気心は未だ若い「老生」の「余話」

このブログは、閑居の間に
「言・観・考・読・聴」した事柄に関する
 雑感を主に綴った呆け防止のための雑記帳です。

爺の中国・韓国語 学習雑考(2)

2016-02-26 11:14:31 | 自学

日本語は、中国・韓国語とルーツが同じ感じだから語句に共通性があるのは当然だ。だから、両国語は夫々発音・表記は違っても、漢字の語順や意味が日本語と同じ語句もあれば、逆に、何故そんな漢字をその語句に充てているのか理解難い語句も実に多い。

夫々の国で独自の経過を経て来たのだから尤もだ。以下、極めて独断的だが、中国語の語句を例に日本語の語句との類似性や違いについて一寸観てみよう。

当方は、自分なりに中国語の語句を次の4類型に別けて覚えるようにしている。

・A類(本来類型=日本人には全く馴染めない用法のもの、例:商量=相談、便宜=安価、酒店=ホテル、存折=預金通帳、愛人=配偶者、歩く=走、乗る=坐)

・B類(簡体類型=簡体字化された元の字の意味からある程度類推出来る用法のもの、例:運転手=司机、宿題=作业, 売買=买卖、後悔=后悔、図書=图书、様式=式、知り合う=认识、尋ねる・聞く=打听) 

自分にとって覚え難いのは、殆ど上記2類型に属する多くの語句群である。

・C類(類似類型=漢字の意味上然りと類推出来る用法のもの、例:生魚片=刺身、爆満=満員、心想=気持、負責人=責任者、所以=故に、因為=によって、而且=かっ又、好在=幸いにも、其実=実は)

・D類(同一類型=漢字とその意味が全く同じ用法のもの、例:経済、感想、小説、尊敬、突然、痛快、仔細、政治家、体重)

勿論以上のいずれにも属さない用法の語句も多いので更なる勉強が必要だ。

なお、韓国語の場合、こと名詞については、漢字の組合せで出来る言葉は、日韓共通である。

だから、漢字の読める韓国人は、例えば、家庭・野球・健康・政治・日韓関係と書かれた漢字を가정、야구、건강、정치、일한 관계と読み、意味は全て理解出来る。逆にハングル学習歴がある邦人であれば、前記のハングル文字の意味も当然理解出来る筈だ。

この日韓共通の漢字は約千字あり、これを「千字文」と云い、当方もその昔、韓国語でその音と訓読みを習った。随分忘れているが、千字の漢字一文字・一文字を意味のある語句に組み合わせれば、韓国語に関する語彙は無数に増えることになる。

日韓両国人にとってお互いの言葉が習得し易いのは、こうした言語構成上の背景もあるように思っている。ところが聞くところによると、韓国では、漢字を読めない・書けない若者が増えていると聞いている。機会を得て是非現状を確認したい。以下・・次回


爺の中国・韓国語 学習雑考(1)

2016-02-21 07:30:21 | 自学

NHKラジオで中国語講座を聴講し始めてもう1年半になる。50年前には縁あって、韓国語を約1年(毎日1日5~6時間)学んだこともあり、時々レビューもしているので今現在では、中国語より韓国語の方が馴染みもあり、理解し易いと認識している。

3年前、韓国済州島に旅行した際、現地の人と韓国語での簡単な会話により、下手な会話でも現地語で意思交流が出来ることを実感した。

何語を選ぶかにより、その有用性は異なるが、何語を習うにせよ「言語を学ぶことはその国の歴史・文化を知ることにも通ずるので無駄ではない」と思っている。5年前上海・蘇州を旅した際、中国語にも興味を持ち以来ラジオ講座を聴講する気持ちはあったのだが、中々気力が伴なわなかった。

しかし、その後中国の存在感が年々益々高まりつつあることもあり、中国語を学ぶことは、中国をより正しく知ることにも通ずるだろうし、何よりも「高齢呆けの先送り」にもなるだろう。加えて、中国語の読み書きがある程度出来れば、又新たな楽しみも増えるだろう。そんな雑駁な思いが、当方の場合、中国語学習を始めた主な理由・動機である。

 

 ところで、いずれの言語にも進化発展のルーツや系列がある。日本語は言語の系列的には、蒙古語や韓国(朝鮮)語・ポリネシア語等と同系列のウラル・アルタイル語系列に属するとその昔韓国人の教師に教わったことがある。

これらの言語では、文章の構成・語順が確かに同じである。表記や発音は勿論異なり、親しみ難く発音は概して難しいが、中国・韓国語については、基本の文型やある程度の名詞・動詞等を覚えれば、読み・書き面での習得は比較的容易に出来る。だから、自分の経験上からも日本人にとっては、英語より中・韓両国語の方が読み・書き面では習得し易い言語であると云える。

ハングリー精神旺盛なモンゴル出身の大相撲力士や、多言語適応力に優れているとも云われている韓国人が、総じて日本語習得力に長けている原因の一つには、語系列上の特徴に加え、日本語習得に関する民族性や天性のようなものが、日本人以上に優れていると思われるような背景・理由があるからではなかろうか、と当方は勝手な推測をしている。

漢字文化のルーツは同じなのに、中・韓・日の三言語は夫々特色のある言語として進化し、今日に至っている。中国語の場合、1950年代に従来の漢字を簡略化した書字体(通称:簡体字)が用いられている。

しかし、日本語にも通用する漢字も多い。単語の表記やその意味も日本語と全く同じものもあれば、何でこの単語のことをこんな漢字で書くのだろうと思うことも又実に多い。このように漢字の用法一つをとっても大変興味深く不思議な感じがする。次回はそんなことにも言及して雑考を進めたい。


人生のロスタイム

2016-02-10 10:12:30 | 終活

20001年の元旦から毎日、平均300~400文字程の日記を書き始めて今年でもう15年になるその日に書けなくて、後で時には2~3日分を纏めて書くときもある。思えば結構続いているものだと思う。新潮社が毎年発行している文庫版(白紙の各頁に月日と曜日のみが

      

印字されている)を用いて書いている。日誌に綴っているのは、その時々印象に残った事柄に関する略記や雑感が主である。書き続ける主目的は二つ ・呆け防止・自分史の一部として家人達に残す為である。  

但し、家人等が当方亡き後、不要と思えば破棄するもよしで、このマイブックのじ後処置のことは解らない。書棚に並んでいるこの私本を時折、何気なく手にして読み返す時もある。読んで改めて感じたり、為になることも又多い。

先日、孫が生まれた年(2003年)にどんなことを書いていたのか、同年の日記を手にして斜め読みしていたら、9月26日の日記に「塩爺の名せり」とのタイトルで書いた記事が目に留まった。

塩爺(愛称=塩じい)とは、当時第一次小泉内閣の財務大臣で、内閣の重鎮としての存在感も抜群だった「塩川正十郎代議士」(H27.9.19、享年93歳)のことである。

その塩爺が、第一次小泉内閣改造時、総理から高齢にも拘わらず手腕を買われて続投を要請されたが就任を固辞し、その後の記者会見の際、退任理由を問われた記者団に対し、当の塩じいは、要旨次のような引退のセリフを残している。

人生のホイッスルが鳴る迄未だ若干のロスタイムがあるのではないかな・・節制すれば未だ若干は長生きする気がする。しかし、お役目はこのくらいにして、そのロスタイムを大事に使いたいんですよ・・・」と。

このコメントを聞いた小泉総理は、「寂しいと同時に塩川さんらしい潔い見事な引き際で敬意を表する」との所感を述べたと当時の新聞は伝えている。

当方は、その日の新聞報道を引用した日記の末尾に、ご両人の所感はどちらも実に味のある言葉だ。確かにそれ相応の立場にある者は、いつ迄も地位・立場に居座り続けるべきでない。人生のロスタイムを控え、塩爺はそんな人生哲学を以て傘寿直前に政界から引退することを前々から決めていたのだろう・・と書いている。

立場は塩爺とは天と地程の開きはあるが、自分も既に80歳。塩爺流に云えば確かに「人生のロスタイムを真面に考える時期」に入っているんだな・・・。ならば、そういう時期を迎えている自分に正直に向き合おう。でも生きることに執着する訳ではないが、折角与えられた尊い命だから、これを大切に守りつつ、「人生のロスタイムの幅と奥行きを今少し頑張って伸ばして行きたいものである。

自分には、あとどの位のロスタイムが残されているのか、長くはなかろう。それは運命の神のみが知ることだが、13年前のある日の日記を読み返しながら前記のようなことを再認識した次第である。