亘る日本の安全保障上決して正論とは言えないと当方は思う。

新安保法制反対の論調の背景には次のような諸傾向が現に色濃く存在するからだ。

1.安全保障の3要件(外交・防衛・国民の意識)中、国を守る意識を忌避する国民意識       

世界の多くの国民は、自国の安全保障のためには国を守る意識、つまり国防意識の堅持が必要であることを学校教育で早くから教えられ、国民意識として定着している。

しかし、我が国では、特に若者のこの種意識は低く、国防意識云々と口にすることさえ、非平和的認識だと観られ易いしそうした変な国民意識が定着している。自衛隊の災害派遣は歓迎だが、日米軍事演習等を忌み嫌う傾向は正にその表れだ。

2.安保法制は、「戦争立法で徴兵制につながる法案である・・」との虚構煽動

反対諸党は今回に限らず、「残業手当ゼロ法案」とか「弱者切捨て制度」とか、短絡的かつ意図的にマイナスイメージを植え付ける常套手段を多用して来ている。現に徴兵制の軍事力を誇示している一党独裁の中国や北朝鮮、かってそうだったロシアはじめ、今でも徴兵制度を採用しているスイス・オーストリア・トルコ・イスラエル・韓国等徴兵制度の採用国は、いずれもその根拠を憲法で明確に規定している。例えば次のようにである。

祖国を防衛し、侵略に抵抗することは、中華人民共和国の全ての公民の神聖な義務であり、兵役に服し民兵組織に参加することは・・・光栄ある義務である。(中国憲法第55条)、祖国防衛は公民の最大の義務であり栄誉である。(北朝鮮憲法第72条)

祖国防衛は、ロシア連邦市民の責任であり義務である。(ロシア憲法59条)全ての国民は、法律の定めるところにより、国防の義務を負う。(韓国憲法39条-1)等と憲法に明記されている。親中露系の論者は、徴兵は神聖で光栄ある義務だとする隣国の国是をどう観ているのだろうか。

それはともかく、我国では憲法改正なくしては、徴兵制度は論理的にも絶対制度化は出来ないし、総理自身もあり得ないと否定している。にも拘わらず、恰も時の政府が意図しているかのような誤解を与える宣伝・煽動に、善良な国民は惑わされてはならない。

現行安保条約締結時の55年前にも日米同盟により、日本が戦争に巻き込まれ、平和国家が戦争する国になるかの如く一大キャンペーンが全国的に展開された。当時を知る老生にとっては、それは大きな時代のうねりでもあった。だが、「戦争に巻き込まれ論」の主張は、まやかしだった。このことは、この半世紀の平和な日本の歴史が反証している。

3.憲法9条を金科玉条とするお人好しの平和志向の風潮

憲法9条は、前文中の「日本国民は国際の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」との一文を受けて規定されている。

しかし、諸国民の公正と信義に信頼するだけでは、安全と生存は保持出来ないので、我国は、自衛の為と称する自衛隊を保持し、米国との同盟関係の維持・強化に努めて来た。そのことにより、紛争の抑止力が高まり、我国の平和が保たれ、今日に至っている側面があることを深く認識すべきである。

人間相互の関係を支配する崇高な理想」とはどんな理想か、その理想の下で成立つ筈の「諸国民の公正と信義」が如何に脆いものなのか、憲法9条擁護派の諸氏はよく理解されているのだろうか。

絶対平和主義の立場を由とするのであれば社民・共産両党は、違憲の疑いありとも観られている自衛隊解散を選挙公約として必ず、何故掲げないのか。国の平和と安全確保には「応分の負担と責任が伴う」ことは多くの国の歴史が証明している。綺麗ごとや願望だけで国を守ることは出来ない。国民は須らくこのことを銘記しすべきであろう。

4.日米安保の抑止効果を有害無益とする日米同盟軽視又は否定論

第一次安保闘争(1959~1960)のピーク時は、国会周辺に33万人(主催者発表)の大反対デモが展開され、第二次安保闘争(1960)の際も全国各地で反安保闘争が展開された。当時子供だつた安倍現総理は、自宅で「安保反対・安保反対」などと意味も解らず真似して連呼し、当時の岸総理に叱られたとの逸話を何かの本で読んだことがある。

今日の日米安保条約は、昨今の安保法制反対運動とは全く比較にならない程の「全国的な反対闘争」の中で成立した。その日米安保の有用性については、安保・外交音痴と酷評されたあの鳩山元総理さえ、「学べば学ぶ程、日米安保の抑止力を認識した」旨語っていた。

理屈をこねて、時流に迎合し新安保法制反対の民主党は、同党の綱領で「日米安保は安全保障の基軸であり、日米同盟を更に深化させる」旨明記している。だが、現状は二股姿勢で党利・党略優先、日米同盟軽視の姿勢ではないかと評したい。

日米同盟には当然のことながら、負の側面もあることは当然だ。しかし、片務的な安保条約を双務的に質的に整備することは国際的な常識でもあり、今次新安保法制もその延長線上の政策であろう。だから、日米同盟軽視又は否定論は、厳しい国際環境に逆行する所論だと当方は思う。

5.新安保法制の負の側面のみを強調する反対諸党・論者等の安全保障観

民主党は同党綱領で「将来的には新しい憲法を構想し・・云々」と規定している。どこをどう改正するのか明示はしていない。しかし、改憲の方向性を意図している論者も少なくはないようである。同党内には、政府が集団的自衛権の行使容認を前提とした安保法制を構想するのであれば、憲法改正を行った上で諸制約を付して制度化するのが筋である。だが、今はその時期ではないとの立場の論者もいるようだ。                                   

なお同党は、現行枠内での自衛隊の運用と領海警備法制度の整備改正により、懸念される危機の諸事態に十分対応することは可能だと主張しているが、この主張では、政府が意図している「存立危機事態」や「重要影響事態」には、対応出来ないと思うのでより国際的見地から観た安全保障観とは言えないだろう。

社民・共産両党は、平和外交主軸の努力と平和を希求する民意の結集により、国の安全保障は確保・維持されるとの基本的認識だし、安保廃棄こそが日本の真の独立と恒久平和の前提だと主張している。時代は変わっているが、両党のこの方針は、安保条約締結以来基本的には全く変わってはいない。

第一次・二次安保反対闘争の頃、学者・文化人の多くは「進歩的文化人」と称され、当方もそんな範疇の先生に憲法の講義を受けた。当時は、その所論に随分感化され、然りと大いに納得もした。だから当時はれっきとした左翼系学生の一人だった。しかし、時代の変遷の中で「ものの観方・考え方」も変り、日本の将来を見据えた国の安全保障はどうあるべきか。当方なりに考えられるようになった。

新安保法制に移行後は、海外での自衛隊員のリスクが高まると指摘する側の人達は、「私は自衛隊の使命を自覚し、・・・強い責任感をもって専心職務の遂行にあたり、事に臨んでは危険を顧みず、身を持って責任の完遂に務め、もって国民の負託にこたえる」と宣誓している自衛官の信条(心情)をどう理解しているのだろうか。

我国の自衛官は、狐声で同情を得るような所論に靡くようなことはなかろう。海外での他国支援や在外公館・在外邦人警護・救助活動等でリスク回避を最大限追及しても、尊い犠牲を伴うこともあるだろう。新安保法制への移行に伴い、自衛隊に新たな任務が付加されても、海外では日本国軍だと認知されている自衛隊と隊員達は、我国の名に恥じない立派な後方支援及び警備支援活動をして呉れるであろう。

安倍総理はじめ与党議員の多くの本心は、憲法改正により自衛隊を軍隊として認知し、集団的自衛権の行使容認を疑念の余地なく可能にすることにあると思われる。だが、現状ではそれは不可能だから、無理を承知の上で解釈改憲により、新法制への移行を意図しているのだと当方は理解している。

止むを得ない政策選択だと思う。総理を「将来日本の国を戦争に導く独裁的首相」などと誹謗するのは勝手だが、戦前・戦中の軍部独裁の時代と異なり、現代は、国の安全保障のあり方を決める法制度一つを採択するのにも昨今のように、厳しい試練を経なければならないご時世である。現代は、いざ国難遭遇対応の際に、総理の恣意的判断だけで即断即決出来る時代ではない。

いづれにしても、我々国民は、為政者が国益のためどんな意図・目的で、何をどうしようとしているのか、感情論や風評・キャッチフレーズ等に惑わされることなく中身をよく確認し・自分の意見を堅持すべきだと最近痛感している。

世の中には、自分が支持する政党の主義・思想・綱領や重要施策さえ一読もせず、「なんとなく良さそうだから支持する」傾向が多々観られる。

今回の新安保法制の10+1法案からなる新安保法制の関連文書を一読して、ある程度理解したうえで、賛成・又は反対の意見を持っている人は果たしてどの程度いるだろうか。