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南英世の 「くろねこ日記」

個人か国家か

二つの大きな思想がある。「個」から出発する思想と、「国家」から出発する思想である。明治憲法は「国家」から出発する思想であった。これに対し日本国憲法は「個」から出発する思想である。もし、文部行政のトップが「個」から出発する思想を追求しようとすればどうなるか。保守派の政治的圧力の中で、「面従腹背」しながら進むしかない。本書は、そうした文部官僚の苦悩を綴った本である。

1980年代、中曽根康弘首相は、個人を過度に重視する思想から脱却し、国家をもっと重視しようとするする思想への転換を図った。そして、教育基本法の改正の必要性を説いた。ところが、臨時教育審議会が示した教育改革は、中曽根氏の意に反して個人重視、学習者の主体性を重視するものだった。1989年の学習指導要領改訂では「新しい学力観」として自ら学ぶ意欲や思考力・判断力・表現力の育成を目指す方向が示された。

中曽根氏にとって、国家とは天皇を中心とする民族的共同体であり、その立派な構成員となるよう人間を教化することが真の教育であるということなのであろう。その思想は、森喜朗氏、安倍晋三氏らの保守派に受け継がれ現在へと続いている。
2006年、安倍第一次内閣のもとで、教育基本法の改正がなされた。その後、日本の国家主義への傾斜が急速に始まった事を考えると、2006年というのは特筆すべき年であったともいえる。

列車のポイントを切り替えてもすぐには進行方向は変わらない。しかし、時間がたてばたつほど進行方向は以前とは異なったものになる。戦後9度目となる2017年の学習指導要領の改訂では、道徳の教科化が示され、小学校に「道徳」、中学校に「人間科」が設けられた。そして小学校では2018年度から実施され、中学校では2019年度から実施されることになっている。

今回の学習指導要領では、道徳の教科化と同時に「主体的・対話的で深い学び(アクティブ・ラーニング)」も導入された。個人的には「何を今さら。そんなもの、言われなくたって昔からやってきている」という気がする。しかし、道徳教育が教科化されたことと合わせて考えると、戦前のように「道徳」を上から教え込むのではなく、生徒に「自分で、主体的に、考えさせる」ことは、保守派の政治的圧力を和らげようとする文部科学省の精いっぱいの「面従腹背」と考えられなくもない。そう考えると、アクティブ・ラーニングにもそれなりの意味があるのかなという気もする。

私が教科書の執筆にかかわったのは、1999年からの19年間である。幸せな時代だったともいえる。いま、新しい学習指導要領に基づいた教科書作りが進められている。もちろん、定年退職した私はもう関わってはいない。今回の改定で「現代社会」という科目がなくなり、「公共」という科目が新設されたが、いったいどういう性格の科目になるのやら。道徳教育の高校版の役目を担うことにならなければいいのだが。

「自由」「平等」「平和」といった、戦後日本が大切にしてきた価値観がどんどん失われている。日本国憲法を変えたいと思っている政治家からすれば、日本国憲法をきちんと教えること自体が「左翼的」に見えるのかもしれない。おかしな時代になったものだ。
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