沖縄あれこれ情報ブログ

沖縄の文化、歴史をメインに沖縄あれこれ情報を発信するブログです。

イッペー(イッペイ)の花

2007年03月24日 19時06分39秒 | 日記・エッセイ・コラム

イッペー(イッペイ)の花が咲いていました。

イッペーとは落葉高木であり、ラッパ状鐘形の花を2月前後に咲かせます。

24560003_16 実はこれ、ブラジルの国花なんですね~

このイッペーは1954年にブラジルの国花に指定されたそうです。

それからこのイッペーという言葉は、たまたまウチナーグチ(沖縄方言)にもありまして、その意味は→ とても、かなり、いっぱい、非常に、などのことです。

例えば、 イッペー、チュラカーギヤッサー。 というと→ とても美人だね。 という意味です。

ところで何故ブラジルなのか?

実は沖縄は日本有数の移民県なんです。

その移民先は北米、米国本土、中南米、ハワイ、欧州、豪州、東南アジア、南西諸島とそれこそ地球上の各国に散らばっているのです。

世界で30万人以上いるといわれる沖縄出身の移民ですがとりわけブラジルにはその約半数を占める13万人近くが沖縄県系人といわれているのですね~

そういう縁があって、戦後、南米よりイッペーの種子が送られてきたのが沖縄各地に植栽されて現在に至るわけですね。

このイッペーは一方では、ブラジルのサクラともいわれているらしいのです。

日本のサクラのようにパッと咲いてパッと散る?ということからきているようですね。

サクラと違って花の色は白、黄色、ピンクとバラエティに富んでいるようです。

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この写真を撮ったのは今月初めですから現在はすでに花は散って葉っぱに変わっています。

しかし、地域によっては4月まで?咲いているところがあるようですね。

そして母国のブラジルでは秋頃?に咲くらしいです。

ところで日本有数の移民県である沖縄は昔は琉球王国でした。

その名に由来して琉僑という言葉があります。

これは華僑にならって世界の各地に生きる沖縄県系人の人的ネットワークを意味する、琉球の琉と華僑の僑をもじった造語なんです。

世界ヌ、アマクマンカイ、ウチナーンチュヤ、イッペー、マンドーンドー。 → 世界のあちこちに沖縄人は非常にたくさんいます。

そろそろ紙面が尽きてきました。

次回をお楽しみに!

アンシェーヤ!(それでは!)


ウチナー(沖縄)の桜

2007年02月04日 22時49分18秒 | 日記・エッセイ・コラム

すっかり、ご無沙汰してしまいました・・・・・・・・・・・・・・・・・

正月があっという間に過ぎてしまい、気付いたらもう2月・・・・・・・・・・・・・

1月は行ってしまい、2月は逃げてしまい、3月は去ってしまうといいますが、ホントにそれを実感する今日この頃です。。

年度末はせわしい~(笑)

さて、そういうせわしい中ですが、桜祭りに行ってきました・・・・・・・・・・・・ 24560004_20 24560003_17

ウチナー(沖縄)は全国唯一の亜熱帯地域です。

全国的な桜前線は4月から北上していきますがなんとウチナーの桜は1月中旬には開花するのです。24560011_17 24560015_10

しかし今年は暖冬の影響もあって例年よりも10日ほど開花が遅れています。

現在は7部咲きといったところでしょうか?

それから全国と違ってウチナーの場合、桜前線は北から南に南下していくのですね~

これこそ、冬でも平均気温は約17℃と暖かいウチナーならではのことですかね?24560022_21 24560023_14

本土の桜はソメイヨシノで色も淡いピンクですが、ウチナーの桜はいかにも南国らしい濃いピンクであり、ヒカンザクラ(カンヒザクラともいう)という種類です。24560031_10 24560027_13

同じ日本でありながら全国とはひと味違うウチナーは避暑地ならぬ避寒地とでもいったほうがいいですね。

そういう地域性ですから冬のこの時期は格好の避寒地としてプロ野球のキャンプ地となっています。

今年も8球団が沖縄の各地にキャンプを張っていますがプロ野球開幕に向けての体力作りはウチナーに任せてといったところでしょうか? 24560028_9 24560048_4

ところでこれだけ綺麗な桜ですがウチナーではいわゆる花見酒という習慣がありません。

本土のように桜の木の下で宴会というのは基本的にはないのです。

実にもったいない話ですがこれはおそらくウチナーンチュ(沖縄人)が寒さに弱い?せいかなと思いますがあくまでも私見ですよ(笑)

何を好き好んで寒空の下で呑むのか・・・・・といった感じでしょうかね~

私が東京にいた頃は毎年の花見酒が楽しみでしたが、ここへ帰ってきてからは一度も経験してませんからね。。。

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そろそろ紙面が尽きてきました・・・・・・・・・

今回は花見特別記事でした。

次回をお楽しみに・・・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)


絶壁の上の神社・波の上宮

2007年01月08日 00時57分25秒 | 日記・エッセイ・コラム

初詣に行ってきました。

ウチナーの神社には明治以前の琉球国府から特別扱いを受けた八つの神社があります。

これを琉球八社といって波の上宮、沖宮、識名宮、普天間宮、末吉宮、八幡宮、天久宮、金武宮のことをいいます。

そして、これらの中で特に沖縄総鎮守の神社として位置付けられているのが波の上宮なんですね~

さて、この波の上宮、単にそれだけではなくおそらく全国的にも珍しい立地にあるのです。

波の上宮↓                                 

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左側手前から前方奥にかけての砂浜は波の上ビーチ↓

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それはご覧のように海に面した絶壁の上に建っていることと何とその下にはビーチがあるのですね~

絶壁下の透き通った海↓

左側は波の上橋↓

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透き通ったビーチの真正面は波の上橋の橋桁↓

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波の上ビーチから波の上宮を望む↓

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波の上ビーチ↓

前方の橋は波の上橋↓

空と橋と砂浜の絶妙なコントラスト?

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海側から陸地側を望む↓

前方はラブホテル街↓

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いかがでしょうか?

絶壁といい、橋といい、ビーチといい、ラブホテル街といい、自然と人工物のコントラストが奇妙に交差しているのが波の上宮なんですね~

果たして、こういうバラエティにとんだ立地にある神社が全国にいくつあるでしょうか?

特にビーチに隣接した神社というのは珍しいと思います。

これこそ、ウチナーらしいというか・・・・・・・

実はこの波の上宮、古くからウチナーに言い伝えられているニライカナイ、つまり海の彼方に神々の住む理想郷があるという伝説に基づいて神様からのお告げにより建立されたらしいのです。

このニライカナイなるもの、実は竜宮城伝説にも結びついているのですね~

海の彼方とは実は海の底、つまり竜宮城のことをいっているという言い伝えですね。

昔から那覇港に出入りする船は波の上宮に航海の安全を祈願したということですから海の神様といってもいいかもしれませんね。

全体図↓

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さて何を隠そう、現在の波の上ビーチは実は人工ビーチなんです。

どういうことかというと砂浜の砂は人工的に敷き詰めたものなんですね。

ビーチそのものは40~50年前からありますがその当時は砂浜ではなく岩場のビーチでした。

当時の私は小学生でしたが、岩場の中に海水プールがあって、その周辺には海上店舗がありました。

泳ぐのは海水プールか海上店舗の下の岩場だったのを記憶しています。

あの当時は浮き袋も車の廃タイヤのつぎはぎのある真っ黒いチューブでした。(ホント、懐かしい・・・・・年代が分かる?笑)

現在の形のビーチに生まれ変わったのはごく最近なんですね~

復帰後?は長いことビーチは閉鎖されていたのです。

そして現在、多くの市民の熱望により県庁所在地の那覇市内にある唯一のビーチとして再び生まれ変わったワケですが、街の中のビーチにしては海のきれいさはご覧のとおりです。

さて、波の上宮に話を戻します。

一の鳥居↓

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波の上宮は神社が建立される以前はニライカナイにまつわる波の上の聖地として人々が海神の国の神様に祈りを捧げる拝所(ウチナーグチでウタキという)としたのがそもそもの起源だったということですね。

参道↓

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二の鳥居↓

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本殿↓

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新年の出店

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さて、かようにバラエティに富んだ波の上宮ですが実は今後まだまだ変貌を遂げようとしています。

それは・・・・・・・・・・・↓

空港へのバイパスとして海底道路への連絡道路・若狭インターチェンジ完成予想図↓

中央上部が波の上宮および波の上ビーチ↓

右下が空港への海底道路にアクセスする↓

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現在、工事は着々と進行しています。

しかし、よく考えてみればこれは素晴らしいことかもしれません。

なぜならば波の上宮は元来、ニライカナイにまつわる聖地なワケですから海底道路はすなわち竜宮城伝説に繋がるワケですよね?

これは決して偶然ではないかもしれませんね~

左側が工事中のアクセス道路で右側が波の上橋および波の上ビーチ↓

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これはすなわち、波の上宮を起点に海底道路(竜宮城)を経由して空へ飛び立つワケですからホント、縁起がいいですよね?

これはあくまでも私の勝手なイメージですが皆さんはどう思いますか?

琉球時代の人達はこの変貌ぶりにおそらく腰を抜かすかもしれませんね・・・・・・

アイエーナ!ヒルマサカワユル、ナンミンヨ・・・・・・・・

(なんとまあ!こんなに変わっていく、波の上よ・・・・・・)

さあ、そろそろ紙面が尽きてきました。

今回は新年特別記事でした。

次回をお楽しみに・・・・・・・・・・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)


明けましておめでとうございます。

2007年01月01日 23時56分57秒 | 日記・エッセイ・コラム

新年明けましておめでとうございます。

今年は亥年ですが猪突猛進ではなく、猪突邁進でいきたいものです。

世の中は益々厳しい方向に動いています。

この厳しい世相を乗り切っていくには猛進ではなく邁進していくことが必要だと思います。

実は一昨年の暮れに猛進し過ぎて?入院、そして昨年のお正月のちょうど今頃、退院後の自宅療養でダウンしていました。

健康の有り難さをしみじみ感じている現在です。

まさしく健康あっての人生ですね・・・・・・・・・・・・・・

病気は誰の身にもある日突然襲ってきます。

皆さんも常に油断することなくご自愛くださいね。

さて、そういうことで2年振りに初日の出を拝みにいってきました。

その結果は・・・・・・・・・・・・・・・・

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あいにくの曇りのため、日の出は拝めなかったのです・・・・・

写真は平和記念公園の平和の石礎(いしじ)です。

太平洋側↓                                 

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しかし、日の出は拝めなかったのですが代わりに創作エイサー(念仏踊り)演舞を見ることができました。

これはボランティア団体が催す新春イベントらしくて遭遇できたのはホントにラッキーでした。

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本来、エイサーとはその名のとおり真夏の旧盆に行われる伝統行事ですがそれが何故、新年に?という疑問が湧くと思います。

しかし、このエイサーなるもの、いつしか伝統行事を離れて若者のイベントととして季節を問わず発展してきたのですね~

その層は厚いのです。

まさしく幼稚園生から成年に至るまでですね。。

これらは基本的にはアマチュアなんですがその実力はプロ顔負けの腕前です。

それこそ青春の全てをつぎ込むみたいな感じですかね・・・・・

嬉々としてやっています。。

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さあ、そろそろ2007年の夜が明けてきました・・・・・・・・・・・・

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旧年中はお世話になりました。

皆さん今年もよろしくお願い申し上げます。

アンシャエーヤ!(それでは!)


ウチナー(沖縄)の世界遺産・中城城跡(その2)

2006年12月15日 01時12分54秒 | 日記・エッセイ・コラム

さて、前回に引き続き中城城跡です。

これは一の郭から太平洋側を望む風景です↓24560022_18 24560017_13  

          

前方右奥が知念半島で、その左前方には神の島・久高島が横たわっていますが写真ではちょっと分かりづらいかもしれませんね~

中城城跡は東に太平洋、西に東シナ海を望み南側に知念半島、北側に勝連半島が見渡せる素晴らしい眺望の高台にあります。

中城城跡公園全体図↓

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久高拝所(久高島に向かって祈願する場所)↓

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久高島方面↓

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首里遙拝所(首里城に向かって祈願する場所)↓

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中城城跡にはこのような拝所が8箇所あるといわれています。

ウチナーには琉球時代からノロ(神に仕える神女)、ユタ(霊媒師、祈祷師)が存在し、琉球王府に多大な影響力を持っていました。

琉球王国はある意味、ノロに支配されていたといってもいいかもしれませんね。

実はこの部分が良くも悪くも本土と決定的に違う歴史と文化なんですね~

城壁と空↓

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この歴史と文化は現在でもウチナーの各地に受け継がれています。

今も昔も共通するのは神事の行事には男子禁制だということです。

女性パワーは脈々と受け継がれてきたワケですが、どうやらその辺にウチナー女性の強さの源があるのかもしれませんね~

カンジャーガマ(鍛冶屋跡)↓

これは上部が人工の城壁で下部は自然の城壁となっており、鍛冶屋は自然の城壁の一角をくり抜いた形(右下のくぼみ)で残されています。

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一説によると城主の護佐丸が宿敵の勝連城主である阿麻和利との戦いに備えるために、ここで武具を造っていたということです。

正門(元々は上部に櫓が乗っていた)↓

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正門近くの鉄砲台↓

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琉球史で有名な護佐丸・阿麻和利の乱は時の中山王・尚泰久を勝連城主の阿麻和利がおびやかし始めたことがきっかけでした。

護佐丸は阿麻和利から中山王(首里城主)を守るために備えていたのですが、ある日、阿麻和利が変装して首里城に上り、護佐丸が中山王に対して謀反を起こしているという謀略を図ったのです。

これにより中山王は阿麻和利に対して護佐丸への攻略を命じたワケですね~

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かくして護佐丸は阿麻和利の手に落ちたワケですが、その後、阿麻和利自身も中山王によって滅ぼされました。

1429年に尚巴志が三山を統一以来、1458年に阿麻和利の乱の後、琉球王国は益々安泰化したワケですが護佐丸の無念は、さぞ尽きなかったことでしょう・・・・・・

実は中城城こそ琉球における中央集権の確立に大きな役割を果たし、かつ中世的な戦乱において最後の築城であった特筆すべきグスク(城)だったのですね~

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現在、護佐丸は中城城跡の近くにあるお墓に葬られていますがこの墓こそウチナーにおける最も古い亀甲墓として存在しているのです。

あの世の護佐丸は中城城跡を見下ろして何を想うのでしょうか・・・・・・・・

南海の古城に息づく、いにしえのロマンはあなたを琉球の世界へと誘って(いざなって)くれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さて、そろそろ紙面が尽きてきました。

中城城跡はこれで終わります。

次回をお楽しみに・・・・・・・・・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)


ウチナー(沖縄)の世界遺産・中城城跡

2006年12月10日 15時48分51秒 | 日記・エッセイ・コラム

いや~、すっかりご無沙汰してしまいました。

師走に入った途端、色々と取り込んでしまい気がついてみたら現在に至ってしまいました。

そういうことで取材がなかなかできなかったのですが、今回久々に世界遺産を取材してきました。

それは中城城跡です。

中城と書いてナカグスクと読みます。

ウチナーグチ(沖縄方言)では城のことをグスクというのは有名?ですよね。。

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中城城跡は沖縄県中部の中城村に位置し14世紀後半に当時の中城按司が築きあげた城を1440年に読谷山按司であった護佐丸が増築したといわれています。

実はここは数ある城跡の中でも唯一、沖縄戦の戦火を免れたため県内の城跡では最も原型を留めていることで有名なんですね~。

そしてここは自然の岩石と地形的な条件を生かした美しい曲線で形造られており、その築城技術は歴史的にも高い評価を受けているのです。

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それを裏付ける事実として、1853年にペリー提督一行が黒船で来琉した際に中城城を訪れ測量したのですが「要塞の資材は石灰岩であり、その石造建築は賞賛すべき構造であった」という記録が残されているんですね~。

中城城跡は琉球石灰岩を使った城壁が唯一、完全に近い形で残された歴史的遺跡といってもいいワケですね。

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そしてペリー提督一行は城門のアーチ構造についてもその精巧な造りに対してエジプト式の造りだと評価したということです。

あの当時に琉球とエジプトの交易があったという事実はないはずなのに驚きですね。

城門↓

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逆光を浴びた一の郭↓(正殿があった場所)

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ホントは逆光なしで撮りたかったのですが、現場ではこのアングルしか狙えなかったというのが本音です(笑)

一の郭↓

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城郭から太平洋を望む↓

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一の郭の広場

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西の郭から東シナ海方面を望む↓

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一の郭と二の郭↓

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城壁と東シナ海側↓

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城壁と太平洋側↓

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上の2枚の写真からは太陽の位置により東シナ海側と太平洋側では光の加減で被写体のイメージの違いが分かると思います。

さて、そろそろ紙面が尽きてきました。

次回に続きます・・・・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)


飛行機の見える島・瀬長島

2006年11月25日 16時52分09秒 | 日記・エッセイ・コラム

ウチナー(沖縄)は全国一の離島県ですが、その数ある離島の中で空港に一番近い島があります。

それは瀬長島といって那覇市に隣り合った豊見城市にあります。

瀬長島↓            右側は野球場が4面↓

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ところで空港はどこにあるかって?

はい!

これです↓

これは沖縄本島の南側(太平洋方面)のちょうど飛行機が離着陸する角度から見た衛星写真です。

手前下に今まさに着陸しようとする飛行機が見えます↓

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瀬長島と本島は海中道路で結ばれており、その海中道路から那覇空港に向かって飛行機の誘導灯が一直線に伸びているのが分かりますね~

実はこの海中道路の真上を飛行機が分刻みで低空飛行着陸するのが目の前で見ることができるのです!

逆光を浴びて着陸する飛行機↓

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写真ではそれほどでもないのですが実際の現場は手が届くような錯覚におちいるほどの至近距離で圧巻です!

まさしく航空マニアにはたまらない光景でしょうね。

向こう側が那覇空港↓

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島の上空を低空飛行する飛行機↓

向こう側は那覇市

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島をかすめて着陸する飛行機↓

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豊見城市から瀬長島に伸びる海中道路↓

右側が那覇空港方面

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海中道路から那覇空港に伸びる誘導灯道路↓

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ガードフェンスと航空局車輌                           24560014_16 24560026_9

島の海岸から見た風景↓ 向こう側は空港↓                               24560020_11 24560017_12

瀬長島は観光地というワケでもなく普段は市民のレジャースポットとして夏場はビーチパーティーで賑わい、週末と休日は少年野球、釣りなどで賑わいます。

そして、ご覧のように島の中は特にこれといった見所もない所です↓

島の周回道路↓

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島のレジャー施設・スポーツセンター↓24560018_18

しかしなんと意外なことに、琉球時代は瀬長城(セナガグスク)といって当時の地域支配者である瀬長按司(セナガアジ)の居住するお城があったのです!

残念ながら現在はその痕跡を留めていません。

なぜなら戦後から復帰前にかけてここは米軍基地の弾薬庫として使われていたため、島の形が大きく変えられたのです。

そしてここは昭和52年に返還されましたが、現在はその特異な立地条件から空港の施設の一部として利用されているワケです。

琉球時代は当然、海中道路も誘導灯道路もない孤立した島だったワケですが、瀬長城が島の中央にそびえ立って?いたとすればそれこそ島城(シマグスク)として素晴らしい景観だったことでしょう!

可能であれば復元して欲しいのですが、あいにくとここは飛行機の離着陸ルートとなっているため叶わぬ夢でしょうね・・・・・・・・

しかしあの世の瀬長按司も、まさか瀬長島の上空を飛行機がかすめていくとは夢にも思わなかったことでしょう。

さて、そろそろ紙面が尽きてきました。

次回をお楽しみに・・・・・・・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)


ノロ(神女)の住む城・知念城跡

2006年11月19日 22時41分14秒 | 日記・エッセイ・コラム

こちらは沖縄南部の知念というひっそりとした場所に知られざる城跡があります。

ここはとてもこじんまりとして目立たない城跡であり、奥に行くに従って霊気らしきものを感じます。

入口↓             前方が城跡↓24560007_12                         24560008_15  

       

入口側から全体を見る(右端が城跡城門)24560034_6 24560033_7

それもそのはず、霊気を感じるのは城跡の一角にノロの屋敷跡があるからなのでしょう・・・・・

実はここは「おもろそうし」では「ちねんもりぐすく」と謡われた霊場でもあるのですね~24560009_11 24560011_15

 

ノロとは神女のことであり、琉球王国時代は王府とノロは切っても切れない表裏一体の関係が築かれていたのです。

つまり、琉球王国はある意味、ノロが動かしていたといっても過言ではないでしょう・・・・・

知念城は代々、知念按司の居城であったようですが、当時の尚真王の権威と「あまみきよ」伝説が結びついていたのがこの知念城という宗教的意味合いを持つ城だったワケです。

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一説によると知念城は尚真王の異母兄弟である内間大親が築いたといわれますが真偽のほどは定かではないようですね・・・・・・・・・・

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現在、発掘作業が続けられていますがまだまだ新発見は出てきそうです。

もしかすると近い将来、真偽が解明されるかもしれません・・・・・

歴史の謎はロマンが広がりますが、さてホントはどうなのでしょうか???

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発掘現場↓

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前方は太平洋を望む↓

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前方に神の島、久高島を望む↓

残念ながら、この日はあいにくの曇天で、空海ともさえない色である。

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かつてはノロがはるか向こうの久高島を拝み琉球王国の安泰を祈願したということです。

昔も今もその空と海の風景はほとんど変わることなく、そしてこれからもずっと変わらずにいることを祈ります・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さて、そろそろ紙面が尽きてきました。

次回をお楽しみに・・・・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)


琉球王朝の酒・泡盛

2006年11月11日 20時52分10秒 | 日記・エッセイ・コラム

日本最古の蒸留酒は焼酎のルーツともいわれている泡盛です。

なんと今から500年以上も前に泡盛は生まれたのですね~

琉球王国時代は15世紀の初めに中国を中心に東南アジアと貿易を始め、当時のシャム(現在のタイ)から蒸留酒を輸入していたのです。

そして、シャムから蒸留酒の造り方を教わり1470年頃から本格的に泡盛が造られたようです。

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その後、琉球王国は1667年以降に泡盛の製造を王府の管理下に置き王府が認めた製造家以外の製造を禁じました。

そして製造を認められた製造家は泡盛製造に失敗するとなんと、最悪の場合は島流しにされたそうです。

当時の泡盛造りはまさしく命がけであったようですね。

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泡盛の名前の由来は諸説があって当初は粟から造られたから「粟盛」という説や注ぐときに泡立つから「泡盛」という説がありますが、どうも泡説が有力なようですね。

ところで泡盛の名称は復帰前から長い間、全国的には認められていなかったのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・何故でしょうか?

当時は酒税法上は焼酎という扱いであり、製品には焼酎乙類という明記が義務付けられていたんですね~

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今でこそ、全国および国際的にも脚光を浴びている泡盛ですが復帰前は島酒、ウチナーグチ(沖縄方言)では島酒→シマザキと呼ばれ、ある意味、蔑みと親しみを込めてそう呼ばれていました。

質のほうも現在の泡盛とは比べられないほど荒削りであり、味といい、香りといい、荒削りの地酒の最たるものだったのです。

特に香りは泡盛特有の臭みがあり、鼻が曲がるような匂いでした。

それゆえ、その荒削りの味と匂いをごまかすために愛飲する時は殆どの人はコーラ割かソーダ割りにして呑んだのです。

今ではとても考えられないことですが、それだけ現在の泡盛が酒造家の努力と研究の賜物により進化したということですね~

さて、これをご覧ください↓

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なんだかすごく古びた建物ですね~

歴史的な建物でしょうか?

実はこれ、泡盛の貯蔵倉庫なんです。

建設当初の建物はこれです↓

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実はこの外観の差は泡盛の製造方法に関係しているのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・なぜ???

それは泡盛はタイ米と黒麹菌を使うからです。

これは年数を経ると建物の外壁に黒麹菌の色素が現れてくるそうです。

そして泡盛の特徴は黒麹菌を使うこと自体が世界的にも類のないことなんですね。

これに対して焼酎は白麹菌が使われています。

それから日本米ではなくタイ米を使うことも泡盛の特徴なんですよ。

もともとはシャム(現在のタイ)から製法を教わったルーツがあるワケですからそれなりの意味があるということですね。

酒壺↓

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左側が貯蔵庫で右側が製造施設↓

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かつては琉球王朝の酒であった泡盛ですが現在の高品質の泡盛を当時の琉球王が口にするとおそらく、その美味に腰を抜かしてしまでしょうね?

「アイエーナー!アンシマーサル、クヌサキヤ、タマシヌガチャン!」

「アラまあ!なんとおいしいことか、この酒は、ビックリした!」

今宵、あなたも泡盛はいかがですか?

「アイエーナー!・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

そろそろ紙面が尽きてきました。

次回をお楽しみに・・・・・・・・・・・・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)


日本の東南アジア・国際通り

2006年11月05日 19時35分31秒 | 日記・エッセイ・コラム

ウチナー(沖縄)のメインストリートといえば国際通りです。

ここは正式には県道39号線であり、県庁前交差点(泉崎)から安里交差点までの通りをいいます。

県庁前交差点・右手が県庁で左手が国際通り↓

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県庁前交差点の再開発ビル・パレット久茂地↓

ここは沖縄初の再開発ビルです。

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国際通りはその長さが1マイル(約1.6km)あるため、別名「奇跡の1マイル」とも呼ばれます。

しかしなぜ、そう呼ばれるのでしょうか?

国際通りのほぼ中間地点にある那覇タワー↓         

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実はこの地域は戦前は畑が広がる単なる湿地帯でした。

終戦直後に商売の行き場を失った人達が通り沿いにバラックあるいはテントを建てていわゆる闇市的なエリアとしてスタートし、戦後めざましい復興の地となったことから奇跡の1マイルと呼ばれるようになったのです。

そして国際通りの呼び名はちょうど写真↑の前方右側に終戦後にできたアーニーパイル国際劇場という映画館に由来しました。

アーニーパイルというのは沖縄戦における米軍の従軍記者の名前です。

アーニーパイルは従軍中に沖縄の伊江島で戦死しましたが彼の当時の栄光を讃えるために命名されたワケです。

前方奥突き当たりが国際通りの終点?の安里交差点で左右に延びる高架橋はモノレール↓

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国際通りは元々は百貨店などの商業施設が集中する沖縄一の繁華街だったのですよ~

がしかし、最近は周辺地域の商業地域再開発により商業的な地盤沈下が進み現在はもっぱら観光土産品店が集中する観光客相手の地域となりました。

ご覧のように垢抜けしないローカル色丸出しの通りですがそれでも観光客には根強い人気を保ってるんですね~

ここにはウチナーの原点があります。

実はそれが人気の秘密なんです!

沖映通りから国際通りを見る↓

左側が安里交差点向けで右側が県庁前交差点向け

24560003_11

ここは国際通りに交わる沖映通りの一角↓

すぐ左側が国際通りに突き当たる↓

右側の屋上球形タンクは本土では絶対に?見ることのできない、かの有名なウチナー限定の断水用水タンクです。

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さて、面白いものを見つけました!

街角のベンチに佇む後ろ姿の美女?↓

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表に廻って見ます・・・・・・・・・ドキドキ

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お!マリリンモンロー?じゃないですか!

しかしちょっと変ですね~

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実はこれ、本物・・・・・ではなく、オブジェでした!

その証拠に隣の紳士達はそっぽを向いています・・・・・・・

これが本物だったら視線は当然・・・・・・・・・・・・ですよね?

24560003_13

とまあ、こういうお遊びもあるのが国際通りです。

決して都会の街並みのスマートさはありません、

どころか、不器用さが目立ちます。

しかしこれがなんともいえない魅力なんですね~

国際通りは日本というよりも東南アジアといったほうがイメージは近いと思います。

そう、ゴタゴタした雰囲気ですね・・・・・・・・・・・・

あなたがここに来ればきっと、ここがまぎれもない日本唯一の亜熱帯地域だということを実感させてくれるはずです。

言葉ではうまくいえませんがここはまさしく亜熱帯地域・・・・・・・・・・・・・です。

ゴタゴタ、ゴタゴタ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ぜひ体験されてください。。。

そろそろ紙面が尽きてきました。

次回をお楽しみに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)


ウチナー(沖縄)の最北端・辺戸岬

2006年10月29日 21時20分05秒 | 日記・エッセイ・コラム

皆さん、お久しぶりです!

相変わらず忘れた頃に記事をアップしていますがどうかお許しを・・・・・・・・

さて、前回ご紹介の金剛石林山の所在地は国頭村ですが、ここは沖縄本島の最北端となります。

そしてその最北端の岬が辺戸岬なんですね~ 

 下の写真は岬の突端部分です。

(水平線の向こう側が鹿児島方面)

←東シナ海側           太平洋側→                    24560051_1 24560052_2

さて、それでは早速、岬の突端部分の石碑に近づいてみましょう・・・・・・・・

あれ!

よく見たら辺戸岬とは書いてませんね~

そこにはなぜか→祖国復帰闘争碑とあります・・・・・・・

はて?どういうことでしょうか???

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24560036_4

実はウチナー(沖縄)が本土復帰するまで、ウチナーは日本ではなく琉球(沖縄県ではなく琉球政府)だったワケですが、その歴史の名残がこの石碑なんですね~

なんと辺戸岬の前方海上に横たわる北緯27度線はまさしくウチナーと日本本土を隔てる国境?だったのです。

下の写真の赤い星印(十字)が海上の左右に横たわる北緯27度線であり、事実上の国境でした。

ウチナーは1952年の4月28日にサンフランシスコ平和条約の締結により事実上、アメリカの支配下に置かれました。

そこで復帰前は毎年4月28日になるとこの国頭村と鹿児島県・与論島の双方から小舟が出され国境である北緯27度線上でお互いにたいまつを焚いて祖国復帰闘争を展開したのです。

夜の真っ暗な海上でたいまつの明かりの下で

「沖縄を返せ!」

「沖縄を返せ!」

とお互いにシュプレヒコールを上げました。

そしてお互いに日本人でありながらこの目には見えない27度線を容易に越えることがままならなかったワケですね~Mfwmapserv_1

当時のウチナーが日本でないということは、つまり外国ということですから日本本土への渡航にはパスポートが必要だったワケです。

私も高校生の頃にパスポートを手に本土へ行ったことがありますが、あの頃は飛行機での旅は贅沢な時代であり、船での渡航が一般的でした。

それだけに港から出航する際は同じ日本でありながらさながら見知らぬ遠い外国へ行くような期待と不安で胸が躍った記憶があります。

今でこそ飛行機での渡航が当たり前ですが船での渡航は飛行機のそれに比べていささかの旅情をかき立ててくれます。

水平線のほぼ真ん中に目視で鹿児24560046_1 島県・与論島の島影が望めますが、写真では確認できないのが残念です↑↓

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展望台下の絶壁↓24560041_3 24560042_3 (吸い込まれそうです)                                     

岬から安須森方面を望む↓24560038_4 24560044_4

 

同上24560056_424560055_5                              

ウチナーは1972年5月15日に念願の祖国復帰を果たしました。

かくして、当時の祖国復帰闘争を後世に伝えんがために先の石碑が建立されたというワケです。

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そろそろ紙面が尽きてきました。

次回をお楽しみに・・・・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)


神々の巨大彫刻群

2006年10月21日 23時20分11秒 | 日記・エッセイ・コラム

ここは沖縄本島の最北端に位置する国頭村です。

驚くことなかれ!

なんと2億年前の地球がここにあるのです。

全体写真↓左前方は沖縄最北端の辺戸岬

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ここは金剛石林山といって2億年前の石灰岩が塔のように林立しています。

実はここは今から2億年前の石灰岩が雨水等により長い年月をかけて浸食されてできた日本唯一の熱帯カルスト地形なんですよ~

金剛烏帽子岩↓

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ここは発見されてから一般公開されるまでになんと30年の歳月を要しました。

というのはこの地域は沖縄海岸国定公園であるため、再開発の認可が容易におりなかったようです。

パパイヤの木と奇石郡↓

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奇石の中の池↓

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奇石の門↓

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さて、これはなんだと思いますか?

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どこかで見覚えがあるでしょう?

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24560017_11 ←正解は

そう、悟空岩です。

孫悟空は石から生まれたことで有名ですよね?

これはまさしく孫悟空をイメージさせる石山ですね~

ピッタリのイメージでしょう・・・・・・・・・・・・・・・

さて、これはなんでしょうか?                              

花にしては変ですよね~

24560027_11実はこれはソテツで、真ん中にあるのはソテツの実です。

この一帯には6万本以上のソテツが自生しているといいます。

ソテツの実は猛毒があり、人間でも動物でも食べると命を失います。

しかし沖縄戦の戦時中では食料不足のため、命を犯してまでもこれを食したといいます。

もちろん毒を抜いて食べるワケですが当たりハズレがあるワケですからまさしく命をかけて食したというすざましい歴史があるワケですね。

これはソテツ地獄として沖縄戦の悲惨な歴史に残されています・・・・・・・・・・・・

さて、下の写真の真ん中付近の頂きには沖縄最北端の御獄(ウタキ=拝所)があります。

この一帯は安須森→ウチナーグチ(沖縄方言)でアスムイといいます。

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この一帯は昔々、神様が天から降りてきて最初にこれらの森を創ったそうです。

ということは金剛石林山はまさしく神々が創った巨大彫刻群といってもいいでしょう・・・・・

これらの奇石を見れば見るほどそう思わざるを得ません・・・・・・・・・

考えて見たら沖縄戦当時の激しい戦火にもかかわらずここだけは無事だったワケですがこれは決して偶然ではないでしょうね。

今でも森の中の拝所には神女(ユタ)が参拝するようです。

下の写真は辺戸岬から安須森および金剛石林山を眺めた景色です。

すごく神々しいものを感ずるのは私だけでしょうか?

24560055_3  

自然が持つ造形美には人間が足元にも及ばない美しさとパワーがあります。

それはやはり神の成せるワザでしょうか・・・・・・・・・・・・・・・・

さて、そろそろ紙面が尽きてきました。

次回は辺戸岬をご紹介します。

お楽しみに・・・・・・・・・・・・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)


ウチナー(沖縄)の世界遺産・勝連城跡その2

2006年10月15日 21時40分54秒 | 日記・エッセイ・コラム

いや~、すっかりご無沙汰してしまいました・・・・・・・・・・・・・

それでは、さっそく前回の続きです。

さて、下の写真はコンピュータグラフィックによる勝連城の復元図です↓

これは北側に位置する西原御門(ニシハラウジョウ)から見たものです。

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首里城と違うのは高台にあって要塞をイメージさせるところでしょうね。

実は当時は激動と混乱の時代であり、琉球が不安定な時代で権力争いの真っ只中にありました。

そういうことから勝連城は外敵防御型の造りとなったようです。

阿麻和利は琉球の王権奪取を目指して手始めに国王の重臣である中城城の護佐丸を1458年に滅ぼします。

そしてその後、首里城を攻めましたが無念にも戦いに敗れ滅ぼされてしまいました。

この戦いが琉球の歴史上有名な「阿麻和利の乱」です。

そしてこの阿麻和利の敗戦により、琉球王国は安定したのです。

ところで阿麻和利に嫁いだ百十踏揚は皮肉にも阿麻和利を倒した鬼大城と再婚しました。

その後クーデターにより鬼大城は権力の座を追われ、百十踏揚は沖縄南部島尻の玉城へと生き延びましたが晩年は寂しい隠居生活を余儀なくされたのです。

百十踏揚は激動と混乱の時代に生きた悲劇の王女としてその名を残しました。

その美しさゆえ、薄幸?の美女だったのかも知れません・・・・・

北側、海中道路方面を臨む↓  24560023_8 24560024_9

↓南側方面を臨む24560018_16                    

これは勝連城の守り神を祀った拝所であり、

神女(ノロ)が参拝したところである↓                            

24560031_824560012_10   

城郭を正面から臨む↓

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↓東側方面、太平洋               24560021_11                           24560027_10

15世紀における激動と混乱の時代を駆け抜けた英雄、阿麻和利は無念にも滅ぼされました。

しかし当時の国王に最後まで抵抗した唯一の人物として琉球の歴史にその名を残しました。

それは肝高の名と共に現在も脈々と語り継がれているのです。

気高き英雄、その名は阿麻和利・・・・・・・・・・・・

今回で勝連城跡は終わります。

次回をお楽しみに・・・・・・・・・・・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)


ウチナー(沖縄)の世界遺産・勝連城跡

2006年10月06日 01時57分15秒 | 日記・エッセイ・コラム

お待たせしました!

毎度おなじみの世界遺産です。

えっ!待ってないだって?

まあ、そういわずにどうぞご覧ください・・・・・・・・

ここはウチナー(沖縄)の中部に位置する勝連半島です。  

勝連半島は太平洋側に面しており、海中道路の町としても有名です。

それから米海軍基地のホワイトビーチもあり原子力潜水艦の寄港地としても知られています。

米軍基地の中でも嘉手納空軍基地に次ぎ警戒の厳重なエリアとなっているんですね~ 

ちなみにここから北上するに従って米軍基地のレッドビーチ、ブルービーチが位置します。Photo_9 Photo_8 

ホワイトビーチが軍港として使われているのに対し、レッドビーチ、ブルービーチは主に海兵隊の海上から陸地への急襲作戦の訓練に使われているようです。

つい最近から市町村合併により勝連町がうるま市に統合されました。

この旧勝連町は肝高(きむたか)の町として有名です。

きむたかとはウチナーグチ(沖縄方言)で気高いという意味があります。

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かつれんのとよみてた(勝連の鳴り響みてだ)

ももうらとよみてた(百浦の鳴り響みてだ)

きむたかのとよみてた(肝高の勝連の鳴り響みてだ)

かつれんのいちやぐち(勝連の板口を)

きむたかのかなやくち(肝高の金口を)

かみからは てるまはま(上からは波照間浜に)

しもからは はまかはに(下からは浜川に)

これは沖縄最古の歌謡集「おもろさうし」の16巻に唄われている詩です。

これは勝連の気高い按司様は百浦にとどろく按司様である。(按司→アジ→支配者)

勝連の立派な港を開け上からの舟は波照間浜に、下からの舟は浜川に着けて栄えている。

という意味です。

そしてこの気高い按司様こそ琉球における15世紀の激動と混乱の世に出現した英雄、阿麻和利だったのです。

勝連城はこの阿麻和利が住んだ城です。24560034_4 24560004_14

この阿麻和利は当時、琉球がまだ琉球王国という統一国家になる前の地方の支配者であり、当時の国王に最後まで抵抗した按司でした。

幼少のころは体が弱く山に捨てられた阿麻和利は苦労しながら成長し、たくましさと知恵を授かったのちこの勝連にたどり着いたことで人々から慕われ按司として君臨しました。

阿麻和利はその才覚によって海外貿易を行い栄えていきます。

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空撮写真↓           復元イメージ図↓24560005_12 24560002_12

当時の勝連は肝高と呼ばれ、本土の京都や鎌倉に例えられるほど繁栄し、阿麻和利に対しては「千年もこの勝連を治めよ、勝連の名高き王」と讃えられたということです。

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一の曲輪↓

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この阿麻和利の実力に脅威を持ったのが時の琉球国王・尚泰久でした。

この時期はまだ激動と混乱の時代であり、安定しない時代だったのです。

国王・尚泰久が考えたのは攻略結婚であり、なんと自分の娘、百十踏揚(ももとふみあがり)を阿麻和利の元に嫁がせたのです。

つまり、国王を恐れさせるほどの力を阿麻和利は持ち得たワケですね~

ここで百十踏揚の名前の由来は

百十→百に十を重ねる→いつまでも

踏揚→踏んで揚がる→秀でる→名高い

という意味であり、すなわち気高く美しいということなんですね~

さて、そろそろ紙面が尽きてきました。

次回に続きます。

お楽しみに・・・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)


那覇市新都心

2006年10月01日 19時01分15秒 | 日記・エッセイ・コラム

さて、これは何でしょうか?

なにやらしゃれたタンクですね~

Photo_5

実はこれは安里配水池といって那覇市新都心の一角にあります。

ちょうどこれは、太陽が波間から顔を出す日の出をイメージしたデザインですね~

しかし何を隠そう、ここは沖縄戦の際は最大の激戦地となったところであり、日米両軍共に多くの犠牲者を出したところなんです。

日本軍は52高地と呼び、米軍はシュガーローフヒルと呼びました。

この52高地は日本軍防衛陣地の中核拠点だったのですが、米軍の攻撃により撤退を余儀なくされました。

その後、南部の摩分仁に撤退するまで持久戦に持ち込んだ作戦は歴史の語るとおりです。(摩分仁:南部戦跡地区)

日本本土決戦の準備が整うまでの、文字通り盾となったウチナー(沖縄)は一日でも長く米軍を引き留めておく必要があったワケです。

実は当時の米軍は日本を無条件降伏させるためにマッカサー元帥らに南九州上陸作戦を指令しており、南九州への上陸を1945年11月に予定していたということです。

幸いにも本土上陸前に終戦となり、結果としてウチナー(沖縄)が盾となったことで本土決戦は免れたワケですが、広島、長崎への原爆投下による犠牲も決して忘れてはならない歴史的事実です・・・・・・・・・・・・・・

さて、那覇市新都心は市内の北西部に位置しています。

新都心はおもろまち、銘刈、安里、天久、安謝、上之屋から成り、おもろまちという名称は再開発後に付けられました。

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この地域は戦後は長いこと米軍基地であり、米人住宅地区として位置付けられていました。

米人住宅地区↓

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これはつまり、沖縄の中心地である那覇市のほぼ、ど真ん中になんと米軍基地があったワケです。

今考えると驚きですよね~

しかし、当時は当たり前のような存在でした。

そしてもったいないことに約20年以上前に返還されてからは長い間、ペンペン草の生える空き地の状態でした。

基地返還されてから再開発されるまでに通常20年はかかるらしいのですがこれはいくらなんでも長過ぎますよね~

せめて10年、いや5~6年で再開発してもらわないと広大な土地が遊んでしまうワケですからこれは経済的にも大きな損失だと思います。

そして現在20年以上を経過して都市再開発の結果、新都心として生まれ変わったワケです。24560030_7 24560031_7

手前は高架橋の天空橋↑

西方向(東シナ海側)↓   

24560019_10 24560017_10

東方向(太平洋側)↓

右端前方は都市モノレールおもろまち駅↓

左側前方は首里城方面↓  

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まだまだ再開発の途中ですが、ウチナー(沖縄)にしてはあか抜けした地域となっています。

がしかし、以前韓国から基地跡地利用の都市再開発モデルケースとして現地視察団が来沖した際に彼らからでた意見は本土と変わらない景観にがっかりしたといわれました。

せめて米軍基地であった特色を生かすべきだという意見と沖縄らしさがないという意見があったようです。

たしかにリトル東京化してもしょうがないワケでやはり、ローカル色を活かした都市造りを行うことが大事だということでしょうね~

この新都心ができてからは確実に人の流れは変わりました。

戦後、焦土と化した地からめざましい発展を遂げて奇跡の1マイルといわれた那覇市のメインストリート・国際通りの商店街は大きな打撃を受けました。

国際通り(別名:奇跡の1マイル)↓

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しかし、いつの時代も残すべきもの、残されるものはあります。

たしかに打撃は受けたかもしれませんがプラスもあるはずです。

新都心があって国際通りがある・・・・・・・・・・

つまり、新旧が存在することでそれぞれの良さが比較体験できるワケです。

皆さん、ぜひ新都心と国際通りを訪れてそれぞれの良さを体験してみてください。

そこには思わぬ発見が・・・・・・・・・・・・・・・・???

そろそろ紙面が尽きてきました。

次回をお楽しみに・・・・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)