沖縄あれこれ情報ブログ

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ウチナー(沖縄)の世界遺産・首里城(最終回)

2006年01月28日 21時27分37秒 | 日記・エッセイ・コラム

さて、いよいよ最終回です。

ということで首里城周辺の写真をアップしてみますね。

これは首里城入り口です。   

     ↓   ↓             

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面白いのはこれです。

首里城の前にあるから「首里城前ストアー」なんですね・・・・・・

えっ、ちっとも面白くない?

実はこれが典型的なウチナー(沖縄)的ネーミングなんですね~~はい!

例えばバスセンターの前にある食堂は「バスセンター前食堂」だし、●●●停留所前にある商店であれば「●●●停留所前商店」と、実に単純明快なネーミングなんです。

他府県でもこういうネーミングってあるんですかね~。。。

どなたか教えてください・・・・・・・・。。。

もしかするとあるかも知れませんね???

さて次にいきます。

下の1枚目の写真は首里城と龍たん池の一角にある、琉球随一の寺院であった円覚寺の総門です。 門の奥には建物はなく跡地となっております。

建築手法は鎌倉の円覚寺にならった形式となっており当時の第二尚氏である尚真王が父の尚円王を祀るために、1492年から1495年にかけて建立したものです。

当時の建物は沖縄戦で破壊されたため門のみが復元されました。

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24560061 総門の向かい側にあるのが弁財天堂と天女橋です。

これは15世紀末に朝鮮王から贈られたお経「方冊蔵経」を納めるため、1502年に円鑑池の中に建てられました。

池にかかる天女橋は中国にある橋に似せて造られたとのことであり、琉球石灰岩でできたアーチ橋です。

裏から見た弁財天堂       

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弁財天堂の正面

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これは弁財天堂の裏から首里城に至る石階段です。

階段の左前方に首里城、右前方に守礼門があります。          

さて、それではちょっと足を伸ばしてみましょう。

これです。24560093

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これは「金城町の石畳」として有名であり、尚真王時代に首里から南部への通行路「真珠道(まだまみち)」の一部として造られました。

首里城から徒歩で約10分ほどの距離です。

石は自然石が使われており、ちょっとしたタイムスリップの雰囲気が味わえます。

そしてこれです。

どこかで見覚えはありませんか?

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そうです。これがあの沖縄ブームのきっかけとなった?

NHK朝のドラマ「ちゅらさん」で主人公:恵理(えいり)の実家という舞台セットになった家です。

ちょうど石畳道の中間地点にあります。

実は実際に人が住んでいるんですよ~。

面白いことに門の正面には人が住んでいるのでプライバシー保護のため立入ご遠慮くださいという表示板がかけられています。

確かに今でもひっきりなしに観光客が訪れています。

住んでる人からすれば有名になったのはいいけれどもプライバシー侵害でいい迷惑でしょうね???

さて再び首里城に戻ります。

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首里城には33体の龍が棲んでいるといわれております。

これも中国の影響を強く受けているんですね~。。。。

中国では昔から龍は神様そして皇帝の印として神聖視されてきたそうです。

琉球でもそれにならって守り神としてそして琉球国王の象徴として崇拝されてきたワケです。

そもそも龍たん池の由来もその形を龍頭に模して造られたことにあるそうです。

それらの龍の中でも特に正殿正面の左右にある龍(大龍柱)は彫刻物としては傑作中の傑作といわれているのですよ~。。。

この龍に関しては琉球独自のものといわれており、まさしく琉球王国の象徴といっても過言ではないようです。

琉球の文化が栄えたのはひたすら中国との交易と交流があったからであり、琉球文化は中国なしでは語れないのです。

宮廷舞踊(琉球舞踊)、組踊り、宮廷料理(琉球料理)、大綱引きなど今日まで引き継がれているこれらの文化はまさしく中国との交易、交流において生まれたものだったのです。

つまり、資源のない琉球王国はソフト(文化)の部分で中国を始めとして他の国と交易し栄えていったワケですね。

下の写真は琉球王国時代の役人の一般的服装です。

どことなく中国をイメージさせますね。

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さあ、これで首里城シリーズは最終回です。

まだまだ書きたいことは色々あったのですがとりあえずここで終わります。

今後の世界遺産シリーズは取材後、順次ご紹介していきたいと思います。

お楽しみに!

アンシェーヤ!(それでは!)


ウチナー(沖縄)の世界遺産・首里城その5

2006年01月21日 22時30分42秒 | 日記・エッセイ・コラム

首里城にはふたつの展望台があります。

西側にある「西のアザナ」と東側にある「東のアザナ」です。

このパノラマ写真は西のアザナです。

(組み合わせがいささかずれていますがご勘弁を・・・)

東のアザナは現在工事中であり未完成です。

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右側の写真が那覇市の北側で、左側の写真が那覇市の南側であり、左端に空港が位置しております。

空港の右側には慶良間諸島が横たわっていますが天気のいい日には、はっきり、くっきりと見えます。

ウチナーグチ(沖縄方言)で「ケラマー、ミーユシガ、マチゲーミイラン」という言葉がありますが、 これは「慶良間は見えるがマツゲは見えない」という言葉であり、すなわち「灯台下暮らし」の意味があるんですね~

つまり、はるか彼方の慶良間諸島は見えるのに自分のマツゲは見えないという諺なんですよ。 面白い表現でしょう???

慶良間諸島といえばあの「マリリンに会いたい」という題名で映画化された、雄犬シロが阿嘉島と座間味島の間の3km?に及ぶ海峡を泳いで渡って隣の座間味島に住む雌犬マリリンに会いにいく実話が有名です。

残念ながらその犬は死んでしまいましたが、子犬が成長して子孫は残っているようです。

あと有名なのはクジラがウォッチングできることですね。

那覇港からフェリーで約30分で行ける距離ですから日帰りができます。

海の美しさは最高ですよ!(熱帯魚とともに泳げます)

お薦めの観光地です。

さて、本題からずいぶん外れてしまいましたが、たまにはこういうのもいいでしょう!

ということで首里城に戻ります。

それでは首里城の城壁をアップしますのでしばらくご覧あれ!

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ところでウチナー(沖縄)には「城」のつく地名、名字が多いことをご存じでしたか?

ウチナーグチ(沖縄方言)では「城」と書いて「グスク」あるいは「グシク」と発音します。

例えば「金城」→カナグスク、「玉城」→タマグスク、「大城」→ウフグスク、「豊見城」→トミグスクといった感じです。

これらの語源はウチナー(沖縄)の各地に残る「城跡」なんですね~

沖縄本島だけでも「城跡」は200ヶ所以上あるといわれているんですよ!

ウチナー(沖縄)の城は10世紀以降に築かれたようですがもともとは集落の支配者である按司(アジ)と呼ばれる人達の住居として築かれたものが権力争いのために城壁を築く形に変化したのですね。

14世紀頃のウチナー(沖縄)は三山時代と呼ばれ本島は北山、中山、南山の3つに分割されていました。

これをひとつにまとめた、いわゆる三山統一(1429年・国内的な琉球王国成立)を実現したのが当時の琉球王国を支配した第一尚氏の王様、尚巴志だったのです。

その後、第一尚氏から第二尚氏へと王位が引き継がれていったワケですね~

さて、そろそろ紙面が尽きてきました。

次回は最終回にしたいのですが・・・・・・

さて、どうなることやら???

アンシェーヤ!(それでは!)


ウチナー(沖縄)の世界遺産・首里城その4

2006年01月12日 20時17分15秒 | 日記・エッセイ・コラム

24560037 さて、これはなんだと思いますか?

これは前回ご紹介した漏刻門(下の写真)と関係があります。

実は漏刻とは中国語で水時計の意味なんですね。

それにしても時刻が漏れると書いて水時計だとは言い得て妙ですね。。。

外見からは分かりませんが漏刻門の上の櫓(やぐら)には時間を計る水槽があったのですね~。。。

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さて、先ほどの正解ですが漏刻門の水時計に対してこれは(上の写真)・・・・・そうです、日時計なんですよ。

正式には日影台(にちえいだい)といいます。

これら水時計と日時計はセットになっていて、琉球王国時代の首里城では漏刻門で詳細の時刻を計り、日影台で正午と午前、午後のおおよその時刻を計り、太鼓をたたいて時刻を知らせたのです。

水時計と日時計のセットで時刻を知らせるというのも意外ですよね。

ちなみに、この時刻は現在の日本標準時刻に対して約30分の遅れがあるとのことです。

今でこそ電波時計なるものがあって100年??に1秒の誤差だとかいわれているのに現在の時刻と約30分の誤差というのはすごく人間的というか何かほのぼのとしたものすら感じます。

大体、電波時計が100年?に1秒の誤差だといわれても普通の人間が100年も200年も生きられるワケがないでしょうに・・・・・・・・・・・。。。

かくいう私の時計はアナログ時計ですが標準時刻に対して正確に1分の誤差があります・・・・・・これは単なるジョークです。。。

まあ、それはどうでもいいとして、次に進みます。

これはなんだと思いますか?

一見休憩所のような外見ですね~

それでは中を覗いて見ましょう。

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これです↓24560039

これはさきほどの供屋といわれる建物の中に吊されている鐘です。

実はこれが数年前に沖縄で開かれた先進国首脳会議、いわゆるサミット会議の会場となった万国津梁館の生みの親なんですよ~。。

そうです、これぞまさしく「万国津梁の鐘」です。

これは1458年に鋳造されて首里城正殿の前に掛けられていたそうです。

鐘本体にはこういう意味の銘文(漢文)が刻まれています。

「琉球王国は南海の美しい国であり、朝鮮、中国と日本との間にあって船を万国の架け橋として貿易によって栄える国である。」

つまり、万国津梁とは「世界の架け橋」という意味があるワケです。

四方を海に囲まれた小さな国がまさしく海洋王国として世界を相手に貿易を行い、生き抜いてきたワケです。

ここに先人のたくましさを感じます。

ある意味、世界の架け橋であるかつての海洋王国「琉球」でサミット会議が開催されたことは決して偶然ではないように思います。

当時の歴代の琉球王はきっとあの世で満足していることでしょう。

あっ、それから決して忘れてならないのはサミット会議をウチナー(沖縄)に誘致したのは元首相の小渕さんであり、小渕さんはサミット会議の前に急死されました。

小渕さんもきっとあの世で満足されていると思います。

その意志を受け継いでサミットに臨んだのが当時の森首相でしたね。

この首里城もサミットの首脳陣を接待する場所として使われたのですよ。

まさしく王国時代の冊封使やペリー提督一行の接待を彷彿とさせました。

歴史は繰り返すといいますが、こういう歴史は何度でも繰り返して欲しいものですね。

さて、そろそろ紙面が尽きてきました。

次回に続きます。

アンシェーヤ!(それでは!)


ウチナー(沖縄)の世界遺産・首里城その3

2006年01月02日 14時21分14秒 | 日記・エッセイ・コラム

皆さんあけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願い申し上げます。

昨年末は11月末のブログ不調による休稿に始まって12月末の私自身の入院と続きまして波乱の年末でした。

そいうことですっかりご無沙汰してしまって誠に申し訳ありませんでした。

人生、やはり健康第一ですね。

今年は健康第一をモットーにしていきたいと思います。

お陰様でこのブログもディスク容量を50倍にアップしましたので今まで同様に写真をアップしていきたいと思います。

さて、さっそく昨年の続きを進めていきたいと思います。

守礼門を通りすぎると左側に最初の石門が現れます。

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24560014 この石門は園比屋武御獄石門(そのひやんうたきいしもん)といって王国時代は王府の祈願所でした。

石門の裏には神殿にあたる建物はなく石門の背後には森や龍たん池などがレイアウトされておりそれらが神殿に代わるものとなっています。

これはおそらく中国文化の影響があると思います。

やはりこの祈願所でも神女(ノロ)が中心になって王国を仕切っていました。

琉球王国では国王を頂点とした男性中心の行政組織の他に聞得大君と呼ばれる女性を頂点とした神女組織があり信仰や祭祀の面から王国を支えていたワケですね~。。

歴史的にもこの部分が現在に至るまでウチナー(沖縄)の文化と本土の文化との決定的な違いといってもいいでしょうね。(良くも悪くも)

さて、この石門を過ぎて前方右側に首里城最初の石門が見えてきます。

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これは首里城の城郭内に入る第一の正門であり中国皇帝の使者である冊封使などを歓迎する意味で「勧会門」と名付けられました。

別名「あまへ御門」といいます。 ウチナーグチでは「アマヘウジョウ」と発音します。

「あまへ」とは沖縄の古語で歓んで迎えるという意味で勧会門はこれに由来しております。

ここでもやはり門の両側には魔除けのシーサーが配置されていますね。

こういうところでもあちらこちらに中国文化の影響をかいま見ることができますね~。

ところで一体いくつの門をくぐれば正殿にたどり着けるのでしょうか?

それは・・・・・・・・・・・・

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順番に瑞泉門、漏刻門、広福門となります。

瑞泉門と漏刻門はさきほどの勧会門と違って石門の上に櫓(やぐら)が乗っており、この部分が本土の主なお城の造りと共通しているんですね~。。

一方、広福門はというと建物そのものが門の機能を持っており、門の正面に向かって左側が士族の財産争いを調停する「大与座」(おおくみざ)、右側が神社仏閣などを管理する「寺社座」(じしゃざ)という役所になっていたのです。

それにしても城内に役所があったというのは面白いですね。

さて、いよいよ正殿です。

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上から正殿、北殿、南殿および番所 となっています。

残念ながら建物内は撮影禁止となっているため写真のアップはできませんがみなさんそれぞれでイメージしてみてください。

正殿・・・国王が執り行う政治や儀式の中心となった建物で、正殿内部は赤を基調とした塗装であり金色と黒色が配色されたきらびやかな内装である。

北殿・・・現在の大臣に相当する三司官や役人が勤務した建物であり冊封使やかの有名なペリー提督一行を接待する場所としても使われた。

南殿および番所・・・南殿は日本風の儀式や薩摩役人達の接待場所として使われ、番所は首里城に登城してきた役人達の取次所として使われた。

皆さん、ここで気付いたと思われますが南殿および番所だけは木造の地肌で塗装がされていませんよね。 これは過去の記録が残っていないため、塗装なしになったようですよ。

あと正殿の造りは中国の紫禁城?をモデルにしているとのことであり、この方角も遠く紫禁城を向いているらしいですよ???(興味のある方は調べてみてください)

ところでこれはなんだと思いますか?

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実はこれは城内にある石碑ですがなんと首里城が再現されるまではここはかの有名な?国立大学一期校である琉球大学があったのですよ~。。。

意外な発見ですよね。

もちろんウチナー(沖縄)の人は知っていますが本土の方は殆どが知らないと思います。

しかし、何か不思議な光景ですよね・・・

つまり、過去と現在がひっくり返ったとでもいうのでしょうか?

このアンバランスさがなんともいえないですね~。。。

歴史的には首里城が先で琉球大学が後なのに、これでは琉球大学が過去のものとなっていますよね。。。

参考までに現在の琉球大学は首里城再建が決定後、西原町というところに立派なキャンパスとなって存続しておりますので・・・・・。。。

さあ、そろそろ紙面も尽きてきました。

この続きは次回までお楽しみに!

アンシェーヤ!(それでは!)