佐々成政(さっさなりまさ)[2/3]
〔現代仮名遣い〕さっさなりまさ
1578年11月信長の荒木成敗の出陣後、信忠
が天神の馬場に進軍するのに同行。
天神山取手の造営を命じられる。
太田の取手ができると、そこに居陣。
その後太田取手を引き払い、惣持寺
要害の番を命じられる。
1579年3月信長父子摂津攻めに参陣。
1579年4月播州攻めに出陣。惟住長秀と越前衆
(不破光治・前田利家・佐々成政・
原政茂・金森長近・織田信澄・堀秀政)
は淡河城へ向けて取手の普請を命じ、
古池田に帰陣し信長に報告。越前衆は
信長から暇を下され、帰国の途につく。
1579年12月伊丹城の人質の中で荒木一類の者は
京都で成敗されることになり、その奉行
を越前衆不破光治・前田利家・佐々成政・
原政茂・金森長近の五人がつとめる。
1581年3月神保長住と佐々成政は上洛する。同月
安土の信長のもとへ参上し、鞍・鐙・轡・
黒鎧を進上する。
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〔現代仮名遣い〕さっさなりまさ
1578年11月信長の荒木成敗の出陣後、信忠
が天神の馬場に進軍するのに同行。
天神山取手の造営を命じられる。
太田の取手ができると、そこに居陣。
その後太田取手を引き払い、惣持寺
要害の番を命じられる。
1579年3月信長父子摂津攻めに参陣。
1579年4月播州攻めに出陣。惟住長秀と越前衆
(不破光治・前田利家・佐々成政・
原政茂・金森長近・織田信澄・堀秀政)
は淡河城へ向けて取手の普請を命じ、
古池田に帰陣し信長に報告。越前衆は
信長から暇を下され、帰国の途につく。
1579年12月伊丹城の人質の中で荒木一類の者は
京都で成敗されることになり、その奉行
を越前衆不破光治・前田利家・佐々成政・
原政茂・金森長近の五人がつとめる。
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