いや~、すっかりご無沙汰してしまいました。
皆さんに忘れられないうちに早速、記事をアップしますね・・・・・(苦笑)
それでは今回から浦添城跡を紹介します。
王国以前の古代の琉球は按司(アジ)といわれる各地域の支配者によって治められてきました。
浦添城跡の航空写真↓
アジの語源は主(あるじ)からきているようです。
ウチナーグチ(沖縄方言)では主(あるじ)のことをスーといいます。
これは一家の主という意味で世帯主→父親→スー となります。
私達の父親→ワッタースー(ワッター→私達、スー→父親)といった感じですね。
ちなみに母親のことをアンマーといいます。(私達の母親→ワッターアンマー)
ちょっと脱線しましたが話を戻します・・・・・・・・・・・
王国以前は琉球を3つに分けて北山、中山、南山と称し、北山→今帰仁城、中山→浦添城、南山→島尻大里城という拠点が築かれました。
これがいわゆる琉球の歴史上、有名な三山時代といわれるものです。
これはつまり王に代わる権力者(按司)が琉球を三分割した3つの地域に存在したワケです。
浦添城跡↓
ここは世界遺産にこそ登録されていませんが、琉球の王国以前の歴史は浦添城抜きでは語れません。
尚巴志が三山を統一して名実共に琉球王国という統一国家を築くまでは首里城以前の中山王の城として有名です。
実はこの浦添城こそ、のちの王都となる首里城の原型だったらしいのです。
今でこそ城も城壁も当時の原型を留めていませんが、その当時の規模はかなりのものだったんですね~
琉球時代は薩摩藩の侵攻で焼き討ちに遭い、そして第2次大戦では日米両軍の戦闘によりその大部分が破壊されました。
そして現在は復元もままならず浦添大公園として存在していますが、近い将来、復元され、かつての威容?を見せてくれるはずです。
城壁 正殿跡地
浦添城の前の碑↓
手前の石は乗馬用踏台 首里城に至る石畳道
快晴日には碑の前方奥に首里城が見える↓
(この日は曇天日のため、霞んでいる)
浦添の地は舜天、英祖、察度という歴史上、偉大な指導者を生んだ由緒ある地域です。
中山王の拠点である浦添城は13世紀の英祖王から始まり14世紀の察度で最盛期を迎えました。
英祖は太陽の申し子として生まれたという伝説があり、太陽の子をウチナーグチ(沖縄方言)では太陽→ティーダということから、太陽の子→ティーダの子→てだこ、となり
現在、浦添の別名である「てだこの街」の語源となっているワケです。
そして英祖の後の察度王は琉球の歴史上初めて中国・明との貿易を実現させ、琉球と中国との貿易により、その後500年におよぶ琉球王国繁栄の基礎を固めた偉大な人物なんですね~
そういうことで当時の浦添はその権力の大きさから津々浦々を襲う(支配する)土地という意味でうらおそいと呼ばれそれが転じて現在の浦添という地名になりました。
津々浦々を襲う→うらおそい→浦添
なるほど、歴史というのは面白いですね~
さて、かように隆盛を極めた中山王の察度王統も1406年には尚巴志に滅ぼされるワケですが王宮が首里に移ったあとの浦添城は浦添按司家の館として使われました。
その後、琉球王国第4代目の尚寧王が浦添城から首里城までの道を石畳に改修しました。
浦添城跡から晴れた日には、くっきりと首里城を望むことができます。
なぜだか感動しますね・・・・・・・・・・・・・・・・・
歴史ある浦添城跡からこれまた歴史ある首里城を視野に収めることができるということにとてつもないロマンを感じるのは私だけでしょうか・・・・・・・・・・・・
さて、そろそろ紙面が尽きてきました。
次回をお楽しみに・・・・・・
アンシェーヤ!(それでは!)
浦添ですか。そこまでは私も本で読んだことがあります。でも、不思議なのは、それ以前の歴史や、国頭あたりの歴史を読んだことがないのです。歴史は勝者が作る(でっち上げる)といいます。まだまだ古い遺構が埋まっていそうです。
確かに、幸か不幸か葬り去られる歴史もあるワケですね・・・・・・・・
都合の良い歴史だけが残るというのは
やはりいけないことだと思います。
良いことも悪いことも事実は事実として残さないとね。。。