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アロマな日々

一条の光に誘われて歩くうちに、この世とあの世を繋ぐ魔法の世界に紛れ込んでいました。夢のワンダーランド体験を綴ります。

イメージの変化はいつやってくる?

2006年06月15日 | 日々の泡
「どこへでも飛んでいってしまう当てにならない心」「厳然とこの場にい続けるだけで保守の殻を破ろうとしないカラダ」自分という親は同じでも、まったく性質の異なるこの二人の心とカラダという兄弟に、私はこれまでどれほど苦しめられてきたことでしょう。私は決して、この小さな魔人たちの統率者ではなかったのです。私の中に所属しているモノたちでありながら、一度たりとも、彼らが私に従順であったことなどはなかったのです。味方だと信じて疑わなかった私の、実は、一番の反乱者であり謀反者だったわけなのです。私の内部を占領していたものが一番の敵だったなんて!敵は他人ではなかたったのです。一番の敵は自分だったのです。

これは、私のイメージが生み出した恐ろしい物語です。これから、私はこれらの物語をどうやって自分の中に収めていくのでしょう。イメージが動き、私の心とカラダが私の味方になってくれる日を楽しみにしています。多分そう遠くはない間に、イメージは大きく変化していくはずです。

知らなかった!

2006年06月14日 | 日々の泡
早大の客員教授で工学博士の吉村作治さんは、友禅職人の父から、「人間は肩書きじゃないよ。」と言われて育ったのだそうです。この父上には、わが子を叱って育てる気が一切なく、好きにやらせておこうということだったようで、長じた吉村さんがエジプトに行きたいと言い出した時も、「どうぞ、ご自由に」と言われただけだったのだそうですので、かなりの人物だということが伺われます。唯一つだけ「勤めはするな」という持論の持ち主でいらしたようです。いろいろなトーク番組を観ていると、芸能人や文化人の中にも、このような育てられ方をした人をまれにですがお見受けすることがあります。その方たちに共通の特徴は、「そういう親に育てられたから、ものの見方や考え方が、今でも、固定観念や社会通念に縛られることがない。とても有り難いことだ。そのおかげで自分独自の世界観が育てられた。ゆえに、自分なりの個性豊かな生き方を実現させることができた。」という感想を述べられている点にあります。羨ましいです。

芸能人や文化人ではないですが、私の身近にも、そのような人が一人います。周囲から、怪しまれ、なかなか単純な人間であることを認めてもらえない私ですが、世の中の多くの人とは、見方の違うその人が、ここ数年、私の傍にいてくれたおかげで、私は少しずつ、今までの堅苦しい生き方の殻から抜け出すことができるようになっているのかもしれないと思っています。

「勤めはするな」なんて言ってくれる親がこの世に存在することを、私は知りませんでした。

孤高の人

2006年06月13日 | my favorite・・・
以前に、村上龍氏が、中田英寿選手のことを優しくて強い人と絶賛していていました。けれど、新聞記事などを読む限りでは、中田英寿選手は、自分からは人の輪の中に入っていくことが大の苦手で、一人でいることが多い孤高の人という印象が強いです。中田選手と自分を比較しては顰蹙を買ってしまいそうで申し訳ないのですが、私も人の輪の中には入れないというか、入っていく気が元々ない人間なので、中田英寿選手もそれでいいのではないかと思ってしまいます。ただ、イチロー選手の昨今の、リーダーシップの秀逸さを目の当たりにしてみると、やはりリーダーたるもの、現状に甘んじてばかりではいけないのかもしれないとの考えも浮かんできます。

人間は自分の力や持ち味だけで勝負せずとも、人の力を借りてもいいということを最近、周囲の人から教えられることが多いのですが、中田英寿選手にも力強い見方が傍にいてくれているようなのでとても安心です。一人でいることの多い中田英寿選手の傍にすーっと近寄っていく宮本恒靖選手。人には理解されがたい自分の特質を補ってフォローしてくれる誰かが、自分の脇を固めてくれたら…頼まなくても、そんなことをしてくれる人が傍に来てくれたら…それを至福と呼ばずに何としましょう…という感じを抱きます。遠くの世界で起こっていることが、私自身の身の上にも起こっていることを思うと、とても暖かい気持ちになります。ドイツでの日本選手たちの健闘をできるかぎり応援したいと思います。サッカーの技術が十分に発揮されるために、現地での、日本の選手たちのチームワークやコミュニケーションがスムーズな流れに乗りますようにと祈るばかりです。今後の、奇跡の展開を信じてエールを送りたいと思っています。

チャンスの女神の後ろ髪を掴む力

2006年06月12日 | 日々の泡
「日本サッカーの父」デットマール・クラマーさんが面白いことを語っています。『多くの場合、指導者は自分の願望を選手に投影してしまう。そのため、現実をきちんと分析することができない。そして、誤ったトレーニングを課してしまう。』心理学を学んだ人ならば、この辺の事情のことは理論としては熟知できているはずです。が、心理の専門家には非常に複雑怪奇な特質の持ち主が多いので、理屈は理解できていても、それは教科書上のことであって、生のコミュニケーション場面では、恐らく、目の前の相手を混乱させるような投影をバンバン投げつけていることでしょう。専門家と呼ばれるような人には素直でストレートな人は少なく、理論を学ぶ過程で理論にがんじがらめになって、絡んだ糸をほどけないままに、それが人となりにまで及んでしまっている人も多いと思います。対象から向けられた事柄に対する自分の感情には敏感なくせに、往々にして、対象が抱くであろう心の反応には鈍感で、人を傷つけても、そのことに気づかずに無頓着でいる人も多いような気がします。どの世界でも、専門家が理論を自分のカラダの中に溶け込ませて、理論を超えた地平で勝負ができるようにならなければ、はた迷惑な影響ばかりを撒き散らすことになります。私は心理職ではありませんが専門職として、自分もこのことの例外ではないと思っていますので、極力、人に害を与えるようなことだけは避けようと日々、自戒しているのです。

さて、本題に戻ります。クラマーさんは、68年のメキシコ五輪で銅メダルを獲得した釜本選手を世界選抜に推薦したことがあるというエピソードを語っています。ところが、試合の日が結婚式と重なっていて、会社をあげてのセレモニーが企画されていた釜本選手は、世界選抜には出場しないという決断を下し、その旨をクラマーさんに伝えます。そのことの判断の是非は、私には分からないことですが、その後の釜本選手は肝炎を患って倒れ、W杯の予選も欠場してしまうという予後を辿ることになります。当時、バイエルン・ミュンヘンやレアル・マドリードなどの世界的なクラブが釜本選手に注目していたそうですから、その実力が飛ぶ鳥を落とす勢いだったことは間違いのないことでしょう。クラマーさんは釜本選手がもし、その時のチャンスを生かしていれば、日本のサッカーは違う歴史を歩んでいただろうとまで言い切っていますので、クラマーさんのこの論調からは、釜本選手は明らかに、一つの大きなチャンスを逃したという(クラマーさんの)判断が読み取れます。

本田健さんは、「ユダヤ人大富豪の教え」の出版が決まった時、プロモーションの準備が持ち上がったのだけれど、夏のその時期は、毎年、2ヶ月ほど家族と共に旅行をする予定と重なってしまっているので、さてどうしたものかと思案に暮れることになったそうです。どちらの行動を取るべきかを悩んだ挙句に、メンターに相談したところ、「家族と楽しい旅行をすることによって生まれたエネルギーが、ベストセラーを作るって考えればいい」との返答を貰ったそうです。頑張らなくちゃ売れない。どちらかを選択しなければいけないと思っていたのは、自分の頭の中にある制限だったことに気づいて、目からウロコの体験だったと振り返っています。

釜本選手の置かれた状況と、本田さんの場合とを比較することは細かい要件があまりにも異なっていますので無理なことですが、訪れたチャンスをどう生かすのか…というテーマを考える上での参考にはなりそうです。公人である場合には、自分の都合を優先させることは倫理上無理なことが多いように思われます。公人であるからこそ、結婚式を延期させてでも、アスリートとしてのアイデンティティを優先させて、世界選抜に出場することを選択することの方が、私には無理がないように思えるのですが、釜本選手は何故か、すでに決まっていた予定(結婚式)を優先させたのです。もし結婚式というような一身上の重大事と重なっていたのでなければ、世界選抜を断るというようなことは釜本選手にもなかったのかもしれません。結婚相手や会社への義理を優先させることが最善の道と判断された結果だったのだと思います。結婚相手と会社の判断がどうだったのかを、私は知る由もありませんが、世界選抜を反故にしてまで結婚式が執り行なわれたことは、私には、ひどくバランスを欠いた成り行きだったのではないかと思われてしまうのです。釜本選手と本田さんの両者を較べた時、本田さんの立場は至極気楽なものです。本田さんは、気楽に生きても誰にも迷惑をかけないで済む仕組みを内包した生き方を作り上げてしまっているからです。(もしかしたら、出版社には少し迷惑だったのかもしれませんが…)

その人に準備が整った時に、師は現れるものだと言いますが、チャンスの女神は、準備ができていない時に、突然、その人の目の前を疾走するもののようです。一瞬でもひるんだら、チャンスはすぐに目の前を通り過ぎてしまいます。しかし、チャンスを掴んでも、それを生かすことができなければ、掴んだ意味自体も失われてしまいます。一旦うまくいけばそれで万事が順当に進んでいくというものでもありません。関門は常に常に目の前に立ちはだかってきます。その謎解きを楽しめるようになれば、人生や運命と呼ばれているものの実態とも仲良しになれて、お付き合いすることがやめられなくなるのかもしれません。

創造性

2006年06月11日 | my favorite・・・
1ヶ月ちょっとの間、「めりなす君」に伴走してもらってブログ街道を全速力で走り抜けてきましたが、私の意識や心理の様相がここでまた、少し変化してきているようなので、ブログのテンプレートも替えてみることにしました。やはりピンク色です。ここ数年、私のエネルギーに肯定的な力を与えてくれる色合いはどうしてもピンク色なのです。ほっとするし、暖かい気持ちになるし、何よりも、気分が閉鎖的にはならず、優しく柔らかく、境界線のない地平までどこまでも拡がっていけるようで安心できるからなのです。それに理屈なしに、ピンク色はアロマのコンセプトとは地続きの世界を展開してくれそうな気もします。マウスを下に下ろしていくと、ピンクがブルーに色を変えていくのも面白いです。テンプレートの名前は「プリンセス」です。

意識というものは多層性を持っているものだと感じています。意識は単一のものではなく、いくつもの‘意識’を同時に、抱え持っていけるもののようです。今はどの意識状態が起動しているのか…などということは検索するまでもなく、必要な時に必要な意識が自動的に抽出されてくるように出来ているらしいので、そのことにはまったく気を留めている必要はありません。というわけで、私の意識の引き出しの一つでは、‘仕事’とは何か?という概念の情報をストックしようとしている機能が常に働いていますので、ちょっとでも、私の興味に関連のある情報に触れると、意識は即、その情報の方へとすべての注意を向けて動き出していきます。今朝の朝日新聞を開いた時も、意識がすぐに、ある記事に全神経を集中させていたのです。

私の意識の向かった先は「ひらめきが身をたすく」茂木健一郎が語る仕事というコラム記事でした。なぜいま脳ブームか?というと、定例的な、マニュアルに沿った仕事のやり方では対処できないことが非常に多くなってきているからだろうという推測で論が進められています。ホワイトカラーが担っていた事務作業のほとんどはITでカバーできてしまうのだそうです。『仕事というのは半分はマニュアルで処理できるのです。しかし後の半分は予測のできないことで動いています。私は偶有性という言葉を使いますが、半分は必然で、半分は偶然だという概念ですね。必然部分をコンピューターに任せられるいま、人間の脳にしかできないことは予測できない偶然に対応することに絞られていく。それがこれから求められていく仕事の能力になっていくでしょう』とのことです。

私が現在の仕事で直面している事柄の一つには、ある法律が短期間で成立してしまったことによる混乱の後始末に関わる、煩雑で創造性とは何の関係もない事務作業が含まれています。私は一応、事務以外の専門職ですので、本来ならば、私の仕事の範疇ではないのですが、全所をあげて取り組まなければならない緊急性に迫られていたため、その混乱の渦の中に巻き込まれていました。(現在では一応の収束はみていますが…)

この事件は、私が今の仕事にしがみつく意味を急速に失っていく原因の一つでもありました。私たちの生活は、こんなふうに、ある一群の人間の意志と方向付けで、一夜にして一変してしまうのだ、という驚きが憤懣やるかたない憤りと無力感を引き起こしたのです。力のある人はそれでも、多勢の論理のやむを得ない側面に順応していけるのかもしれません。けれど、弱者と呼ばれるような立場の人間に有無を言わさず、国家権力が介入して、生活のありようをさらに厳しいものに設定し直していく様を目の当たりにして、そんなことの、たとえ一部にでも関わっていくことは、それが、どんなに末端の作業であっても、自分はもう御免だという気持ちになってしまったのです。複雑で骨格を理解しづらい法律にあわせながら、四苦八苦して、その中での自分たちの仕事のあり方を考えていくことはもう私には出来ない。私の頭脳は、法律にのっとって、その仕組みの長所と短所を細かく整理し理解した上で、人に説明していけるような整然とした作りではないということをまざまざと思い知ったのです。マニュアル以外でこなす、本来ならば創造性が要求される仕事の前提に、まず大きな縛りがある。それでは、本当の創造性は飛翔出来ない。出来るはずもない…という、私自身の心の叫びに耳を傾けないわけにはいきませんでした。

茂木さんの言葉はさらに続きます。『コミュニケーションは、多くの偶然的要素に対応しなければならない、難しい能力ですから、その重要性は急速に増しています。創造性も同じです。今までにない新しいものを生み出す力、ひらめきをどう捉えるかが何よりも重要になってきている。不確実性が高い時代をどう生き抜いていくか。その鍵を握っている脳の育て方を誰もが探し始めているのだと思います。』『創造性が大切なことは分かる。しかし逸れは一部の才能ある人間だけが持ちうる能力ではないかと言う誤解が、まだあるようです。でも実は、誰でも持っています。それを仕事の領域に生かし、高めるためには体験×意欲という掛け算が大切になってきます。この体験と言うのは、多くのチャレンジをし失敗もたくさんして、経験を積むこと。意欲というのは強い価値観やビジョンを持つこと。成功体験をすると、脳内にはドーパミンという報酬物質が出てきます。これはとても心地よい状態なので、その報酬を出すに至った行動を強化するようになる。苦しくてもやり遂げられたら嬉しくなると分かっているから、またやってみようと考えるわけですね。それが意欲と名って掛け算が繰り返され、創造力になっていくのです。~中略~車輪を動かすのに最初は少しエネルギーが要りますが、一度この二つがかみ合って喜びの報酬が脳内に放出されると、必ず循環が起きてきます

少し前の私なら、このコラムを読んでも、一般論としてしか受け止めなかったことと思います。ところが、私自身の意識の状態の変化は、この文章を大変ビビッドなものとして、私に対する応援メッセージとして受け取ることが出来ているのです。よく、「あなたはあなたが考えている通りの人間になる」と言いますが、今では、その意味が分かるような気がしているのです。

感情に直面する

2006年06月10日 | 日々の泡
湧き上がってくる感情に翻弄され、未分化で曖昧な感情に足を掬われてしまうことに対する怖さのあまり、愚にもつかない私の感情には注意を向けないことに決めていました。ところが、感情に直面することの大切さを、再度、問い直すことが出来る文章に触れたことをきっかけに、恐る恐る、感情を感じてみることにチャレンジしてみました。

ある人の、自分へのリアクションに対して怒りや恨みを感じたりすることは、実はとても怖いことです。ある人に怒りを向けているとか恨みを持ってしまっているとかの現実を認めることは実に辛いことだからです。そんな感情を抱いてしまう自分を惨めな存在として感じてしまうからです。人に対してはいつも暖かい気持ちを向けられる自分でいたいと思ってしまうからです。

私は、常にどこかへ旅行に行きたいと考えている癖があるのですが、友人は皆忙しく、なかなかタイミングが合わないため、実現のチャンスも滅多にありません。それでも、可能性が感じられる場合には、相手の都合を確認するようにしているので、最近、「海外旅行の計画はどうなっていますか?」と聞いてきてくれた友人がいました。その人は、以前に、誘った時も「行きたいのは山々だけれど…」要するに、実現は難しいというニュアンスのことを言っていた人なので、私の中では、彼女の心の動きが見えるので、何の期待もしていなかったのですが、かなり積極的に、アクションを起こしてくれたので、今回はもしかしたら、実現可能なのかもしれないとも考えていました。それでも、最後の最後にはきっと上手くいかなくなるのだろうという気がしてしまいましたので、具体的には、何の行動も起こさないままでいました。

その友人から、ある時、メールが入りました。「やっぱり、予定が入ってしまって仕事は休めなさそうだし、正直言って、今後、そうそうは行けない海外旅行だと思うと、夫と一緒に行きたいと考えるようになりました。それに、突然、行けないということになっても、夫なら、迷惑が最小限で済む相手なので…」という内容でした。まぁ、十分予想される顛末だわなぁ…と思いつつも、何だかとても嫌~な気分に襲われていました。もうこのことは忘れてしまおうと決心して、ダストボックスに不愉快な感情を投げ捨てたのです。そうしたら、意外に、直ぐに忘れることが出来てしまいました。

それから、そんなに間をおかず、その友人から、「○○さんから結婚のお知らせメールが届きました。メールをもらうとやはり嬉しいものですネ。」というメールが私の元に届きました。先にメールをもらったときよりも、不思議と、心が余計にちくちく痛みました。彼女に返信メールを送ることはもう出来ませんでした。ちくちくと痛む心の傷が癒えるまでは、もう知らん顔をしているしかありません。

でも、感じないようにしていた感情を勇気を持って感じてみました。怒りや恨みの感情の奥には悲しみや寂しさがありました。何も、夫である人と私を天秤にかけなくても良かったんじゃぁないのだろうか?夫の方が大事なことは分かるけれど、そのことをわざわざ、私に告げてくれなくても良かったのに…それは正直とか率直ということとはチョッと違うのではないの?という憤りでした。そして、誰かと私を比べられたことへの悲しみでした。心底、(涙が出るほど)悲しいと思えたら、胸の中心にほっこりとした暖かい灯がともったのです。じーんとした暖かさが本当に熱く感じられたのです。感情を感じつくせば癒される…ということは本当のようです。

人は臆病なもの?

2006年06月09日 | 日々の泡
通常、人は、現在の境遇を飛躍的には変え得ないものですが、それは、そのための適切な仕掛けを見出せないからです。(仕掛けは簡単には転がってはいないものですし…)その仕組みを考え付くことは普通に生きていては不可能なことだと思われます。苦労して努力して辛抱し続ければ、その先にはきっと幸せが待っているなどという価値観にしがみついて、そういう健気な生き方を取り入れてみても、恐らく、行く手には失望と落胆が待っているだけのことでしょう。(厳しい時代になったものです。が、目を転じれば、だからこそ、面白い時代でもあるとも言えそうです。)そのことを十分に理解することが出来ていても、普通に生きている人は、現在の生活をほんのチョッと変えてみることも、未知の世界に首を突っ込んでみることもしようとしないものだということを、私は、この間、骨の髄まで思い知らされました。

私という人間が、友人や知人を相手に、詐欺まがいのことをするわけはないのに、友人や知人側は、私に対して、必ずしも、全幅の信頼を置いてくれているわけでもないということが分かり、私もその程度の人間だったのか…と、人から見た自分像を知るための絶好の機会を得ることになったのです。

人は面倒くさいことには巻き込まれたくないという恐怖心や警戒心を常に張り巡らせているようです。尤も、私も少し前までは、そういう保守的な人間の一人でした。このビジネスのシステムに対してだけは例外だったということに過ぎないわけです。

また、先日来、アロマ事業関係の講習会を見学させてもらったりして、何かとお世話になっていたビジネス関係のある人の、私に対する態度が突然、豹変してしまうというアクシデントにも遭遇しています。偶然、会社で顔を合わせた時に、私には一瞥もくれずに、その人が、逃げるようにその場から立ち去ったことには大層、面食らってしまいました。ビジネス関係の人との感情的なトラブルだけは禁忌だと思っているので、そのことには特に、心して当っていただけに、「なるほど、こうして避けようもなく試練が訪れてくるのか!」と舌を巻いています。一体、何事が起こっているのかを示唆してもらおうと思って、S先生にメールでご指導をお願いしてみたのですが、いつもは、私を安心させ、励まし続けてくださる先生からも何のお返事も届かないのです。「コメントのしようもない、自分で考えなさい。」ということだと勝手に理解して、このことにはもうこれ以上、拘らないことにしようと思っているのですが、ビジネスを金儲けの場所と言い切る人もいる中で、私は、ビジネスは「生き方を如実に反映させる場所」だと痛感しています。心の混乱が現実の人間関係に直ぐに反映してきますし、余程、自分がしっかりしていないと、人の誹謗中傷の的にもなりそうです。自分だけが自分の評判を知らないままで気楽にしている…などという状況には、笑えない怖さを感じます。どうも、私はこの手の状況に嵌っているらしいのです。おお、こわっ!

不思議の国への入り口

2006年06月08日 | 日々の泡
細かい目標を掲げることがとても苦手なので、大雑把な方針を漠然とイメージしながら毎日生きています。が、その時々の気分や体調に応じて湧き上がってくる直感や感覚に従って行動するようになってからというものは、感情と思考にがんじがらめになって暮らしていた頃の私とは随分色々な面での見掛けが違ってきているようです。自分では何も変わってはいないと思っているのですが、私の深い部分での価値観の変化に気づいている人たちは、私のことを‘変わった’と言います。以前は、「私には出来ない」とか「私はいいです」とかの発言ばかりだったのだそうです。私にしてみれば、そんなことを通常、口にしている覚えは少しもないのですが、万事に臆病で、すべての物事に対して必要以上に慎重な態度は、人から見れば、ひどくびくびく、おどおどした人間としてしか映っていなかったようです。

私自身は、自分に対して正直で率直なだけを特徴とする人間として生きてきたつもりでしたが、どうも、人と良好に関わるためのパイプを持っていなかったようで、自分の内部で起こることが、全部、外の世界へは拡がっていかず、自分の中で循環し自己完結してしまう閉鎖的なシステムを構築してしまっていたようなのです。

たぶん、今までは、どんなことがあっても、私の自己完結的な構造にひびが入るということはなかったのですが、何かの拍子に風穴が開いたようなのです。それは、何人かの‘宇宙人’との邂逅によるものでした。今では通わなくなってしまった「気功教室」ですが、振り返ってみれば、あそこに、不思議の国への扉のありかがあったということになります。あの場所がワンダーランドへの入り口だったことに気づいて、今さらながら驚いています。無国籍的な独特の雰囲気を持つ空間が、私にとっての通過儀礼が行われる場所だったのです。そこでは、気功を習う以外の何をしたわけでもなかったのですが、あの場所に足を踏み入れただけで、あの場を潜り抜けただけで、気がついたら、結果的には、未知の世界にジャンプあるいはワープしていたということになります。

そこに居た何人かの中国人は、日本という異国で独特の才能と技術を頼りに生きている人たちでした。日本では異邦人である彼らのありようは、日本人でありながら、ある意味、やはり異邦人としてしか生きられない私にじわじわと強い影響力を与えてくれることになったようです。今までの生き方や価値観で、この先もやっていくことには、表現しがたい閉塞感と一歩も前に進めない限界を感じて苦しんでいた私に、一石を投じてくれたのです。彼らは人間としての原始を知っていて、恐ろしく頭が良く智恵が働くのです。私のように鈍重で、まるで牛のような人間に対しても、そののろさを笑うことなく、そのコミュニィティの一員として受け入れてくれるのです。私は彼らから、支配や特別の縛りを一切受けることなく、好きな時にだけ、そこに出入りして気持ちを癒すことが出来るのです。こんなことが可能であるのは、そこが国籍のない空間だからなのでしょう。固定観念や特定の価値観からは自由で、同一の目的や利益のために形成された集団ではないからなのだと思っています。

あなたはどっち?

2006年06月07日 | 日々の泡
この世には、一人でいることが常態の人と、二人でいることが常態である人がいるように思います。人生のベターハーフやパートナーは見つけようとして見つけられるものでもないと、私などは思うのですが、割合に難なく、相性のいい相棒に恵まれている人たちも多いのです。そういう人は(私の友人にもそういう人がちらほらいます)「二人でいることが前提…」とこともなげに言い切ります。

私は残念ながら、いつも一人で、この世界を異邦人として放浪してきましたので、前提は「いつも一人」であることが当たり前と思っています。カプセルの中に二人一組で入りながら、死ぬまでそれで突っ走れれば、それは本当に幸せなことだとは思います。そうであるならば、人生の荒波を乗り切ることの苦しさも分かち合えるので、あまり辛いものではないかもしれません。けれど、私の人生においては起こりえないことでした。

長いこと、そのことの原因は、自分の、人間としての欠落に起因しているからだと思ってきたので、いつも後ろめたく、一日も早く人並みになりたいと願い続けてきました。一人でいることを恥ずかしいことだとも感じていました。一人で存在することの不全感や欠落感に私の存在が侵食され始めてもいました。だからといって、バランスを取るために、外に対して開放的になることは、私の本来の資質にはそぐわない危険なあり方だったので、何かに呪縛されたように身動きのできない息苦しさを自分の力ではいかんともしがたいまま凌ぐしかなかったのです。

ところが、つい最近、本田健さんのCDを聴いていたら、「周りの人との間に、きちんとした境界線を引くことが大人としての心得であり、一人でいることの感覚を持てるような人でなければ、幸せな生き方を実現することは難しい。」といった趣旨のことを言われていたのです。こういう感覚は通常は馴染みのないものなので、意外に思う人が多いかもしれないとの注釈付きでしたが、本田さんがそんなことを強調されていることを知った時の、私の驚きと喜びといったら、目が点になるほどでした。

そういえば、以前に、このブログでも、「二人で居られる能力」のことに触れたことがあります。二人で居ても、相手に飲み込まれずに、お互いが、自分一人の世界を維持できる能力のことなのですが、私のこれまでの「一人を前提」とした構えに、もし他者の存在が深く関わってくることがあるとしたら…それは本当に奇跡にも似た素敵な出来事となります。そう考えると、はやりこのままで、一人の殻に安住してしまうのではなく、「世界は広いんだ。」ということを感じ取れるようにどんどん冒険していこうと思ったりもしているのです。

情動調律

2006年06月06日 | 日々の泡
現在の私は、2つの意識状態の間を往ったり来たりしています。一つは、自分にOKを出せる安定した意識の状態。もう一つはノイズが混入してしまい平衡が崩れている危うい状態。仮に前者を意識Aとし後者を意識Bとすると、では、意識Aの時なら、すべてが上手くいくかというとそうでもなく、意識Bの状態ではすべてが沈没してしまうかというと一概にその限りでもないところが、生きることの不思議を反映しています。意識がBだと感じると、そのような意識状態のままだと気分が悪いので、私はにわかに情動調律に入ります。自分の情動を何に調律しようとするかというと、それは自然というか、目に見えない理(ことわり)に向けて行なおうとしているようです。何かちょっと祈りにも似た気持ちでと、自分の中に沈殿してしまった汚れや歪んでしまったひずみを払おう払おう、戻そう戻そうとしているのです。それはまた、一人であることの不全感に負けないでいられる感覚を取り戻すための過程でもあります。この頃では、私は外的な世界の猥雑さにほとんど影響されなくなっているので、そんなに苦手な人とか、私につっかかってくるような人とは滅多に遭遇しなくなってはいるのですが、それでもまだ、私を嫌ってすごく不機嫌な態度をとってくる人が一人だけいるのです。私は、この人の存在に、私の中の何を投影しているのでしょうか?また、この人は、私に何を投影しようとして、そんなにいらだっているのでしょうか?最近の私は自責的でも何でもなくなってしまっているので、「私の何が悪かったのかしら?」などと悩んだり、相手に申し訳ないと考えたりするようなことはしません。なので、この人には情動調律する積もりもなく、ただただ「私の事はあなたの意識からはずして欲しい!」と心の中で手を合わせているだけです。もう、この手のゲームはうんざりです。ボールが投げられてきても、私は取りたくないボールは受け取りません。それでも、有難いことに、私を信じて、とてもフレンドリーに関わってきてくれる人も(仕事上でもプライベートでも)居てくれるので、その場その場で、できる限りのことをしながら、何とか生き永らえることが出来ている今日この頃ではあります。