『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

塩河国満(しほかはくにみつ)

2017-07-31 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
塩河国満(しほかはくにみつ)

〔現代仮名遣い〕しおかわくにみつ


伯耆。現在の箕面市の住人。

1575年7月入洛してきた信長のもとへ出仕し、

    馬を拝領する。

1578年11月信長の荒木成敗に参戦。

1578年12月古池田に取手を造営し布陣。

1579年4月信長から銀子100枚下される。

1579年4月稲葉貞通の河原口の取手に伊丹の

    敵が足軽を出して来た時、軽く懸け

    合う。

1579年4月賀茂取手の城番をつとめる。

1579年9月織田信忠の尼崎進軍に同行。信忠

    は七松に取手二つの造営を命じ、一つ

    に塩河国満・高山重友を、もう一つ

    に中川清秀・福富秀勝・山岡景佐を

    おく。

1580年2月信長は織田信澄・塩河国満・惟住

    長秀の三人に、花隈城に向けて取手を

    造営し、池田父子(恒興・元助・幸親)

    を入れておくよう命ずる。

1580年3月取手造営が終わり、伊丹の信長のもと

    へ引き返す。


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塩河吉大夫(しほかはきちだいぶ)

2017-07-30 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
塩河吉大夫(しほかはきちだいぶ)

〔現代仮名遣い〕しおかわきちだゆう


不詳。

1581年8月「毛利輝元・吉川元春・小早川隆景

    が鳥取城の後巻きに出陣する」との

    風説により、信長は長岡藤孝・忠興父子、

    惟任光秀、池田恒興・高山重友・中川

    清秀・安倍二右衛門・塩河吉大夫らへ

    出陣の用意を命じる。

1582年5月羽柴秀吉の高松城攻囲の様子を聞き、

    信長は自ら出馬することを決め、堀秀政

    を使いとして秀吉に細かく指示する。

    また惟任光秀・長岡忠興・池田恒興・

    塩河吉大夫・高山重友・中川清秀らに

    先陣として出勢するよう命ずる。

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塩河勘十郎(しほかはかんじふらう)

2017-07-29 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
塩河勘十郎(しほかはかんじふらう)

〔現代仮名遣い〕しおかわかんじゅうろう


不詳。

1579年3月信長父子摂津攻めの時、多田の谷

    で一献進上し道服を下される。


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斯波義統(しばよしむね)

2017-07-28 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
斯波義統(しばよしむね)

〔現代仮名遣い〕しばよしむね

※下線部は信長公記以外の記事によります。


武衛公。武衛とは兵衛府の唐名で、古くは

源頼朝が武衛と呼ばれる。のち足利尊氏が

斯波高経に「武衛陣」の屋号を送ったこと

から、斯波家を「武衛家」と称するように

なった。斯波義達の子であるが、実は織田

大和守達勝の子という。守護代織田信友に

擁せられ尾張国清洲城に居城。


1554年7月清洲城の内部クーデターにより

    坂井大膳・河尻左馬丞・織田三位

    らに弑逆される。

戦国人名事典では織田信友が弑逆したこと

になっている。
川狩りに行っていた息男の

若武衛(義銀)は、信長が那古野城で丁重に

かくまった。

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斯波義銀(しばよしかね)

2017-07-27 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
斯波義銀(しばよしかね)

〔現代仮名遣い〕しばよしかね


若武衛。義統の子。

1554年7月武衛公(義統)弑逆事件の時、

    川狩りをしていたが那古野城で

    信長にかくまわれる。

1556年4月上旬三河国吉良義昭に駿河衆が

    お伴、尾張国斯波義銀に織田信長

    一行がお供し、三河上野原で参会。

1560年5~6月頃信長から国外に追放される。

伊勢・河内を流浪した後1600年に没したという。

 ※三管領(細川、斯波、畠山)の一つに

  数えられていた名族も時代の流れに

  ついていけず没落の一途をたどりました。

  諸行無常でございます。


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芝山甚太郎(しばやまじんたらう)

2017-07-26 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
芝山甚太郎(しばやまじんたらう)

〔現代仮名遣い〕しばやまじんたろう


名は不明。

1553年4月三の山・赤塚の戦いの時の、山口

    九郎二郎方の先手あし軽。


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芝山次大夫(しばやまじたいふ)

2017-07-25 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
芝山次大夫(しばやまじたいふ)

〔現代仮名遣い〕しばやまじだゆう


不詳。信長の弓衆。

1578年11月信長の荒木成敗に参戦。

1578年12月伊丹城に火矢を放って攻撃。


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芝山監物(しばやまけんもつ)

2017-07-24 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
芝山監物(しばやまけんもつ)

〔現代仮名遣い〕しばやまけんもつ

※下線部は信長公記以外の記事によります。


源内。この芝山氏は尾張国海東郡芝山の豪族。

戦国人名事典では摂津国の武士。はじめ

石山本願寺に仕えた。
利休七哲の一人。

1578年11月安部二右衛門・芝山監物は示し

    合わせ、信長の身方となる旨申上し、

    昆陽野に陣を取る。

のち羽柴秀吉に仕える。

1588年後陽成天皇の聚楽第行幸の際は前駆

をつとめた。



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柴田日向守(しばたひうがのかみ)

2017-07-23 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
柴田日向守(しばたひうがのかみ)

〔現代仮名遣い〕しばたひゅうがのかみ


名は不明。

1568年9~10月義昭入洛戦の時、信長方と

    して勝竜寺城岩成主税助攻撃の先陣

    を切る。


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柴田勝政(しばたかつまさ)

2017-07-22 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
柴田勝政(しばたかつまさ)

〔現代仮名遣い〕しばたかつまさ

※下線部は信長公記以外の記事によります。

三左衛門尉。佐久間盛次の二男で盛政の弟。

武勇に優れ勝家から柴田姓を与えられた。

1581年2月越前の柴田勝家・柴田勝豊・柴田

    三左衛門尉が京都の信長のもとへ参上

    し、珍奇のものを進上しお礼を申上。

1581年2月京都の馬揃えで、越前衆として参加。

1583年4月賤ヶ岳の戦いの敗戦後は金森長近の

元にあったが、のち許されて秀吉に仕え、1592年

正月従五位下・豊臣の姓を授けられた。



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