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南英世の 「くろねこ日記」

最後のセンター試験

センター試験は、高校教育を基礎基本に立ち返らせるという意味では、非常に大きな貢献をしたと思う。その意味では大いに評価したい。

しかし、その一方で様々な弊害も生んできた。
第一に、50万人の受験生を1本のメジャーで測り序列をつけるという弊害である。1本のメジャーで人間を評価するがごときは、日本の将来を危うくすると言っていい。100メートル走らせたら速い人、42キロ走らせたら速い人。走るのが得意でなくても心の温かい人、絵のうまい人、音楽が得意な人。人間はいろいろである。チューリップという童謡がある。「どの花見ても、きれいだな」。これぞまさしく、日本国憲法第13条の精神であり、私たちが目指すべき社会である。

第二に、教育効果がテストの点数で可視化され、センター試験で高得点をとること自体が目的化してしまった。今、大阪ではセンター試験を0.1点刻みで学校間比較することが組織的に当然のように行われている。何を隠そう、25年前、大阪府の学区トップ校の会議を初めて提唱した張本人は私である。動機は進学校特有の悩みを共有するためだった。ところがその後、10校会議は各校を競わせるための道具に成り下がってしまった。

中には、センター試験の得点が他校より低かったからといって校長室に呼び出されて叱責された教員もいると聞く。センター試験の結果が人事評価につながり、給料に反映され、次の転勤に影響を及ぼすとなれば、教員は嫌でもセンター試験の得点それ自体を目標にせざるを得ない。

そもそも、学区を撤廃して競争させてどんな効果があったのだろうか? 京大合格者の数で教育の効果をはかることはできないと思うのだが、100歩譲ってそれで教育効果をはかるとしても、10校全体で総合格者数が増えているのか? 上位校で生徒の奪い合いをしているだけではないのか?誰もその辺の検証をしない。学校間の格差は競争条件が同じならしょせん交通の利便性の差でしかない。

第三に、50万人もの受験生の採点を短期間にしかも公平に行うために、解答が4択を中心とする選択方式である点だ。その結果、記述力・表現力が極端に低下してしまった。そもそも下記の選択肢の中に必ず正解が一つあるということ自体が現実離れしている。そうした弊害を克服しようと、来年度から始まる共通テストで「記述式」を導入しようとしたが、見事に頓挫してしまったのはご承知のとおりである。

来年度からは「共通テスト」と名前が変わる。しかし、昔あった共通一次試験がセンター試験に変更になっても、試験自体は何の変化もなかった。今度も同じだろう。名称が変わるだけであり、試験の中身は大きくは変わらないとみている。

全国一律の共通テストはその役割を終えたのではないか。そろそろ廃止してはどうだろうか。パーキンソンの法則宜しく、利権がらみで廃止できないということは、よもやあるまい。
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