『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

佐々木六角義賢(ささきろっかくよしかた)[2/2]

2017-06-04 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
佐々木六角義賢(ささきろっかくよしかた)[2/2]

〔現代仮名遣い〕ささきろっかくよしかた

※下線部は信長公記以外の記事によります。


1565年5月将軍義輝弑逆事件の後、1566年

義秋から頼られるも拒否。

1567年佐々木六角氏、旧臣蒲生定頼のとりなし

で、1563年以来続いていた家臣団の紛争から

和解し、「六角式目」を制定。遵守することを

約束。ただし、重臣の後藤氏・三上氏・布施氏・

横山氏らの信頼は回復できず。


信長上洛戦の時は、1568年8月戦前一週間に

    渡り信長から説得されるも義昭の入洛

    への協力を拒否。上洛の路次で観音寺

    山城を攻められ、降参の上石部へ逃亡。

1570年4月信長北陸朝倉攻めの時は、近江で

    浅井長政と組み一揆を起こし、信長の

    岐阜帰城を妨害。5月千草越えで帰ろう

    とする信長を、杉谷善住坊に鉄炮で

    狙わせた。その後信長が北陸戦後岐阜

    へ帰城すると、近江南部各所で一揆を

    起こさせ1570年6月落窪の合戦を起こす

    も敗退。

1570年9~12月叡山の浅井・朝倉を信長が攻め

    ているとき、11月江南菩提寺まで進出

    するも、兵力不足で戦えず。信長叡山

    攻めの最中、11月信長と和睦する。

1574年4月雨夜にまぎれ石部城から退散。

信長は安土城の中に江雲寺殿という六角

定頼を祀る御殿を設ける。1598年死亡。



 ※実は応仁の乱の前から六角氏、織田氏、

  斎藤氏、今川氏は互いに影響しあい

  ながら、京都の細川氏・山名氏、彼らの

  そばにいる足利将軍家、三好・松永・

  岩成らの動静を傍目で見ながら微妙な

  距離感で付き合っていたようです。

  信長公も佐々木六角家と織田家先祖の

  古くからの付き合いを十分知っており、

  ・上洛戦の時に一週間にわたって六角

   義賢を口説いている!

  ・安土城の中に江雲寺殿という六角定頼

   を祀る御殿を設ける!

  などして六角氏尊重の立場を崩しません

  でした。律儀な面もある信長公です。


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