皆さん、お久しぶりです!
相変わらず忘れた頃に記事をアップしていますがどうかお許しを・・・・・・・・
さて、前回ご紹介の金剛石林山の所在地は国頭村ですが、ここは沖縄本島の最北端となります。
そしてその最北端の岬が辺戸岬なんですね~
下の写真は岬の突端部分です。
(水平線の向こう側が鹿児島方面)
さて、それでは早速、岬の突端部分の石碑に近づいてみましょう・・・・・・・・
あれ!
よく見たら辺戸岬とは書いてませんね~
そこにはなぜか→祖国復帰闘争碑とあります・・・・・・・
はて?どういうことでしょうか???
実はウチナー(沖縄)が本土復帰するまで、ウチナーは日本ではなく琉球(沖縄県ではなく琉球政府)だったワケですが、その歴史の名残がこの石碑なんですね~
なんと辺戸岬の前方海上に横たわる北緯27度線はまさしくウチナーと日本本土を隔てる国境?だったのです。
下の写真の赤い星印(十字)が海上の左右に横たわる北緯27度線であり、事実上の国境でした。
ウチナーは1952年の4月28日にサンフランシスコ平和条約の締結により事実上、アメリカの支配下に置かれました。
そこで復帰前は毎年4月28日になるとこの国頭村と鹿児島県・与論島の双方から小舟が出され国境である北緯27度線上でお互いにたいまつを焚いて祖国復帰闘争を展開したのです。
夜の真っ暗な海上でたいまつの明かりの下で
「沖縄を返せ!」
「沖縄を返せ!」
とお互いにシュプレヒコールを上げました。
そしてお互いに日本人でありながらこの目には見えない27度線を容易に越えることがままならなかったワケですね~
当時のウチナーが日本でないということは、つまり外国ということですから日本本土への渡航にはパスポートが必要だったワケです。
私も高校生の頃にパスポートを手に本土へ行ったことがありますが、あの頃は飛行機での旅は贅沢な時代であり、船での渡航が一般的でした。
それだけに港から出航する際は同じ日本でありながらさながら見知らぬ遠い外国へ行くような期待と不安で胸が躍った記憶があります。
今でこそ飛行機での渡航が当たり前ですが船での渡航は飛行機のそれに比べていささかの旅情をかき立ててくれます。
水平線のほぼ真ん中に目視で鹿児 島県・与論島の島影が望めますが、写真では確認できないのが残念です↑↓
ウチナーは1972年5月15日に念願の祖国復帰を果たしました。
かくして、当時の祖国復帰闘争を後世に伝えんがために先の石碑が建立されたというワケです。
そろそろ紙面が尽きてきました。
次回をお楽しみに・・・・・・・・・
アンシェーヤ!(それでは!)