沖縄あれこれ情報ブログ

沖縄の文化、歴史をメインに沖縄あれこれ情報を発信するブログです。

マブヤー、マブヤー

2005年05月30日 00時17分55秒 | 日記・エッセイ・コラム
5月15日はウチナー(沖縄)が日本へ祖国復帰した日ですが5月26日は何の日だと思いますか?
今日は5月30日ですからちょうど4日前ですネ。

当時の日本は鎖国状態でした。
その日本を鎖国から開国させたあの歴史上の人物といえば??

そうです・・・・当時のアメリカ海軍から派遣されたかの有名なペリー提督です。
なんとペリー提督は日本へ立ち寄る途中に我がウチナー(沖縄)へも入国(当時のウチナーは琉球国であったため)していたのです。

今から約150年前の1853年5月26日を皮切りに1854年7月17日までの約1年半の間にペリー提督は5回もウチナー(沖縄)に入国していたのです。

ペリー提督はのちに日本遠征記の中でその当時の琉球見聞録も残しておりますが彼らが見た驚きの見聞録の一部にウチナー(沖縄)の墓について述べたものがあります。

彼らの目に映ったウチナーの墓とは??

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これは亀甲墓といわれるウチナー(沖縄)独特のお墓です。
これは正面から見たものですが上部からみると丸い形をしておりちょうどカメの甲らをイメージさせるためにこう呼ばれています。

別名、門中墓ともいわれ親戚一同の合同墓みたいなものです。(墓の中は人間が何人も立って入れる広さである)

この立派な建造物に対して当時のペリー提督一行は琉球では生きている人達の家が粗末で小さいのに対し死者を葬る墓がはるかに立派で大きなことについて圧倒されたといいます。

彼らが上陸前の沖から見たそれらの墓はちょうど欧米の町並みと一緒だと誤解されたということです。

その形容は彼らがアメリカへ帰ったのちにスケッチを元に版画としても残されています。

この亀甲墓の形は一体どういう理由で作られたと思いますか?

これは実は女性の子宮をイメージして作られたものなんです。

つまり人は誰でも女性の子宮から生まれて死んだら再び母なる子宮に帰っていくということなんですネ~・・・・・。。。

私が子供のころは毎日のように段ボール箱を広げて近所の亀甲墓の上から下まで滑り降りて遊んだものです。

今、考えるとスゴク罰当たりなことをしていましたがあの当時はろくに娯楽施設もない時代ですので子供にとってはあの大きな墓が格好の遊び場だったのです。

滑り台としての遊び以外では墓の入口の門柱の上を端から端まで走り幅跳びのように飛び移って遊び仲間と競ったりしていました。

そういう遊びをしていたある日のこと私の弟が墓の上から滑り降りた時に勢いがつき過ぎて墓の下に落ちてケガをしたことがありました。

それを知った私の母が家に帰ってきた私の弟を再び墓へ連れていってあることを行いました。

「マブヤー、マブヤー、ウーティクーヨー・・・・・ マブヤー、マブヤー、ウーティクーヨー・・・・・」

この意味は → 「魂よ、魂よ、追ってきなさい・・・・・ 魂よ、魂よ、追ってきなさい・・・・・」

ウチナー(沖縄)では昔から現在までお墓でケガをした場合はこのようにしてお祓いをするのですネ~。

つまりお墓でケガをするということは何らかの罰が当たって当人の魂が抜き取られてしまうということなんですネ~・・・。。

このことを「マブイウトゥシ」→「魂を落とす」といいます。

そして先ほどのお祓いのことを 「マブイグミ」→「魂込め、あるいは魂入れ」というのですネ~・・・・・。。。

他府県でも似たようなことはあるのですかネ~???

そういえばちょっと意味が違いますが墓にちなんだ話題として、私が東京に住んでいた頃、タクシーに乗っていると途中で多摩霊園にさしかかった際に急にスピードが落ちました???

私:    「どうしたんですか?」

運転手: 「ぼちぼち、行きましょうか・・・」
  
   ↑ ↑ ↑
これはノンフィクションです!

今にして思えばあの世知辛い東京にしてはユーモアあふれる運転手さんでした。(確か25年前??・・・・です)

アンシェーヤ! (それでは!)








ウチナースバ(沖縄そば)

2005年05月21日 16時43分40秒 | 日記・エッセイ・コラム
「そば」といえば全国的にはそば粉を使った黒っぽいそばですよネ~。

ところがこちらウチナー(沖縄)のそばはそば粉を一切使わないそばでしかもラーメンのような黄色っぽいそばなんですヨ~???

こちらです。(これは一般家庭で作ったそばです。)
 ↓ ↓ ↓

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えっ! そば粉を使わないそばなんてそばとは言わないんじゃないの~・・・・・という声が聞こえてきそうですが、↓↓

ここをクリックしてみて下さい。

つまり沖縄そば(ウチナースバ)はそば粉を使わない小麦粉100%のウチナー(沖縄)だけに認められたそばなんですネ~。

まさしく所変わればなんとやらといったところです。

ところでウチナー(沖縄)にも本土のような黒っぽいそばが最近登場したんですヨ~。

早速行って来ました、こちらです。 サラダとセットになっていて食感はあっさり味です。
ちなみに私はメンクイなのでそばは毎日食べても飽きません。(女房からはメン食家ならぬ偏食家といわれています・・・反省)
             ↓ ↓ ↓

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これはウムクジそば(ウムクジ→イモのデンプン)といってなんと!終戦直後の約50年前にウチナーンチュ(沖縄人)の食卓から消えた幻のそばが現在によみがえったものなんですネ~・・・・・・・・・

詳細はここをクリック!

場所はこちらです。

終戦直後の物のない時代に当時のウチナーンチュ(沖縄人)がイモを飽きずに食するために知恵を絞ってできたのがウムクジそばだったのですネ~。

先人の知恵というのはホントに涙ぐましいものがありますネ~。
今の時代は飽食の時代といわれておりますがあの当時の人達からすればとんでもないことですよネ~。

そういえば復帰前のウチナー(沖縄)では一部の人達が、復帰すれば戦前のイモとハダシの貧しい時代に戻るから復帰はしないほうがいいとしきりにいっていましたが、結果は・・・・・とんでもないことです。。。

沖縄特別措置法で国庫から莫大な補助金が投入されて今や他府県に負けないほどのインフラ整備が成されました。

いわゆるハコモノ(建物、施設)、スジモノ(道路)、ヒラバ(港、空港)というヤツです。

昨年には全国で唯一鉄道のなかったウチナー(沖縄)にもモノレールが開通しました。
これはウチナーンチュ(沖縄人)にとってはまるで夢のような出来事でした。

構想から実現までにナント20年の歳月を要したワケですからその感激は並大抵のものではなかったのですネ~。
まさしく、ウチナーンチュ(沖縄人)にとっては21世紀最大の出来事だったワケですヨ~。

話はそれましたが、再びそばの話題に戻します。

信州、信濃の、そばよりも、ワタシャ、あなたの、そばがいい! という言葉は有名ですがこれをウチナーグチ(沖縄方言)でいうと、↓ ↓ ↓

信州、信濃ヌ、スバユカー、ワンネー、ウンジュガ、スバヌマシ! となります。


アンシェーヤ! (それでは!)






ヒルマサカワユルクヌウチナー

2005年05月16日 03時48分14秒 | 日記・エッセイ・コラム
ウチナー(沖縄)はただいま、梅雨のまっただ中です。

ゴールデンウイーク入りとほぼ同時に梅雨入りして早2週間が過ぎました。

梅雨明けは例年6月中旬から下旬になります。

ところで5月15日はウチナー(沖縄)にとって記念すべき日なんです。
それはアメリカの統治から解かれて、晴れて我が日本へ祖国復帰した日なんです。
今年で復帰33年を迎えました。

「トウヌ、ユーカラ、ヤマトゥヌユー、ヤマトゥヌユーカラ、アメリカユー、アメリカユーカラ、マタヤマトゥヌユー、ヒルマサカワユルクヌウチナー!」


  ↑ ↑ ↑
これは今から約30年前の祖国復帰後、ウチナー(沖縄)のフォーク歌手(海勢頭豊??)が唄った歌で意味は下記です。
                                                        ↓ ↓ ↓

「中国の世(時代)から日本の世(時代)、日本の世(時代)からアメリカの世(時代)、アメリカの世(時代)からまた日本の世(時代)、珍しく(めまぐるしく)変わるこの沖縄よ!」

つまり1372年以来、琉球王国時代の独自の中国との国交から1609年の薩摩侵攻により中国との国交を断絶させられて薩摩の支配下になり、その後は第2次大戦後、アメリカの統治下に置かれ1972年に再び日本へ復帰した歴史を皮肉を込めて唄った歌です。

実際には1871年に日本が廃藩置県となり翌年1872年に琉球王国は琉球藩となりその当時の琉球最後の王様、尚泰王(しょうたいおう)は藩王となり華族と位置付けられたのです。

その後1879年に当時の明治政府は琉球藩を廃止して沖縄県としたのですがこれがいわゆる「琉球処分」といわれる歴史の流れです。

それから1945年に沖縄戦に突入後、日本国内唯一の地上戦となりポツダム宣言後、無条件降伏となり1952年に対日講和条約により沖縄はアメリカの統治下に置かれた訳ですがこれが「第2の琉球処分」といわれるものです。

その後1972年に当時の佐藤首相の政治力によりウチナー(沖縄)は念願の祖国復帰となった次第です。

つまりウチナー(沖縄)の歴史は中国→薩摩(鹿児島)→アメリカ→日本と翻弄された常に異国?に支配される歴史だったといえばいいのでしょうか?(ウチナーは元々、琉球国であったという前提で。)

そういう波乱万丈な歴史を生き抜いてきたのがウチナーンチュ(沖縄人)ですが決して卑屈にならないのが県民性でもあります。

つまりおおらかで人情味豊かでありイチャリバチョーデー(出会えば兄弟)という言葉もそこから生まれてきたものでしょう。
これは人を憎むのではなくどういう人(異国人、よそ者)でも100%受け入れるということです。

ところで、せっかくですので先ほどのウチナー(沖縄)の歴史を覚える方法を以下に書きますので是非覚えて見て下さい。
        ↓ ↓ ↓

1372年→意味なに?(イミナニ?)→琉球王国建国

1429年→石、葺く(イシフク)→尚巴志王(しょうはしおう)が北山、中山、南山を統一(三山統一 →琉球国支配)

1609年→(色々置く→イロオク)→薩摩侵攻

1872年→嫌、なに?(イヤナニ?)→廃藩置県(琉球藩誕生)

1879年→嫌、泣く(イヤナク)→琉球藩廃止(琉球消滅)→沖縄県誕生

1945年→行く、死後(イクシゴ)→沖縄戦

1952年→行く、講(和)に→イクゴウニ→対日講和条約

1972年→行く、なに?(イクナニ?)→祖国復帰


どうですか? 覚えられそうですか? 多少こじつけの部分もありますがその辺は大目に見てやって下さいネ。。。

ところで、ウチナー(沖縄)は日本国内で唯一の亜熱帯地域であり当然雪は降りません。(アラレはまれに降る)
ところが復帰前に大人が子供にまことしやかに言っていました。
  ↓ ↓ ↓

大人: 「日本に復帰したら沖縄にも雪が降るよ!」

子供: 「本当に!うれしい!」

・・・・・・あの当時、何人の子供達がだまされたでしょうか?
・・・・・・罪な大人達です???

今回は復帰記念日ということで堅い内容になりましたがこのタイミングで是非ウチナー(沖縄)の歴史を再認識して頂きたいという想いで書かせてもらいました。

たまにはこういうのもいいですよネ~・・・・???

アンシェーヤ!!(それでは!!)





ニライカナイ

2005年05月06日 22時15分30秒 | 日記・エッセイ・コラム
前回に引き続き今回も久米島です。

さて、これは何でしょうか?
   ↓ ↓ ↓

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何かに似てませんか??

例えばこれです。
 ↓ ↓ ↓

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そうです、ガメラ・・・・・・じゃなくて、カメですネ~。

これは久米島の奥武島(おおじま)という小島にある海岸で畳石といわれておりますが、その形容から別名「亀甲石」ともいわれています。

奥武島と書いて「おおじま」と読みます。 普通に読めば「おくたけじま」ですが一般的にウチナー(沖縄)では「武」がサイレント(発音しない)になっていて例えば喜屋武と書いて--->「きゃん」といった具合です。

まるで英語みたいでしょう。

さて、畳石の説明はこちらです。
    ↓ ↓ ↓

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つまり、これは大昔の溶岩が冷えて固まる時にできた岩石なんですネ~。

ひとくちに溶岩といってもロマンがないのですが、おとぎ話的には竜宮城のカメにちなんだ亀甲石のほうがロマンが広がりそうです。

ウチナー(沖縄)には古くから「ニライカナイ」という言葉がありましてこれは海の彼方の理想郷(楽土)という意味があります。

海の彼方は言い換えれば海の底とも解釈できます。

竜宮城伝説は全国のあちらこちらにありますが本当の竜宮城は沖縄にあったのだということです。

「海の邦、沖縄」なればこその説得力がここにはありますネ~・・・・・???

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その物的証拠が実はこの畳石(亀甲石)かも知れません???












浦島太郎と乙姫の会話
   ↓ ↓ ↓

乙姫    :「太郎さん、クヌ玉手箱ヤ、ムッチケーイミソーレー、
        ヤシガ、アキテーナイビランドー(太郎さんこの玉手箱は持ち帰ってください、しかし開けてはいけません)」

浦島太郎 :「アキテーナイビラン? ヌーンチガヤーサイ?(開けてはいけない? どうしてですか?)」

乙姫    :「トゥシヌコウガ、イッチョウーイビーン(歳の功が入っています)」 

浦島太郎 :「?????」 

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カメの甲より年の功(カーミヌコウユカ、トゥシヌコウ)とはこれいかに???

かくして浦島太郎は玉手箱を開けたが故におじいさんになったそうな・・・・・???


アンシェーヤ!!(それでは!!)