佐々木六角義賢(ささきろっかくよしかた)[1/2]
〔現代仮名遣い〕ささきろっかくよしかた。
※記事量多いので、2回に分けての投稿です。
※下線部は信長公記以外の記事によります。
佐々木左京大夫承禎。近江観音寺山城主。
定頼の子。入道して「承禎」と号する。
1549年佐々木六角義賢、観音寺城下で楽市・
楽座を試みる。
1549年三好長慶に破れた細川晴元、前将軍
義晴・将軍義輝父子を擁して近江(佐々木六角
義賢)のもとへ逃亡。1552年父定頼の死により
家督を継ぐ。
1557年本願寺、六角氏と同盟。本願寺顕如と
六角氏女との婚姻なる。
1558年足利義輝・細川晴元軍、京都で三好長逸・
松永久秀らと戦い佐々木六角義賢の斡旋により
講和なる。長慶、義輝に山城一国を明け渡す。
1559年家督を子義治に譲って出家。
1560年浅井長政は、佐々木六角義賢を破る。
1561年三好長慶と将軍義輝和睦し、義輝京へ戻る。
1563年佐々木六角義賢、子息義治が重臣後藤氏
を謀殺した為一家内紛が起こり弱体化。
1565年佐々木六角義賢の命を受けた和田伊賀守惟政
が、信長妹(お市)・浅井長政の縁組に奔走するも、
長政の同意が得られず一旦中止。
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佐々木左京大夫承禎。近江観音寺山城主。
定頼の子。入道して「承禎」と号する。
1549年佐々木六角義賢、観音寺城下で楽市・
楽座を試みる。
1549年三好長慶に破れた細川晴元、前将軍
義晴・将軍義輝父子を擁して近江(佐々木六角
義賢)のもとへ逃亡。1552年父定頼の死により
家督を継ぐ。
1557年本願寺、六角氏と同盟。本願寺顕如と
六角氏女との婚姻なる。
1558年足利義輝・細川晴元軍、京都で三好長逸・
松永久秀らと戦い佐々木六角義賢の斡旋により
講和なる。長慶、義輝に山城一国を明け渡す。
1559年家督を子義治に譲って出家。
1560年浅井長政は、佐々木六角義賢を破る。
1561年三好長慶と将軍義輝和睦し、義輝京へ戻る。
1563年佐々木六角義賢、子息義治が重臣後藤氏
を謀殺した為一家内紛が起こり弱体化。
1565年佐々木六角義賢の命を受けた和田伊賀守惟政
が、信長妹(お市)・浅井長政の縁組に奔走するも、
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