沖縄あれこれ情報ブログ

沖縄の文化、歴史をメインに沖縄あれこれ情報を発信するブログです。

あけましておめでとうございます

2017年01月02日 09時23分04秒 | 日記
皆さんあけましておめでとうございます。
今年は酉年、未来に羽ばたく年にしましょう!!

昨年は激動の年でしたがそれも序の口、今年はアメリカ大統領があの過激なトランプ氏に代わります。
世界のリーダーであるアメリカの一挙手一投足は世界的に大きな影響を与えます。
特に我が国日本にとっても今年はさらなる激動の年になると思います。

尖閣諸島問題を始めとする北方領土問題、南沙諸島問題、米軍基地問題等々、アメリカ、中国、ロシア、韓国、北朝鮮、東南アジア諸国と絡む問題が起こるでしょう。
世界の警察官を辞めると公言したトランプ氏は世界各地の紛争地域にも大きな影響を与えるのは必至です。

さらには経済的にもTTP問題を始め、貿易問題、為替相場の変動、米国内需志向等々・・・・・・・
トランプ大統領の登場により様々な場面で先が読めない状況が続くことでしょう。

しかし良くも悪くもピンチはチャンスと捉えて鳥のように羽ばたいて行きたいものです。
過去は変えられないが未来は変えられるのです。

今年1年が皆様にトリ(鳥)まして素晴らしい年となることを心よりお祈りいたします。

沖縄の琉球処分

2016年01月04日 14時10分25秒 | 日記
今日は1月4日ですが昨日で正月休みが終わり今日から仕事始めの方が多いかと思いますが如何でしょうか?

さて、本日の朝刊で→「琉球処分」救国訴え客死、北京の琉球人埋葬地危機→ の記事が掲載されていました。
はて、琉球処分とは?と思われた方が多いと思います。

琉球処分とは1879年、当時の明治政府によって琉球王国が日本に併合されたことを指していう言葉です。

1609年、琉球は薩摩の侵攻を受けて薩摩の支配下に置かれました。
薩摩の藩主・島津氏は幕府の許可を得て琉球侵攻を企てたわけですが、これは日本の戦国時代における乱世により日本と当時の中国・明国との交易が衰退したことに端を発するものです。

琉球では海洋国として海外貿易が14世紀頃から活発に行われるようになり中国や韓国、シャム(タイ)、ジャワ(インドネシア)、スマトラ等の南方方面にまで及び海洋発展の時代を築きました。

そしてそこに目を付けたのが当時の日本の各藩です。
とりわけ薩摩は琉球から各藩を締め出しいわゆる制海権を握って琉球を仲介として明国との交易を続けることで利益を収奪することを狙ったわけです。

この薩摩侵攻はいわゆる植民地支配を意味するわけであり当時の琉球人にとっては耐え難いことだったようです。
侵攻による殺戮、暴行、侵攻後支配による過酷な税搾取、差別、刀狩(武器禁止令)・・・・・
この薩摩侵攻時の様子を絵で表した絵巻物が現在でも県立博物館に展示されていますがとても見るに堪えません。

そして琉球の薩摩による支配は1609年から1879年の何と270年も続いたのです。

その後1872年、薩摩支配下の下、明治政府の意向により琉球王国は琉球藩となり当時の国王・尚泰王は国王から藩主となり華族として位置付けられたのです。

そして1879年、廃藩置県により琉球王国は琉球藩から沖縄県となるわけですがこのことを「琉球処分」というわけです。

これは当時の琉球にとっては誠に屈辱的なことでした。
それは当時の琉球最後の国王・尚泰王が明治政府の意向で東京に居を移し華族として幽閉されたことによります。

つまり事実上の琉球王国消滅により国王も藩主も要らなくなったというわけですね。
琉球王国の琉球人としての名誉はこの時点で砕かれたわけです。

ちなみに当時の文献から琉球国王のことを当時関わった日本のある権力者が意図的な差別と侮蔑意識を持って国王ではなくて「琉球の酋長」と表現していたといいますから驚きです・・・・・

冒頭の「琉球処分救国の訴え」は琉球処分前後に中国に救国を訴えて亡命し北京で客死した琉球人のことです。
そして北京の琉球人埋葬地(現在はリンゴ畑)が再開発により発掘調査や遺骨・遺品収集・保存が危機にさらされているというわけです。

沖縄はこのような歴史的背景からレジスタンス(抵抗)の民族といわれています。
薩摩侵攻・支配、琉球王国消滅、第2次大戦時の地上戦による犠牲、米軍支配、米軍基地配置・・・・・

しかし、沖縄県民はそういう歴史的苦難を乗り越えてきたという事実があります。
祖国復帰前は祖国復帰に反対する人達から復帰したら復帰前の貧しい「芋と裸足」の時代に戻るから米軍統治下のままが良いという声が上がりました。

しかし、1972年の祖国復帰から今年で44年を迎えますが現在の沖縄は復帰前には考えられない程の目覚ましい発展を遂げております。

沖縄県民が琉球王国の誇りを忘れず、かつ日本国民としての誇りも持ちつつ昨今の悩ましくも困難でデリケートな事象に対処していければと思います。

コメントお待ちしております。
それでは!

沖縄のお正月

2016年01月01日 17時02分12秒 | 日記
あけましておめでとうございます。
今日から2016年(平成28年)がスタートします。

沖縄のお正月は本土復帰前は旧暦と新暦のお正月の両方を祝う家庭が多かったのですが復帰後の新正月一本化運動により現在ではほぼ100%の家庭で新暦のお正月が行われています。

しかし、復帰から44年が過ぎた今でも漁業の町では依然として旧暦のお正月を祝う家庭が殆どです。
漁業の町では旧正月に大漁旗が舞い踊ります。

あと、旧暦の16日にはあの世(沖縄方言でグソーという)のお正月があります。
ちなみに16日のあの世のお正月のことを沖縄方言ではジュウルクニチ(16日)といいますので覚えておいてください。

それから沖縄には本土では定番のおせち料理とお雑煮がありません。
沖縄の正月料理は豚料理がメインとなり、3枚肉を始めとして様々な豚料理が食卓を賑わせます。
そしてそれに加えて沖縄ではオードブルが必ず出てきます。

オードブルといえば元々は前菜料理のことですが沖縄のオードブルは豚料理、テンプラ、刺身、昆布巻き、サンドイッチ、サラダ等々実にバラエティに富んだ内容となります。

そしてそれらの中でも祝いの行事で豚料理の定番は何と言っても中身汁でしょうね。
さて中身汁とは何だと思いますか?

中身汁とは豚の内臓を長時間煮てアク抜きしたものを線切りにしてシイタケ、コンニャク等を入れたモツ汁?のようなものですがその味は意外とあっさりとしたものでお正月に限らず様々な祝いの行事に食される沖縄料理の代表のひとつです。アク抜きされていますので誰でも抵抗なく食されています。

あと、昆布は豚と同じく沖縄の祝いの行事では必ず出てくる定番となっています。
暖かい南国沖縄では昆布は取れないのですが北海道産の昆布が使われ昆布の消費量は全国一となっています。

日本最北端の北国、北海道と最南端の亜熱帯、沖縄を結び付けるのが昆布とは意外ですよね。

それでは良いお年を!!

イッペー(イッペイ)の花

2007年03月24日 19時06分39秒 | 日記・エッセイ・コラム

イッペー(イッペイ)の花が咲いていました。

イッペーとは落葉高木であり、ラッパ状鐘形の花を2月前後に咲かせます。

24560003_16 実はこれ、ブラジルの国花なんですね~

このイッペーは1954年にブラジルの国花に指定されたそうです。

それからこのイッペーという言葉は、たまたまウチナーグチ(沖縄方言)にもありまして、その意味は→ とても、かなり、いっぱい、非常に、などのことです。

例えば、 イッペー、チュラカーギヤッサー。 というと→ とても美人だね。 という意味です。

ところで何故ブラジルなのか?

実は沖縄は日本有数の移民県なんです。

その移民先は北米、米国本土、中南米、ハワイ、欧州、豪州、東南アジア、南西諸島とそれこそ地球上の各国に散らばっているのです。

世界で30万人以上いるといわれる沖縄出身の移民ですがとりわけブラジルにはその約半数を占める13万人近くが沖縄県系人といわれているのですね~

そういう縁があって、戦後、南米よりイッペーの種子が送られてきたのが沖縄各地に植栽されて現在に至るわけですね。

このイッペーは一方では、ブラジルのサクラともいわれているらしいのです。

日本のサクラのようにパッと咲いてパッと散る?ということからきているようですね。

サクラと違って花の色は白、黄色、ピンクとバラエティに富んでいるようです。

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この写真を撮ったのは今月初めですから現在はすでに花は散って葉っぱに変わっています。

しかし、地域によっては4月まで?咲いているところがあるようですね。

そして母国のブラジルでは秋頃?に咲くらしいです。

ところで日本有数の移民県である沖縄は昔は琉球王国でした。

その名に由来して琉僑という言葉があります。

これは華僑にならって世界の各地に生きる沖縄県系人の人的ネットワークを意味する、琉球の琉と華僑の僑をもじった造語なんです。

世界ヌ、アマクマンカイ、ウチナーンチュヤ、イッペー、マンドーンドー。 → 世界のあちこちに沖縄人は非常にたくさんいます。

そろそろ紙面が尽きてきました。

次回をお楽しみに!

アンシェーヤ!(それでは!)


ウチナー(沖縄)の桜

2007年02月04日 22時49分18秒 | 日記・エッセイ・コラム

すっかり、ご無沙汰してしまいました・・・・・・・・・・・・・・・・・

正月があっという間に過ぎてしまい、気付いたらもう2月・・・・・・・・・・・・・

1月は行ってしまい、2月は逃げてしまい、3月は去ってしまうといいますが、ホントにそれを実感する今日この頃です。。

年度末はせわしい~(笑)

さて、そういうせわしい中ですが、桜祭りに行ってきました・・・・・・・・・・・・ 24560004_20 24560003_17

ウチナー(沖縄)は全国唯一の亜熱帯地域です。

全国的な桜前線は4月から北上していきますがなんとウチナーの桜は1月中旬には開花するのです。24560011_17 24560015_10

しかし今年は暖冬の影響もあって例年よりも10日ほど開花が遅れています。

現在は7部咲きといったところでしょうか?

それから全国と違ってウチナーの場合、桜前線は北から南に南下していくのですね~

これこそ、冬でも平均気温は約17℃と暖かいウチナーならではのことですかね?24560022_21 24560023_14

本土の桜はソメイヨシノで色も淡いピンクですが、ウチナーの桜はいかにも南国らしい濃いピンクであり、ヒカンザクラ(カンヒザクラともいう)という種類です。24560031_10 24560027_13

同じ日本でありながら全国とはひと味違うウチナーは避暑地ならぬ避寒地とでもいったほうがいいですね。

そういう地域性ですから冬のこの時期は格好の避寒地としてプロ野球のキャンプ地となっています。

今年も8球団が沖縄の各地にキャンプを張っていますがプロ野球開幕に向けての体力作りはウチナーに任せてといったところでしょうか? 24560028_9 24560048_4

ところでこれだけ綺麗な桜ですがウチナーではいわゆる花見酒という習慣がありません。

本土のように桜の木の下で宴会というのは基本的にはないのです。

実にもったいない話ですがこれはおそらくウチナーンチュ(沖縄人)が寒さに弱い?せいかなと思いますがあくまでも私見ですよ(笑)

何を好き好んで寒空の下で呑むのか・・・・・といった感じでしょうかね~

私が東京にいた頃は毎年の花見酒が楽しみでしたが、ここへ帰ってきてからは一度も経験してませんからね。。。

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そろそろ紙面が尽きてきました・・・・・・・・・

今回は花見特別記事でした。

次回をお楽しみに・・・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)


絶壁の上の神社・波の上宮

2007年01月08日 00時57分25秒 | 日記・エッセイ・コラム

初詣に行ってきました。

ウチナーの神社には明治以前の琉球国府から特別扱いを受けた八つの神社があります。

これを琉球八社といって波の上宮、沖宮、識名宮、普天間宮、末吉宮、八幡宮、天久宮、金武宮のことをいいます。

そして、これらの中で特に沖縄総鎮守の神社として位置付けられているのが波の上宮なんですね~

さて、この波の上宮、単にそれだけではなくおそらく全国的にも珍しい立地にあるのです。

波の上宮↓                                 

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左側手前から前方奥にかけての砂浜は波の上ビーチ↓

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それはご覧のように海に面した絶壁の上に建っていることと何とその下にはビーチがあるのですね~

絶壁下の透き通った海↓

左側は波の上橋↓

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透き通ったビーチの真正面は波の上橋の橋桁↓

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波の上ビーチから波の上宮を望む↓

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波の上ビーチ↓

前方の橋は波の上橋↓

空と橋と砂浜の絶妙なコントラスト?

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海側から陸地側を望む↓

前方はラブホテル街↓

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いかがでしょうか?

絶壁といい、橋といい、ビーチといい、ラブホテル街といい、自然と人工物のコントラストが奇妙に交差しているのが波の上宮なんですね~

果たして、こういうバラエティにとんだ立地にある神社が全国にいくつあるでしょうか?

特にビーチに隣接した神社というのは珍しいと思います。

これこそ、ウチナーらしいというか・・・・・・・

実はこの波の上宮、古くからウチナーに言い伝えられているニライカナイ、つまり海の彼方に神々の住む理想郷があるという伝説に基づいて神様からのお告げにより建立されたらしいのです。

このニライカナイなるもの、実は竜宮城伝説にも結びついているのですね~

海の彼方とは実は海の底、つまり竜宮城のことをいっているという言い伝えですね。

昔から那覇港に出入りする船は波の上宮に航海の安全を祈願したということですから海の神様といってもいいかもしれませんね。

全体図↓

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さて何を隠そう、現在の波の上ビーチは実は人工ビーチなんです。

どういうことかというと砂浜の砂は人工的に敷き詰めたものなんですね。

ビーチそのものは40~50年前からありますがその当時は砂浜ではなく岩場のビーチでした。

当時の私は小学生でしたが、岩場の中に海水プールがあって、その周辺には海上店舗がありました。

泳ぐのは海水プールか海上店舗の下の岩場だったのを記憶しています。

あの当時は浮き袋も車の廃タイヤのつぎはぎのある真っ黒いチューブでした。(ホント、懐かしい・・・・・年代が分かる?笑)

現在の形のビーチに生まれ変わったのはごく最近なんですね~

復帰後?は長いことビーチは閉鎖されていたのです。

そして現在、多くの市民の熱望により県庁所在地の那覇市内にある唯一のビーチとして再び生まれ変わったワケですが、街の中のビーチにしては海のきれいさはご覧のとおりです。

さて、波の上宮に話を戻します。

一の鳥居↓

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波の上宮は神社が建立される以前はニライカナイにまつわる波の上の聖地として人々が海神の国の神様に祈りを捧げる拝所(ウチナーグチでウタキという)としたのがそもそもの起源だったということですね。

参道↓

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二の鳥居↓

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本殿↓

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新年の出店

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さて、かようにバラエティに富んだ波の上宮ですが実は今後まだまだ変貌を遂げようとしています。

それは・・・・・・・・・・・↓

空港へのバイパスとして海底道路への連絡道路・若狭インターチェンジ完成予想図↓

中央上部が波の上宮および波の上ビーチ↓

右下が空港への海底道路にアクセスする↓

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現在、工事は着々と進行しています。

しかし、よく考えてみればこれは素晴らしいことかもしれません。

なぜならば波の上宮は元来、ニライカナイにまつわる聖地なワケですから海底道路はすなわち竜宮城伝説に繋がるワケですよね?

これは決して偶然ではないかもしれませんね~

左側が工事中のアクセス道路で右側が波の上橋および波の上ビーチ↓

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これはすなわち、波の上宮を起点に海底道路(竜宮城)を経由して空へ飛び立つワケですからホント、縁起がいいですよね?

これはあくまでも私の勝手なイメージですが皆さんはどう思いますか?

琉球時代の人達はこの変貌ぶりにおそらく腰を抜かすかもしれませんね・・・・・・

アイエーナ!ヒルマサカワユル、ナンミンヨ・・・・・・・・

(なんとまあ!こんなに変わっていく、波の上よ・・・・・・)

さあ、そろそろ紙面が尽きてきました。

今回は新年特別記事でした。

次回をお楽しみに・・・・・・・・・・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)


明けましておめでとうございます。

2007年01月01日 23時56分57秒 | 日記・エッセイ・コラム

新年明けましておめでとうございます。

今年は亥年ですが猪突猛進ではなく、猪突邁進でいきたいものです。

世の中は益々厳しい方向に動いています。

この厳しい世相を乗り切っていくには猛進ではなく邁進していくことが必要だと思います。

実は一昨年の暮れに猛進し過ぎて?入院、そして昨年のお正月のちょうど今頃、退院後の自宅療養でダウンしていました。

健康の有り難さをしみじみ感じている現在です。

まさしく健康あっての人生ですね・・・・・・・・・・・・・・

病気は誰の身にもある日突然襲ってきます。

皆さんも常に油断することなくご自愛くださいね。

さて、そういうことで2年振りに初日の出を拝みにいってきました。

その結果は・・・・・・・・・・・・・・・・

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あいにくの曇りのため、日の出は拝めなかったのです・・・・・

写真は平和記念公園の平和の石礎(いしじ)です。

太平洋側↓                                 

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しかし、日の出は拝めなかったのですが代わりに創作エイサー(念仏踊り)演舞を見ることができました。

これはボランティア団体が催す新春イベントらしくて遭遇できたのはホントにラッキーでした。

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本来、エイサーとはその名のとおり真夏の旧盆に行われる伝統行事ですがそれが何故、新年に?という疑問が湧くと思います。

しかし、このエイサーなるもの、いつしか伝統行事を離れて若者のイベントととして季節を問わず発展してきたのですね~

その層は厚いのです。

まさしく幼稚園生から成年に至るまでですね。。

これらは基本的にはアマチュアなんですがその実力はプロ顔負けの腕前です。

それこそ青春の全てをつぎ込むみたいな感じですかね・・・・・

嬉々としてやっています。。

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さあ、そろそろ2007年の夜が明けてきました・・・・・・・・・・・・

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旧年中はお世話になりました。

皆さん今年もよろしくお願い申し上げます。

アンシャエーヤ!(それでは!)


ウチナー(沖縄)の世界遺産・中城城跡(その2)

2006年12月15日 01時12分54秒 | 日記・エッセイ・コラム

さて、前回に引き続き中城城跡です。

これは一の郭から太平洋側を望む風景です↓24560022_18 24560017_13  

          

前方右奥が知念半島で、その左前方には神の島・久高島が横たわっていますが写真ではちょっと分かりづらいかもしれませんね~

中城城跡は東に太平洋、西に東シナ海を望み南側に知念半島、北側に勝連半島が見渡せる素晴らしい眺望の高台にあります。

中城城跡公園全体図↓

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久高拝所(久高島に向かって祈願する場所)↓

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久高島方面↓

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首里遙拝所(首里城に向かって祈願する場所)↓

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中城城跡にはこのような拝所が8箇所あるといわれています。

ウチナーには琉球時代からノロ(神に仕える神女)、ユタ(霊媒師、祈祷師)が存在し、琉球王府に多大な影響力を持っていました。

琉球王国はある意味、ノロに支配されていたといってもいいかもしれませんね。

実はこの部分が良くも悪くも本土と決定的に違う歴史と文化なんですね~

城壁と空↓

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この歴史と文化は現在でもウチナーの各地に受け継がれています。

今も昔も共通するのは神事の行事には男子禁制だということです。

女性パワーは脈々と受け継がれてきたワケですが、どうやらその辺にウチナー女性の強さの源があるのかもしれませんね~

カンジャーガマ(鍛冶屋跡)↓

これは上部が人工の城壁で下部は自然の城壁となっており、鍛冶屋は自然の城壁の一角をくり抜いた形(右下のくぼみ)で残されています。

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一説によると城主の護佐丸が宿敵の勝連城主である阿麻和利との戦いに備えるために、ここで武具を造っていたということです。

正門(元々は上部に櫓が乗っていた)↓

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正門近くの鉄砲台↓

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琉球史で有名な護佐丸・阿麻和利の乱は時の中山王・尚泰久を勝連城主の阿麻和利がおびやかし始めたことがきっかけでした。

護佐丸は阿麻和利から中山王(首里城主)を守るために備えていたのですが、ある日、阿麻和利が変装して首里城に上り、護佐丸が中山王に対して謀反を起こしているという謀略を図ったのです。

これにより中山王は阿麻和利に対して護佐丸への攻略を命じたワケですね~

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かくして護佐丸は阿麻和利の手に落ちたワケですが、その後、阿麻和利自身も中山王によって滅ぼされました。

1429年に尚巴志が三山を統一以来、1458年に阿麻和利の乱の後、琉球王国は益々安泰化したワケですが護佐丸の無念は、さぞ尽きなかったことでしょう・・・・・・

実は中城城こそ琉球における中央集権の確立に大きな役割を果たし、かつ中世的な戦乱において最後の築城であった特筆すべきグスク(城)だったのですね~

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現在、護佐丸は中城城跡の近くにあるお墓に葬られていますがこの墓こそウチナーにおける最も古い亀甲墓として存在しているのです。

あの世の護佐丸は中城城跡を見下ろして何を想うのでしょうか・・・・・・・・

南海の古城に息づく、いにしえのロマンはあなたを琉球の世界へと誘って(いざなって)くれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さて、そろそろ紙面が尽きてきました。

中城城跡はこれで終わります。

次回をお楽しみに・・・・・・・・・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)


ウチナー(沖縄)の世界遺産・中城城跡

2006年12月10日 15時48分51秒 | 日記・エッセイ・コラム

いや~、すっかりご無沙汰してしまいました。

師走に入った途端、色々と取り込んでしまい気がついてみたら現在に至ってしまいました。

そういうことで取材がなかなかできなかったのですが、今回久々に世界遺産を取材してきました。

それは中城城跡です。

中城と書いてナカグスクと読みます。

ウチナーグチ(沖縄方言)では城のことをグスクというのは有名?ですよね。。

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中城城跡は沖縄県中部の中城村に位置し14世紀後半に当時の中城按司が築きあげた城を1440年に読谷山按司であった護佐丸が増築したといわれています。

実はここは数ある城跡の中でも唯一、沖縄戦の戦火を免れたため県内の城跡では最も原型を留めていることで有名なんですね~。

そしてここは自然の岩石と地形的な条件を生かした美しい曲線で形造られており、その築城技術は歴史的にも高い評価を受けているのです。

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それを裏付ける事実として、1853年にペリー提督一行が黒船で来琉した際に中城城を訪れ測量したのですが「要塞の資材は石灰岩であり、その石造建築は賞賛すべき構造であった」という記録が残されているんですね~。

中城城跡は琉球石灰岩を使った城壁が唯一、完全に近い形で残された歴史的遺跡といってもいいワケですね。

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そしてペリー提督一行は城門のアーチ構造についてもその精巧な造りに対してエジプト式の造りだと評価したということです。

あの当時に琉球とエジプトの交易があったという事実はないはずなのに驚きですね。

城門↓

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逆光を浴びた一の郭↓(正殿があった場所)

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ホントは逆光なしで撮りたかったのですが、現場ではこのアングルしか狙えなかったというのが本音です(笑)

一の郭↓

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城郭から太平洋を望む↓

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一の郭の広場

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西の郭から東シナ海方面を望む↓

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一の郭と二の郭↓

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城壁と東シナ海側↓

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城壁と太平洋側↓

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上の2枚の写真からは太陽の位置により東シナ海側と太平洋側では光の加減で被写体のイメージの違いが分かると思います。

さて、そろそろ紙面が尽きてきました。

次回に続きます・・・・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)


飛行機の見える島・瀬長島

2006年11月25日 16時52分09秒 | 日記・エッセイ・コラム

ウチナー(沖縄)は全国一の離島県ですが、その数ある離島の中で空港に一番近い島があります。

それは瀬長島といって那覇市に隣り合った豊見城市にあります。

瀬長島↓            右側は野球場が4面↓

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ところで空港はどこにあるかって?

はい!

これです↓

これは沖縄本島の南側(太平洋方面)のちょうど飛行機が離着陸する角度から見た衛星写真です。

手前下に今まさに着陸しようとする飛行機が見えます↓

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瀬長島と本島は海中道路で結ばれており、その海中道路から那覇空港に向かって飛行機の誘導灯が一直線に伸びているのが分かりますね~

実はこの海中道路の真上を飛行機が分刻みで低空飛行着陸するのが目の前で見ることができるのです!

逆光を浴びて着陸する飛行機↓

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写真ではそれほどでもないのですが実際の現場は手が届くような錯覚におちいるほどの至近距離で圧巻です!

まさしく航空マニアにはたまらない光景でしょうね。

向こう側が那覇空港↓

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島の上空を低空飛行する飛行機↓

向こう側は那覇市

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島をかすめて着陸する飛行機↓

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豊見城市から瀬長島に伸びる海中道路↓

右側が那覇空港方面

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海中道路から那覇空港に伸びる誘導灯道路↓

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ガードフェンスと航空局車輌                           24560014_16 24560026_9

島の海岸から見た風景↓ 向こう側は空港↓                               24560020_11 24560017_12

瀬長島は観光地というワケでもなく普段は市民のレジャースポットとして夏場はビーチパーティーで賑わい、週末と休日は少年野球、釣りなどで賑わいます。

そして、ご覧のように島の中は特にこれといった見所もない所です↓

島の周回道路↓

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島のレジャー施設・スポーツセンター↓24560018_18

しかしなんと意外なことに、琉球時代は瀬長城(セナガグスク)といって当時の地域支配者である瀬長按司(セナガアジ)の居住するお城があったのです!

残念ながら現在はその痕跡を留めていません。

なぜなら戦後から復帰前にかけてここは米軍基地の弾薬庫として使われていたため、島の形が大きく変えられたのです。

そしてここは昭和52年に返還されましたが、現在はその特異な立地条件から空港の施設の一部として利用されているワケです。

琉球時代は当然、海中道路も誘導灯道路もない孤立した島だったワケですが、瀬長城が島の中央にそびえ立って?いたとすればそれこそ島城(シマグスク)として素晴らしい景観だったことでしょう!

可能であれば復元して欲しいのですが、あいにくとここは飛行機の離着陸ルートとなっているため叶わぬ夢でしょうね・・・・・・・・

しかしあの世の瀬長按司も、まさか瀬長島の上空を飛行機がかすめていくとは夢にも思わなかったことでしょう。

さて、そろそろ紙面が尽きてきました。

次回をお楽しみに・・・・・・・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)


ノロ(神女)の住む城・知念城跡

2006年11月19日 22時41分14秒 | 日記・エッセイ・コラム

こちらは沖縄南部の知念というひっそりとした場所に知られざる城跡があります。

ここはとてもこじんまりとして目立たない城跡であり、奥に行くに従って霊気らしきものを感じます。

入口↓             前方が城跡↓24560007_12                         24560008_15  

       

入口側から全体を見る(右端が城跡城門)24560034_6 24560033_7

それもそのはず、霊気を感じるのは城跡の一角にノロの屋敷跡があるからなのでしょう・・・・・

実はここは「おもろそうし」では「ちねんもりぐすく」と謡われた霊場でもあるのですね~24560009_11 24560011_15

 

ノロとは神女のことであり、琉球王国時代は王府とノロは切っても切れない表裏一体の関係が築かれていたのです。

つまり、琉球王国はある意味、ノロが動かしていたといっても過言ではないでしょう・・・・・

知念城は代々、知念按司の居城であったようですが、当時の尚真王の権威と「あまみきよ」伝説が結びついていたのがこの知念城という宗教的意味合いを持つ城だったワケです。

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一説によると知念城は尚真王の異母兄弟である内間大親が築いたといわれますが真偽のほどは定かではないようですね・・・・・・・・・・

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現在、発掘作業が続けられていますがまだまだ新発見は出てきそうです。

もしかすると近い将来、真偽が解明されるかもしれません・・・・・

歴史の謎はロマンが広がりますが、さてホントはどうなのでしょうか???

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発掘現場↓

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前方は太平洋を望む↓

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前方に神の島、久高島を望む↓

残念ながら、この日はあいにくの曇天で、空海ともさえない色である。

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かつてはノロがはるか向こうの久高島を拝み琉球王国の安泰を祈願したということです。

昔も今もその空と海の風景はほとんど変わることなく、そしてこれからもずっと変わらずにいることを祈ります・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さて、そろそろ紙面が尽きてきました。

次回をお楽しみに・・・・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)


琉球王朝の酒・泡盛

2006年11月11日 20時52分10秒 | 日記・エッセイ・コラム

日本最古の蒸留酒は焼酎のルーツともいわれている泡盛です。

なんと今から500年以上も前に泡盛は生まれたのですね~

琉球王国時代は15世紀の初めに中国を中心に東南アジアと貿易を始め、当時のシャム(現在のタイ)から蒸留酒を輸入していたのです。

そして、シャムから蒸留酒の造り方を教わり1470年頃から本格的に泡盛が造られたようです。

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その後、琉球王国は1667年以降に泡盛の製造を王府の管理下に置き王府が認めた製造家以外の製造を禁じました。

そして製造を認められた製造家は泡盛製造に失敗するとなんと、最悪の場合は島流しにされたそうです。

当時の泡盛造りはまさしく命がけであったようですね。

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泡盛の名前の由来は諸説があって当初は粟から造られたから「粟盛」という説や注ぐときに泡立つから「泡盛」という説がありますが、どうも泡説が有力なようですね。

ところで泡盛の名称は復帰前から長い間、全国的には認められていなかったのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・何故でしょうか?

当時は酒税法上は焼酎という扱いであり、製品には焼酎乙類という明記が義務付けられていたんですね~

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今でこそ、全国および国際的にも脚光を浴びている泡盛ですが復帰前は島酒、ウチナーグチ(沖縄方言)では島酒→シマザキと呼ばれ、ある意味、蔑みと親しみを込めてそう呼ばれていました。

質のほうも現在の泡盛とは比べられないほど荒削りであり、味といい、香りといい、荒削りの地酒の最たるものだったのです。

特に香りは泡盛特有の臭みがあり、鼻が曲がるような匂いでした。

それゆえ、その荒削りの味と匂いをごまかすために愛飲する時は殆どの人はコーラ割かソーダ割りにして呑んだのです。

今ではとても考えられないことですが、それだけ現在の泡盛が酒造家の努力と研究の賜物により進化したということですね~

さて、これをご覧ください↓

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なんだかすごく古びた建物ですね~

歴史的な建物でしょうか?

実はこれ、泡盛の貯蔵倉庫なんです。

建設当初の建物はこれです↓

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実はこの外観の差は泡盛の製造方法に関係しているのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・なぜ???

それは泡盛はタイ米と黒麹菌を使うからです。

これは年数を経ると建物の外壁に黒麹菌の色素が現れてくるそうです。

そして泡盛の特徴は黒麹菌を使うこと自体が世界的にも類のないことなんですね。

これに対して焼酎は白麹菌が使われています。

それから日本米ではなくタイ米を使うことも泡盛の特徴なんですよ。

もともとはシャム(現在のタイ)から製法を教わったルーツがあるワケですからそれなりの意味があるということですね。

酒壺↓

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左側が貯蔵庫で右側が製造施設↓

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かつては琉球王朝の酒であった泡盛ですが現在の高品質の泡盛を当時の琉球王が口にするとおそらく、その美味に腰を抜かしてしまでしょうね?

「アイエーナー!アンシマーサル、クヌサキヤ、タマシヌガチャン!」

「アラまあ!なんとおいしいことか、この酒は、ビックリした!」

今宵、あなたも泡盛はいかがですか?

「アイエーナー!・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

そろそろ紙面が尽きてきました。

次回をお楽しみに・・・・・・・・・・・・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)


日本の東南アジア・国際通り

2006年11月05日 19時35分31秒 | 日記・エッセイ・コラム

ウチナー(沖縄)のメインストリートといえば国際通りです。

ここは正式には県道39号線であり、県庁前交差点(泉崎)から安里交差点までの通りをいいます。

県庁前交差点・右手が県庁で左手が国際通り↓

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県庁前交差点の再開発ビル・パレット久茂地↓

ここは沖縄初の再開発ビルです。

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国際通りはその長さが1マイル(約1.6km)あるため、別名「奇跡の1マイル」とも呼ばれます。

しかしなぜ、そう呼ばれるのでしょうか?

国際通りのほぼ中間地点にある那覇タワー↓         

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実はこの地域は戦前は畑が広がる単なる湿地帯でした。

終戦直後に商売の行き場を失った人達が通り沿いにバラックあるいはテントを建てていわゆる闇市的なエリアとしてスタートし、戦後めざましい復興の地となったことから奇跡の1マイルと呼ばれるようになったのです。

そして国際通りの呼び名はちょうど写真↑の前方右側に終戦後にできたアーニーパイル国際劇場という映画館に由来しました。

アーニーパイルというのは沖縄戦における米軍の従軍記者の名前です。

アーニーパイルは従軍中に沖縄の伊江島で戦死しましたが彼の当時の栄光を讃えるために命名されたワケです。

前方奥突き当たりが国際通りの終点?の安里交差点で左右に延びる高架橋はモノレール↓

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国際通りは元々は百貨店などの商業施設が集中する沖縄一の繁華街だったのですよ~

がしかし、最近は周辺地域の商業地域再開発により商業的な地盤沈下が進み現在はもっぱら観光土産品店が集中する観光客相手の地域となりました。

ご覧のように垢抜けしないローカル色丸出しの通りですがそれでも観光客には根強い人気を保ってるんですね~

ここにはウチナーの原点があります。

実はそれが人気の秘密なんです!

沖映通りから国際通りを見る↓

左側が安里交差点向けで右側が県庁前交差点向け

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ここは国際通りに交わる沖映通りの一角↓

すぐ左側が国際通りに突き当たる↓

右側の屋上球形タンクは本土では絶対に?見ることのできない、かの有名なウチナー限定の断水用水タンクです。

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さて、面白いものを見つけました!

街角のベンチに佇む後ろ姿の美女?↓

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表に廻って見ます・・・・・・・・・ドキドキ

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お!マリリンモンロー?じゃないですか!

しかしちょっと変ですね~

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実はこれ、本物・・・・・ではなく、オブジェでした!

その証拠に隣の紳士達はそっぽを向いています・・・・・・・

これが本物だったら視線は当然・・・・・・・・・・・・ですよね?

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とまあ、こういうお遊びもあるのが国際通りです。

決して都会の街並みのスマートさはありません、

どころか、不器用さが目立ちます。

しかしこれがなんともいえない魅力なんですね~

国際通りは日本というよりも東南アジアといったほうがイメージは近いと思います。

そう、ゴタゴタした雰囲気ですね・・・・・・・・・・・・

あなたがここに来ればきっと、ここがまぎれもない日本唯一の亜熱帯地域だということを実感させてくれるはずです。

言葉ではうまくいえませんがここはまさしく亜熱帯地域・・・・・・・・・・・・・です。

ゴタゴタ、ゴタゴタ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ぜひ体験されてください。。。

そろそろ紙面が尽きてきました。

次回をお楽しみに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)


ウチナー(沖縄)の最北端・辺戸岬

2006年10月29日 21時20分05秒 | 日記・エッセイ・コラム

皆さん、お久しぶりです!

相変わらず忘れた頃に記事をアップしていますがどうかお許しを・・・・・・・・

さて、前回ご紹介の金剛石林山の所在地は国頭村ですが、ここは沖縄本島の最北端となります。

そしてその最北端の岬が辺戸岬なんですね~ 

 下の写真は岬の突端部分です。

(水平線の向こう側が鹿児島方面)

←東シナ海側           太平洋側→                    24560051_1 24560052_2

さて、それでは早速、岬の突端部分の石碑に近づいてみましょう・・・・・・・・

あれ!

よく見たら辺戸岬とは書いてませんね~

そこにはなぜか→祖国復帰闘争碑とあります・・・・・・・

はて?どういうことでしょうか???

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実はウチナー(沖縄)が本土復帰するまで、ウチナーは日本ではなく琉球(沖縄県ではなく琉球政府)だったワケですが、その歴史の名残がこの石碑なんですね~

なんと辺戸岬の前方海上に横たわる北緯27度線はまさしくウチナーと日本本土を隔てる国境?だったのです。

下の写真の赤い星印(十字)が海上の左右に横たわる北緯27度線であり、事実上の国境でした。

ウチナーは1952年の4月28日にサンフランシスコ平和条約の締結により事実上、アメリカの支配下に置かれました。

そこで復帰前は毎年4月28日になるとこの国頭村と鹿児島県・与論島の双方から小舟が出され国境である北緯27度線上でお互いにたいまつを焚いて祖国復帰闘争を展開したのです。

夜の真っ暗な海上でたいまつの明かりの下で

「沖縄を返せ!」

「沖縄を返せ!」

とお互いにシュプレヒコールを上げました。

そしてお互いに日本人でありながらこの目には見えない27度線を容易に越えることがままならなかったワケですね~Mfwmapserv_1

当時のウチナーが日本でないということは、つまり外国ということですから日本本土への渡航にはパスポートが必要だったワケです。

私も高校生の頃にパスポートを手に本土へ行ったことがありますが、あの頃は飛行機での旅は贅沢な時代であり、船での渡航が一般的でした。

それだけに港から出航する際は同じ日本でありながらさながら見知らぬ遠い外国へ行くような期待と不安で胸が躍った記憶があります。

今でこそ飛行機での渡航が当たり前ですが船での渡航は飛行機のそれに比べていささかの旅情をかき立ててくれます。

水平線のほぼ真ん中に目視で鹿児24560046_1 島県・与論島の島影が望めますが、写真では確認できないのが残念です↑↓

24560047_3

展望台下の絶壁↓24560041_3 24560042_3 (吸い込まれそうです)                                     

岬から安須森方面を望む↓24560038_4 24560044_4

 

同上24560056_424560055_5                              

ウチナーは1972年5月15日に念願の祖国復帰を果たしました。

かくして、当時の祖国復帰闘争を後世に伝えんがために先の石碑が建立されたというワケです。

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そろそろ紙面が尽きてきました。

次回をお楽しみに・・・・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)


神々の巨大彫刻群

2006年10月21日 23時20分11秒 | 日記・エッセイ・コラム

ここは沖縄本島の最北端に位置する国頭村です。

驚くことなかれ!

なんと2億年前の地球がここにあるのです。

全体写真↓左前方は沖縄最北端の辺戸岬

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ここは金剛石林山といって2億年前の石灰岩が塔のように林立しています。

実はここは今から2億年前の石灰岩が雨水等により長い年月をかけて浸食されてできた日本唯一の熱帯カルスト地形なんですよ~

金剛烏帽子岩↓

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ここは発見されてから一般公開されるまでになんと30年の歳月を要しました。

というのはこの地域は沖縄海岸国定公園であるため、再開発の認可が容易におりなかったようです。

パパイヤの木と奇石郡↓

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奇石の中の池↓

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奇石の門↓

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さて、これはなんだと思いますか?

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どこかで見覚えがあるでしょう?

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24560017_11 ←正解は

そう、悟空岩です。

孫悟空は石から生まれたことで有名ですよね?

これはまさしく孫悟空をイメージさせる石山ですね~

ピッタリのイメージでしょう・・・・・・・・・・・・・・・

さて、これはなんでしょうか?                              

花にしては変ですよね~

24560027_11実はこれはソテツで、真ん中にあるのはソテツの実です。

この一帯には6万本以上のソテツが自生しているといいます。

ソテツの実は猛毒があり、人間でも動物でも食べると命を失います。

しかし沖縄戦の戦時中では食料不足のため、命を犯してまでもこれを食したといいます。

もちろん毒を抜いて食べるワケですが当たりハズレがあるワケですからまさしく命をかけて食したというすざましい歴史があるワケですね。

これはソテツ地獄として沖縄戦の悲惨な歴史に残されています・・・・・・・・・・・・

さて、下の写真の真ん中付近の頂きには沖縄最北端の御獄(ウタキ=拝所)があります。

この一帯は安須森→ウチナーグチ(沖縄方言)でアスムイといいます。

24560026_8         

この一帯は昔々、神様が天から降りてきて最初にこれらの森を創ったそうです。

ということは金剛石林山はまさしく神々が創った巨大彫刻群といってもいいでしょう・・・・・

これらの奇石を見れば見るほどそう思わざるを得ません・・・・・・・・・

考えて見たら沖縄戦当時の激しい戦火にもかかわらずここだけは無事だったワケですがこれは決して偶然ではないでしょうね。

今でも森の中の拝所には神女(ユタ)が参拝するようです。

下の写真は辺戸岬から安須森および金剛石林山を眺めた景色です。

すごく神々しいものを感ずるのは私だけでしょうか?

24560055_3  

自然が持つ造形美には人間が足元にも及ばない美しさとパワーがあります。

それはやはり神の成せるワザでしょうか・・・・・・・・・・・・・・・・

さて、そろそろ紙面が尽きてきました。

次回は辺戸岬をご紹介します。

お楽しみに・・・・・・・・・・・・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)