佐々木六角義賢(ささきろっかくよしかた)[2/2]
〔現代仮名遣い〕ささきろっかくよしかた
※下線部は信長公記以外の記事によります。
1565年5月将軍義輝弑逆事件の後、1566年
義秋から頼られるも拒否。
1567年佐々木六角氏、旧臣蒲生定頼のとりなし
で、1563年以来続いていた家臣団の紛争から
和解し、「六角式目」を制定。遵守することを
約束。ただし、重臣の後藤氏・三上氏・布施氏・
横山氏らの信頼は回復できず。
信長上洛戦の時は、1568年8月戦前一週間に
渡り信長から説得されるも義昭の入洛
への協力を拒否。上洛の路次で観音寺
山城を攻められ、降参の上石部へ逃亡。
1570年4月信長北陸朝倉攻めの時は、近江で
浅井長政と組み一揆を起こし、信長の
岐阜帰城を妨害。5月千草越えで帰ろう
とする信長を、杉谷善住坊に鉄炮で
狙わせた。その後信長が北陸戦後岐阜
へ帰城すると、近江南部各所で一揆を
起こさせ1570年6月落窪の合戦を起こす
も敗退。
1570年9~12月叡山の浅井・朝倉を信長が攻め
ているとき、11月江南菩提寺まで進出
するも、兵力不足で戦えず。信長叡山
攻めの最中、11月信長と和睦する。
1574年4月雨夜にまぎれ石部城から退散。
信長は安土城の中に江雲寺殿という六角
定頼を祀る御殿を設ける。1598年死亡。
※実は応仁の乱の前から六角氏、織田氏、
斎藤氏、今川氏は互いに影響しあい
ながら、京都の細川氏・山名氏、彼らの
そばにいる足利将軍家、三好・松永・
岩成らの動静を傍目で見ながら微妙な
距離感で付き合っていたようです。
信長公も佐々木六角家と織田家先祖の
古くからの付き合いを十分知っており、
・上洛戦の時に一週間にわたって六角
義賢を口説いている!
・安土城の中に江雲寺殿という六角定頼
を祀る御殿を設ける!
などして六角氏尊重の立場を崩しません
でした。律儀な面もある信長公です。
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〔現代仮名遣い〕ささきろっかくよしかた
※下線部は信長公記以外の記事によります。
1565年5月将軍義輝弑逆事件の後、1566年
義秋から頼られるも拒否。
1567年佐々木六角氏、旧臣蒲生定頼のとりなし
で、1563年以来続いていた家臣団の紛争から
和解し、「六角式目」を制定。遵守することを
約束。ただし、重臣の後藤氏・三上氏・布施氏・
横山氏らの信頼は回復できず。
信長上洛戦の時は、1568年8月戦前一週間に
渡り信長から説得されるも義昭の入洛
への協力を拒否。上洛の路次で観音寺
山城を攻められ、降参の上石部へ逃亡。
1570年4月信長北陸朝倉攻めの時は、近江で
浅井長政と組み一揆を起こし、信長の
岐阜帰城を妨害。5月千草越えで帰ろう
とする信長を、杉谷善住坊に鉄炮で
狙わせた。その後信長が北陸戦後岐阜
へ帰城すると、近江南部各所で一揆を
起こさせ1570年6月落窪の合戦を起こす
も敗退。
1570年9~12月叡山の浅井・朝倉を信長が攻め
ているとき、11月江南菩提寺まで進出
するも、兵力不足で戦えず。信長叡山
攻めの最中、11月信長と和睦する。
1574年4月雨夜にまぎれ石部城から退散。
信長は安土城の中に江雲寺殿という六角
定頼を祀る御殿を設ける。1598年死亡。
※実は応仁の乱の前から六角氏、織田氏、
斎藤氏、今川氏は互いに影響しあい
ながら、京都の細川氏・山名氏、彼らの
そばにいる足利将軍家、三好・松永・
岩成らの動静を傍目で見ながら微妙な
距離感で付き合っていたようです。
信長公も佐々木六角家と織田家先祖の
古くからの付き合いを十分知っており、
・上洛戦の時に一週間にわたって六角
義賢を口説いている!
・安土城の中に江雲寺殿という六角定頼
を祀る御殿を設ける!
などして六角氏尊重の立場を崩しません
でした。律儀な面もある信長公です。
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