『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

聖観世音(しゃうくゎんぜおん)

2024-04-21 00:00:00 | 信長から細川藤孝への手紙(永青文庫所蔵)
聖観世音(しゃうくゎんぜおん)

<現代仮名遣い>しょうかんぜおん


六観音の一つ。変化しない本来の観音。宝冠の中に

阿弥陀の化仏をつけ、多く手に蓮華を持つ。六道の

中で餓鬼道に当てられる。

六観音:六道の一つ一つに割り当てられた観世音菩薩。

・天道→如意輪観世音

・人間道→准胝観世音(じゅんでいくゎんぜおん)

・修羅道→十一面観世音

・畜生道→馬頭観世音

・餓鬼道→聖観世音

・地獄道→千手観世音


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<徳川家康の目器/『大徳川展』のカタログより>
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信長から細川藤孝への手紙:50-3織田信長朱印状 天正十年四月廿四日  <本能寺の変発生から家康公が逃げ延びるまでの出来事>

2023-02-26 00:00:00 | 信長から細川藤孝への手紙(永青文庫所蔵)
【注意事項】
1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書
細川家文書中世編」を参照しています。
2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳
し間違いがあるかもしれません。
3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が
通じない可能性のある部分に純野が追記した
文言です。
4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合
はなるべく原文のま
まとしました。
5)下線部がある場合は原文で"虫食い空欄”
となっている部分ですので完全に純野の推察
です。
【備考】
明智光秀の名前ですが、家臣としての名前は
惟任光秀ですが、逆臣となっては“明智光秀”
と表記します。

 前回の「信長公が本能寺に宿泊するまで」
から本能寺の変直後の家康公一行の脱出劇ま
での出来事をまとめました。

50-3織田信長朱印状 天正十年四月廿四日 
<本能寺の変発生から家康公が逃げ延びるま
での出来事>

・6月1日 明智光秀は、明智秀満・明智次右
衛門・藤田伝五・斎藤利三らを率い亀山城を
出立

三草越えで中国へ進軍したが、ここで引き返
し、老の山へ上り「山崎から摂津国を抜けて
出勢」とお触れを出す

明智勢は老の山を左へ下り、桂川を越え京へ
と向かう

・6月2日 明智の軍勢が本能寺にいる信長を
攻囲する。信長方は「町人の喧嘩か」と思っ
たが、軍勢は時の声をあげ鉄炮を打ち込んで
くる

信長、森(蘭丸)長定から「明智の手の者」
と聞き、「是非に及ばず」

正面御堂の番衆も攻め込まれ、御殿で信長と
一手になる
【厩で討ち死にの衆】
矢代勝介・伴太郎左衛門・伴正林・村田吉五
【討ち死にの中間衆】
藤九郎・藤八・岩・新六・彦一・弥六・熊・
小駒若・虎若・子息小虎若
【御殿で討ち死にの衆】
森(蘭丸)長定・森(力丸)長氏・森(坊丸)
長隆の三兄弟、小河愛平・高橋虎松・金森義
入・菅屋角蔵・魚住勝七・武田喜太郎・大塚
又一郎・狩野又九郎・薄田与五郎・今川弥二
郎・落合小八郎・伊藤彦作・久々利亀・種田
亀・山田弥太郎・飯河宮松・祖父江孫・柏原
鍋兄弟・針阿弥・平屋久助・大塚孫三・湯浅
甚介・小倉松千代

信長は初め弓を取り二~三腰矢を射たが、弓
の弦が切れ鑓で戦う。ひじに鑓きずを受け、
女房たちを逃がす

信長は、御殿に火が回ってくると御殿奥深く
入り、内側から納戸の戸を閉めて腹を切る

妙覚寺にいた織田信忠は、明智勢が本能寺を
攻囲した事を聞き妙覚寺を出て信長と一手に
なろうとする

村井貞勝父子がかけつけ、「本能寺はすでに
陥落し、御殿も焼け落ちた。敵はこちらに攻
めかかってくるはずなので、二条新御所のほ
うが良い構えであり、そちらに立て籠もった
ほうが良い」と進言する

信忠、二条新御所に入り、誠仁親王・若宮
(和仁王)を内裏へと退出させる。信忠はこ
こでの切腹を覚悟し、最後の戦いに立ち向か

【二条新御所で討ち死にした衆】
猪子高就・福富秀勝・野々村正成・篠川兵庫・
下石頼重・毛利良勝・赤座永兼・団忠直・坂
井越中・桜木伝七・逆川甚五郎・服部小藤太・
小沢六郎三郎・服部六兵衛・水野九蔵・山口
半四郎・塙伝三郎・斎藤新五・河野善四郎・
寺田善右衛門

明智勢は近くの近衛前久の御殿へあがり、屋
根から二条新御所に弓・鉄炮を打ち込む

敵が構えに乗り入り火を懸けると、信忠は
「死骸を縁の板を引きはがしその中に入れて
隠すよう」命じた上で切腹。鎌田新介が介錯
する
【本能寺の変で討ち死にした衆】
津田長利・津田勝長・津田勘七・津田九郎二
郎・津田小藤次・菅屋長頼・菅屋勝次郎・猪
子高就・村井貞勝・村井清次・村井貞成・服
部小藤太・永井新太郎・野々村正成・篠川兵
庫頭・下石頼重・下方弥三郎・春日源八郎・
団忠直・桜木伝七・寺田善右衛門・塙伝三郎・
種村彦次郎・毛利良勝・毛利岩・斎藤新五・
坂井越中・赤座永兼・桑原助六・桑原九蔵・
逆川甚五郎・山口小弁・河野善四郎・村瀬虎・
佐々清蔵・福富秀勝・小沢六郎三郎・土方次
郎兵衛・石田孫左衛門・宮田彦次郎・浅井清
蔵・高橋藤・小河源四郎・神戸二郎作・大脇
喜八・犬飼孫三・石黒彦三郎・越智小十郎・
平野新左衛門・平野勘右衛門・水野宗介・井
上又蔵・松野平介・飯尾毛介・賀藤辰・山口
半四郎・竹中彦八郎・河崎与介・村井宗信・
服部六兵衛・水野九蔵

明智光秀、信長父子を討ち果たし「落人がい
るはずなので、家々を探せ」と指示。京中大
騒動となる。

江州勢の上洛を防ぐために、勢田の山岡景隆・
景佐兄弟に「人質を出して同心せよ」と申し
送る

山岡兄弟は、信長への恩からこれを拒否し、
勢田の橋を焼き落とし、居城に火をかけた上
で山中へと引き退く

明智勢は仕方なく勢田の橋詰に要害をこしら
え軍勢を入れた上で、坂本城へ引き退く

<安土城方面>
同じ頃安土城に本能寺の情報が入る

美濃・尾張の人々は本国を目指して引き退く
*山崎秀家は安土城下の自邸に火をかけ、山
崎の居城へと引き退く

・6月3日 安土城の留守番をしていた蒲生賢
秀は子息賦秀を日野谷から呼び出し、城内の
上臈衆・御子たちを引き連れ、日野へと退出
していく
*安土城は木村次郎左衛門に預ける

・6月3日 佐々成政・柴田勝家、山本寺(さ
んぽんじ)景長を魚津城に攻陥

<徳川家康一行>
同じ頃、徳川家康一行・長谷川秀一は本能寺
の情報を堺で聞く

6月4日 徳川一行・長谷川は宇治田原越え
で退いていく
*穴山信君はここで一揆に殺害される

桑名から船に乗り熱田の湊へ

以上で“信長から細川藤孝への手紙”のカテゴ
リーはいったん完了です。吉川弘文館刊「永
青文庫叢書細川家文書中世編」には日付不明
の書簡もありますので、時期を見計らって現
代語訳をアップしていきたいと思います。

**純野のつぶやき**
「信長公記」の作者太田牛一は、二条新御所
で信忠が「(自分の)死骸を縁の板を引きは
がしその中に入れて隠すよう」命じた上で切
腹と書きましたが、実はこれが徳川の初期の
時代では書けなかった信長公の真の最期だと
したら・・考えただけでぞくぞくします!焼
け落ちた本能寺の縁の下に隠れていた信長公
は、ひじの鑓きずをかばいながら脚の強い馬
に乗り柴田勝家が待つ北陸の方面へ・・

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信長から細川藤孝への手紙:50-2織田信長朱印状 天正十年四月廿四日  <前回書状から信長公が本能寺に宿泊するまでの出来事>

2023-02-19 00:00:00 | 信長から細川藤孝への手紙(永青文庫所蔵)
【注意事項】
1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書
細川家文書中世編」を参照しています。
2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳
し間違いがあるかもしれません。
3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が
通じない可能性のある部分に純野が追記した
文言です。
4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合
はなるべく原文のままとしました。
5)下線部がある場合は原文で"虫食い空欄”
となっている部分ですので完全に純野の推察
です。

 前回の「織田信長朱印状 天正十年四月廿
四日」から信長公が中国進発のために京都本
能寺に宿泊する時までの出来事を時系列でま
とめてみました。

50-2織田信長朱印状 天正十年四月廿四日 
<前回書状から信長公が本能寺に宿泊するま
での出来事>
・4月21日 信長、岐阜を出立し、当日中に
安土に到着
*近国から安土へ陣中見舞いの者で門前市を
なす

・5月7日 秀吉はすぐに高松城へ詰め寄り、
状況を見た上で水攻めを決定

・5月 神戸信孝、阿波へ進軍するため軍勢
を召集
 ↓
・5月11日 信孝、住吉へ参陣。四国へ渡海
の準備

・5月14日 徳川家康・穴山信君ら、信長の
呼び出しにより江州入り
 ↓
惟住長秀が番場に仮殿をたて、一宿の振舞い
を供する
 ↓
徳川家康一行、安土へ参着
 ↓
信長公から「宿所は大宝坊がよい」と指定が
あり、振舞いは惟任光秀に命ずる
*光秀は15~17日の三日間、家康一行を供
応する

・5月 信長公、秀吉の水攻め決定の件を聞
き「天の与ふる所なので、自ら動座して中国
の歴々を討ち果たし、九州まで一篇に平定す
る」と言い下す
 ↓
堀秀政を使いとして、秀吉に詳しく指示。
「惟任光秀・長岡忠興・池田恒興・塩河吉大
夫・高山重友・中川清秀は先陣として出陣す
るように」と命じ、各人に暇を下す

・5月19日 信長、安土惣見寺で幸若義重に
舞を舞わせ、徳川家康一行と観覧
 ↓
・5月20日 信長、「四座(観世・宝生・金
春・金剛)による猿楽は珍しくないので、丹
波猿楽の梅若家久に能をさせ、家康一行に辛
労を忘れさせるために見物させるよう」指示
*桟敷には、近衛前久・信長・家康・穴山信
君・楠正虎・長雲・宮内卿法印・二位法印
*芝居には、小姓衆・馬廻り衆・年寄り衆・
家康の家臣衆

まず幸若が舞いを舞う。一番「大織冠」二番
「田家」ですばらしいでき

能は翌日の予定であったが、まだ日が高かっ
たので、梅若が能を演ずることになる。が、
運悪く梅若の能の出来が悪く、信長は腹を立
て折檻する

信長は、菅屋長頼・長谷川秀一を使いとして、
楽屋にいた幸若に、「能の後で舞いを舞うの
は本式ではないが、信長の所望もありもう一
番演じ候え」と伝える。幸若は「和田酒盛」
を舞い、また優れた出来であったので、信長
の機嫌も直る
 ↓
*信長は森長定を使いとして、幸若に褒美と
して黄金10枚を下す
*梅若については、能の出来は悪かったが、
「黄金の出し惜しみをしていると思われるの
もどうか」と考え直し、よくよく言い含めた
上で金子10枚を下す

・5月20日信長は、惟住長秀・堀秀政・長谷川
秀一・菅屋長頼の4人に、家康一行への振舞い
の準備を命ずる

安土城中の江雲寺殿を座敷として、家康・穴
山信君・石河数正・酒井忠次・このほか家老
衆に食事を出し、信長自ら御前を据える
 ↓
食事が終わると、家康・お伴の衆上下残らず
安土の山へ召し寄せ、帷子を下す
 ↓
・5月21日 家康一行、信長の勧めにより、
京都・大坂・奈良・堺を見物するために上洛。
信長方からは、長谷川秀一が案内者として同

 ↓
「織田信澄・惟住長秀は大坂で家康公に振舞
いを行うように」と命じられ、両人大坂へと
参着する

・5月26日 惟任光秀、「中国へ出陣」と称
して坂本を出立し、丹波亀山城に参着

・5月27日 光秀、亀山から愛宕山へ参詣。
一泊参籠し、太郎坊の御前で二~三度くじを
引く

・5月28日 西坊で、西坊行祐・里村紹巴ら
を招き、連歌の会を興行百韵を神前に備え、
当日亀山城へ帰城

・5月29日 信長、上洛のため安土を出立
【安土城留守衆】
津田源十郎・賀藤兵庫頭・野々村又右衛門・
遠山新九郎・世木弥左衛門・市橋源八・櫛田
忠兵衛
【二の丸の番衆】
蒲生賢秀・木村次郎左衛門・雲林院出羽守・
鳴海助右衛門・祖父江五郎右衛門・佐久間盛
明・蓑浦次郎右衛門・福田三河守・千福遠江
守・松本為足・丸毛長照・鵜飼・前波弥五郎・
山岡景佐

信長は、小姓衆二~三十人を召し連れて上洛
*今回あらかじめ「すぐに発向することにな
るので、出陣の準備をしておくこと。事が起
き次第出立すべきこと」とお触れを出してい
たので、有力武将のお伴はなかった

信長、本能寺へ宿泊

⇒次回、「本能寺の変から徳川家康一行の脱
出行」へと続きます。

**純野のつぶやき**
テレビドラマや歴史小説の大先生が織田信長
の物語を描く場合、
「明智光秀は徳川一行への料理の出来がよく
なく、信長公から激しくせっかんを受けた!」
ということになっていますが、信長公記をよ
く読むと、上記の通り、
・徳川一行が江州参着の折、信長公から「宿
 所は大宝坊がよい」と指定があり、振舞い
 は惟任光秀に命ずる
 *光秀は15~17日の三日間、家康一行を供
 応する
とありますから、信長の暗殺部隊であった惟
住(丹羽)五郎左衛門から離れることができ
て家康公一行も胸をなでおろしていたのでは
ないでしょうか。また、家康公の気の短さか
ら見て、いくらなんでも三日間まずい料理を
食わされて文句を言わないとは思えません。
饗応側の不始末があったら、もっと早くふる
まう主を変えていると思います。その後、
・信長は、惟住長秀・堀秀政・長谷川秀一・
 菅屋長頼の4人に、家康一行への振舞いの
 準備を命じており、ここで惟任光秀の名前
 は出て来ない
・その安土城内での振舞いの時、信長自身が
 御膳を据えた
・信長は、「織田信澄・惟住長秀は大坂で家
 康公に振舞いを行うように」と命じ、両人
 大坂へと参着する
となっています。ということで、
⇒信長公記では、安土城本殿での徳川一行へ
 の振舞いで、惟任光秀の名前は出てきませ
 ん。江州⇒安土城本殿⇒堺での振舞いは、
 基本的に織田家3トップの一人惟住長秀に
 任されていました。
☆また、信長自身が御膳を据えたということ
 は、家康が名前がまだ竹千代で、織田家に
 捕虜として匿われていたころからの幼馴染
 に対して、「毒はいれていないから安心し
 て食え!」と示すためだったものと思いま
 す。
どちらも、信長公の気配りの細かいところで
す。

以上

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信長から細川藤孝への手紙:50-1織田信長朱印状 天正十年四月廿四日

2023-02-12 00:00:00 | 信長から細川藤孝への手紙(永青文庫所蔵)
【注意事項】
1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書
細川家文書中世編」を参照しています。
2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳
し間違いがあるかもしれません。
3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が
通じない可能性のある部分に純野が追記した
文言です。
4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合
はなるべく原文のままとしました。
5)下線部がある場合は原文で"虫食い空欄”
となっている部分ですので完全に純野の推察
です。

50-1織田信長朱印状 天正十年四月廿四日
 
中国進発については来たる秋のことと考えて
いたが、この度(敵勢の)小早川隆景が備前
児嶋を敗北させ、備中高山(高松城)にたて
こもったとのこと。羽柴藤吉郎が出陣して
(城を)取巻く由の注進があった。重ねて便
りが届いているため(当方も)出勢すること
にした。(そちらの丹後・伯耆方面でも)油
断なく用意を専一にしていただきたい。なお
(詳しくは)惟任日向守(光秀)が申上する
であろう。謹言。

天正十年四月廿四日 信長(朱印)
一色五郎(義有)殿
 長岡兵部大輔(藤孝)殿
    ※天正十年=1582年

**純野のつぶやき**
信長公は、信濃征伐から戻り4月21日に安土
に着いていますので、この書状は安土に着い
て戦後処理でバタバタしている中で到着した
長岡藤孝の手紙に対して、城中で書かれたも
のと思われます。信長公が安土に帰城するタ
イミングを見計らって、丹後国から安土にち
ょうど手紙が届くように送る長岡藤孝も芸が
細かいですが、数日のうちに返書を送りだす
信長公も実にまめですね!現代の電子空間で
の連絡が“インターネット・メール”ならば、
信長公と藤孝が作り上げたのは“レターネッ
ト”と呼んでもいいかもしれません!戦国時
代に実現可能な限りで最速の通信システムを
構築していたわけです。なおこの手紙は、備
中高松城が小早川の軍に攻陥され、攻囲戦に
のぞむ羽柴藤吉郎から何度も援軍要請が信長
公に届いたため、秋口の中国進発を早めるこ
とになったのを一色義有と長岡藤孝に伝えた
ものです。
 一色義有とは1581年に殺害された一色満
信の後継者で、1582年2月信長信濃出馬の条
々書き出しの中で、長岡藤孝は丹波の警護を、
長岡忠興・一色義有に出陣を命じています。
今回の手紙は、おそらく信長公が備中方面に
向けて出馬したことが小早川側に知られれば、
備中から退くと見せかけて伯耆国から丹後・
丹波国の日本海側を急襲するリスクが高くな
ることを考えてのことで、信長公の細かい気
配りが見えるようです。

**あとがき**
そしてこの書状が、吉川弘文館刊「永青文庫
叢書細川家文書中世編」に掲載されている書
状の中で、信長公(あるいは信忠)から細川
藤孝(あるいは忠興)あてに日付がわかる最
後の書状となります。この天正十年四月廿四
日の書状から一カ月と十日後の6月2日、信長
公は京都本能寺にて家臣明智十兵衛光秀の軍
に弑逆されることとなります。

以上

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信長から細川藤孝への手紙:49-2織田信長黒印状 天正十年四月十五日<天正十年の出来事>

2023-02-05 00:00:00 | 信長から細川藤孝への手紙(永青文庫所蔵)
☆本記事初出は2022年6月です。シリーズ終
盤の関連記事として再掲しました。

【注意事項】
1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書
細川家文書中世編」を参照しています。
2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳
し間違いがあるかもしれません。
3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が
通じない可能性のある部分に純野が追記した
文言です。
4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合
はなるべく原文のままとしました。
5)下線部がある場合は原文で"虫食い空欄”
となっている部分ですので完全に純野の推察
です。

49-2織田信長黒印状 天正十年四月十五日
 
**純野のつぶやき(つづき)**
<天正十年>
・1月1日 安土へ出仕のとき、百々の橋から
惣見寺へ上るところで築垣を踏み崩し、死者・
手負いが多数発生

一門衆・他国衆・安土在住の衆の順番で出仕。
あらかじめ「礼銭百文を各自持参」とお触れ
を出す

惣見寺毘沙門堂・南殿・江雲寺殿・御幸の間
を見学して白洲へ戻ると信長が台所のところ
厩の前に立ち、十疋ずつの礼銭を自分の手で
受け背後に投げる

・1月 爆竹(さぎちょう)の準備を江州衆
に命じ当日興行

・1月 1580年8月佐久間父子(信盛・信栄)
を追放していたが、佐久間信盛も1581年7月
高野で病死したこともあり、信長は信栄の本
領を安堵し赦免する

佐久間信栄は岐阜へ上り、織田信忠にお礼を
申上

・1月 1581年2月備前の宇喜多直家が病死
していたので、羽柴秀吉は今度家老の者たち
をつれ安土へ参上し、黄金100枚を進上

信長は直家の子息宇喜多秀家の跡目相続を認
め、年寄りたちには一人ひとり馬が下され、
下国する

・1月 伊勢神宮の上部貞永から、信長方堀
秀政に「信長公の上意により正遷宮を再興し
たい」旨申し出が来る

上部は「費用千貫文」と申上したが、信長は
1579年12月~1580年8月の石清水八幡宮修築
で「三百貫文と言っていたのに千貫文かかっ
た」ことを思い起こし、まず平井久右衛門を
奉行として三千貫文送り遣わす
  ↓
信長は以前森長定に命じ岐阜城に入れておい
た鳥目一万六千貫文につき、「穴をつなぐ縄
をつなぎなおし、正遷宮に必要とされ次第送
るように」と織田信忠に命ず

・1月 雑賀の鈴木重秀が同地の土橋守重を
殺害する
*前年鈴木重秀の継父を土橋守重が討ち殺し
たため内々上意を得て鈴木が土橋を殺害した
もの

鈴木はその後土橋の構えに攻め寄せ、その旨
信長に注進

信長は後援として織田信張を大将として根来・
和泉の衆をおくる

土橋の子息と根来寺千職坊の兄弟が土橋の構
えに立て籠もる

・2月 信長の命により、雑賀方面に野々村
正成が土橋攻めの検使として送られる

攻撃を支えきれず、敵千職坊は構えから逃げ
出すが斎藤六大夫に討ち取られる

千職坊の頸を信長に進上すると、森長定を使
いとして斎藤に小袖と馬の褒美が下される。
千職坊の頸は百々の橋詰にさらされる

その他残党を討ち果たし、普請・掃除を命じ、
織田信張を城代として入れておく

・2月~3月 織田信忠の武田氏征伐に後付け
で参加
  ↓
信忠に知行割りを命じ、「国掟甲・信両州」
を定める。その上で、「自分が帰陣するに際
し、信州諏訪に織田信忠をおき、甲州から富
士のふもとへ行き富士山を見て、駿河・遠江
を回って帰洛する」と言い下す

・4月10日甲府を出立→19日清州へ到着→20
日岐阜へ到着→21日安土へ戻る

となります。注目されるイベントとしては以
下がありました。

1)1月1日に「安土へ出仕のとき、百々の橋
から惣見寺へ上るところで築垣を踏み崩し、
死者・手負いが多数発生」という大事故が起
きていましたが、信長公は惣見寺毘沙門堂・
南殿・江雲寺殿・御幸の間の見学は実施しま
した。
2)その時に、一門衆・他国衆・安土在住の
衆の順番で出仕させ、あらかじめ「礼銭百文
を各自持参」とお触れを出しておき、見学後
の白洲で信長が台所のところ厩の前に立ち、
十疋(ひき)=百文ずつの礼銭を自分の手で
受け、背後に投げるという面白いことをやっ
ています。百文といえば当時一文=120円と
して12000円になります。もしかしたら日本
で初めての“有料見学ツアー”だったのかも知
れません!
3)備州・播州で戦っているはずの秀吉が昨
年末に続いて1月に安土に登城していますが、
こんなにヒマそうにしていいんですかね?そ
のほか
*伊勢神宮の再興費用を快く献上
*雑賀宗の支援
*武田氏征伐
などがありました。

以上
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信長から細川藤孝への手紙:49-1織田信長黒印状 天正十年四月十五日<天正九年の出来事>

2022-05-29 00:00:00 | 信長から細川藤孝への手紙(永青文庫所蔵)
【注意事項】

1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書

細川家文書中世編」を参照しています。

2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳

し間違いがあるかもしれません。

3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が

通じない可能性のある部分に純野が追記した

文言です。

4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合

はなるべく原文のままとしました。

5)下線部がある場合は原文で"虫食い空欄”

となっている部分ですので完全に純野の推察

です。


49-1織田信長黒印状 天正十年四月十五日
 
先月(三月)二十三日の書状について、本日

(四月)十五日遠州懸河(の陣で)見させて

いただいた。東夷(武田氏)を追伐し、以前

宣言した通りに早々に落着したことに、我な

がら驚き入るばかりである。書中(の申し出)

はもっともなことである。東国は残すところ

なくわが軍に靡き属し、喫緊の課題がなくな

ったので(現地の差配は信忠に指示を授け、

自分は)早々に退却する途中である。近々安

土に戻ると思うので、かたがた(お会いした)

その時に(武田征伐について)お伝えしよう。

遥かな場所まで書簡を送っていただいたこと

に、悦び入る次第である。

天正十年四月十五日 信長(黒印)

 長岡兵部大輔(藤孝)殿

    ※天正十年=1582年


**純野のつぶやき**

いよいよ本能寺の変が起きる天正十年(1582

年)となりました。天正十年四月十五日とい

えば、信長の一陣は武田征伐から安土へ戻る

ため田中→藤枝→瀬戸川と移動して掛川に宿

泊しています。武田征伐は三月下旬には完了

していましたので、この手紙の“書中の申し出

はもっともである”という部分は、おそらく長

岡藤孝が、信長・信忠父子の武田氏討伐を祝

い“いつお会いして軍働きのお話が聞けるのか?”

と問い合わせたものではないかと推測されま

す。

 この前の書状が天正九年(1582年)九月十

六日付けですので、この7か月の織田家の主な

動きを見てみましょう。

<天正九年>

・9月 北畠信雄、伊賀平定

・10月 信長、伴天連屋敷の普請を指示

・10月 羽柴秀吉に攻囲されていた鳥取城は、

 吉川経家・森下道与・奈佐日本介三人の頸

 を渡すことで降参・開城

 *飢えていた城のものに食事を与えたとこ

 ろ食いすぎで過半が頓死
 ↓
 「伯耆国の身方、南条元続・小野元清兄弟

 のところへ吉川元春が進軍してきた」との

 注進が、秀吉に入る
 ↓
 秀吉、先手を派遣
 ↓
 秀吉出陣
 ↓
 秀吉、亀井玆矩の城に参陣

 *南条は羽衣石城を守備

 *小鴨は岩倉城を守備
 ↓
 吉川元春は羽衣石に向けて馬の山に布陣

・11月 秀吉、7日間羽衣石に布陣。国中か

 ら兵糧をあつめ蜂須賀正勝・木下平大夫を

 馬の山に向かわせる
 ↓
 羽衣石から岩倉の間に、段々に軍勢をおい

 て敵に備える。兵糧・玉薬を「春まで持つ

 ように」十分に供給
 ↓
 秀吉、姫路へ帰陣
 ↓
 吉川元春、仕方なく陣払い
 ↓
 羽柴秀吉・池田元助、淡路島へと出陣
 ↓
 岩屋城を攻陥
 ↓
 秀吉、姫路へと帰陣。続いて池田元助も帰

 陣してしまったので、淡路は領主不在とな

 る。

・11月 犬山のお坊(織田勝長)、武田勝頼

 のところから信長の元へ戻され、犬山城主

 にしてもらった御礼を信長に申上

・12月 隣国・遠国から、諸将が種々贈り物

 を持参し、安土の信長に歳暮の挨拶
 ↓
 羽柴秀吉も信長に小袖二百を進上し、安土

 の女房衆一人一人にも贈り物
 ↓
 信長は秀吉に、感状と茶の湯道具名物十二

 種を授ける
 ↓
 秀吉は播州へと戻る

となります。

 この期間で問題点があるとすれば、

1)伯耆の国のことは、信長が丹後国に派遣

した長岡藤孝・忠興父子が差配しているのに、

前線の羽柴秀吉が彼らと連動しない動きを取

ってよいものか?

2)犬山のお坊(織田勝長)が、武田勝頼の

ところから11月に信長の元へ戻されているが、

これは織田軍に木曽・信州・甲州を攻める大

義名分を与えたのではないか?

3)羽柴秀吉は「自分は播州・備州方面で死

ぬ思いで諸卒と戦っているのに、お屋形様は

のんきなものだ」と思ったのではないか?

 ただ、秀吉が行った鳥取城の干殺しと信忠

が行った信州恵林寺僧侶焼き殺し(佐々木六

角義治をかくまいこの軍の前に逃していたこ

とがわかったため)は、残虐すぎる点ではい

い勝負と純野は思います。次の記事で天正十

年の出来事に続きます。

以上


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信長から細川藤孝への手紙:48織田信忠書状 天正十年三月廿五日

2022-05-22 00:00:39 | 信長から細川藤孝への手紙(永青文庫所蔵)
【注意事項】

1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書

細川家文書中世編」を参照しています。

2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳

し間違いがあるかもしれません。

3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が

通じない可能性のある部分に純野が追記した

文言です。

4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合

はなるべく原文のままとしました。

5)下線部がある場合は原文で"虫食い空欄”

となっている部分ですので完全に純野の推察

です。

6)ほとんど信長公から発せられた書状が多

い中で、本書状は織田信忠が発したもので、

かなり珍しいものです。


47織田信忠書状 天正十年三月廿五日
 
(陣中)見回りの使者を送っていただいたの

は祝着(至極)である。この度の遠国からの

着陣は大儀であった。詳しくは、赤座七郎右

衛門尉(永兼)がお伝えするだろう。謹言。

天正十年三月廿五日 信忠(花押)

 長岡与一郎(忠興)殿

    ※天正十年=1582年


**純野のつぶやき**

これは信長公の嫡子信忠から、丹後国から信

濃平定の軍に参戦した長岡忠興に送られた書

状です。天正十年三月二十五日といえば、武

田父子の頸が滝川一益→織田信忠→織田信長

と進上され、長岡忠興は信長の軍に参加して

いますので、そこから見回りの使者を織田信

忠の軍に送ったものと思われます。父長岡藤

孝同様、手紙を通信手段として用いた細かい

気配りが感じられます。

 赤座永兼は、越前から尾張の赤座氏の養子

となり、織田伊勢守信安の女を娶り、のちに

織田信長・信忠の奉行役となった人物です。

 翌4月信長は佐々木六角義治をかくまって

いた咎により、織田信忠に命じて甲斐の恵林

寺を成敗しますが、織田九郎次郎・長谷川与

次・関長安・赤座永兼が奉行を務め、宝泉寺

の雪岑長老・東光寺の藍田長老・高山の長禅

寺の長老・大覚和尚長老・長円寺長老・快川

長老らを含め百五十人余りを焼き殺すことに

なりました。

以上


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信長から細川藤孝への手紙:47織田信長黒印状 天正九年九月十六日

2022-05-15 00:00:00 | 信長から細川藤孝への手紙(永青文庫所蔵)
【注意事項】

1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書

細川家文書中世編」を参照しています。

2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳

し間違いがあるかもしれません。

3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が

通じない可能性のある部分に純野が追記した

文言です。

4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合

はなるべく原文のままとしました。

5)下線部がある場合は原文で"虫食い空欄”

となっている部分ですので完全に純野の推察

です。


47織田信長黒印状 天正九年九月十六日
 
折帋(手紙)ならびに松井(康之)からの注

進状を見させていただいた。伯州(=伯耆の

国)方面に至り深々と動き入り、泊城(とま

りじょう⇒現在の名前は河口城)に押し入り

敵を数多く討ち取り放火し、敵船65艘を切り

捨てたとのこと。もっとも比類なき軍働きで

あったこと神妙である。その中で、討ち入り

の時に大崎城から罷り出てきた敵兵を追い崩

し、山の下を焼き払ったとのこと。かたがた、

感ずるところ浅くない。よくよく軍働きを究

め、粉骨(砕身)をいよいよ抜きんでる様子

を聞かせていただきたいこと専一である。

天正九年九月十六日 信長(黒印)

 長岡兵部大輔(藤孝)殿

    ※天正九年=1581年


**純野のつぶやき**

これは信長公から丹後国在陣の長岡忠興に送

られた書状と同日に出された父長岡藤孝あて

の書状です。父長岡藤孝と嫡子長岡忠興に対

しては、一緒に括らないでそれぞれの功績に

ついて評価を伝えるところが信長公の細かい

ところです。長岡父子は丹後国に在陣し、伯

耆国への出兵を指図しているようです。

 このころの織田家の動きは

・9月3日 北畠信雄、伊賀攻めに出陣

・9月8日 信長、賀藤与十郎・万見仙千代・

 猪子高就・安西の4人に知行地を分け与え

 る。また安土天主造営に携わった職人頭に

 小袖を下す

・9月11日 信雄、伊賀平定

となっています。同時並行で多方面の情報を

分析して現地の大将に最高の軍働きをさせる

信長公の能力は、現代のAIによる戦争であっ

ても完全に管理できるのではないかと恐ろし

くなります。

以上


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信長から細川藤孝への手紙:46織田信長黒印状(長岡忠興あて) 天正九年九月十六日

2021-06-25 00:00:00 | 信長から細川藤孝への手紙(永青文庫所蔵)
【注意事項】

1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書

細川家文書中世編」を参照しています。

2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳

し間違いがあるかもしれません。

3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が

通じない可能性のある部分に純野が追記した

文言です。

4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合

はなるべく原文のままとしました。

5)下線部がある場合は原文で"虫食い空欄”

となっている部分ですので完全に純野の推察

です。


46織田信長黒印状(長岡忠興あて) 天正九

年九月十六日 

その国(丹後国)の船手などの朋輩を伯州

(伯耆国)方面へ移動させた状況について、

委細聞き届けた。もっとも神妙であると、

長岡藤孝に対してつぶさに申し遣わした。

よくよく粉骨(砕身)の族(やから)とし

て(父長岡藤孝と)専一に(軍働きを)究

めるよう願う。


天正九年九月十六日 信長(黒印)

 長岡与一郎(忠興)とのへ

    ※天正九年=1581年


**純野のつぶやき**

これは信長公から丹後国在陣の長岡忠興に送

られた書状です。父長岡藤孝と嫡子長岡忠興

に対しては、一緒に括らないでそれぞれの功

績について評価を伝えるところが信長公の細

かいところです。長岡忠興は1563年月生

まれなので、この時19歳。父藤孝も信長公

も、手塩にかけて育て上げようとしている様

子が分かってほほえましいですね。

以上

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信長から細川藤孝への手紙:45織田信長朱印状 天正九年九月十日

2021-06-10 00:00:00 | 信長から細川藤孝への手紙(永青文庫所蔵)
【注意事項】

1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書

細川家文書中世編」を参照しています。

2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳

し間違いがあるかもしれません。

3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が

通じない可能性のある部分に純野が追記した

文言です。

4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合

はなるべく原文のままとしました。

5)下線部がある場合は原文で"虫食い空欄”

となっている部分ですので完全に純野の推察

です。


45織田信長朱印状 天正九年九月十日 

(丹後国の)矢野(藤一)の知行で今回(差

出により)出てきた分について、(9月4日付

けの)手紙を長岡藤孝に送ったのだが、今現

在矢野藤一は因州(=因幡国)方面に在陣し

ているとのこと。(丹後国に)帰陣すること

がない間は、強いて(これらの内容を伝える)

上使を派遣してもどうかと思われるのでまず

は派遣は行わず、(当人が)帰国した時申し

付けるのがもっともかと思う。また、矢野に

本地を渡すこと、員数(=軍勢)が申し立て

に相違ないこと、などについて申す事もない

ようであるのは良かった。(矢野の)意を汲

むように願う。


天正九年九月十日 信長(朱印)

 長岡兵部大輔(藤孝)殿

 惟任日向守(光秀)殿

   ※天正九年=1581年


**純野のつぶやき**

前回の書状が9月7日付けでしたから三日後の

書状となります。

「一度は矢野の知行分について長岡藤孝に手

紙を送ったが、矢野本人は因幡国方面に在陣

中らしいので戻ってきてからでもよくはない

か?」

という内容です。信長公も細かいですね~!

ここまで心配性な主君も珍しいのではないで

しょうか?

 この前後の織田家の動向としては、

・9月8日

 信長、賀藤与十郎・万見仙千代・猪子高就・

 安西の4人に知行地を分け与える。また安土

 天主造営に携わった職人頭に小袖を下す。

・9月11日

 北畠信雄、伊賀平定。

・9月

 高山重友、鳥取から安土へ戻り、信長に現地

 の状況を説明。

などとなっており、信長本人は1575年11

月に嫡子信忠に家督を譲ってから全く軍に出向

くつもりがない状態が続いています。やはり、

1570年5月北陸攻めから京へ戻った信長が

千草越えで岐阜へ戻ろうとした時、山中で佐々

木六角義賢の命を受けた杉谷善住坊から二つだ

まの鉄炮で狙い撃ちされ、命は助かったものの

膝を撃たれたようなので、軍に出れるほどうま

く歩けなくなったんですかね・・

以上

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