『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

因縁と先例33【広大な敷地を受け継ぐときには昔から因縁が大切にされており、それは現代まで続いています!】

2017-11-27 00:00:00 | 因縁と先例
現在の大阪城は大坂冬の陣・夏の陣の後に破

却され、徳川二代将軍秀忠の時に修築された

ことは有名です。ただこれもさかのぼると、


秀忠は秀吉の建てた大阪城を破却したところ

に二番目の大阪城を建てる←秀吉は本願寺派

が築いた石山本願寺を破却して一番目の大阪

城を建てる



となっていて、実は現大阪城の石垣の下が二

段構造の石垣になっているということをかな

り昔のNHKで見た覚えがあります。征服した

相手の主要建築物の跡に建物を建てるのが

日本の古来からのしきたりのようです。


それは現代まで続いていて、広大な敷地の必

要なテレビ局も調べてみると因縁のある場所

に立っていました。どうぞご参照ください。



フジテレビ(新)の“お台場”は徳川末期の

“砲台場”からきているのは有名なので表か

ら省きました。また、徳川家康から大岡忠相

から有名な名前が出てきますね・・


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因縁と先例32【信長家の縁の下の力持ち「村井民部丞貞勝」は主君のために働いた。最後まで】

2014-12-29 17:33:34 | 因縁と先例
源平合戦の時代から戦国期まで、武家の中には自家

と他家の間の交渉を担当する『取次衆』といわれる

人々がいました。例えば

【源平盛衰記の時代】

 *平清盛の家では源大夫判官季貞・平越中次郎

  兵衛盛嗣ら

 *源頼朝の家では安達藤九郎盛長ら

【信長公記の時代】

 *織田家では、信秀の時は平手政秀、信長の時は

  丹羽長秀

 *徳川家では家康のとき、酒井忠次・石川数正

  及び大久保一門

がそれに当たります。


あまり有名ではありませんが、信長公や丹羽長秀の

下でかいがいしく働いた奉行「村井貞勝」という人物

がいます。尾張のころからまめに働きをつづけ、様々

な重要な場面で登場します。ポイントだけ時系列で

追ってみます。


1556年:8月名塚取手の戦い後、信長のお袋様が

    島田秀頼と村井貞勝を使いとして呼び、

    信長の舎弟勘十郎信行の赦免を請うた。

1567年:8月美濃三人衆の呼応に島田秀頼と村井

    貞勝が三人衆の人質をとりに行く。

1568年:7月足利義昭を越前に迎えに行く。

1568年:11月民部少輔となる。

1569年:2~4月の二条御所新築の奉行を務める。

1569年:5月頃開始の内裏修復の奉行を務める。

1572年:3月信長の武者小路邸造営の時の奉行を務める。

1572年:京都所司代として諸事を奉行する。

1573年:1~2月将軍義昭の叛心が明らかになったが、

    信長は無用の合戦を避けるため、日乗・島田・

    村井を講和の使者として送るも、義昭の拒否

    により決裂。

1575年:3月長門守となる。

1576年:安土城の普請を担当する。

1576年:4月二条晴良が報恩寺に転居したあとを、

    信長の御座所とする普請につき信長と打合せ。

1576年:石山本願寺攻撃に参加。

1577年:2~3月頃、内裏の築地修復を洛中の町人の

    出費で実施。

1580年:2月信長から本能寺を御座所に普請するよう

    命じられる。

1581年:剃髪し春長軒と号する

1582年:6月京都二条妙覚寺にいた織田信忠は、

    本能寺の変のことを聞き現地に向かおう

    としたが、村井貞勝父子からもはや本能寺

    は陥落し焼け落ちたことを知る。村井の

    言にまかせ、二条新御所から誠仁親王・

    和仁王を内裏へと移し、立て籠もった上で

    信忠は切腹する。

1582年:6月同日、村井も本能寺の変で討ち死にする。


御覧の通り、信長が手をつけにくい仕事と信長の

「安土城を含むセーフハウス」の造営を主に請け

負っていたようです。それだけ信頼されていたと

いうこと。ただ、自分が普請を任された「二条御所」

「本能寺」で主君信長公と嫡男信忠が討たれる

ことになるとは、討ち死にした村井の心中は察する

に余りあります。無念!

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因縁と先例31【信長公は近江の佐々木左京大夫承禎と本気で戦おうとしたか?】

2014-12-28 17:27:53 | 因縁と先例
永禄十一年(1568)信長は足利義秋を越前朝倉氏の

ところまで迎えに行き、つづいてこの年の春に妹

「お市」が輿入れした浅井長政のところに立ち寄り、

その後上洛を視野に入れたうえで、一週間に渡って

近江の佐々木左京大夫承禎を説得しています。

尾張・美濃・伊勢・三河四カ国の軍勢が参加した

ことを考えると、そのまま強引に攻めたおす手も

あったのに信長公どうしたんでしょうか?


ここにも因縁と先例を重んじる武家のルールがあり、

実は信長の父信秀と承禎の父定頼は以下のような

共同作戦を実施する、いわば「仲良し」だったわけ

です。

*1536年:佐々木六角定頼・朝倉孝景、土岐頼武

 (大桑城)救援の為美濃へ出兵。

*1539年:織田信秀、佐々木六角定頼・朝倉孝景と

 介入し、齋藤道三・土岐頼芸方と和睦。

*1546年:12月義輝将軍就位し、佐々木六角定頼、

 義輝の元服式で管領代となり、御相伴衆に列せ

 られる。


加えて承禎は信長の妹「お市」の婚約を一回は進めて

くれた仲人にも近い人なので、信長としても本気では

戦いにくかったようです。その証拠に承禎が観音寺城

を明け渡し石部に逃げると、しばらく信長方は放置

しています。


なおその後また因縁と先例を感じさせる例があります。

信長は、安土城を築いてから佐々木六角定頼を祀る

「江雲寺光宝亀山御殿」を建立しており、これは、

佐々木六角氏が握っていた南近江の馬借等に対する

懐柔策と思われますし、佐々木六角氏に対して他意は

なかったことを示す好例です。

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因縁と先例30【信長は降参してきた美濃三人衆を最前線で戦わせない?】

2014-12-14 15:17:01 | 因縁と先例
信長が美濃稲葉山へ移動するころのエピソードです。

【信長公記:首巻第四十四話】


永禄十年(1567)八月一日、美濃斎藤家の屋台骨と

いえる美濃三人衆(稲葉伊予守良通・氏家卜全直元・

安東伊賀守守就)が「身方に参るので人質を差し出し

たい」と信長に告げ、手順を踏んで信長の配下となり

ます。これが斎藤家崩壊の決め手となり、美濃国領主

斎藤竜興(斉藤道三の孫)は川内長島に退散し、とう

とう美濃は信長の支配下となりました。


源平の時代から、降参した敵将は次の軍で先陣働きを

させるのが通例で、三人とも古来の先例として「次の

戦で先陣を切らされる」と思っていたところ、信長は

三人衆を先陣に充てることはせず自身の馬廻衆だけで

箕作城を攻め立てたとあります。三人衆は「案に相違

した信長公のなさりようだ」と不思議に思ったそうです。


また降参した敵の城将は首を切られる可能性が高いのが

通例ですが、畿内のその後の進軍で降参してきた岩成

主税助友通(勝竜寺)・細川六郎昭元と三好日向守長逸

(芥川)・篠原右京亮長房(越水・滝山)・池田筑後守

勝正(池田)など、降参してみると無事に配下となる

だけで首も切られず、信長のやり方が古来の常識と違い

すぎて、逆に首を傾げたのではないでしょうか?


信長が降参した敵将を快く受け入れ(降参せず反抗した

一国の領主は自決・斬首以外不可!)、しかも当時常識

とされた「次の軍で先陣に向かわせる」こともせず重用

したのは、源平期の頼朝が降参するしないに関わらず

敵(平家)の子孫まで根絶やしにしようとして短期政権

(三代)に終わったことの反省からきているようです。

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因縁と先例29【弓矢の名手は敵も味方も誉めるもの!】

2014-12-13 08:03:15 | 因縁と先例
信長の軍が尾張を統一し、川向う美濃側の堂洞の砦を

攻める時のエピソードです。(信長公記首巻:四十三話)


松明で二の丸に火をつけられ天主に逃げ込んだ敵勢に対し、

太田又介(信長公記の著者)が二の丸へただ一人上り、

そこから無駄なく矢を射たことから、それを見た信長が

「よい見もの!」と三回にわたって使いを送ってほめ、

後に御感により知行を増やしたといいます。


源平盛衰記でも巻四十二「屋島合戦」の段で、那須与一が

平家が仕掛けた船上の扇をかなめから射落とした時、

平家側・源氏側どちらからも「あ、射たり」と称賛の声が

上がったとされています。


血で血を洗う軍場(いくさば)であっても、敵・味方とも、

命をかけて技術を尽くして戦うものは尊重されるという

ことのようですね。

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因縁と先例28【信長の『三間間中柄の槍』と『国道の幅』】

2014-12-07 13:20:25 | 因縁と先例
戦国時代には、織田信長が『三間間中柄の槍』(6.3m)

を開発しましたが、たまたま近代・現代の国道の道幅を

調べていたら、明治時代の「一等国道」は道幅七間

(12.6m)だったそうです!!


つまりは信長の槍を横に2本(七間=3.5間×2)並べた長さ!

なにかの偶然でしょうか?それとも明治時代の役人は戦国

時代の歴史を知っていて採用したのでしょうか?

Wikipedia 国道

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因縁と先例27【日本一の兵(つわもの)は?】

2014-09-29 17:53:13 | 因縁と先例
「日本の武士の中で誰が一番強いか?」を考えると結構

楽しいですが、信長公記や源平盛衰記の中では軍の時に

勇ましい名乗りを上げる武士が数多く出てきます。


*道家兄弟の「天下一の勇士」の旗

 信長公記巻三の記事です。越前朝倉攻めの時、尾張守山の

 道家清十郎・助十郎兄弟が参戦しました。ある年武田信玄が

 美濃高野口に出働したとき、森三左衛門・肥田玄番の先駆け

 として首三つを取ってきて信長公のお褒めにあずかり、彼ら

 が持っていた白い旗に信長自ら「天下一の勇士」と書いて

 授けたという名誉ある兄弟です。今回の軍でもその旗を掲げて

 森三左衛門とともに奮戦し、討ち死にしました。


*能登守教経は「精兵の手きき」

 源平盛衰記巻三十三の水島の軍の段で、「能登守教経は精兵

 の手ききなりければ一として空矢なし」と、揺れる船のうえ

 でも矢を間違いなく射れる手だれとして表現されています。


*今井四郎兼平は「日本一の剛の者」と号して自害

 源平盛衰記巻三十五で「日本一の剛の者が主のお供をして

 自害するのを見よ、東八箇国の殿原!」と号し、太刀の

 切っ先を咥えて馬から真っ逆さまに落ち、今井四郎兼平は

 壮絶な最期を遂げます。


*熊谷次郎直実・小次郎直家の親子は「日本第一の剛の者」

 源平盛衰記巻三十七で熊谷次郎直実・小次郎直家の親子が

 一の谷の大手木戸口に攻め込むとき、「日本第一の剛の者」

 と号して攻め込みます。あまりのすさまじさに、敵が寄って

 こなかったそうです。


時代が下ると、真田幸村が「日本一の兵(つわもの)」ですね。

誰が本当の日本一なんでしょう?

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因縁と先例26【信長公は薔薇が好き!】

2014-09-27 20:02:45 | 因縁と先例
源平盛衰記の巻十一、平清盛の嫡男小松内大臣重盛

の侍経俊が布引の瀧に入るエピソードの場面で、

薔薇(しょうび)の花が美しく咲く描写が出てきます。


「源平盛衰記を読み込んでいた信長も、平家を崇敬

する立場から真紅の薔薇(しょうび)の花が好きで、

尾張の地で栽培していた!」と想像すると面白い!

当ブログの連続読み物「いいかよく聞け、五郎左よ!」

では、「巻一の五 清洲に入る知らせのこと」の段で

「於多井(おたい)川の橋のたもとで薔薇(しょうび)

の花を栽培している」ことにしてあります。

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因縁と先例18【信長は天女か?天人の五衰】

2014-01-13 23:12:47 | 因縁と先例
信長公記首巻第二十「おどり御張行の事」で、

信長は天人の衣装をつけ小鼓を打ち女おどりを

舞います。のち信長が足利義昭をかついで上洛

したとき、慰労のための観世能を催す場面が

ありますが、このとき義昭が信長の鼓を所望

します。おそらく信長の小鼓・女舞い・小歌・

幸若舞・御鷹野などの趣味にまつわる話が事前

に京の都に伝わっています。


『天人』という語句については、源平盛衰記

巻四十四では「これやこの楽しみ尽きて悲しみ

来るなる天人五衰なるらん」とあり、『天人』

は「いずれ衰えていくもの」として描かれて

います。その出典は

「生ある者は必ず滅す、釈尊未だ栴檀之烟を免れず、

楽しみ尽きて哀しみ来る。天人猶五衰の日に逢へり」

(大江朝綱「和漢朗詠集」無常)


となっています。実は太田牛一が、首巻の段階で

『天人』という言葉を配置して、後の信長の運命

を実は暗示していた・・、と考えたりすると面白い

気がします。


【追記】上記の「おどり御張行の事」の段で、日付

が「七月十八日」となっています。ただ織田太郎左衛門

(信張)の衆が『地蔵』を演じていることから「地蔵の

縁日」と思われ、それならば「24日」が正しい。逆に

信長の演じた『天人』が実は観音様であったなら「観音

の縁日」は「18日」なので原文のままで間違いない、

ということになりますが、どちらなのでしょう?

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因縁と先例17【下天の内をくらぶれば・・・】

2014-01-13 23:05:21 | 因縁と先例
信長公記首巻第二十一で、天台僧天沢が武田信玄と会談

するときのエピソードが出てきます。


信長は「敦盛」だけを舞い、「人間五十年下天の内を

くらぶれば夢幻のごとくなり」と口にしながら舞を

舞います。この句は「一度この世に生を受け、滅せぬ

もののあるべきか」と続きます。


この句に付いて、ニュートンプレス社の現代文や角川

ソフィア版を見ると、「下天とは六欲天第五の『化天』

のことである」としており、

「化天においては人間の人生50年など一日一夜にしか

あたらない」


と訳しています。がしかし、六欲天の第五は、正確には

「楽変化天」でありこれを化天→下天とするのはこじつけ

に近い。すなおに「天」とするならば、「六道(天道・人間

道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道)中『人間』界の上に

ある清浄な世界『天』」としたほうが良いと考えます。そう

考えると信長の句の訳は、

「人間50年生きたとしても、死んだ後確かに行ける『天』

界の下として比べれば、『人間』界は夢幻のように不確か

なものである」


となります。


また「敦盛」というヒントから見て、「この句が平家物語・

源平盛衰記の書かれた時代から連綿と続く『無常観』

(世の中は常に変化しとどまることは無いという考え方)

を示す」と気づきます。そうすれば信長の句も「人間の

一生は長いようで短い」という訳し方ではなく、

「人間の一生は不確かなもので、死ほど確実な

ものはない」


という訳し方が正しいとわかります。


源平盛衰記巻二十一の後にでてくる小歌、「死のふは一定、

しのび草には何をしよぞ、一定かたりをこすよの(人間は

必ず死ぬ者さ!死んだ後には何をしようか?やはり故人の

ことでも語り合おうか)」がこのことを結論付けています。

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