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アロマな日々

一条の光に誘われて歩くうちに、この世とあの世を繋ぐ魔法の世界に紛れ込んでいました。夢のワンダーランド体験を綴ります。

森林浴

2006年07月03日 | my favorite・・・
この画像は数年前に屋久島に出かけた時に、空洞になっている木の内部から空を見上げるようにして写したものです。

森林浴という言葉は1982年に林野庁長官が提唱してから、あっという間に広まったもののようです。2001年には、大学の研究機関や医療機関・民間企業や自治体などが、林野庁と厚生労働省のバックアップの元に森林セラピー研究会なるものを発足させています。

私が扱っているフランスのアロマオイルはディフューザーと呼ばれる装飾品のような器具(?)で燻蒸し空気中に拡散するような仕組みになっています。セラミックとプラチナで精製されたカタリティックバーナーという仕掛けに一旦は着火するのですが、数分で火を消すと炎のない状態で60℃~300℃に保ち、高温気化により殺菌作用のあるオゾンとフィトンチッド(植物のホルモン)を生み出します。オゾンは不安定な分子であるため、ほどなく、酸素とマイナスイオンにな分かれます。酸素は免疫力の向上や細胞の強化を促しますし、マイナスイオンは電化製品から出るプラスイオンを中和させる働きがありますので、ディフューザーを使ってアロマを燻蒸させれば、空気を清浄にするばかりでなく、ハウスシック症候群などによるアレルギーなどの症状を緩和させる効果もありますので体質改善を図ることができます。最近では、社会的ストレスから内分泌系や神経系の不調を誰もが抱えていますが、こうした微妙な領域にも対応してくれるものとなっています。一言で言えば、森林浴をしているのと同様の効果が得られるということになるのです。

















ディフューザー



森林セラピー研究会では、日本国内の優良な森林を選定し、森林ウォーキングロード(セラピーロード)なるものを設けて、森林療法を取り入れ、ゆくゆくは森林医学を確立することを目的にしています。経験的には、森林浴は細胞を活性化させストレスを緩和させる予防効果や治療効果があることがわかっていますが、森林浴が健康に及ぼす影響(リラクゼーション効果、ストレス発散効果、生活習慣病予防など森林環境が与える人への効用)を実証的・科学的に研究・解明することに、官民が一体となって積極的に取り組み始めているという事実があります。

我がふるさと長野県は、優良な多数の森林を蔵しているためモデル地に選定されている地区が4箇所もあります。森林を相手に研究開発するとなると、多大な時間と労力を要することが予想されます。森林療法メニューや滞在メニューの開発がなされた暁には、一体どれだけの人がこれらのメニューの恩恵に浴するすることができるのでしょうか?

森林セラピー研究会の活動の一分野に森林療法を医療行為として確立するために「森林療法」関連商品の開発を実施しているワーキンググループがあります。もうすでに開発済みの製品がここにあるのに…と思っています。

森林セラピー研究会
森林セラピーポータル


必ずどこかに

2006年07月02日 | 日々の泡
このビジネスに関わるようになってからというもの、私は、私を助けてくれる人や私が求めているものは、(そうそう簡単には見つからないものの)必ずどこかにあるはずだと考えるようになりました。何の根拠も裏づけもないのですが、何故かきっとどこかに、私が探し求めているものは存在しているはずだと思えるようになっているのです。

組織に入る以外に生きる道を知らなかった私は、組織の中で生き残ることに、取りあえずは全身全霊を注いできました。そこでの生活はそんなに簡単なものでも平易なものでもない割りには、(ですから協力し合うことが必須のことのはずなのに)人との関わりもそれほど緊密なものになっていくというわけのものでもありませんでした。努力しても努力しても報われたという実感を得られることは少なく、喜びにも悲しみにもいつも薄いオブラートがかぶさっているような感覚に包まれてもいました。いっとき、私はうつ病になってしまうのではないかと思えるほどに、苦しく無味乾燥な感情に襲われ、辛い日々を過ごしたこともあります。夢も希望も何の展望もない生活が目の前に迫っていれば、うつと言われるような状態にも容易に陥ることも体験しました。それでも、その時は、私を助けてくれる人やものがどこかに存在しているはずだとは想像もできませんでした。だから余計に辛い気持ちは増すばかりだったのです。

今の、ビジネスを通しての生活には、「あるいは、私は、今のこの閉塞感に満ちた生活を打ち破ることができるかもしれない!」という夢や希望や想像の翼が存在するのです。こつこつと諦めないで進んでいけば、必ずどこかに私を助けてくれる人がいるはずだ。一緒に協力してくれる人が存在するはずだということを信じられるのです。(現に、そういう人が一人、出現してくれています。)夢想しているだけでは何も始まりませんので、とにかく行動していこうと思えるだけでも、私の生活は随分と原始に回帰できている感じがして、人間らしさを取り戻せているのです。毎日が、額に汗を流しながら農作業をしているような感覚の日々なのです。とにかく種を蒔かなければ、収穫もないのだから、一つ一つの行程をしっかり踏んでいこうと思えるようになっているのです。「きっと会えますよね。もう少しであなたを見つけられそうです。」そんな気持ちになれることをとても幸せに思っているのです。そういう人に次から次へと出会わなければ、このビジネスは成り立ちません。まさに、人生そのものが出会いを求めての旅そのものになっているのです。

玉村さんのワイナリー

2006年06月29日 | 日々の泡
私の田舎は、昔は長野県小県郡(ちいさがたぐん)東部町と言いましたが、現在では長野県東御市(とうみし)と呼び名を変えています。昔ながらの何とも風情のある街並みもすっかり都会的に様変わりして、幼い頃の想い出までも、地中深くに埋もれてしまったような寂しさを感じます。が、脳裏にはあの頃の思い出とそれにまつわる光景がしっかりと刻まれて残っていますので、懐古的な気分に耽るのは時代錯誤と諦めることができます。その東御市に玉村豊男さんのワイナリーがあるのをご存知でしょうか?エッセイスト、画家、農園主に加えて、ワイナリー・オーナーでもある玉村さんの事業家としての手腕には脱帽です。ワイン作りの全工程もここで見学できるようです。私がそこを訪れた日は、たまたま6月17日の夏至祭りディナーの日でしたので、ワイナリーカフェは満員の盛況ぶりでした。カフェと同じフロアにあるショップでは玉村さんご夫妻が歓談されるご様子を垣間見ることもできました。ショップには、玉村さんご自身が工夫を凝らしてデザインされた機能的なグッズや食器、ポストカードなどが揃えられています。こんな不便な(?)地の利でも、集客力を持つ素晴らしい観光スポットになっています。広々としたガーデンにはラベンダーやその他の美しい花々が植えられていますので、深呼吸をしながら、一望に見渡せるなだらかでゆるやかな農園のたたずまいをゆったりとした気分で満喫することができる空間です。チョッと面白いアイデアだと感じたのは、営業時間が午前10時から日没までとなっていることです。日没は毎日、大体午後7時前後のようです。遮るもののない眺望は黄昏時の景観の移ろいのすべてを目の前に魔法のように展開してくれることでしょう。信州に行かれる際には、是非、立ち寄ってみられてはいかがでしょう?



VILLA D'EST GARDENFARM AND WINERY




ここにアップした収穫物の画像はいずれも玉村豊男さんの版画の画像です。(ホームページには「アートギャラリー」があって、玉村さん作の沢山の版画を閲覧することができます。)

起きることはすべて必然?

2006年06月28日 | 日々の泡
精神世界の書物を紐解くと、どの書物にも一貫して書かれている共通の項目や内容があります。その一つが「起きることはすべて必然」というものです。例外なく、そのことが前提でものが語られています。以前の私には、ある出来事や体験を必然と捉えるような態度は希薄でした。偶然と思えるような不思議な巡り合わせに遭遇しても、本当に偶然なこと…と考えることしかできなかったように思います。けれど、この頃では、こうした書物による影響もあって(自分が、一人でオリジナルでこのような考えに至れることは到底不可能なことです!)物事の現象はすべて起こるべくして起こる…と思うようになっています。次にはどんなことが起こってくるのだろうか?と観察していると、ただの同じことの繰り返しと思われるような日々の出来事にも、必ずそれなりのアクセントが付いていて、画一的な出来事というものは存在していないことがよく分かります。私に必要な情報は次はどこからどんなカタチでやってくるのだろう…という構えで待っていると、来るときも来ない時も、それはそのときに必要な状況に応じて、現実は立ち上がってくるのだと達観していられます。何も起こらなければ、何も起こらないという状況が、今は最善の設定であろうことが理解できます。いいことも悪いと思えることも、宇宙の目から見れば必然の出来事なのだと理解できてきます。意識が、ある問題やある人に焦点づけられていると、ふと見る新聞にも、それに関連した、あるいはそのものズバリの情報が載っていたりします。そういう意識状態でいると、次から次へと情報に連鎖が生じてきます。いろいろなことが繋がってくる感覚に包まれるようになるのです。そうなると本当に必要な情報を引き寄せる(手繰り寄せる)のも、あと一歩というところまでいく感じになります。私はまだ、あと一歩のところに留まり続けていて、それ以上は前進できないでいますが、やがて、その、本当に私が欲しい情報に手が届く日が来るのではないかと思ったりすると、もっともっと、この感覚を進化させていきたいという意欲が湧いてきています。もし、私を助けてくれるであろう、私にとっての真の情報を掴むことができれば、宇宙の神秘にアクセスすることも可能になってくるのかもしれません。

ここから先は…

2006年06月25日 | my favorite・・・
もう好きなように生きるしか道はありませんネ。それが分かっただけでも、今の私はとても満足しています。どのように生きても一生は一生。だから好きなように生きた方がいいのだということが分かったのです。品行方正に、清く正しく美しく生きても、それはそれまでのことでした。ただ、つつがないというだけのことで、大きな至福感をもたらしてくれたわけでもなかったのです。自分が幸せでなければ、当然、まわりの人もさして幸せではなかったはずです。ただ間違いのない人生、というものを選ぼうとすれば、運命が顔を出す隙もないわけです。そんなところには運命でさえ詰まらなくて登場も出来ないわけです。私が私でさえあれば、私はもう何をやってもいいのです。これからは、私は私の生活を自由にデザインしていきましょう。きっと、運命は、もはや、私の敵になることはないでしょう。もともと、私はとても純粋な人間でした。これからはその特技を生かして、純粋であり続けてもいいのです。真っ直ぐな気持ちを真っ直ぐに、人に伝え続けてもいいのだと思います。子どものような自分を恥ずかしく思い、大人げのある人間になろうとした日々はとても窮屈なものでした。出来もしないことでも、「出来ない!」と明言することがはばかられる社会もしくは職業生活は、私にはそぐわないものだったのかも知れません。世の中とはただただ厳しいものだから、背伸びして頑張り続けなければいけないのだと思ってきました。それが、‘人の道’だと信じて疑わなかったからです。でももうやめです。人は人。人がどのような人生を選ぼうと、それはその人の自由ですが、自分は自分で、私も私の自由を獲得して、この人生を生きていきたいとやっと思えるようになりました。

ほっと一息

2006年06月24日 | 日々の泡
随分長いこと、何物かに憑かれたようにブログに記事を書き続けてきました。書くことで自分の現在位置を知る必要に迫られていたからです。ところが、今の私は急流に勢い良く流された挙句に、ひとまずは、流れのない‘ある場所’に流れ着いているようなのです。そのある場所とは、あくまでも通過点に過ぎないので、ここでゆっくり休養するつもりもありませんが、少なくとも、今までと違っている点は、少しの間は落ち着いて漂っていてもいい場所のようなので、私にしては珍しく‘書くこと’に対してさしたる切迫感を味わわなくても済んでいるのです。今の私にとって大事なことは、沈思黙考でもなければ、豊かな感情を体験することでもありません。とにかく、今までに散々考えつくしてきた事柄を一つひとつ行動に移してみて、そのような行為の見返りが現実の世界では、どのような現象として立ち上がってくるのかを見極めていくことなのだと思っています。「行動のみが現実を変える…」と、多くの人が言っています。私はリスクを冒してまで行動と言えるほどの行動を実践してきたことが今までにあったでしょうか?少し前までのような、チョッと浮かれた、どこか他人事のようなおめでたい気分は今ではこそげ落ちています。今や、この私でさえ、真剣勝負の土俵に立っているのです。目標が決まれば、日々の営みは、その目標から遠ざかるか、その目標に近づくかだけの違いになってきますので、指標は見えやすくなります。まだ、スタートラインに立ったばかりではあるというものの、これまでのところ、私が経験したことといえば失敗だけです。何一つ上手くはいっていないのに、それでも「もうダメだ!」という気持ちには何故かなっていきません。正確に言うと、落ち込むことはあっても不思議なほど立ち直りも早いのです。次の手を考えなければならないので、落込んでいても始まらない…という表現が実態に近いかもしれません。失敗しても失敗しても、手応えを掴めるまではやるしかないだろうという気持ちになれているのです。些細なことにも絶望しやすく、一旦そうなってしまうと絶望から這い上がることに並々ならぬ気力を要した私だったのに…何だか、いつの間にか、「結果を見るまではやるしかない!」と思えるようになってしまっているのです。

必要なものがあるとすれば…

2006年06月23日 | my favorite・・・
自分が望んでもいないことやしたくはないことのために時間を費やせるほど、私はお人よしではなくなってしまいました。本当の意味での‘我が儘者’に変身したのでしょう。意識は常に、漫然と漂いながらも、もはや、興味のない禁欲的な日常のルーチンには向かなくなってしまっています。私の存在は本当に‘無’になってしまったようです。願望や欲求は依然としてあります。あるにはあるのですが、そのことにがむしゃらになる必要もないくらい、心は凪いでいます。しゃかりきになっても望みが叶うとは限らないという気がしきりにするようになったからです。淡々と、自分や自分を取り巻く状況を見つめるだけです。それでも、私の身に備わってくるものがあるとすれば、必要なものはそれらの事柄だけでしょう。。。  

真の願望

2006年06月21日 | my favorite・・・
この人生で、一度でいいから「私は成功している」という感覚を手に入れてみたいものです。けれども、良く考えてみると、その結果を手に入れる前に、それを手に入れるための過程をも十二分に体験したい!と思っているのです。その過程こそが、私を味わい深い、肉厚の人間に仕立て上げてくれるはずだからです。そして、その過程を通して、本当の信頼関係というものを築き上げられたらとも思っています。ある約束に守られた間柄でなくとも(世間的な契約関係に守られた関係でなくても)、真の信頼関係は成立するのだということを自分を通して確かめることが出来たなら…と願っています。もしそれらを得られることが出来れば、成功はもはや自分のものとなっていることでしょうから…。

欲求の実現

2006年06月20日 | my favorite・・・
数年ほど前になりますが、当時、ある巨大精神科病院の医師をしていらした先生の勉強会に出席していたことがありました。その先生が書いておられる一般向けの本は、人の‘欲求’という問題について、深く掘り下げているものなのですが、一見はとても分かりやすく書かれてあるにも拘らず、これがなかなか微妙な、実は本当に難しいテーマなので、私はこれまでに何度も、手に負えない感じがして、この問題を投げ出してしまっています。随分長い間、勉強会にも出続けていましたが、先生の言わんとされることが、とうとう、私には理解することが出来ませんでしたので、袂を分かつことにして、今では、ご縁も切れています。

けれど、‘意識’というものの存在を、強烈に意識するようになったのは、この先生のおかげかも知れないという思いがどこかにありますので、また最近、少し、先生の本を読み返しています。

『人は、欲求を実現してこの世の時間を楽しむ。満たされた欲求は次なる新しい欲求を生み出し、より深い、より精妙な喜びを準備する。しかし、満たされなかった欲求は、人の成長を止め、人生全体を否定する。人生の否定とは、自分の精神的な成長の否定でもある。』

上の文章を読んで、本当にそうだなぁ!と思いました。私はこれまで、自分の真の欲求を実現できたことなど、数えるほどしかありません。しかも、若い頃には、自分の願いは面白いほど何一つ実現しませんでした。最初の欲求が満たされないのですから、新しい、次なる欲求など出現しようもなかったわけです。ですから、真の欲求が、より深くてより精妙な喜びからは程遠いところに留まり続けているのもやむを得ないかもしれないのです。欲求はいつまでも満たされないままに、欲求自体が賞味期限切れになってしまっているので、自分でも、自分の真の欲求が何であるのかさえ分からなくなってしまっているところがあります。満たされなかった欲求は、私の成長を止め、私の人生全体を否定する役割をとっていたのかもしれません。私は、実は、このジレンマの網に深いところでがんじがらめになってもいたのです。

私は、人間の気持ちというものは年を経たからといって、本質的には変わるものではないと思っている人間ですが、通常は違うようです。人を恋する気持ちも、憧れる気持ちもいつまでも色褪せる事はないし、ある意味、ますますピュアになっていくものだと確信していますが、多くの人はそうは言いません。「若い子じゃやるまいし、愛だの恋だのはもうどこかへ置いてきた。」などと平気で言い放つ人もいます。そんな時は、「はあぁ~」と返すだけで、それ以上は何も言えなくなってしまいます。だから、私はどんどん寡黙になっていくのかもしれません。秘密主義にならざるを得ません。自分を語ってみたところで、世間の中では、私は浮くばかりだから…と思えば、面倒臭くなるだけです。でも、ここで一つ気づいたことがあります。私は自分を、人には見せませんが、心を閉じているわけではないということです。私は、とてもオープンマインドで正直な人間なんです。オープンマインドだけれど、自分を見せないだけなんす。でもそんな理屈は、誰も認めてはくれないかもしれませんね。「そんなのありかようぅ~」って言われるだけかもしれません。

自分の欲求を思い出し、「そうだ!これからは、自分の欲求の実現に向けて成長していこう!」って思えただけでも、私は自分自身を取り戻した気持ちになっています。

無駄なことは一つもない!

2006年06月19日 | 日々の泡
うっかりしていることで失敗したりミスを犯したり、(ちゃんと注意していればこんな面倒にはならなかったのに…)というようなことがよく起こります。些細なことといえば些細なことなのですが、面倒であることには変わらない日常生活上のつまらないやっかいごとです。でも、どんなことでもそれが起こったからこそ、気がついたとか、それが起こる前よりは結果的には良かったとなることが多いものです。よく考えると必ずそうなっています。だからこの頃は、うんざりすることでも、これはもっと‘佳きこと’の前触れとして起こっていることなのだと思うようにしています。‘人生万時塞翁が馬’とか‘人生はあざなう縄の如し’とも言います。正負の法則とも言えますね。良いことも悪いことも流転していきます。

先日、天台宗の住職さんの死生観についてのお話をお聴きする機会がありました。輪廻転生…私たちは必ず生まれ変わって、永遠に生き続けるのでしょうか? 住職さんが幼稚園で、‘地獄’のお話をされたら、園児の父兄から、「そんな現実感を伴わない話しはやめてください!」と言われたそうです。ファンタジーを許さない世の中になってしまっているのでしょうか?それでは、想像力も育ちようがないですね。お食事の前に、手を合わせて「いただきます。」という儀式もやめるべきだという声が上がっているそうです。給食費を払っているのだから、「いただきます。」などという必要はないという発想からだそうです。大いなるものへの感謝の気持ち。生かされているという畏れの心は…これからの時代では失われることが当たり前になっていくのでしょうか?

3日間程、東京を離れて、田舎暮らしをしてきました。大勢の懐かしい人たちと再会し、毎日が宴会のようなお祭りのような日々でした。その時のこともまたおいおい書いていけたらと思っています。