『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

戦国データ篇VOL.5 近江・美濃・尾張の深い関係[3/3]

2015-12-14 20:09:17 | 戦国データ篇
本日で3回目です。

今回の注目ポイントは、

①信長妹(お市)と浅井長政の縁組に奔走した

 のは佐々木六角義賢の家臣和田伊賀守惟政。

 その弟和田定利は尾張国黒田城主。純野の

 連続読物では、近江国佐々木六角氏→和田

 惟政→舎弟和田定利→尾張国織田信長、

 というホットラインの機能に焦点を当てて

 います。

②信長は足利義昭を担いだ上洛戦の時、織田

 家祖先と近江国佐々木六角氏の親しい関係

 を十分考慮して、何と佐々木左京大夫承禎を

 説得するため一週間も滞在しています!

 「古来からの因縁を大切にする」という点では、

 織田信長は非常に慎重で奥ゆかしい人物と

 言えます。

③足利義輝は三好長慶から京の都をゆずって

 もらったのも忘れて、排除しようとして弑逆

 されてしまった。足利義昭も織田信長に

 担いでもらって京の都に入れた恩を忘れて

 敗走し、没落しました。なぜ同じことを繰り

 返すんでしょう?




永禄元年(1558)11月27日 佐々木六角義賢の斡旋

        により、足利義輝と三好長慶の

        講和なる。
          ↓
        長慶、義輝に京都を明け渡す

永禄3年(1560)8月 浅井長政、野良田で佐々木六角

        義賢を破る

永禄6年(1563)  佐々木六角義賢、一家内紛が起こり

        弱体化する。子息義治が重臣後藤

        氏を謀殺した為。

永禄8年(1565)12月 佐々木六角義賢の命を受けた

        和田伊賀守惟政が、信長妹(お市)・

        浅井長政の縁組に奔走するも、

        長政の同意が得られず一旦中止。

永禄9年(1566)8月29日 足利義秋、佐々木左京大夫

        を頼るも不承知の為、近江矢島を

        脱出。
          ↓
        能登の畠山義綱に出兵を促す。
          ↓
        後妹婿の若狭守護武田義統を頼る。
          ↓
        敦賀に滞在し上杉輝虎と連絡。

永禄10年(1567)  佐々木六角氏、旧臣蒲生定頼の

        とりなしで、1563年以来続いていた

        家臣団の紛争から和解し、「六角

        式目」を制定。遵守することを約束。
          ↓
        ただし、重臣の後藤氏・三上氏・

        布施氏・横山氏らの信頼は回復できず。

永禄11年(1568)8月7日 信長は、「すぐに義昭殿の

        入洛あるべし」と考え、近江佐和山

        城に佐々木左京大夫承禎を訪ね、

        「路次の人質の供出・馳走のふるまい

        を出すように」「義昭殿の本意が

        遂げられれば、所司代に任ぜられる」

        など、説得にあたる。一週間逗留して

        交渉。

永禄11年(1568)9月12日 箕作山攻陥

        *佐久間右衛門尉信盛・木下藤吉郎・

         丹羽五郎左衛門長秀・浅井新八政澄

        *美濃三人衆、先手に用いられない

         ことを不思議がる。
          ↓
        佐々木左京大夫承禎・右衛門督父子、

        箕作山陥落を見て観音寺城から退散

        →石部へ逃亡


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戦国データ篇VOL.5 近江・美濃・尾張の深い関係[2/3]

2015-12-13 07:42:45 | 戦国データ篇
近江・美濃・尾張の深い関係の2回目です。

今回記事のポイントは、

①足利将軍家は、やばくなったら近江の

 佐々木六角氏のところへ逃げる。

②“楽市・楽座”は織田信長が始めたわけ

 ではなく、天文18年(1549)近江の佐々木

 六角義賢が観音寺城下で試みている。

③北近江の浅井氏は「守護の佐々木京極氏

 を追い払って統治権を得た者」と周辺国

 から思われている。


ということです。応仁の乱前後から、近江・

美濃・尾張、および足利将軍家・朝倉氏・

本願寺が複雑に絡み合い、頭がクラクラ

してきそうです。



文亀2年(1502)10月 佐々木六角定頼(高頼?)、

        謀叛を起した伊庭貞方を攻め

        敗走させる。

大永2年(1522)7月 佐々木六角定頼(高頼の子)、

        日野城の蒲生秀紀を攻略。

大永3年(1523)3月 北近江の浅井亮政(久政の父)、

        守護の佐々木京極高清(政経の子)

        を攻撃。
          ↓
        高清、尾張に亡命
          ↓
        一時北近江に戻るも子の高吉が

        浅井久政の討伐をはかり失敗し

        追放され坂田郡清滝村に逼塞。

大永7年(1527)3月 戦いの末、細川高国方が敗れ、

        足利義晴を伴い近江に亡命し

        佐々木六角定頼を頼る。
          ↓
        その後朽木氏を頼る

天文元年(1532)8月 佐々木六角定頼、山城本願寺

        を襲い本願寺十世証如(実如の孫)

        を大坂に追う。
          ↓
        八世蓮如が建立した石山道場に

        移住する。(石山本願寺の始まり)

天文3年(1534)9月 足利義晴、近江朽木から京へ戻る。

天文5年(1536)9月 佐々木六角定頼・朝倉孝景、

        土岐頼武(大桑城)救援のため

        美濃へ出兵。

天文8年(1539)  尾張の織田信秀、佐々木六角定頼・

        朝倉孝景と介入し、美濃の齋藤道三・

        土岐頼芸と和睦。
          ↓
天文8年(1539)1月 土岐頼芸・斎藤道三方、大桑城

        の頼純と和議。

天文15年(1546)12月20日 足利義輝、13代将軍

        に就任。
          ↓
天文15年(1546)12月 佐々木六角定頼、義輝の

        元服式で管領代となり御相伴衆

        に列せられる。

天文18年(1549) 佐々木六角義賢、観音寺城下で

        楽市・楽座を試みる。

天文21年(1552)1月 足利義輝、六角義賢の調停で

        三好長慶と和睦し、長慶は御供衆

        となる。義輝は細川晴元の子昭元

        と共に近江より上洛。

弘治3年(1557)  本願寺、六角氏と同盟
          ↓
        本願寺顕如と六角氏女との婚姻なる。


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戦国データ篇VOL.5 近江・美濃・尾張の深い関係[1/3]

2015-12-12 12:54:15 | 戦国データ篇
連続読物『いいかよく聞け五郎左よ!』でも、

足利義秋が興福寺から逃れて元服し、近江国

に入るところまで進んできました。テレビや

小説では、美濃国斉藤道三と尾張国織田信長

の関係は詳しく描かれていますが、意外と

近江・美濃・尾張の各国が深い関係にあること

は、あまり詳しく触れられていません。戦国

時代の行く末を左右するほどの重要なポイント

がありますので、暦年で記述してみます。


今回記事でのポイントは、

①当時から近江の佐々木六角氏は、足利幕府

 に張り合うだけの実力を持っていた。逆に

 言えば、足利将軍家は三好氏などに政治の

 実権を握られ頼りない存在だった。

②佐々木六角氏は伊勢国とは保護してもらう

 だけの関係を保っていた。


ということです。



文正元年(1466)9月 尾張守護代織田兵庫助敏広、

        反対勢力義敏方の浪人も国内に

        多く、自ら下津城を固め弟の織田

        与十郎広近などに軍兵を添えて

        上洛させ、斯波義廉に応じる。

応仁2年(1468) 近江で、佐々木六角氏(西軍)

        と佐々木京極氏(東軍)の戦い

        開始

文明3年(1471) 美濃国斎藤妙椿、近江に進攻し

        西軍の佐々木六角高頼を助け、

        東軍の佐々木京極氏の重臣多賀

        高忠を攻めて越前に追いやる。
          ↓
文明3年(1471) 美濃国斎藤妙椿、伊勢の西軍方

        の援軍のために出兵。

文明7年(1475)9月 佐々木京極政経(東軍)、

        佐々木六角頼方(西軍)を近江

        で破る。

長享元年(1487)5月 近江国の佐々木京極高清が、

        姉川で多賀宗直を敗死させる。

長享元年(1487)9月 佐々木六角高頼が寺社領の

        押領を続け、幕府の再三の命令

        を無視した為九代将軍義尚が

        佐々木六角氏の討伐を諸大名に

        指示。
          ↓
長享元年(1487)9月 義尚出陣。観音寺城を攻め、

        佐々木六角氏は甲賀に逃れる。
            ↓
          加賀の富樫政親、六角攻め

          に出陣する為過酷な兵糧米・      

          人夫役を徴発した為、主力

          軍が進発したすきに一揆が

          蜂起。

延徳元年(1489)3月26日 将軍義尚、佐々木六角

        討伐の陣中で死亡。

延徳3年(1491)8月 足利将軍義稙、佐々木六角氏

        の討伐の為近江三井寺出陣。

明応元年(1492)3月 織田信定・浦上則政ら、近江

        愛知川で佐々木六角高頼を破る。

明応元年(1492)9月 幕府、近江の佐々木六角氏を

        攻撃。六角氏は伊勢へ逃走。

明応5年(1496)12月 斎藤妙純・利光父子、佐々木

        六角高頼と戦う。
          ↓    
        斎藤方敗北→12月7日斎藤妙純死亡


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戦国データ篇VOL.4【軍(いくさ)を起こしてからしまうまで】

2007-07-03 00:19:11 | 戦国データ篇
戦国時代の軍(いくさ)の進行について

8)軍の具体的進行

 軍を起こすということは非常な大事(おおごと)である。

手短に進行の順番になすべき行程を記す。

1.大義名分を得る

2.軍の規模(員数・日数・進軍距離)の仮設定

3.仮設定に合わせた物資の準備(武具・武器・食糧・現金・

 臨時為替など)

4.相手国との国境の閉鎖及び交通(街道・河川運輸)の

 遮断

5.情報の収集(敵軍の兵数・武器数・兵と武器の配分比率・

 敵国内の反乱分子の把握・地理・天候・道筋など)

6.中立地区の味方・敵対・中立の確認

7.敵兵の調略

8.情報の操作(うそ・強調・類似など)

9.将兵の参戦意志の確認と参戦予定人員の把握

10.将兵の訓練と指揮系統の確認

11.近隣同盟国へ参戦を促すかどうかの決定

12.敵国の人質を保管している場合その処置の確認

13.開戦日・開戦地区の推定と地区別担当者割り当て

14.彼我の戦力分析の上、開戦・和議あるいは退却の

 決定

15.戦闘予定地域の住民への戦闘前・中・後の協力の

 要請と協力への見返りの保証

16.もし戦闘予定地域に朝廷領・幕府領があれば事前

 に「迷惑かける」旨申請しておく

17.馬借・車借あるいは河川運輸業者への協力要請と

 協力への見返りの約束

18.自国の守護あるいは国司から出兵できるよう確認

 をもらう

19.軍法・軍令の発令

20.進軍路の点検(難所が無いか・伏兵がいないかなど)

21.行軍

22.陣構え及び着到を記し員数の確認

23.開戦時刻の正式決定

24.作戦会議(武将ごとの兵力配置・先陣を受持つ大将・

 敵味方の見分け方・攻め込まれたときの大将ごとの

 救援体制決定)

25.戦闘レベルの確認(多少犠牲者が出ても我攻めで

 攻め倒す、調子よければ攻め倒すが調子悪ければ

 退却する、一槍あわせてすぐに撤退するなど)

26.戦闘開始

27.戦闘終了(一般的には総員中5~10%討ち取られ

 た段階で戦意を失い戦闘終了)

28.進退の決定(進むか退くか)

29.戦後処理

 *自国最前線の城・要害の処置

 *敵方から獲得した城・要害の処置

 *敵国との戦後補償金・補償地の受け渡しに関する

 打合せ

 *戦況報告・首実検・論功行賞(生きて戻った兵士

 への評価及び戦死した遺族への補償)の実施

 *人質・馬質等の処置

 *物資・貨幣・為替の収支決算

 *国境及び交通の閉鎖解除

 *情報の収集と反省(事前情報がどれだけ正確で

 あったかなど)

 *調略

 *情報操作

 *参戦した同盟国への論功行賞

 *本城守備隊との反乱分子の動きに関する情報交換

 *協力してくれた地元民たちへの見返りの実施あるい

 は実施時期の通知

 *得失領地の処理(寺社領?幕府領?朝廷領?)及び

 関係各所への連絡

 *敵城を攻陥した場合は城の運営方法を決定


 最低でもこれらのステップを踏まなければならない。本当

に軍をおこすのは容易ではない。

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戦国データ篇VOL.3【軍(いくさ)と寺社、及び戦闘員とは?】

2007-07-03 00:14:52 | 戦国データ篇
戦国時代の軍(いくさ)の進行について

6)戦闘時の神社仏閣の役割

 軍をするにあたって敵が神社仏閣に籠もった場合どう

するか?現代から見ると、「神社仏閣を攻撃したり燃や

したりした場合のたたりが怖い」と見る向きもあるが、

古来そうでもない例が多い。

1180年 平重衡→東大寺焼き討ち
1467年 畠山政長と細川勝元→上御霊社炎上
1489年 宇治衆と山田衆→伊勢神宮内宮炎上
1490年 室町幕府と山城土一揆→山城北野社炎上
1499年 細川政元と延暦寺・足利義稙→延暦寺炎上
 などなど。

 当時の武将は、あまりこだわりなく籠もった敵方を攻撃

しており、「籠もったほうに非があるので、たたりも籠もった

ほうが受けるべき」などと、たたりのなすりあいをしていた

のだろうか?ただ現実の歴史を見ると、たてまえでは

「神社仏閣を攻撃炎上させるのは非道の行い」とし、本音

では「武装して立て籠もっているからには、要害と同じと

みなす」としていたようだ。これは平安後期、興福寺の僧兵

が春日神社の神木をたてて強訴したり、延暦寺の僧兵が

日吉神社の神輿をたてて強訴したりして、結局武士階級

進長のきっかけとなった頃からの問題であった。ちなみに、

興福寺は藤原氏の氏寺、春日神社は藤原氏の氏神で

ある。

 社会的な側面から見ると、古来神社仏閣は治外法権の

場所であり、経済的にも納税義務は無かった。そのかわり

と言っては語弊があるが、軍の陣取りなどのとき、全面的

に宿・食糧を供給する役目を受け持っていた

7)武士とはなにか?

 まず戦国時代の初期の頃までは、戦闘員のみ討ち取り

非戦闘員には手を出さないという美しい原則が生きて

いた。が、次第に日本各地で一揆を起こす者が、すき・

くわなどの非武器の使用から弓矢・鉄砲の使用に切り

替え、相応の戦果をあげるようになると、戦闘員・非戦闘

員の境界がはっきりしなくなってきた。これが、一揆を起こ

す者たち単独の財力で武器購入していたならまだしも、

宗教法人がバックアップしていることが明らかになると、

「武士とは?非戦闘員とは?」という原則が崩壊して

しまった。すなわち、武士についての本来の定義は、

「弓矢を取るもの。しかも一定の文化・経済・政治を遂行

しうる者が武士(=戦闘員)である」ということであったが、

先述のとおり戦国中期からこの定義が崩れ、「とにかく

武器を持って言うことを聞かない者は、武士(=戦闘員)

とみなし、武士の作法にのっとって成敗する」という見方

に切り替わっていったのである。戦国時代後期にはその

観点がさらに拡大解釈され、「武器を持って刃向かうもの

は武士とみなし、そのものたちを経済的に支援する者も

武家の作法にのっとって成敗する」という方向へ切り替

わっていったのである

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戦国データ篇VOL.2【軍(いくさ)の作法】

2007-06-25 23:32:34 | 戦国データ篇
戦国時代の軍(いくさ)の進行について

5)軍の作法

 軍については、明文化されていないながらも守らなけれ

ばいけない作法がある。

 ①開戦の通告

 軍の進行パターン中『開戦』は、必ず敵方に文書あるいは

 実際行動を通じて通告してから行うのがまず第一の作法

 である。また古風にのっとれば、互に鏑矢を射合い鬨の声

 を上げてから戦闘開始という手順である。戦闘開始の

 場所・時刻が上記のとおり互いに察しがつく状態で

 開戦されるのが普通なので、突然聞いたことも無い敵

 が聞いたことも無い方面から攻め込んでくることはあり

 えない。もしこの作法を破れば、『戦国の無作法』という

 悪評が京都を含む諸国へ広がってしまう

 ②連絡係を攻撃してはならない

 戦闘の途中で和議の勧告や降参の意思表示をする

 とき、連絡係としては使番などが用いられる。『五』の字

 の書かれた旗などを翻して馬で行きかうため『番五の

 使い』と呼ばれるが、彼等に対して絶対に攻撃しては

 ならないし、『番五の使い』を装って敵陣に攻め込んだ

 りしてはならない。もしこの作法を破れば、激怒した敵

 から徹底的な殲滅戦に持ち込まれる可能性が出てくる

 ③報告時の作法

 『番五の使い』の側にも作法があり、まず敵陣の外交

 担当者(いわゆる『取次ぎ衆』)あてに面会したい旨

 申上し以下のような作法で面会する。

 *取次ぎ衆の手前で馬から下りる

  →攻撃の意志がないということを示す動作

 *敵武将の右手側から乗っている馬の背後を回り込み

 武将の左手側に出てひざまづいて物を申上する

  →武士は普通右手で左腰につけた刀を抜き右手で

  打つ。それ故馬の左正面から近づく敵を切るのは

  難しい。したがって馬の左正面から近づくと攻撃の

  意志ありとみなされる

 *ひざまづくときには右ひざをつき左ひざを立てる

  →左ひざをつき右ひざを立てるとすぐに刀を抜ける

  姿勢となり、攻撃姿勢とみなされる

 *両手とも手のひら側を敵将に向けて地面につく

  →手の中に小さい武器さえ持っていないことを相手

  に示すための動作

 *もし兜をかぶっていた場合は右脇に抱える

  →兜を右脇に抱えれば刀が抜けない姿勢となり敵意

  のないしるしとなる

 これらの報告時の作法は普遍的なものであり、敵軍相手

 だけではなく自軍の内部でも同様である。報告時の作法

 を破った者はいつでも切り捨てられてよいことになっている

 ④調略に応じた敵将は厚遇すること

 戦闘開始前、寝返りや内応を起こさせるため様々な調略

 が行われるが、事前の打ち合わせどおり寝返り・内応を

 行なって効果をあげた敵将は、戦後厚遇する作法になって

 いる。ただし、寝返ってきた敵将は、その後の軍で最前線

 に置かれる場合が多く、また最前線を志願して戦功を立て

 ることによって新しい主君に忠誠心をあらわすのが普通で

 あった。

  なお寝返りや内応に応じるときには、互に有力・著名な

 武将に取り次いでもらい、事前に確認しあっておくことが

 重要。戦闘中に前打ち合わせなく寝返った者は、もっとも

 な理由(例えば守備が厳重で連絡することができなかった

 など)が無い限り許されない。逆に調略に応じ自軍のため

 にきちんと功績を挙げてくれた武将を殺害したりするのは、

 『戦国の無作法』という悪評を受けることになる

 ⑤平地戦で捕虜になった場合

 一つの戦闘のあと、武士らしく戦って捕虜になったものに

 ついては、放れ馬同様時期を定めて互いに交換し合うの

 が作法である。戦わずに逃げ落ちた者は卑怯者とされ、

 切り捨てられても仕方ないということになっている

 ⑥攻城戦の戦後処理

 攻城戦の後降参してきた者の扱いについてはいくつかの

 暗黙のルールがある。原則は「武士らしく命を惜しまず

 戦った者」が対象となるが、

 イ.明確に降参の意志を示してきた場合、それ以上攻撃

 せず話し合いに応じる。降参の詫び言に筋が通っていれ

 ば、戦後の扱いについては取次ぎ衆一任の形で保留とし、

 一度生きたまま捕虜とされる

  →連絡係としては、取次ぎ衆・同朋衆・使番・軍使など

 ロ.ただしその打ち合わせでさまざまな詫び言に合理性が

 無かったり、ただ助かりたいだけの為に無謀な交換条件

 (金銭・財物・土地など)を出してきたりする者は許され

 ない

 ハ.二度以上叛逆し降参してきた者は、いかなる理由が

 あろうとも許されない

 ニ.城あるいは取手全体の降参が許された場合、守備方

 の取る方法は二通りある。

  1.近くの自領あるいは同盟国領に退却の上、後日戦後

  処理(人質の提出・補償金等の交換条件)をとり行う

  2.開城及び交換条件を実行した上で、新しい主君に

  服従する。ただし、一国の代表者(国司・守護など)

  クラスの者が強い意思によって籠城戦を行なった場合、

  全んど許されていない。したがって、守備方全滅か

  城主の自害を条件に開城・降参という進行となる

 ⑦降参した者への作法

 基本的に『降参』は上記のように筋道だった進行でとり

 行われるので、その取り扱いについてもいくつかの暗黙

 のルールがある。

 *明確にしかも筋道を立てて降参してきたものを私的

 怨恨で許さないのは『軍の無作法』

 *降参が認められ城外に出てきたものを討ち取ったり

 するのは『軍の無作法』

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戦国データ篇VOL.1【軍(いくさ)の進行方法】

2007-06-25 23:22:31 | 戦国データ篇
戦国時代の軍(いくさ)の進行について

1)まえがき

 様々な小説・テレビドラマで、戦国時代の戦闘シーンが

幾度となく描かれている。きちんと時代考証家の監修に

よって作られているはずだが、実は小説は販売部数・TV

は視聴率をかせぐ必要があり、かなり現実の軍を無視

したキャッチーな描写になっている。実際の軍(いくさ)

とはどういった流れで行われていたのか、具体的に説明

していきたい。

2)軍の大義名分

 軍をおこすにあたっては、『大義名分』があることが条件

である。

 ①敵が自領に攻め込んできたのを撃退する

 ②自領に混乱を起こす後ろ盾となっているものの本拠

  をつきとめ、そこを叩く

 ③同盟国からの参戦要請に応じる。ただし、その同盟

  国の敵方に明らかに非があることがわかった場合

 ④幕府(あるいは時の政権)の下知に従わないものを

  征伐する

 ⑤帝(あるいは帝の信任する大臣ら)の下知に従わ

  ないものを征伐する

 ⑥同盟国の領主が内乱により弑逆されたときは、その

  主謀者に対して自動的に征伐の大義名分が発生する。

ただしこの大義名分も、諸国から「まあ致し方あるまい」

と判断される程度の合理性が必要で、あまりに強引過ぎ

ると諸国から「それはやりすぎであろう」という悪評と反発

を招く。

 このように、当時の軍については、当事国同士の争いと

いう側面のほか、「あそこの国はどういう大義名分を得て、

どういう戦い方をした」という諸国の研究材料としての側面

もあった。諸国が「それはないだろう」とおもうほど、「認め

ようのない」大義名分で開戦するのは、まず第一の軍の

無作法といえる。

3)軍の目的
 大まかに分ければ、軍は平地戦・山岳戦・海戦・攻城戦

に分けられるが、極論すれば平地戦・山岳戦・海戦は互い

の勢力範囲の最前線にある城同士から出陣するわけで

あり、攻城戦の一つのバリエーション(過渡的状態)と考え

られる。

 軍の究極の目的は、『戦闘に勝つことによって、目的と

した地域(あるいは城)を自らの勢力範囲に組み込むこと』

である。ただ単に戦闘に勝つだけでは、軍によって失われ

た人命・田畠・武器・金・資材・時間をリカバーするだけの

経済的余得がなく、国力が疲弊してしまうだけである。

4)軍の進行パターン

 軍はどのようなパターンで進行されるのか?攻城戦の

場合と平地戦の場合に分けて記したい。

 ①攻城戦の場合

 大義名分を得る
   ↓
 軍の準備を行う
   ↓※和議により軍を回避するオプションあり
 宣戦布告を行う
   ↓
 STAGE1《陽動と脅迫》
 1.文書による通告
 2.あからさまに物見を出す
 3.調略を試みる、または和議を試みる
 4.敵城の周りで田畠なぎ・放火を行う
   ↓
 STAGE2《攻撃の意思表明》
 5.敵城の周囲に要害を築く
 6.敵城の周囲に鹿垣を作り包囲する
   ↓
 STAGE3《戦闘と処理》
 7.城攻めを行う
 8.決着をつける(退却か攻略か)
 9.戦後処理を行う

 以上のとおり、人・金・資材をなるべく浪費しないで最高

 の結果を得られるよう、段取りを慎重に進めて行く。この

 意味からいえば、戦闘を行わず敵城を調略により攻陥

 するのが最高のパフォーマンスといえる。

 ②平地戦の場合
 大義名分を得る
   ↓
 軍の準備を行う
   ↓※和議により軍を回避するオプションあり
 宣戦布告を行う
   ↓
 STAGE1《行軍》
 1.進軍路の安全確認(伏兵がいないか、路地の民家は
 協力的かどうかなど)
 2.進軍距離は1日8里(約31km)程度
   ↓
 STAGE2《布陣》
 3.食事の用意
 4.先陣・本陣・伏兵・兵站などの位置決め
 5.戦闘及び戦闘後の段取りの確認
 6.敵陣に和議勧告し、拒否した場合自動的に戦闘の
 意思ありと判断される
   ↓
 STAGE3《開戦》
 7.開戦
 8.一般的に全兵力の5~10%が損なわれれば終了
 ※純野の推計による
 9.退却・進軍・一時駐留など

 以上どの段階でも細心の注意を払いながら、最小の

 被害で最大の効果を目指していく。この意味からいえ

 ば、戦闘を行わず敵軍を調略により撤退させるのが

 最高のパフォーマンスといえる。ただし伏兵を用意

 しておきわざと撤退する場合もあるので、戦闘勝利後

 の進軍については、敵軍の布陣等すばやく調査・

 検討することが肝要となる。

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