『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

佐々木六角義賢(ささきろっかくよしかた)[1/2]

2017-06-03 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
佐々木六角義賢(ささきろっかくよしかた)[1/2]

〔現代仮名遣い〕ささきろっかくよしかた。

※記事量多いので、2回に分けての投稿です。

※下線部は信長公記以外の記事によります。


佐々木左京大夫承禎。近江観音寺山城主。

定頼の子。入道して「承禎」と号する。

1549年佐々木六角義賢、観音寺城下で楽市・

楽座を試みる。

1549年三好長慶に破れた細川晴元、前将軍

義晴・将軍義輝父子を擁して近江(佐々木六角

義賢)のもとへ逃亡。1552年父定頼の死により

家督を継ぐ。

1557年本願寺、六角氏と同盟。本願寺顕如と

六角氏女との婚姻なる。

1558年足利義輝・細川晴元軍、京都で三好長逸・

松永久秀らと戦い佐々木六角義賢の斡旋により

講和なる。長慶、義輝に山城一国を明け渡す。

1559年家督を子義治に譲って出家。

1560年浅井長政は、佐々木六角義賢を破る。

1561年三好長慶と将軍義輝和睦し、義輝京へ戻る。

1563年佐々木六角義賢、子息義治が重臣後藤氏

を謀殺した為一家内紛が起こり弱体化。

1565年佐々木六角義賢の命を受けた和田伊賀守惟政

が、信長妹(お市)・浅井長政の縁組に奔走するも、

長政の同意が得られず一旦中止。



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