沖縄あれこれ情報ブログ

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ウチナー(沖縄)の世界遺産・中城城跡(その2)

2006年12月15日 01時12分54秒 | 日記・エッセイ・コラム

さて、前回に引き続き中城城跡です。

これは一の郭から太平洋側を望む風景です↓24560022_18 24560017_13  

          

前方右奥が知念半島で、その左前方には神の島・久高島が横たわっていますが写真ではちょっと分かりづらいかもしれませんね~

中城城跡は東に太平洋、西に東シナ海を望み南側に知念半島、北側に勝連半島が見渡せる素晴らしい眺望の高台にあります。

中城城跡公園全体図↓

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久高拝所(久高島に向かって祈願する場所)↓

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久高島方面↓

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首里遙拝所(首里城に向かって祈願する場所)↓

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中城城跡にはこのような拝所が8箇所あるといわれています。

ウチナーには琉球時代からノロ(神に仕える神女)、ユタ(霊媒師、祈祷師)が存在し、琉球王府に多大な影響力を持っていました。

琉球王国はある意味、ノロに支配されていたといってもいいかもしれませんね。

実はこの部分が良くも悪くも本土と決定的に違う歴史と文化なんですね~

城壁と空↓

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この歴史と文化は現在でもウチナーの各地に受け継がれています。

今も昔も共通するのは神事の行事には男子禁制だということです。

女性パワーは脈々と受け継がれてきたワケですが、どうやらその辺にウチナー女性の強さの源があるのかもしれませんね~

カンジャーガマ(鍛冶屋跡)↓

これは上部が人工の城壁で下部は自然の城壁となっており、鍛冶屋は自然の城壁の一角をくり抜いた形(右下のくぼみ)で残されています。

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一説によると城主の護佐丸が宿敵の勝連城主である阿麻和利との戦いに備えるために、ここで武具を造っていたということです。

正門(元々は上部に櫓が乗っていた)↓

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正門近くの鉄砲台↓

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琉球史で有名な護佐丸・阿麻和利の乱は時の中山王・尚泰久を勝連城主の阿麻和利がおびやかし始めたことがきっかけでした。

護佐丸は阿麻和利から中山王(首里城主)を守るために備えていたのですが、ある日、阿麻和利が変装して首里城に上り、護佐丸が中山王に対して謀反を起こしているという謀略を図ったのです。

これにより中山王は阿麻和利に対して護佐丸への攻略を命じたワケですね~

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かくして護佐丸は阿麻和利の手に落ちたワケですが、その後、阿麻和利自身も中山王によって滅ぼされました。

1429年に尚巴志が三山を統一以来、1458年に阿麻和利の乱の後、琉球王国は益々安泰化したワケですが護佐丸の無念は、さぞ尽きなかったことでしょう・・・・・・

実は中城城こそ琉球における中央集権の確立に大きな役割を果たし、かつ中世的な戦乱において最後の築城であった特筆すべきグスク(城)だったのですね~

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現在、護佐丸は中城城跡の近くにあるお墓に葬られていますがこの墓こそウチナーにおける最も古い亀甲墓として存在しているのです。

あの世の護佐丸は中城城跡を見下ろして何を想うのでしょうか・・・・・・・・

南海の古城に息づく、いにしえのロマンはあなたを琉球の世界へと誘って(いざなって)くれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さて、そろそろ紙面が尽きてきました。

中城城跡はこれで終わります。

次回をお楽しみに・・・・・・・・・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)


ウチナー(沖縄)の世界遺産・中城城跡

2006年12月10日 15時48分51秒 | 日記・エッセイ・コラム

いや~、すっかりご無沙汰してしまいました。

師走に入った途端、色々と取り込んでしまい気がついてみたら現在に至ってしまいました。

そういうことで取材がなかなかできなかったのですが、今回久々に世界遺産を取材してきました。

それは中城城跡です。

中城と書いてナカグスクと読みます。

ウチナーグチ(沖縄方言)では城のことをグスクというのは有名?ですよね。。

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中城城跡は沖縄県中部の中城村に位置し14世紀後半に当時の中城按司が築きあげた城を1440年に読谷山按司であった護佐丸が増築したといわれています。

実はここは数ある城跡の中でも唯一、沖縄戦の戦火を免れたため県内の城跡では最も原型を留めていることで有名なんですね~。

そしてここは自然の岩石と地形的な条件を生かした美しい曲線で形造られており、その築城技術は歴史的にも高い評価を受けているのです。

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それを裏付ける事実として、1853年にペリー提督一行が黒船で来琉した際に中城城を訪れ測量したのですが「要塞の資材は石灰岩であり、その石造建築は賞賛すべき構造であった」という記録が残されているんですね~。

中城城跡は琉球石灰岩を使った城壁が唯一、完全に近い形で残された歴史的遺跡といってもいいワケですね。

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そしてペリー提督一行は城門のアーチ構造についてもその精巧な造りに対してエジプト式の造りだと評価したということです。

あの当時に琉球とエジプトの交易があったという事実はないはずなのに驚きですね。

城門↓

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逆光を浴びた一の郭↓(正殿があった場所)

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ホントは逆光なしで撮りたかったのですが、現場ではこのアングルしか狙えなかったというのが本音です(笑)

一の郭↓

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城郭から太平洋を望む↓

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一の郭の広場

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西の郭から東シナ海方面を望む↓

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一の郭と二の郭↓

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城壁と東シナ海側↓

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城壁と太平洋側↓

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上の2枚の写真からは太陽の位置により東シナ海側と太平洋側では光の加減で被写体のイメージの違いが分かると思います。

さて、そろそろ紙面が尽きてきました。

次回に続きます・・・・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)