『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

佐々成政(さっさなりまさ)[2/3]

2017-06-15 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
佐々成政(さっさなりまさ)[2/3]

〔現代仮名遣い〕さっさなりまさ


1578年11月信長の荒木成敗の出陣後、信忠

    が天神の馬場に進軍するのに同行。

    天神山取手の造営を命じられる。

    太田の取手ができると、そこに居陣。

    その後太田取手を引き払い、惣持寺

    要害の番を命じられる。

1579年3月信長父子摂津攻めに参陣。

1579年4月播州攻めに出陣。惟住長秀と越前衆

    (不破光治・前田利家・佐々成政・

    原政茂・金森長近・織田信澄・堀秀政)

    は淡河城へ向けて取手の普請を命じ、

    古池田に帰陣し信長に報告。越前衆は

    信長から暇を下され、帰国の途につく。

1579年12月伊丹城の人質の中で荒木一類の者は

    京都で成敗されることになり、その奉行

    を越前衆不破光治・前田利家・佐々成政・

    原政茂・金森長近の五人がつとめる。

1581年3月神保長住と佐々成政は上洛する。同月

    安土の信長のもとへ参上し、鞍・鐙・轡・

    黒鎧を進上する。


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