秋晴れの下、絶好の遠足日和。第2回田熊探訪(ブラタクマ)を開催しました(10月28日既報)。参加者の様子は素顔はコチラからパスワードを入力してご覧ください。
前回は、干拓以前の中世田熊を中心に巡りました。
今回は、前半は干拓後、田熊発展の濫觴を感じるルート。後半は因島村上氏の始まりと云われる釣島箱崎浦の合戦前後の史跡を巡りました。
前回同様、中世田熊の入り口を見守る弁才天から出発、お政大師、白冠、旧田熊村役場跡、浜旦那屋敷、東浜明神社、和光庵(旧竹本屋敷)、元田熊郵便局と巡り、奥の谷を通って島前城跡(芸予文化情報センター)、因島本主家の石垣が残る土居屋敷を見ながら釣島箱崎浦の合戦古戦場、青影落葉神、大土生家、対潮院(藤原泰高の墓)、妙泰神社、カジガセド、旧田熊小学校で昼食というルートです。
先ずは弁才天でパチリ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/c2/15dbb09e3f53a4b9d52a78167f795560.jpg)
そのまま下って因島スーパー近くのお政大師へ。若いころから祠守として務め昭和8年に大師として祀られました。恐らく田熊では最も新しい神様(仏様)ではないでしょうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/8c/3266a21d857649e5373639aa2a445245.jpg)
飴林跡、白冠跡を進みます。
飴林は、私たちのころは普通の駄菓子屋さんでしたが、縁日で扱う飴玉の専門店として繁盛し縁日市の世話人としても有名だったようです。
白冠は、大正8年の創業。大三島より良質の水を探してきた初代が、今は暗渠になっている勘平衛川(神戸川)の良質な水に目をつけ酒造りを始めました。同年創業の太平洋とともに田熊の酒造りを担ってきました。
藤原医院跡を通って旧田熊村役場跡
明治に町村制が施行されるとこの地に村役場が建設されました。昭和28年因島市が誕生すると暫く田熊支所として使用されました。その後洋品店が営まれ、現在は駐車場になっています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/bf/d3073f8344b4ba90da5d532830675d75.jpg)
東浜明神社
この辺りは江戸後期から始まった干拓地(扇新開)。この神社はかつて塩田のあったこの地にに1822年宮島より歓請された厳島明神です。商業・住宅地帯として整備するため宅地造成や港湾設備を行い、田熊産業発展の福徳の神としての荷揚げ場の一角に祭祀されました。事実、明治時代を迎えて、この一帯は田熊の商業や農業の飛躍の象徴的な地区として発展を遂げました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/ac/9c2515ffd16d716684973f1f160a0efd.jpg)
和光庵(旧竹本屋敷)
田熊渋柿の祖といわれる竹本家が現在の西区からこの地に移りました。現在この屋敷は和光庵と呼ばれ港区の区民館として使用されています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/17/d3c4760e92dda6ff6a44ce4b28f9eef0.jpg)
元田熊郵便局
大正2年に認可され寺迫(港区)に開局しました。大正7年には電信電話も開通し田熊の発展に寄与しました。切手やはがきを買ったのも懐かしい思い出です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/2f/49bfe641ceb613476cdf5ea790e3a22b.jpg)
東区(下細田)から中央区(奥浜・浜・新浜)、本町区(扇新開)、港区(島前・寺迫)のルートは明治、大正の建物もいくつか残り、田熊商売の濫觴を思わせる貴重な地域です。
そして奥の谷を通って島前城跡(芸予文化情報センター)へ。
源平合戦や承久の乱などを経て、東国武士の西国移動が活発になり南北朝時代に突入すると、因島も時代の波に影響を受けてきます。この頃上原祐信が開発領主として居城にしたのが島前城です。島前城は目前の竹島城と同様戦略上重要な拠点だったのでしょう。上原祐信が後醍醐天皇の元弘の乱に呼応して京都六波羅探題攻めに参加、一族郎党が討死する悲劇に見舞われた後も、伊予村上氏の総大将村上義弘の死去(1374年)に乗じて因南を横領した今岡通任や因島村上氏時代の村上直吉(田熊村上氏の祖)もここを居城としています。
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/54/140c25958ef8bc2c2c364427bce82b96.jpg)
本丸跡から田熊の町並みを眺めてみました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/61/5819aafe1ed8a7825d853ab685c3b482.jpg)
この辺りは因島本主屋敷跡の面影を残す石垣も残されています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/73/3b3fe71d2bb63b4620770fa10adade58.jpg)
釣島箱崎浦合戦古戦場
1377年、今岡通任・大鳥義康軍が村上義弘の跡目である村上師清率いる伊予村上氏と激突したとされる場所です。ここの海上戦で敗れた今岡軍は地上戦を余儀なくされ敗れることとなります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/3a/8f0016388b02796b7953da98f9c0eb17.jpg)
青影落葉神
大山神社から少し南に入った場所で釣島箱崎浦の合戦で戦死した武将を祀っていると云われています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/ee/3e249ef7b64cae78b166e9a692e7d365.jpg)
大土生家(因南中近く)
釣島箱崎浦の合戦後、因島村上氏の時代が到来し、第2家老稲井氏の屋敷跡。関ヶ原の合戦(1600年)で山口へ移封された毛利氏に従った稲井氏の後、帰農した第4家老宮地氏が屋敷とし大土生家を名乗りました。石垣は中世の時代を忍ばせます。
藤原泰高の墓(対潮院)
源平合戦のクライマックス奥州合戦で没落した奥州藤原氏の末裔が因島に移り巻幡を名乗ったとされています。それは1377年の話という研究もあり、それが事実ならばこの藤原氏は今岡軍とともに戦い敗退した後、「旗を巻いて」帰農したとも考えられます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/a5/705c886cba0f3e88f319bd5614dbbe91.jpg)
妙泰神社(土生と田熊の境界)
釣島箱崎浦の合戦で大鳥宗義の影武者として戦い敗死した妙泰夫人を祀っています。現在でも"妙泰越え"で通じるポピュラーな場所です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/a6/8102acd9eaccbd8b4cfc77df6e367202.jpg)
鍛冶後(カジガセド)の由来に触れた後、旧田熊小学校へ。
前回同様、村上満之助先生に感謝しながら昼食。7月豪雨で崩れたお宮と体育館の間ののがけが痛々しいです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/a5/513fb4e70932120097d99edbaf5ebd2c.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/19/a7c4bb444711045e04738a079b7e742c.jpg)
※色々講釈を書き連ねましたが、基本的に管理人の独自研究の域をでませんのであしからずご了承下さい。
前回は、干拓以前の中世田熊を中心に巡りました。
今回は、前半は干拓後、田熊発展の濫觴を感じるルート。後半は因島村上氏の始まりと云われる釣島箱崎浦の合戦前後の史跡を巡りました。
前回同様、中世田熊の入り口を見守る弁才天から出発、お政大師、白冠、旧田熊村役場跡、浜旦那屋敷、東浜明神社、和光庵(旧竹本屋敷)、元田熊郵便局と巡り、奥の谷を通って島前城跡(芸予文化情報センター)、因島本主家の石垣が残る土居屋敷を見ながら釣島箱崎浦の合戦古戦場、青影落葉神、大土生家、対潮院(藤原泰高の墓)、妙泰神社、カジガセド、旧田熊小学校で昼食というルートです。
先ずは弁才天でパチリ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/c2/15dbb09e3f53a4b9d52a78167f795560.jpg)
そのまま下って因島スーパー近くのお政大師へ。若いころから祠守として務め昭和8年に大師として祀られました。恐らく田熊では最も新しい神様(仏様)ではないでしょうか。
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飴林跡、白冠跡を進みます。
飴林は、私たちのころは普通の駄菓子屋さんでしたが、縁日で扱う飴玉の専門店として繁盛し縁日市の世話人としても有名だったようです。
白冠は、大正8年の創業。大三島より良質の水を探してきた初代が、今は暗渠になっている勘平衛川(神戸川)の良質な水に目をつけ酒造りを始めました。同年創業の太平洋とともに田熊の酒造りを担ってきました。
藤原医院跡を通って旧田熊村役場跡
明治に町村制が施行されるとこの地に村役場が建設されました。昭和28年因島市が誕生すると暫く田熊支所として使用されました。その後洋品店が営まれ、現在は駐車場になっています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/bf/d3073f8344b4ba90da5d532830675d75.jpg)
東浜明神社
この辺りは江戸後期から始まった干拓地(扇新開)。この神社はかつて塩田のあったこの地にに1822年宮島より歓請された厳島明神です。商業・住宅地帯として整備するため宅地造成や港湾設備を行い、田熊産業発展の福徳の神としての荷揚げ場の一角に祭祀されました。事実、明治時代を迎えて、この一帯は田熊の商業や農業の飛躍の象徴的な地区として発展を遂げました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/ac/9c2515ffd16d716684973f1f160a0efd.jpg)
和光庵(旧竹本屋敷)
田熊渋柿の祖といわれる竹本家が現在の西区からこの地に移りました。現在この屋敷は和光庵と呼ばれ港区の区民館として使用されています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/17/d3c4760e92dda6ff6a44ce4b28f9eef0.jpg)
元田熊郵便局
大正2年に認可され寺迫(港区)に開局しました。大正7年には電信電話も開通し田熊の発展に寄与しました。切手やはがきを買ったのも懐かしい思い出です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/2f/49bfe641ceb613476cdf5ea790e3a22b.jpg)
東区(下細田)から中央区(奥浜・浜・新浜)、本町区(扇新開)、港区(島前・寺迫)のルートは明治、大正の建物もいくつか残り、田熊商売の濫觴を思わせる貴重な地域です。
そして奥の谷を通って島前城跡(芸予文化情報センター)へ。
源平合戦や承久の乱などを経て、東国武士の西国移動が活発になり南北朝時代に突入すると、因島も時代の波に影響を受けてきます。この頃上原祐信が開発領主として居城にしたのが島前城です。島前城は目前の竹島城と同様戦略上重要な拠点だったのでしょう。上原祐信が後醍醐天皇の元弘の乱に呼応して京都六波羅探題攻めに参加、一族郎党が討死する悲劇に見舞われた後も、伊予村上氏の総大将村上義弘の死去(1374年)に乗じて因南を横領した今岡通任や因島村上氏時代の村上直吉(田熊村上氏の祖)もここを居城としています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/3e/3d041449a83876513622c643947afb22.jpg)
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本丸跡から田熊の町並みを眺めてみました。
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この辺りは因島本主屋敷跡の面影を残す石垣も残されています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/73/3b3fe71d2bb63b4620770fa10adade58.jpg)
釣島箱崎浦合戦古戦場
1377年、今岡通任・大鳥義康軍が村上義弘の跡目である村上師清率いる伊予村上氏と激突したとされる場所です。ここの海上戦で敗れた今岡軍は地上戦を余儀なくされ敗れることとなります。
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青影落葉神
大山神社から少し南に入った場所で釣島箱崎浦の合戦で戦死した武将を祀っていると云われています。
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大土生家(因南中近く)
釣島箱崎浦の合戦後、因島村上氏の時代が到来し、第2家老稲井氏の屋敷跡。関ヶ原の合戦(1600年)で山口へ移封された毛利氏に従った稲井氏の後、帰農した第4家老宮地氏が屋敷とし大土生家を名乗りました。石垣は中世の時代を忍ばせます。
藤原泰高の墓(対潮院)
源平合戦のクライマックス奥州合戦で没落した奥州藤原氏の末裔が因島に移り巻幡を名乗ったとされています。それは1377年の話という研究もあり、それが事実ならばこの藤原氏は今岡軍とともに戦い敗退した後、「旗を巻いて」帰農したとも考えられます。
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妙泰神社(土生と田熊の境界)
釣島箱崎浦の合戦で大鳥宗義の影武者として戦い敗死した妙泰夫人を祀っています。現在でも"妙泰越え"で通じるポピュラーな場所です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/a6/8102acd9eaccbd8b4cfc77df6e367202.jpg)
鍛冶後(カジガセド)の由来に触れた後、旧田熊小学校へ。
前回同様、村上満之助先生に感謝しながら昼食。7月豪雨で崩れたお宮と体育館の間ののがけが痛々しいです。
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/19/a7c4bb444711045e04738a079b7e742c.jpg)
※色々講釈を書き連ねましたが、基本的に管理人の独自研究の域をでませんのであしからずご了承下さい。