沖縄あれこれ情報ブログ

沖縄の文化、歴史をメインに沖縄あれこれ情報を発信するブログです。

アメリカ村

2006年09月24日 23時08分28秒 | 日記・エッセイ・コラム

これは郵便局です↓

一見、何の変哲もない郵便局ですが・・・・・・・・・・

近づいて見ると・・・・・・・・・・・・・・・

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ハンビー郵便局とあります↓

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はて?ハンビーって、何でしょうか?

少なくても日本語ではないですよね・・・・・・・・

実はこの一帯は北谷町ハンビー地区といって、かつては米軍の海兵隊基地だったのです。

1981年以前は当時の1号線通り(現在の国道58号線)添いに長さ1035m、幅30mのヘリコプター飛行場が横たわっていたのです。

その名もハンビー(HAMBY)飛行場といいました。

空撮写真↓中央部の縦に細長い地域がハンビー飛行場跡ですが現在は商業地帯となっています。

写真を縦断する国道58号線の右側は上から米海軍基地キャンプレスター、米海兵隊基地キャンプフォスターとなっており民間地域はちょうど海側に押し出された格好となっています。

実は北谷町の面積の50~60%近くは米軍基地なんですね~

海岸線一帯↓は上部の海側に出っ張った部分が北谷町美浜地区で中央部から下部にかけてハンビー地区ですが別名アメリカ村といわれている商業地区です。

出っ張っている美浜地区は実は都市再開発時に埋め立てられてできた地区なんです。

Photo_3 そしてこの地区はなんと嘉手納空軍飛行場(上部)と普天間海兵隊飛行場(下部)の間にサンドイッチになっているのですよ~(写真には写っていない)

私の記憶では当時の1号線通り(国道58号線)を通過する時はフェンス越しに米軍の戦闘ヘリコプターが離着陸訓練をしている様子を目の前で見ることができました。

それこそホントに目の前20m位?の至近距離で軍事用ヘリコプターが訓練している様は圧巻でした。

今ではそういう光景を見るのは難しいのですが、当時は日常生活の中で当たり前の光景として映っていました。

現在、この地域は米軍基地返還後の跡地利用としては一番の成功例として取り上げられています。

1981年12月に返還されて約25年が経過した今、かつての米軍ヘリコプター飛行場がアメリカ村という商業施設として生まれ変わり毎日多くのレジャー客が訪れます。

上・観覧車  下・飲食店街

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↓ショッピング店、その名もアメリカ屋

前方に見えるのは沖縄一高い 24階建てホテル                24560007_9             24560010_10

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↓ハンビー地区のアラハビーチ(東シナ海)

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↓ビーチから北方向に美浜地区を臨む

                  24560013_18   ↓ビーチの南方向  24560014_14       

かつては米軍基地が君臨した、この海岸地区は現在は多くの訪問客を集めるレジャースポットとして名を馳せています。

そして皮肉にもこのスポットはアメリカ村(アメリカンビレッジ)として有名です。

ちなみにウチナーグチ(沖縄方言)ではアメリカ人のことをアメリカーといいます。

なんとなく英語っぽいでしょ?

それから本土の人のことを、大和人→ヤマトゥー、あるいは内地人(ナイチャー)といいます。

共通点はいずれも語尾を伸ばすことですね。(英語と同じ→語尾にerを付ける)

さて、話を戻します・・・・・・・・・

このアメリカ村が成功したのはある意味、米軍基地の跡地利用としてアメリカをキーワードにしたのが幸いだったのかも知れません・・・・・・・・・・・・・・

基地に反対しつつ、アメリカは受け入れる、そういうところにウチナーンチュ(沖縄人)の心の広さ?があるのでしょうか? 

さて、そろそろ紙面が尽きてきました。

次回をお楽しみに・・・・・・・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)


沖縄県庁舎

2006年09月18日 23時46分06秒 | 日記・エッセイ・コラム

祖国復帰前のウチナー(沖縄)は琉球といったほうピッタリでしょうね。

当時のウチナーはいわゆる日本でありながら日本ではない、つまり都道府県としての位置づけがなかったワケです。

ということは沖縄県という呼び方が許されていなかったワケですから、つまり県庁という存在もなかったワケですね~

ただし、県庁が存在しない代わりに琉球政府が存在しました。

沖縄政府ではなく琉球政府ですよ。

昭和51年当時の琉球政府庁舎↓

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しかし、なんか変ですよね~

県ではなくて政府ということはつまり国という位置づけですよね。

しかも沖縄政府ではなくて琉球政府だなんて、これはつまり琉球王国が政府に代わったようなものでしょうか?

実はこれは当時の米軍政府が沖縄を日本と分離するための離日政策をおこなっていたからなんですね~

沖縄に対してここは日本ではないということを意識付けるために米軍はあえて沖縄という呼び方をせずに意図的に琉球と呼んだのです。

琉球政府の敷地内には米国民政府もありましたし、今の県議会に相当する立法院もありました。

当時の沖縄は米国の属国だった?

現在の沖縄県庁舎↓

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現在の県庁舎は昭和61年に着工され平成2年に完成しました。

設計はかの有名な黒川紀章都市設計事務所です。

屋上部のアーチはもともとは直線だったようですがテレビ電波の障害になるという理由でアーチになったということです。

個人的にはかえってそのほうがデザイン的な変化があっていいと思います。

屋上のアーチ部↓

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24560007_8 県庁のカラーリングは下から上にいくに従って薄くなっています。

これは下からブラック→グレー→ホワイトというカラーリングに対して過去→現在→未来という意味付けがあるのですね~

つまり、沖縄県庁舎は未来に向かってそびえ建っているのです。

玄関                ロビー24560011_12                24560012_9

玄関から見たオフィス街(東シナ海側)・左写真

沖縄で第一号の都市再開発ビル・右写真

                  パレット久茂地↓

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議会棟↓24560002_11 24560018_14    県庁舎と議会棟の鳥瞰模型↓    

県庁前交差点24560004_13         交差点前夜景   Photo_2          

那覇市名物・人力車(乗客2人乗り)↓

これは県庁前を拠点にしており、250円程度で乗れます。

機会があれば話のネタに乗ってみてください。

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県庁舎屋上展望室から東シナ海側を望む↓

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東シナ海側・真ん中にモノレールが見えます↓

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戦前のウチナーには軽便鉄道が走っていました。

しかし、戦後は鉄道のない久しい時代が続きました。

そういうウチナーにおいて、およそ60年振りに復活した鉄道?が都市モノレールです。

モノレールは構想からなんと20年を経過して実現しました。

かつて琉球政府庁舎と呼ばれた地が沖縄県庁舎に生まれ変わり、その県庁舎からその勇姿を見ることができます。

今日のウチナーのこの凄まじい発展振りを誰が予想したでしょうか?

祖国復帰前は復帰すればイモと裸足の時代に戻るといわれたウチナーがここまで発展できたのは先人達の苦労があったからこそだと思います。

唐(中国)の世から大和の世、大和の世からアメリカ世、アメリカ世からまた大和の世、ひるまさ(目まぐるしく)変わゆる、くぬ(この)ウチナー

さてそろそろ紙面が尽きてきました。

それでは次回をお楽しみに!

アンシェーヤ!(それでは!)


中山王陵・浦添ゆうどれ

2006年09月11日 20時38分42秒 | 日記・エッセイ・コラム

前回は中山王・浦添城跡を紹介しましたが今回はそれに続く中山王の王陵(王様の墓)を紹介しますね。

中山王の王陵は浦添城跡の北側岩壁にあり、自然の岩壁をうまく利用したお墓となっています。

これは英祖王が1265年~1274年に築いたようです。

「ようどれ」の意味は琉球語で「夕凪」のことであり、「朝凪」は「あさどれ」といいます。

全体図↓(岩壁左奥が尚寧王で右奥が英祖王の墓)

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入口・はるか前方は普天間基地です↓

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↓この涼しげな石段を下りた先が浦添ようどれです↓

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24560027_9←入口から進むと暗しん御門といって前庭から2番庭にいく通路があり、戦前は上部に自然の岩天井がありました。

この岩天井は残念ながら先の大戦で破壊され、現在は左のような青空天井となっています。

当時は真っ暗な中を通るため、まさにあの世に行くような雰囲気だったらしいですね~  

ところで、ウチナーグチ(沖縄方言)では御門のことをウジョウといいます。

24560025_4 人の名前も例えば上門→ウエジョウ、中門→ナカジョウ、下門→シモジョウといった感じです。 

本土だとそれぞれ上條、中條、下條と書きますよね?

ちなみに上門という名前の家は昔は村落の上部に位置して建てられており、他家がそれより上に家を建てるのはタブーだったということです。(宗教的いわれ?)              

↑戦前の暗しん御門(上部が岩天井となっている)

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東室・尚寧王陵↓         西室・英祖王陵24560031_524560030_6

王陵の内部↓             石厨子↓ 24560008_11  24560011_11

石厨子の彫刻・沖縄に現存する最古の仏像彫刻↓ 24560015_5

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浦添ゆうどれを築いたのは英祖王ですがこれを改修したのが浦添出身である尚寧王でした。

尚寧王は浦添家から国王に迎えられた人物でありゆうどれを改修しましたが本人もここに葬られました。

ここは琉球王国初期の王陵であり、首里城近くにある王陵の玉陵(タマウドゥン)よりも古い歴史を持ちます。

ゆうどれから見下ろす景色・前方奥は普天間基地↓

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先の大戦で米軍にゆうどれを破壊され、そして今、米軍の普天間基地を眼下に見下ろし、英祖王そして尚寧王は何を想うのでしょうか・・・・・・・・・・

アア、ワッター、リュウキュウヨ!(ああ、我らが琉球よ!)

そろそろ、紙面が尽きてきました。

次回をお楽しみに・・・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)


中山王・浦添城跡

2006年09月07日 23時49分11秒 | 日記・エッセイ・コラム

いや~、すっかりご無沙汰してしまいました。

皆さんに忘れられないうちに早速、記事をアップしますね・・・・・(苦笑)

それでは今回から浦添城跡を紹介します。

王国以前の古代の琉球は按司(アジ)といわれる各地域の支配者によって治められてきました。

浦添城跡の航空写真↓

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アジの語源は主(あるじ)からきているようです。

ウチナーグチ(沖縄方言)では主(あるじ)のことをスーといいます。

これは一家の主という意味で世帯主→父親→スー となります。

私達の父親→ワッタースー(ワッター→私達、スー→父親)といった感じですね。

ちなみに母親のことをアンマーといいます。(私達の母親→ワッターアンマー)

ちょっと脱線しましたが話を戻します・・・・・・・・・・・

王国以前は琉球を3つに分けて北山、中山、南山と称し、北山→今帰仁城、中山→浦添城、南山→島尻大里城という拠点が築かれました。

これがいわゆる琉球の歴史上、有名な三山時代といわれるものです。

これはつまり王に代わる権力者(按司)が琉球を三分割した3つの地域に存在したワケです。

浦添城跡↓

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ここは世界遺産にこそ登録されていませんが、琉球の王国以前の歴史は浦添城抜きでは語れません。

尚巴志が三山を統一して名実共に琉球王国という統一国家を築くまでは首里城以前の中山王の城として有名です。

実はこの浦添城こそ、のちの王都となる首里城の原型だったらしいのです。

今でこそ城も城壁も当時の原型を留めていませんが、その当時の規模はかなりのものだったんですね~

琉球時代は薩摩藩の侵攻で焼き討ちに遭い、そして第2次大戦では日米両軍の戦闘によりその大部分が破壊されました。

そして現在は復元もままならず浦添大公園として存在していますが、近い将来、復元され、かつての威容?を見せてくれるはずです。

城壁                正殿跡地

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浦添城の前の碑↓

手前の石は乗馬用踏台   首里城に至る石畳道

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快晴日には碑の前方奥に首里城が見える↓

(この日は曇天日のため、霞んでいる)

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浦添の地は舜天、英祖、察度という歴史上、偉大な指導者を生んだ由緒ある地域です。

中山王の拠点である浦添城は13世紀の英祖王から始まり14世紀の察度で最盛期を迎えました。

英祖は太陽の申し子として生まれたという伝説があり、太陽の子をウチナーグチ(沖縄方言)では太陽→ティーダということから、太陽の子→ティーダの子→てだこ、となり

現在、浦添の別名である「てだこの街」の語源となっているワケです。

そして英祖の後の察度王は琉球の歴史上初めて中国・明との貿易を実現させ、琉球と中国との貿易により、その後500年におよぶ琉球王国繁栄の基礎を固めた偉大な人物なんですね~

そういうことで当時の浦添はその権力の大きさから津々浦々を襲う(支配する)土地という意味でうらおそいと呼ばれそれが転じて現在の浦添という地名になりました。

津々浦々を襲う→うらおそい→浦添

なるほど、歴史というのは面白いですね~

さて、かように隆盛を極めた中山王の察度王統も1406年には尚巴志に滅ぼされるワケですが王宮が首里に移ったあとの浦添城は浦添按司家の館として使われました。

その後、琉球王国第4代目の尚寧王が浦添城から首里城までの道を石畳に改修しました。

浦添城跡から晴れた日には、くっきりと首里城を望むことができます。

なぜだか感動しますね・・・・・・・・・・・・・・・・・

歴史ある浦添城跡からこれまた歴史ある首里城を視野に収めることができるということにとてつもないロマンを感じるのは私だけでしょうか・・・・・・・・・・・・

さて、そろそろ紙面が尽きてきました。

次回をお楽しみに・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)