『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

里村紹巴(さとむらぜうは)

2017-06-23 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
里村紹巴(さとむらぜうは)

〔現代仮名遣い〕さとむらじょうは

※下線部は信長公記以外の記事によります。


連歌師。里村昌休の後を受け、里村北家の祖

となった。本姓松村氏。奈良の人。連歌師周桂、

ついで里村昌休に入門、三条西公条(きんえだ)

にも古典の学の教えを受けた。1552年昌休の死

に際し遺児昌叱の養育を託されてそれを果たし、

のち女婿として、つねに相連れて連歌壇に活動

した。公家・武家・僧侶との交際は広く、とくに

三好長慶・織田信長・明智光秀・羽柴秀吉らに

接近、細川藤孝・松永貞徳との交渉も深かった。


1582年5月惟任光秀は坂本を出立し丹波亀山の

    城に参着。愛宕山太郎坊でくじを引く。

    また西坊行祐・里村紹巴らと百韵連歌

    を行い神前に供え亀山城へと戻る。

この連歌会に参加したが秀吉にのち許され、

これ以後秀吉とのかかわりを深めた。後年秀次

の謀反に談合したとして、三井寺に謫居となる。

帰京後、長子玄仍に古今伝授を行い1602年病没

した。



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