新たなる水の都市へ

2006-02-11 23:34:46 | ・大好き☆建築あれこれ
本橋は、他の地域にくらべ開発が立ち後れた感があったが、
ここ1、2年で盛り返し、かつてのにぎわいを取りもどそうとしている。
昨年2005オープンした「日本橋三井タワー」は、
記憶・品格・誇りを受け継ぎ、さらなる発展へとつなげるとのコンセプトらしい。
あのそびえる巨大なタワーは、日本橋界隈のこれまで壊されてきた
質の高い建物をも吸い込んで、透明な光を放っているだろうか。
どうだろう。

話題になっている首都高速移設問題については、
ただ単純に首都高速道路を回避させるだけで、本当に街は美しくなるのか。
プロセスが逆ではないか。
これまでの個々の古き良き建物を守りながら、
これからどのように都市のデザイン性を高めていくのか。
そういうことを考えていくことが大事である。
橋の上の首都高だけをとっぱらえばいいわけではない。
(費用も莫大だしね。)
もう一度、日本橋にふさわしい美しい街並みをイメージして、
江戸以来の伝統、水辺に位置する本来の日本橋の意味を考えてみよう。
なるほど、そういうことかなぁ・・と、思った。

えどはく
ただいま、 江戸東京博物館で開催中の
  
   「東京エコシティ 新たなる水の都市へ 」展は、
大勢の研究者たちが何度も会議を重ね、展示構成された展覧会だそうです。
私たちの都市、東京をもう一度、水の潤いがある美しい街へと誘う。
明日の未来にそうあればと思いめぐらす。
きっとよいきっかけになるのではないでしょうか。

静かにキラキラしている
きれいな水色のパンフレットが清々しいですね。
常設第2企画展 3月5日まで。 ぜひお運びください。



水辺の近代建築 ②

2006-02-11 12:00:11 | ・大好き☆建築あれこれ
日本橋の
美しきグロテスク!? → 麒麟

日本橋(明治44)は、゛ドイツ派゛建築家・妻木頼黄のデザインの石造橋。
青銅のバロック的な装飾。(伊東忠太の愛嬌ある怪獣とはちょっと違う。)
美術用語のグロテスクにあてはまる。うなずける。私はけっこう嫌いじゃない。

妻木は、辰野とライバル、犬猿の仲だったらしい。
いつも「横浜正金銀行本店」(明治37)と「日本銀行」が比較される。
妻木の方は、ドイツ仕込みのドームの迫力、存在感、
ペディメントの彫刻、正面の束ねた二本柱の太さ、間隔が充実してキマッテいる。
それに対して、辰野の「日銀」は、ドームは中途半端に小ぶりで、
ちょっと表情が重くさみしい、二本柱の間もマヌケな感じかなぁ。
でもさ、辰野は血と汗と涙の努力の人だって。

その二人がよりそっている、正しくはその二人の作品が寄り添っているのが、
「帝国製麻ビル」(大正4)と「日本橋」
赤くて綺麗な建物、辰野式の赤煉瓦、縦に細長いの、垂直性を強調したデザイン。
それに水平性の白い日本橋、コントラストがとっても美しい。

今はもうなくて、今回、カラーの写真で初めてみたけれど、いい感じです。
確かその跡地に現在建つビル内の玄関に、赤煉瓦の一部が残されていたと思う。
この次、日本橋に行ったら、しっかり見せていただこう。
「ここにあったんだね」って、きっと改めてカンゲキしちゃうだろうなぁ。

その前年の大正3年に辰野金吾は大作を完成させる、それが「東京駅」
東京駅が決定的となり、経済やオフィス街の中心が、
水運の日本橋から、鉄道が走る陸運の丸の内へ取って代わられ移っていく。
それまで、日本橋は選ばれた都市であり、工部大学卒業生である
日本の近代建築家たちによって高水準の作品が建てられた。
佐立七次郎「水準原点標庫」(明治26)「東京株式取引所」(明治30) なども。
しかし、三菱が丸の内一帯を買い上げて、
いわゆる「一丁ロンドン」と呼ばれる煉瓦の街並みができてからは、
建築もそちらに多く建てられるようになっていく。

横河工務所「東京取引所本館」(昭和6)は、スゴイわぁ。
円柱に花弁状の壁面、列柱もぐるりとまわってる。
内部もゴージャス空間、円を描くびらびら天井はまさしくお花。
願わくば私も一歩足を踏み入れたい。と言っても、それはもう叶わぬこと。
水際コーナーの特徴をいかしながらの建物意匠。
空からの写真で見ると、水に浮かぶ白い花っって感じかな。
今、何かと話題の株、だが、現在の東京証券取引所の建物に私は何も感じない。

昭和になっても戦前までは、水のほとりの伝統の意気込みは受け継がれていた。
やはり、何と言っても川を埋めたのは痛かったよね。
もっと水のほとりに位置する意味を大事に考えられればよかったのにね。
それにしても建物をデザインするとき、水辺を意識するとはすごくステキ。
形にしているのよ、夢があるわ ロマンがあるわ。


水辺の近代建築 ①

2006-02-11 01:54:16 | ・大好き☆建築あれこれ
~日本橋を中心に~
edohaku-culture  YONEYAMA ISAMU 2006.2.8

明治と平成の地図をくらべると、日本橋川は現在も流れているが、
楓川は埋め立てられ、そこに首都高速環状線が走っている。

昔、水が流れている川があった。まずこれを想像しよう。
一枚の絵のような美しい水辺の写真、まるで外国・・ではない、ここは日本橋。

かつての日本橋は江戸以来「水の都」としての特性を持っていた。
川のほとりを意識した街のつくりに彩られていた。
それは戦前の昭和まで意気込みが継承されていた。
現在も残っている 「三菱倉庫」「旧日本橋野村ビル」安井武雄
(共に昭和5年)などは、屋上の造形にマストなど船のイメージが見受けられる。

水辺に建ち、日本近代建築の始まりを告げる建物として、
明治元年に「築地ホテル館」 が誕生した。清水喜助+ブリジェンス
中央に塔を抱き、外観は江戸以来伝統のなまこ壁仕様、
見よう見まねの擬洋風建築で、ディフオルメされた錦絵が残っている。
「海軍兵学寮」(明治4)<設計者不詳>や、
大胆な和洋折衷の歴史的まれな怪作!と言うべき
同じく大工の棟梁・清水喜助のユニークな「第一国立銀行」(明治5)や
「駿河町三井組」<三井本館>(明治7)などもある。

銀行と言えば「日本銀行」(明治29) 辰野金吾の比較的初期の作品で、
重要文化財になっている。

日本橋は、色々な始まりの地、文化発祥の地でもある。
「駅逓寮」 (明治7)は郵便発祥の地であり、設計は林忠恕
同じ敷地にあった「東京郵便電信局」(明治25)は、
辰野と同期で宮廷建築家の片山東熊の作品。
ルネサンス様式だか、短調な窓がいくつも並んで少々つまらない。

壁に加重がかからない日本最初の鉄骨造カーテンウォール(帳壁)建築、
耐震構造の創始者・佐野利器設計の「丸善株式会社」 (明治42)

水辺ならではのデザインとして、ベネチアンコシック様式があげられる。
いわゆるベネチア風のゴシック。
イスラム的な尖りアーチのオージーアーチ(←座ると痛そう・米山先生発言・笑)
明治10年に来日したジョサイア・コンドル設計の永代橋にあった建物。
「開拓使物産賣捌所」 (明治13)

同じく水辺映りの良さが意識されたスタイル・ベネチアンゴシック採用の
「兜町渋沢邸」 (明治21)は、コンドルの一番弟子・辰野金吾の設計。
角地の水辺のロケーションにピッタリの名建築。
ステキな住宅設計、 美しい住宅。

同じクオリテティーを並べなくていいから、界隈の雰囲気にひとつふたつ、
それが、街並みの運命を左右する。