沖縄あれこれ情報ブログ

沖縄の文化、歴史をメインに沖縄あれこれ情報を発信するブログです。

ウチナー(沖縄)の最北端・辺戸岬

2006年10月29日 21時20分05秒 | 日記・エッセイ・コラム

皆さん、お久しぶりです!

相変わらず忘れた頃に記事をアップしていますがどうかお許しを・・・・・・・・

さて、前回ご紹介の金剛石林山の所在地は国頭村ですが、ここは沖縄本島の最北端となります。

そしてその最北端の岬が辺戸岬なんですね~ 

 下の写真は岬の突端部分です。

(水平線の向こう側が鹿児島方面)

←東シナ海側           太平洋側→                    24560051_1 24560052_2

さて、それでは早速、岬の突端部分の石碑に近づいてみましょう・・・・・・・・

あれ!

よく見たら辺戸岬とは書いてませんね~

そこにはなぜか→祖国復帰闘争碑とあります・・・・・・・

はて?どういうことでしょうか???

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実はウチナー(沖縄)が本土復帰するまで、ウチナーは日本ではなく琉球(沖縄県ではなく琉球政府)だったワケですが、その歴史の名残がこの石碑なんですね~

なんと辺戸岬の前方海上に横たわる北緯27度線はまさしくウチナーと日本本土を隔てる国境?だったのです。

下の写真の赤い星印(十字)が海上の左右に横たわる北緯27度線であり、事実上の国境でした。

ウチナーは1952年の4月28日にサンフランシスコ平和条約の締結により事実上、アメリカの支配下に置かれました。

そこで復帰前は毎年4月28日になるとこの国頭村と鹿児島県・与論島の双方から小舟が出され国境である北緯27度線上でお互いにたいまつを焚いて祖国復帰闘争を展開したのです。

夜の真っ暗な海上でたいまつの明かりの下で

「沖縄を返せ!」

「沖縄を返せ!」

とお互いにシュプレヒコールを上げました。

そしてお互いに日本人でありながらこの目には見えない27度線を容易に越えることがままならなかったワケですね~Mfwmapserv_1

当時のウチナーが日本でないということは、つまり外国ということですから日本本土への渡航にはパスポートが必要だったワケです。

私も高校生の頃にパスポートを手に本土へ行ったことがありますが、あの頃は飛行機での旅は贅沢な時代であり、船での渡航が一般的でした。

それだけに港から出航する際は同じ日本でありながらさながら見知らぬ遠い外国へ行くような期待と不安で胸が躍った記憶があります。

今でこそ飛行機での渡航が当たり前ですが船での渡航は飛行機のそれに比べていささかの旅情をかき立ててくれます。

水平線のほぼ真ん中に目視で鹿児24560046_1 島県・与論島の島影が望めますが、写真では確認できないのが残念です↑↓

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展望台下の絶壁↓24560041_3 24560042_3 (吸い込まれそうです)                                     

岬から安須森方面を望む↓24560038_4 24560044_4

 

同上24560056_424560055_5                              

ウチナーは1972年5月15日に念願の祖国復帰を果たしました。

かくして、当時の祖国復帰闘争を後世に伝えんがために先の石碑が建立されたというワケです。

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そろそろ紙面が尽きてきました。

次回をお楽しみに・・・・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)


神々の巨大彫刻群

2006年10月21日 23時20分11秒 | 日記・エッセイ・コラム

ここは沖縄本島の最北端に位置する国頭村です。

驚くことなかれ!

なんと2億年前の地球がここにあるのです。

全体写真↓左前方は沖縄最北端の辺戸岬

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ここは金剛石林山といって2億年前の石灰岩が塔のように林立しています。

実はここは今から2億年前の石灰岩が雨水等により長い年月をかけて浸食されてできた日本唯一の熱帯カルスト地形なんですよ~

金剛烏帽子岩↓

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ここは発見されてから一般公開されるまでになんと30年の歳月を要しました。

というのはこの地域は沖縄海岸国定公園であるため、再開発の認可が容易におりなかったようです。

パパイヤの木と奇石郡↓

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奇石の中の池↓

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奇石の門↓

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さて、これはなんだと思いますか?

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どこかで見覚えがあるでしょう?

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24560017_11 ←正解は

そう、悟空岩です。

孫悟空は石から生まれたことで有名ですよね?

これはまさしく孫悟空をイメージさせる石山ですね~

ピッタリのイメージでしょう・・・・・・・・・・・・・・・

さて、これはなんでしょうか?                              

花にしては変ですよね~

24560027_11実はこれはソテツで、真ん中にあるのはソテツの実です。

この一帯には6万本以上のソテツが自生しているといいます。

ソテツの実は猛毒があり、人間でも動物でも食べると命を失います。

しかし沖縄戦の戦時中では食料不足のため、命を犯してまでもこれを食したといいます。

もちろん毒を抜いて食べるワケですが当たりハズレがあるワケですからまさしく命をかけて食したというすざましい歴史があるワケですね。

これはソテツ地獄として沖縄戦の悲惨な歴史に残されています・・・・・・・・・・・・

さて、下の写真の真ん中付近の頂きには沖縄最北端の御獄(ウタキ=拝所)があります。

この一帯は安須森→ウチナーグチ(沖縄方言)でアスムイといいます。

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この一帯は昔々、神様が天から降りてきて最初にこれらの森を創ったそうです。

ということは金剛石林山はまさしく神々が創った巨大彫刻群といってもいいでしょう・・・・・

これらの奇石を見れば見るほどそう思わざるを得ません・・・・・・・・・

考えて見たら沖縄戦当時の激しい戦火にもかかわらずここだけは無事だったワケですがこれは決して偶然ではないでしょうね。

今でも森の中の拝所には神女(ユタ)が参拝するようです。

下の写真は辺戸岬から安須森および金剛石林山を眺めた景色です。

すごく神々しいものを感ずるのは私だけでしょうか?

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自然が持つ造形美には人間が足元にも及ばない美しさとパワーがあります。

それはやはり神の成せるワザでしょうか・・・・・・・・・・・・・・・・

さて、そろそろ紙面が尽きてきました。

次回は辺戸岬をご紹介します。

お楽しみに・・・・・・・・・・・・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)


ウチナー(沖縄)の世界遺産・勝連城跡その2

2006年10月15日 21時40分54秒 | 日記・エッセイ・コラム

いや~、すっかりご無沙汰してしまいました・・・・・・・・・・・・・

それでは、さっそく前回の続きです。

さて、下の写真はコンピュータグラフィックによる勝連城の復元図です↓

これは北側に位置する西原御門(ニシハラウジョウ)から見たものです。

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首里城と違うのは高台にあって要塞をイメージさせるところでしょうね。

実は当時は激動と混乱の時代であり、琉球が不安定な時代で権力争いの真っ只中にありました。

そういうことから勝連城は外敵防御型の造りとなったようです。

阿麻和利は琉球の王権奪取を目指して手始めに国王の重臣である中城城の護佐丸を1458年に滅ぼします。

そしてその後、首里城を攻めましたが無念にも戦いに敗れ滅ぼされてしまいました。

この戦いが琉球の歴史上有名な「阿麻和利の乱」です。

そしてこの阿麻和利の敗戦により、琉球王国は安定したのです。

ところで阿麻和利に嫁いだ百十踏揚は皮肉にも阿麻和利を倒した鬼大城と再婚しました。

その後クーデターにより鬼大城は権力の座を追われ、百十踏揚は沖縄南部島尻の玉城へと生き延びましたが晩年は寂しい隠居生活を余儀なくされたのです。

百十踏揚は激動と混乱の時代に生きた悲劇の王女としてその名を残しました。

その美しさゆえ、薄幸?の美女だったのかも知れません・・・・・

北側、海中道路方面を臨む↓  24560023_8 24560024_9

↓南側方面を臨む24560018_16                    

これは勝連城の守り神を祀った拝所であり、

神女(ノロ)が参拝したところである↓                            

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城郭を正面から臨む↓

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↓東側方面、太平洋               24560021_11                           24560027_10

15世紀における激動と混乱の時代を駆け抜けた英雄、阿麻和利は無念にも滅ぼされました。

しかし当時の国王に最後まで抵抗した唯一の人物として琉球の歴史にその名を残しました。

それは肝高の名と共に現在も脈々と語り継がれているのです。

気高き英雄、その名は阿麻和利・・・・・・・・・・・・

今回で勝連城跡は終わります。

次回をお楽しみに・・・・・・・・・・・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)


ウチナー(沖縄)の世界遺産・勝連城跡

2006年10月06日 01時57分15秒 | 日記・エッセイ・コラム

お待たせしました!

毎度おなじみの世界遺産です。

えっ!待ってないだって?

まあ、そういわずにどうぞご覧ください・・・・・・・・

ここはウチナー(沖縄)の中部に位置する勝連半島です。  

勝連半島は太平洋側に面しており、海中道路の町としても有名です。

それから米海軍基地のホワイトビーチもあり原子力潜水艦の寄港地としても知られています。

米軍基地の中でも嘉手納空軍基地に次ぎ警戒の厳重なエリアとなっているんですね~ 

ちなみにここから北上するに従って米軍基地のレッドビーチ、ブルービーチが位置します。Photo_9 Photo_8 

ホワイトビーチが軍港として使われているのに対し、レッドビーチ、ブルービーチは主に海兵隊の海上から陸地への急襲作戦の訓練に使われているようです。

つい最近から市町村合併により勝連町がうるま市に統合されました。

この旧勝連町は肝高(きむたか)の町として有名です。

きむたかとはウチナーグチ(沖縄方言)で気高いという意味があります。

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かつれんのとよみてた(勝連の鳴り響みてだ)

ももうらとよみてた(百浦の鳴り響みてだ)

きむたかのとよみてた(肝高の勝連の鳴り響みてだ)

かつれんのいちやぐち(勝連の板口を)

きむたかのかなやくち(肝高の金口を)

かみからは てるまはま(上からは波照間浜に)

しもからは はまかはに(下からは浜川に)

これは沖縄最古の歌謡集「おもろさうし」の16巻に唄われている詩です。

これは勝連の気高い按司様は百浦にとどろく按司様である。(按司→アジ→支配者)

勝連の立派な港を開け上からの舟は波照間浜に、下からの舟は浜川に着けて栄えている。

という意味です。

そしてこの気高い按司様こそ琉球における15世紀の激動と混乱の世に出現した英雄、阿麻和利だったのです。

勝連城はこの阿麻和利が住んだ城です。24560034_4 24560004_14

この阿麻和利は当時、琉球がまだ琉球王国という統一国家になる前の地方の支配者であり、当時の国王に最後まで抵抗した按司でした。

幼少のころは体が弱く山に捨てられた阿麻和利は苦労しながら成長し、たくましさと知恵を授かったのちこの勝連にたどり着いたことで人々から慕われ按司として君臨しました。

阿麻和利はその才覚によって海外貿易を行い栄えていきます。

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空撮写真↓           復元イメージ図↓24560005_12 24560002_12

当時の勝連は肝高と呼ばれ、本土の京都や鎌倉に例えられるほど繁栄し、阿麻和利に対しては「千年もこの勝連を治めよ、勝連の名高き王」と讃えられたということです。

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一の曲輪↓

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この阿麻和利の実力に脅威を持ったのが時の琉球国王・尚泰久でした。

この時期はまだ激動と混乱の時代であり、安定しない時代だったのです。

国王・尚泰久が考えたのは攻略結婚であり、なんと自分の娘、百十踏揚(ももとふみあがり)を阿麻和利の元に嫁がせたのです。

つまり、国王を恐れさせるほどの力を阿麻和利は持ち得たワケですね~

ここで百十踏揚の名前の由来は

百十→百に十を重ねる→いつまでも

踏揚→踏んで揚がる→秀でる→名高い

という意味であり、すなわち気高く美しいということなんですね~

さて、そろそろ紙面が尽きてきました。

次回に続きます。

お楽しみに・・・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)


那覇市新都心

2006年10月01日 19時01分15秒 | 日記・エッセイ・コラム

さて、これは何でしょうか?

なにやらしゃれたタンクですね~

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実はこれは安里配水池といって那覇市新都心の一角にあります。

ちょうどこれは、太陽が波間から顔を出す日の出をイメージしたデザインですね~

しかし何を隠そう、ここは沖縄戦の際は最大の激戦地となったところであり、日米両軍共に多くの犠牲者を出したところなんです。

日本軍は52高地と呼び、米軍はシュガーローフヒルと呼びました。

この52高地は日本軍防衛陣地の中核拠点だったのですが、米軍の攻撃により撤退を余儀なくされました。

その後、南部の摩分仁に撤退するまで持久戦に持ち込んだ作戦は歴史の語るとおりです。(摩分仁:南部戦跡地区)

日本本土決戦の準備が整うまでの、文字通り盾となったウチナー(沖縄)は一日でも長く米軍を引き留めておく必要があったワケです。

実は当時の米軍は日本を無条件降伏させるためにマッカサー元帥らに南九州上陸作戦を指令しており、南九州への上陸を1945年11月に予定していたということです。

幸いにも本土上陸前に終戦となり、結果としてウチナー(沖縄)が盾となったことで本土決戦は免れたワケですが、広島、長崎への原爆投下による犠牲も決して忘れてはならない歴史的事実です・・・・・・・・・・・・・・

さて、那覇市新都心は市内の北西部に位置しています。

新都心はおもろまち、銘刈、安里、天久、安謝、上之屋から成り、おもろまちという名称は再開発後に付けられました。

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この地域は戦後は長いこと米軍基地であり、米人住宅地区として位置付けられていました。

米人住宅地区↓

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これはつまり、沖縄の中心地である那覇市のほぼ、ど真ん中になんと米軍基地があったワケです。

今考えると驚きですよね~

しかし、当時は当たり前のような存在でした。

そしてもったいないことに約20年以上前に返還されてからは長い間、ペンペン草の生える空き地の状態でした。

基地返還されてから再開発されるまでに通常20年はかかるらしいのですがこれはいくらなんでも長過ぎますよね~

せめて10年、いや5~6年で再開発してもらわないと広大な土地が遊んでしまうワケですからこれは経済的にも大きな損失だと思います。

そして現在20年以上を経過して都市再開発の結果、新都心として生まれ変わったワケです。24560030_7 24560031_7

手前は高架橋の天空橋↑

西方向(東シナ海側)↓   

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東方向(太平洋側)↓

右端前方は都市モノレールおもろまち駅↓

左側前方は首里城方面↓  

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まだまだ再開発の途中ですが、ウチナー(沖縄)にしてはあか抜けした地域となっています。

がしかし、以前韓国から基地跡地利用の都市再開発モデルケースとして現地視察団が来沖した際に彼らからでた意見は本土と変わらない景観にがっかりしたといわれました。

せめて米軍基地であった特色を生かすべきだという意見と沖縄らしさがないという意見があったようです。

たしかにリトル東京化してもしょうがないワケでやはり、ローカル色を活かした都市造りを行うことが大事だということでしょうね~

この新都心ができてからは確実に人の流れは変わりました。

戦後、焦土と化した地からめざましい発展を遂げて奇跡の1マイルといわれた那覇市のメインストリート・国際通りの商店街は大きな打撃を受けました。

国際通り(別名:奇跡の1マイル)↓

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しかし、いつの時代も残すべきもの、残されるものはあります。

たしかに打撃は受けたかもしれませんがプラスもあるはずです。

新都心があって国際通りがある・・・・・・・・・・

つまり、新旧が存在することでそれぞれの良さが比較体験できるワケです。

皆さん、ぜひ新都心と国際通りを訪れてそれぞれの良さを体験してみてください。

そこには思わぬ発見が・・・・・・・・・・・・・・・・???

そろそろ紙面が尽きてきました。

次回をお楽しみに・・・・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)