第2次大戦終戦後のウチナー(沖縄)は1945年から1972年の26年間に渡って米軍政府の統治下にありました。
その当時、占領国のアメリカからは高等弁務官なる軍事司令官が派遣されたのですね~
歴代高等弁務官は6人ですが、その中でひときわ有名な弁務官がキャラウェイ高等弁務官でした。
第3代高等弁務官ポール・W・キャラウェイ中将
当時の高等弁務官は占領国の現地軍事司令官として絶大な権限を持ち、行政、司法、立法に対してその権限を行使することができたのです。
キャラウェイ高等弁務官はその強硬な施政と個性で「キャラウェイ旋風」と呼ばれるほどの波乱を招きウチナーの離日政策を進めました。
つまり、ウチナーは日本から独立すべきだという政策ですね。
ウチナーは独自の文化と歴史を持っている琉球国であり、日本とは違うのだということを強烈に打ち出したワケです。
ですから意図的に沖縄という言葉を使わずに沖縄→琉球、沖縄人→琉球人、という呼び方をしたワケです。
当時のウチナーンチュ(沖縄人)としては複雑な心境だったに違いありません。
なにしろ占領国からウチナー文化と歴史を高く評価され、祖国である日本からは独立すべきだといわれれば複雑ですよね・・・・・・・・・
実はアメリカ側の真意はウチナーンチュの独立心を煽ることによって脱日本からアメリカ寄りになることで占領政策を容易にする意図があったようです。
当時の米人住宅街
基地労働者による芝刈り作業
当時の祖国復帰闘争 ゼネラルストライキ
当時の佐藤首相は「沖縄の祖国復帰なくして日本の戦後は終わらない」という名言を残しました。
ウチナーが祖国復帰して33年が経過しましたが果たして戦後は終わったのでしょうか?
そして、いまだに戦争の遺産を背負っているウチナーに真の平和が訪れるのはいつでしょうか?
残念ながら写真のアップはできませんが、平和記念資料館の展示品を目にする度に心が痛み涙が流れます。
平和記念資料館(手前は旧日本海軍の魚雷艇)
資料館から見下ろす平和の石礎(いしじ)
前回の1960年代のウチナーは平和記念資料館で再現されていますので是非ご覧になってください。
資料館展示のむすびの言葉↓
沖縄戦の実相にふれるたびに
戦争というものは
これほど残忍で、これほど汚辱にまみれたものはない
と思うのです
このなまなましい体験の前では
いかなる人でも
戦争を肯定し美化することはできないはずです
戦争を起こすのはたしかに人間です
しかし それ以上に
戦争を許さない努力のできるのも
私たち人間ではないでしょうか
戦後このかた 私たちは
あらゆる戦争を憎み
平和な島を建設せねばと思いつづけてきました
これが
あまりにも大きすぎた代償を払って得た
ゆずることのできない
私たちの信条なのです
(以上、原文のまま)
さて、そろそろ紙面が尽きてきました。
次回をお楽しみに・・・・・・・・・
アンシェーヤ!(それでは!)