沖縄あれこれ情報ブログ

沖縄の文化、歴史をメインに沖縄あれこれ情報を発信するブログです。

終戦後・復帰前のウチナー(沖縄)その2

2006年08月27日 22時03分16秒 | 日記・エッセイ・コラム

第2次大戦終戦後のウチナー(沖縄)は1945年から1972年の26年間に渡って米軍政府の統治下にありました。

その当時、占領国のアメリカからは高等弁務官なる軍事司令官が派遣されたのですね~

歴代高等弁務官は6人ですが、その中でひときわ有名な弁務官がキャラウェイ高等弁務官でした。

第3代高等弁務官ポール・W・キャラウェイ中将         

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当時の高等弁務官は占領国の現地軍事司令官として絶大な権限を持ち、行政、司法、立法に対してその権限を行使することができたのです。

キャラウェイ高等弁務官はその強硬な施政と個性で「キャラウェイ旋風」と呼ばれるほどの波乱を招きウチナーの離日政策を進めました。

つまり、ウチナーは日本から独立すべきだという政策ですね。

ウチナーは独自の文化と歴史を持っている琉球国であり、日本とは違うのだということを強烈に打ち出したワケです。

ですから意図的に沖縄という言葉を使わずに沖縄→琉球、沖縄人→琉球人、という呼び方をしたワケです。

当時のウチナーンチュ(沖縄人)としては複雑な心境だったに違いありません。

なにしろ占領国からウチナー文化と歴史を高く評価され、祖国である日本からは独立すべきだといわれれば複雑ですよね・・・・・・・・・

実はアメリカ側の真意はウチナーンチュの独立心を煽ることによって脱日本からアメリカ寄りになることで占領政策を容易にする意図があったようです。

当時の米人住宅街

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基地労働者による芝刈り作業

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当時の祖国復帰闘争      ゼネラルストライキ

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沖縄返還決定の報道       祖国復帰当時の報道24560036_1                                24560037_1 

当時の佐藤首相は「沖縄の祖国復帰なくして日本の戦後は終わらない」という名言を残しました。

ウチナーが祖国復帰して33年が経過しましたが果たして戦後は終わったのでしょうか?

そして、いまだに戦争の遺産を背負っているウチナーに真の平和が訪れるのはいつでしょうか?

残念ながら写真のアップはできませんが、平和記念資料館の展示品を目にする度に心が痛み涙が流れます。

平和記念資料館(手前は旧日本海軍の魚雷艇)

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資料館から見下ろす平和の石礎(いしじ)

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前回の1960年代のウチナーは平和記念資料館で再現されていますので是非ご覧になってください。

資料館展示のむすびの言葉↓

沖縄戦の実相にふれるたびに

戦争というものは

これほど残忍で、これほど汚辱にまみれたものはない

と思うのです

このなまなましい体験の前では

いかなる人でも

戦争を肯定し美化することはできないはずです

戦争を起こすのはたしかに人間です

しかし それ以上に

戦争を許さない努力のできるのも

私たち人間ではないでしょうか

戦後このかた 私たちは

あらゆる戦争を憎み

平和な島を建設せねばと思いつづけてきました

これが

あまりにも大きすぎた代償を払って得た

ゆずることのできない

私たちの信条なのです

(以上、原文のまま)

さて、そろそろ紙面が尽きてきました。

次回をお楽しみに・・・・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)


終戦後・復帰前のウチナー(沖縄)

2006年08月20日 22時47分55秒 | 日記・エッセイ・コラム

8月15日は終戦記念日でした。

その終戦記念日にちなみ、復帰前のウチナー(沖縄)にいってきました。

こちらは1960年代のウチナーの街並みです。

手前がおみやげ品店で奥がAサインバーです。          

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Aサインバーとは当時の米軍が地元のバーに米兵相手の営業許可を与えたAランクのバーという意味なんですね~

米軍の機関により特に衛生面などを厳しくチェックされた店のみがその資格を許可されました。

Aサインバー↓

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米兵相手ですから日本人は入れないワケでこれらの店は米軍のペイデー(給料日)には多くの米兵で溢れました。

もっとも、復帰後はAサインバーは姿を消し、日本人相手のバーに変わりましたがね・・・・・

そして当時の歓楽街は白人街と黒人街に分かれており白人と黒人の乱闘が耐えなかったのです。

今ではそういうことはありませんが昔は米軍にも人種差別が残っていたということでしょうね・・・・・・・・・・・・

おみやげ品店↓ 24560027_8        洋服店↓

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実はここは基地の街で有名なコザ市(現在は沖縄市)であり全てが横文字の街でした。

現在でもその名残はまだ残っています。

さて、これは↓なんだと思いますか?

24560017_8 これはPAWNという英語です。

PAWN???

つまり質屋という意味ですね。

復帰前はPAWNの看板が至るところにありました。

現在ではなかなかお目にかかれなくなりましたが、米兵相手の店は一部残っているようです。

そして当時のウチナー(沖縄)の典型的な雑貨店がこれです。

マチヤグワー(雑貨店、商店)   

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木造建てのレトロな雰囲気ですよね・・・・・・・

現在のウチナーでは木造建てがコンクリート造りに変わっていますが時代の流れを感じます。

あと、珍しい光景としては以下のようなものがありました。

当時の求人広告張り紙      露天商          

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少女の行商              少年のクツ磨き

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アングラ風?な劇場↓24560005_9      劇場の案内板24560022_10    

                 

 

琉球政府の電柱公告

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  当時は沖縄県ではなくて琉球政府というアメリカの属国?だったワケですね。

つまり復帰前の沖縄は日本であって日本ではなかったワケです。

日本政府の統治ではなくアメリカ政府(米軍政府)の統治下にあった沖縄は沖縄県と呼ぶことを許されず、占領軍の元で琉球王国ならぬ琉球政府という、いわば属国であったワケですね~

ですから、全ての公的機関は例えば沖縄県立●●ではなくて、琉球政府立●●といった具合ですね。

復帰前当時の米軍基地の警告板

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当時の米兵ガードマン

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現在の警告板

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沖縄上陸後、占領した沖縄の土地を銃剣とブルドーザーで一方的に奪い取った米軍は先程の警告板を各基地に貼り付けたワケですが、ただでさえ狭い沖縄がますます狭くなりました。

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こんごも半永久的にウチナー(沖縄)の基地は存続すると思いますが、ウチナーに本当の意味の平和が訪れるのは果たしていつの日でしょうか?

さて、そろそろ紙面が尽きてきました。

次回をお楽しみに・・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)


旧盆エイサー(念仏踊り)

2006年08月12日 19時44分20秒 | 日記・エッセイ・コラム

8月6日~8月8日はウチナー(沖縄)のお盆でした。

ウチナーのお盆は旧暦の7月13日~7月15日に行う旧盆です。

そういうことでウチナーグチ(沖縄方言)では旧盆のことをシチガチ(7月)といいます。

シチ→7 ガチ→月 ですが、ガチの発音は正式にはグワチと発音します。

そしてウチナーグチでは、お迎えをウンケー、中日をナカヌヒー、御送りをウークイというんですね~

ウークイは同じウチナーでも地域によって1日遅れのところがありますがこれは祖先との別れを惜しむことからそうしているようです。

エイサーは念仏踊りの一種であり、ウンケーからウークイにかけておこないます。

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エイサーの起源は今から500年以上も前に人が死ぬと念仏僧が家に呼ばれ念仏を唱えながら鉦や太鼓を打ち鳴らしたことから始まっているようです。

そしてエイサーの言葉の意味はおもろそうし説と囃子説がありますが確定はされていません。

エイサーは旗頭、太鼓踊り、手踊り、チョンダラー(京太郎)、地唄から構成され大太鼓、締太鼓、パーランクーを使います。

チョンダラーとは道化師(ピエロ)みたいなもので全体の盛り立て役なんですね~

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チョンダラー↓

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手踊り↓

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こどもエイサー↓

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盆踊り↓          24560001_11      出店     

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←旗頭

エイサーはかつては念仏僧が死者を弔う踊りでしたが今や若者がその持てるエネルギーを発散させるパフォーマンス的な年中行事となっています。

毎年、沖縄全島のエイサー大会が行われ、沖縄一を競う競技にも発展しました。

各地の青年会が中心となって若者が地域を盛り上げるさまは頼もしい限りです。

その豪快で勇壮な踊りは見る者を圧倒します。

もはや、念仏踊りというよりも若者パワー踊りといったほうがいいのかもしれません。

エイサー♪、エイサー♪、ヒヤルガエイサー♪、サーサ♪、ハイ♪、ハイ♪・・・・・・・・・・・

さあ、そろそろ紙面が尽きてきました。

今回は旧盆特別記事でした。

次回をお楽しみに・・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)


ウチナー(沖縄)の世界遺産・座喜味城跡(最終回)

2006年08月08日 14時56分20秒 | 日記・エッセイ・コラム

前回に引き続き座喜味城跡です。

優れた築城家であった護佐丸は随所に特色のある工法を取り入れました。

中でもアーチ石門は琉球最初で最古のものといわれています。

アーチ石門↓

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そして、アーチ部の真ん中にくさび石がありますが、他の城跡には見られない手法となっています。

アーチ部のくさび石↓

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あと、城壁は屏風のような曲線状となっていますがこれは外観の美的形状とは別に構造上の強度と実戦上の戦術が隠されているのですね~

構造上のそれはこの地はもともと地盤が柔らかいために城壁が容易に崩れないように曲線を有した屏風型としているワケです。

そして実戦上のそれは敵が侵入してきた時に城壁の上から応戦する際に敵を欺く構造になっているワケです。

つまり、美と、強と、防がこの城壁には兼ね備わっているということなんですね~

城壁↓

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本丸跡↓

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ところで興味あることとして、この地からは瓦などが出土していないことからどうも本丸の屋根は板葺きか茅葺きだったと推定されるとのことです。

これが事実だとすれば、何か意外だと思いませんか?

通常、お城というと瓦葺きの立派な建物を想像しますが、板葺きあるいは茅葺き屋根のお城といわれても、ピンとこないですよね・・・・・・・・・・

残念ながら証拠となるものが残されていないため確定的なことは分からないワケですがいずれにしても興味の尽きないことではありますね。

夕暮れの東シナ海を望む↓

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この城跡は高所というその立地条件から第2次大戦中は日本軍の高射砲陣地が築かれ、そして戦後は米軍のレーダー基地が築かれました。

城壁からは南部の那覇、首里、慶良間諸島、久米島、北部の本部半島、伊江島、伊平屋諸島が展望できます。

戦術的には格好の場所だったワケですね。

さて、上の写真ですが前方に巨大な構造物が見えます。

これはなんだと思いますか?

実はこれこそ、かの有名な米軍のスパイ電波受信施設といわれている通称「象のオリ」なんです。

琉球時代の城壁と米軍の電波受信施設の組み合わせが何ともアンバランスな構図ですが、まさしく現在のウチナー(沖縄)の現実を物語っている風景ですね・・・・・・・・・・

あの世の護佐丸は一体どういう心境で眺めているのでしょうか???

さて、これで世界遺産・座喜味城跡は終わります。

次回はさて?

お楽しみに・・・・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)


ウチナー(沖縄)の世界遺産・座喜味城跡(その1)

2006年08月06日 00時13分49秒 | 日記・エッセイ・コラム

さあ、世界遺産シリーズ第4弾です。

ウチナー(沖縄)の世界遺産において城跡の城は首里城のみが復元されており、それ以外は城壁のみとなっています。

今帰仁城跡、座喜味城跡、勝連城跡、中城城跡、の4ヶ所がそうです。

今回は沖縄本島中部の読谷村にある座喜味城跡を紹介します。

実は前回の残波岬も読谷村にあるのです。

座喜味城跡全体                        

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城跡は標高125mに位置しており本島北部の本部半島、恩納岳を始め西は東シナ海を展望でき、南側は本島中部地域を展望できる、城としては最適の立地条件を満たしているんですね~

東シナ海を望む(これは城壁の下から見た風景)↓

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さあ、中へ進んでみましょう・・・・・・・・

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静かな松並木をしばらく歩くと、城壁がその姿を現しました。

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座喜味城は15世紀初めに読谷山按司(ユンタンザアジ)であり築城家としても名高い護佐丸(ごさまる)によって築かれたとされています。

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城内へのアーチ門

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14世紀初めは琉球が3つに分かれて支配されていた時代であり、これを琉球の歴史上、三山時代といわれています。

琉球は北山(今帰仁城)、中山(浦添城)、南山(島尻大里城)の3つの権力に分割されていましたが、これを南山の尚巴志が1406年に中山王・武寧を滅ぼし、1416年に北山を滅ぼしました。

実はこの北山を滅ぼす時に護佐丸は尚巴志と共に参戦したのです。

護佐丸の祖先はもともと北山の今帰仁按司であったのですが当時の権力争いにより今帰仁の地を追われたという歴史があったワケです。

そもそも座喜味城は北山征伐後の旧勢力ににらみを効かすために造られたものとされています。

その後、1422年に中山王となった尚巴司が1429年に南山を滅ぼします。

これが琉球の歴史上で最も有名な尚巴司の三山統一です。

この意味は三山統一によって琉球王国という統一国家が誕生したというワケです。

つまり、護佐丸は琉球の統一国家成立という歴史上、重要な役割を果たした人物ということなんですね~

当時はウチナーグチ(沖縄方言)で「護佐丸ガ、チューンドー!」→「護佐丸が来るぞー!」というと、

泣く子も黙ったといい伝えられているほどの権力者だったということです。

さて、そろそろ紙面が尽きてきました。

次回に続きます。

お楽しみに・・・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)


残波岬(最終回)

2006年08月01日 21時14分54秒 | 日記・エッセイ・コラム

残波岬は今回で最終回です。

前回のウチナー(沖縄)の海はいかがでしたか?

下の写真は灯台の灯頂部から撮った東シナ海です。

前回と違って単に青い空と海があるだけのシンプルな構図ですが遠くに見える水平線が何となく地球が丸いということを感じさせてくれる一枚だとは思いませんか?

紺碧の海と入道雲のかかった夏の海です。。。 

東シナ海↓        

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残波岬灯台↓

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実はこの灯台は沖縄一、高い灯台なんですよ~

地上から灯台灯頂部までの高さが31mあります。

残波岬灯台は本土復帰後の昭和48年に建設着工し、昭和49年(1974年)3月30日より点灯しています。

灯台入口↓            灯頂部への階段↓

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灯頂部↓

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この灯台は誰でも灯頂部まで昇ることができます。

ただし地上31mの階段を歩いて昇らなくちゃいけません。

エレベータに慣れた現代人にはかなり堪えます。

しかし、苦労して昇った先にはダイナミックな展望が待っているのです。

360度の視界には一切の障害物はなく、そこには真っ青な空と紺碧の海、そして2kmにおよぶ隆起珊瑚の絶壁が延々と広がるだけです・・・・・・・・・・・・・・・

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機会があれば皆さんも是非この爽快さを味わってみてください。  

それにしてもここがかつて米軍の実弾演習場だったとはこの平和な風景からは想像もつきません。 

本土復帰してホントに良かったと思います。

同じ危険でも実弾の危険よりは自然の危険のほうがまだマシ???                     

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出店

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帰る頃には夕日が東シナ海の水平線に沈みかけていました。

ホントは真っ赤な夕日を撮りたかったのですが残念ながら時間がなくて・・・・・・

そろそろ紙面が尽きてきました。

さて、次回は?

・・・・・お楽しみに。。。

アンシェーヤ!(それでは!)