沖縄あれこれ情報ブログ

沖縄の文化、歴史をメインに沖縄あれこれ情報を発信するブログです。

飛行機の見える島・瀬長島

2006年11月25日 16時52分09秒 | 日記・エッセイ・コラム

ウチナー(沖縄)は全国一の離島県ですが、その数ある離島の中で空港に一番近い島があります。

それは瀬長島といって那覇市に隣り合った豊見城市にあります。

瀬長島↓            右側は野球場が4面↓

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ところで空港はどこにあるかって?

はい!

これです↓

これは沖縄本島の南側(太平洋方面)のちょうど飛行機が離着陸する角度から見た衛星写真です。

手前下に今まさに着陸しようとする飛行機が見えます↓

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瀬長島と本島は海中道路で結ばれており、その海中道路から那覇空港に向かって飛行機の誘導灯が一直線に伸びているのが分かりますね~

実はこの海中道路の真上を飛行機が分刻みで低空飛行着陸するのが目の前で見ることができるのです!

逆光を浴びて着陸する飛行機↓

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写真ではそれほどでもないのですが実際の現場は手が届くような錯覚におちいるほどの至近距離で圧巻です!

まさしく航空マニアにはたまらない光景でしょうね。

向こう側が那覇空港↓

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島の上空を低空飛行する飛行機↓

向こう側は那覇市

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島をかすめて着陸する飛行機↓

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豊見城市から瀬長島に伸びる海中道路↓

右側が那覇空港方面

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海中道路から那覇空港に伸びる誘導灯道路↓

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ガードフェンスと航空局車輌                           24560014_16 24560026_9

島の海岸から見た風景↓ 向こう側は空港↓                               24560020_11 24560017_12

瀬長島は観光地というワケでもなく普段は市民のレジャースポットとして夏場はビーチパーティーで賑わい、週末と休日は少年野球、釣りなどで賑わいます。

そして、ご覧のように島の中は特にこれといった見所もない所です↓

島の周回道路↓

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島のレジャー施設・スポーツセンター↓24560018_18

しかしなんと意外なことに、琉球時代は瀬長城(セナガグスク)といって当時の地域支配者である瀬長按司(セナガアジ)の居住するお城があったのです!

残念ながら現在はその痕跡を留めていません。

なぜなら戦後から復帰前にかけてここは米軍基地の弾薬庫として使われていたため、島の形が大きく変えられたのです。

そしてここは昭和52年に返還されましたが、現在はその特異な立地条件から空港の施設の一部として利用されているワケです。

琉球時代は当然、海中道路も誘導灯道路もない孤立した島だったワケですが、瀬長城が島の中央にそびえ立って?いたとすればそれこそ島城(シマグスク)として素晴らしい景観だったことでしょう!

可能であれば復元して欲しいのですが、あいにくとここは飛行機の離着陸ルートとなっているため叶わぬ夢でしょうね・・・・・・・・

しかしあの世の瀬長按司も、まさか瀬長島の上空を飛行機がかすめていくとは夢にも思わなかったことでしょう。

さて、そろそろ紙面が尽きてきました。

次回をお楽しみに・・・・・・・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)


ノロ(神女)の住む城・知念城跡

2006年11月19日 22時41分14秒 | 日記・エッセイ・コラム

こちらは沖縄南部の知念というひっそりとした場所に知られざる城跡があります。

ここはとてもこじんまりとして目立たない城跡であり、奥に行くに従って霊気らしきものを感じます。

入口↓             前方が城跡↓24560007_12                         24560008_15  

       

入口側から全体を見る(右端が城跡城門)24560034_6 24560033_7

それもそのはず、霊気を感じるのは城跡の一角にノロの屋敷跡があるからなのでしょう・・・・・

実はここは「おもろそうし」では「ちねんもりぐすく」と謡われた霊場でもあるのですね~24560009_11 24560011_15

 

ノロとは神女のことであり、琉球王国時代は王府とノロは切っても切れない表裏一体の関係が築かれていたのです。

つまり、琉球王国はある意味、ノロが動かしていたといっても過言ではないでしょう・・・・・

知念城は代々、知念按司の居城であったようですが、当時の尚真王の権威と「あまみきよ」伝説が結びついていたのがこの知念城という宗教的意味合いを持つ城だったワケです。

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一説によると知念城は尚真王の異母兄弟である内間大親が築いたといわれますが真偽のほどは定かではないようですね・・・・・・・・・・

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現在、発掘作業が続けられていますがまだまだ新発見は出てきそうです。

もしかすると近い将来、真偽が解明されるかもしれません・・・・・

歴史の謎はロマンが広がりますが、さてホントはどうなのでしょうか???

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発掘現場↓

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前方は太平洋を望む↓

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前方に神の島、久高島を望む↓

残念ながら、この日はあいにくの曇天で、空海ともさえない色である。

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かつてはノロがはるか向こうの久高島を拝み琉球王国の安泰を祈願したということです。

昔も今もその空と海の風景はほとんど変わることなく、そしてこれからもずっと変わらずにいることを祈ります・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さて、そろそろ紙面が尽きてきました。

次回をお楽しみに・・・・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)


琉球王朝の酒・泡盛

2006年11月11日 20時52分10秒 | 日記・エッセイ・コラム

日本最古の蒸留酒は焼酎のルーツともいわれている泡盛です。

なんと今から500年以上も前に泡盛は生まれたのですね~

琉球王国時代は15世紀の初めに中国を中心に東南アジアと貿易を始め、当時のシャム(現在のタイ)から蒸留酒を輸入していたのです。

そして、シャムから蒸留酒の造り方を教わり1470年頃から本格的に泡盛が造られたようです。

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その後、琉球王国は1667年以降に泡盛の製造を王府の管理下に置き王府が認めた製造家以外の製造を禁じました。

そして製造を認められた製造家は泡盛製造に失敗するとなんと、最悪の場合は島流しにされたそうです。

当時の泡盛造りはまさしく命がけであったようですね。

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泡盛の名前の由来は諸説があって当初は粟から造られたから「粟盛」という説や注ぐときに泡立つから「泡盛」という説がありますが、どうも泡説が有力なようですね。

ところで泡盛の名称は復帰前から長い間、全国的には認められていなかったのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・何故でしょうか?

当時は酒税法上は焼酎という扱いであり、製品には焼酎乙類という明記が義務付けられていたんですね~

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今でこそ、全国および国際的にも脚光を浴びている泡盛ですが復帰前は島酒、ウチナーグチ(沖縄方言)では島酒→シマザキと呼ばれ、ある意味、蔑みと親しみを込めてそう呼ばれていました。

質のほうも現在の泡盛とは比べられないほど荒削りであり、味といい、香りといい、荒削りの地酒の最たるものだったのです。

特に香りは泡盛特有の臭みがあり、鼻が曲がるような匂いでした。

それゆえ、その荒削りの味と匂いをごまかすために愛飲する時は殆どの人はコーラ割かソーダ割りにして呑んだのです。

今ではとても考えられないことですが、それだけ現在の泡盛が酒造家の努力と研究の賜物により進化したということですね~

さて、これをご覧ください↓

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なんだかすごく古びた建物ですね~

歴史的な建物でしょうか?

実はこれ、泡盛の貯蔵倉庫なんです。

建設当初の建物はこれです↓

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実はこの外観の差は泡盛の製造方法に関係しているのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・なぜ???

それは泡盛はタイ米と黒麹菌を使うからです。

これは年数を経ると建物の外壁に黒麹菌の色素が現れてくるそうです。

そして泡盛の特徴は黒麹菌を使うこと自体が世界的にも類のないことなんですね。

これに対して焼酎は白麹菌が使われています。

それから日本米ではなくタイ米を使うことも泡盛の特徴なんですよ。

もともとはシャム(現在のタイ)から製法を教わったルーツがあるワケですからそれなりの意味があるということですね。

酒壺↓

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左側が貯蔵庫で右側が製造施設↓

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かつては琉球王朝の酒であった泡盛ですが現在の高品質の泡盛を当時の琉球王が口にするとおそらく、その美味に腰を抜かしてしまでしょうね?

「アイエーナー!アンシマーサル、クヌサキヤ、タマシヌガチャン!」

「アラまあ!なんとおいしいことか、この酒は、ビックリした!」

今宵、あなたも泡盛はいかがですか?

「アイエーナー!・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

そろそろ紙面が尽きてきました。

次回をお楽しみに・・・・・・・・・・・・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)


日本の東南アジア・国際通り

2006年11月05日 19時35分31秒 | 日記・エッセイ・コラム

ウチナー(沖縄)のメインストリートといえば国際通りです。

ここは正式には県道39号線であり、県庁前交差点(泉崎)から安里交差点までの通りをいいます。

県庁前交差点・右手が県庁で左手が国際通り↓

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県庁前交差点の再開発ビル・パレット久茂地↓

ここは沖縄初の再開発ビルです。

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国際通りはその長さが1マイル(約1.6km)あるため、別名「奇跡の1マイル」とも呼ばれます。

しかしなぜ、そう呼ばれるのでしょうか?

国際通りのほぼ中間地点にある那覇タワー↓         

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実はこの地域は戦前は畑が広がる単なる湿地帯でした。

終戦直後に商売の行き場を失った人達が通り沿いにバラックあるいはテントを建てていわゆる闇市的なエリアとしてスタートし、戦後めざましい復興の地となったことから奇跡の1マイルと呼ばれるようになったのです。

そして国際通りの呼び名はちょうど写真↑の前方右側に終戦後にできたアーニーパイル国際劇場という映画館に由来しました。

アーニーパイルというのは沖縄戦における米軍の従軍記者の名前です。

アーニーパイルは従軍中に沖縄の伊江島で戦死しましたが彼の当時の栄光を讃えるために命名されたワケです。

前方奥突き当たりが国際通りの終点?の安里交差点で左右に延びる高架橋はモノレール↓

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国際通りは元々は百貨店などの商業施設が集中する沖縄一の繁華街だったのですよ~

がしかし、最近は周辺地域の商業地域再開発により商業的な地盤沈下が進み現在はもっぱら観光土産品店が集中する観光客相手の地域となりました。

ご覧のように垢抜けしないローカル色丸出しの通りですがそれでも観光客には根強い人気を保ってるんですね~

ここにはウチナーの原点があります。

実はそれが人気の秘密なんです!

沖映通りから国際通りを見る↓

左側が安里交差点向けで右側が県庁前交差点向け

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ここは国際通りに交わる沖映通りの一角↓

すぐ左側が国際通りに突き当たる↓

右側の屋上球形タンクは本土では絶対に?見ることのできない、かの有名なウチナー限定の断水用水タンクです。

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さて、面白いものを見つけました!

街角のベンチに佇む後ろ姿の美女?↓

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表に廻って見ます・・・・・・・・・ドキドキ

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お!マリリンモンロー?じゃないですか!

しかしちょっと変ですね~

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実はこれ、本物・・・・・ではなく、オブジェでした!

その証拠に隣の紳士達はそっぽを向いています・・・・・・・

これが本物だったら視線は当然・・・・・・・・・・・・ですよね?

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とまあ、こういうお遊びもあるのが国際通りです。

決して都会の街並みのスマートさはありません、

どころか、不器用さが目立ちます。

しかしこれがなんともいえない魅力なんですね~

国際通りは日本というよりも東南アジアといったほうがイメージは近いと思います。

そう、ゴタゴタした雰囲気ですね・・・・・・・・・・・・

あなたがここに来ればきっと、ここがまぎれもない日本唯一の亜熱帯地域だということを実感させてくれるはずです。

言葉ではうまくいえませんがここはまさしく亜熱帯地域・・・・・・・・・・・・・です。

ゴタゴタ、ゴタゴタ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ぜひ体験されてください。。。

そろそろ紙面が尽きてきました。

次回をお楽しみに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)