『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

佐々木六角義治(ささきろっかくよしはる)[1/2]

2017-06-05 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
佐々木六角義治(ささきろっかくよしはる)[1/2]

〔現代仮名遣い〕ささきろっかくよしはる

※記事量多いので二回に分けての投稿です。

※下線部は信長公記以外の記事によります。


義賢の子で定頼の孫。

1559年父義賢から家督を継ぐ。

1563年義治が重臣後藤賢豊父子を謀殺した為

一家内紛が起こり弱体化。

1567年佐々木六角氏、旧臣蒲生定頼のとりなし

で、1563年以来続いていた家臣団の紛争から

和解し、「六角式目」を制定。遵守することを

約束。ただし、重臣の後藤氏・三上氏・布施氏・

横山氏らの信頼は回復できず。


1568年信長上洛の戦いに敗れる。おそらく父

と共に石部方面に逃走。


1570年信長が北陸戦後岐阜へ帰城すると、近江

南部各所で一揆を起こさせる。



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