里村紹巴(さとむらぜうは)
〔現代仮名遣い〕さとむらじょうは
※下線部は信長公記以外の記事によります。
連歌師。里村昌休の後を受け、里村北家の祖
となった。本姓松村氏。奈良の人。連歌師周桂、
ついで里村昌休に入門、三条西公条(きんえだ)
にも古典の学の教えを受けた。1552年昌休の死
に際し遺児昌叱の養育を託されてそれを果たし、
のち女婿として、つねに相連れて連歌壇に活動
した。公家・武家・僧侶との交際は広く、とくに
三好長慶・織田信長・明智光秀・羽柴秀吉らに
接近、細川藤孝・松永貞徳との交渉も深かった。)
1582年5月惟任光秀は坂本を出立し丹波亀山の
城に参着。愛宕山太郎坊でくじを引く。
また西坊行祐・里村紹巴らと百韵連歌
を行い神前に供え亀山城へと戻る。
この連歌会に参加したが秀吉にのち許され、
これ以後秀吉とのかかわりを深めた。後年秀次
の謀反に談合したとして、三井寺に謫居となる。
帰京後、長子玄仍に古今伝授を行い1602年病没
した。
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〔現代仮名遣い〕さとむらじょうは
※下線部は信長公記以外の記事によります。
連歌師。里村昌休の後を受け、里村北家の祖
となった。本姓松村氏。奈良の人。連歌師周桂、
ついで里村昌休に入門、三条西公条(きんえだ)
にも古典の学の教えを受けた。1552年昌休の死
に際し遺児昌叱の養育を託されてそれを果たし、
のち女婿として、つねに相連れて連歌壇に活動
した。公家・武家・僧侶との交際は広く、とくに
三好長慶・織田信長・明智光秀・羽柴秀吉らに
接近、細川藤孝・松永貞徳との交渉も深かった。)
1582年5月惟任光秀は坂本を出立し丹波亀山の
城に参着。愛宕山太郎坊でくじを引く。
また西坊行祐・里村紹巴らと百韵連歌
を行い神前に供え亀山城へと戻る。
この連歌会に参加したが秀吉にのち許され、
これ以後秀吉とのかかわりを深めた。後年秀次
の謀反に談合したとして、三井寺に謫居となる。
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