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『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

佐々木京極高次(ささききゃうごくたかつぐ)[1/2]

2017-05-31 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
佐々木京極高次(ささききゃうごくたかつぐ)[1/2]

〔現代仮名遣い〕ささききょうごくたかつぐ

※記事量多いので、2回に分けての投稿です。

※下線部は信長公記以外の記事によります。


京極。佐々木京極高吉の嫡男。母は

浅井長政の女。

1568年9月信長上洛戦の途中、信長方に加わり、

    高吉は高次を人質として差し出した。

1573年7月義昭真木嶋攻めに参戦。


1573年9月の浅井氏滅亡後、京極氏の旧臣

を集めて織田信長に仕え五千石を与えられた。


1581年1月の馬場入りで、爆竹(さぎちゃう)

    の準備をつとめる。

1581年9月北畠信雄の伊賀攻めに甲賀口先手

    として参戦。惟住長秀・筒井順慶・

    蒲生賦秀・多賀常則・佐々木京極高次・

    若州衆は名張郡を受け持ち成敗する。

1582年1月爆竹北方東一番を、土佐定久・多賀

    常則・後藤高治・山岡景宗・蒲生賦秀・

    佐々木京極高次・山崎秀家・小川祐忠

    が務める。

1582年の本能寺の変後、明智光秀に応じて羽柴

秀吉の所領長浜城を攻撃し、京極氏の復興を期

したが、光秀の敗死により越前・若狭に逃れた。



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座光寺為清(ざくゎうじためきよ)

2017-05-30 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
座光寺為清(ざくゎうじためきよ)

〔現代仮名遣い〕ざこうじためきよ


長野県飯田市座光寺の土豪。

1575年6月長篠の合戦の後、織田信忠の軍に

    岩村城を攻囲される。

1575年11月塚本小大膳を仲介として降参。

    信忠のもとへ参上したところ岐阜

    まで連行され長良川で張付にあう。


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桜井(さくらゐ)

2017-05-29 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
桜井(さくらゐ)

〔現代仮名遣い〕さくらい


丹後国竹野郡竹野神社の神主家。

1575年8月信長越前攻撃の時、信長方として

    丹後を出発し海上から攻め込む。


 ※この桜井某だけでなく、神主家で

  血気盛んな人はいるもんで、千秋

  紀伊守季光など熱田神宮大宮司家

  の人なのに美濃攻略からの帰路討死

  ですからね~、すさまじい一生です!


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桜木伝七(さくらぎでんしち)

2017-05-28 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
桜木伝七(さくらぎでんしち)

〔現代仮名遣い〕さくらぎでんしち

不詳。

1582年6月二条新御所で織田信忠切腹の後、

    攻めかかってきた明智光秀の軍と

    戦い討ち死に。


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佐久間弥太郎(さくまやたらう)

2017-05-27 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
佐久間弥太郎(さくまやたらう)

〔現代仮名遣い〕さくまやたろう

名は不明。

1560年5月おけはざまで信長方として活躍。

1569年8~10月の伊勢攻略戦に参戦。


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佐久間盛政(さくまもりまさ)

2017-05-26 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
佐久間盛政(さくまもりまさ)

〔現代仮名遣い〕さくまもりまさ

※下線部は信長公記以外の記事によります。


玄蕃允。柴田勝家の甥で佐久間盛次の子。

1577年10月柴田軍が加賀攻めから撤退する時、

    御幸塚の取手に入る。

1581年3月上杉景勝は河田長親の調略に呼応し、

    加賀へ進攻。小井出の城を攻囲後、

    ふとうげの取手を攻め倒すも佐久間盛政

    の反撃に合う。

1582年本能寺の変後石動山衆徒の叛乱を鎮圧した。

1583年賤ヶ岳の戦いで豊臣方の中川清秀を討ったが、

やがて捕えられ京都で斬られた。



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佐久間盛重(さくまもりしげ)

2017-05-25 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
佐久間盛重(さくまもりしげ)

〔現代仮名遣い〕さくまもりしげ

大学。

1552年3月信秀葬儀の時は、勘十郎信行の

    家臣。

1556年8月の名塚の戦いでは、信長側の将と

    して名塚の取手に入る。

1560年初春義元の東尾張進出に対抗して、

    丸根山の取手に入る。

その後信長公記に出てこないところを見ると

この戦いで討ち死にしたものか?


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佐久間盛明(さくまもりあき)

2017-05-24 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
佐久間盛明(さくまもりあき)

〔現代仮名遣い〕さくまもりあき


与六郎。尾張五器所城主。近江安土の城番を

つとめる。

1577年8月松永久秀・久通父子が叛心し信貴山

    城に篭もった時、佐久間盛明のところ

    に預けられていた人質の男子二名を矢部

    家定・福富秀勝が京へ連行した。二人は

    「内裏に逃げ込み命を助けよ」との村井

    貞勝の進言を断り盛明だけに遺言を書き

    潔く殺害された。

1582年5月信長上洛のとき、安土二の丸の留守番

    をつとめる。


 ※信長公から安土城の城番を任されると

  いう重要人物にもかかわらず、これまで

  の歴史小説家の先生からほぼ無視されて

  いる、かわいそうな人物です。少し掘り

  下げて研究したいと思っています。


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信長から細川藤孝への手紙:06 織田信長黒印状 天正元年十一月十六日

2017-05-23 00:00:00 | 信長から細川藤孝への手紙(永青文庫所蔵)
【注意事項】

1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書

細川家文書中世編」を参照しています。

2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳

し間違いがあるかもしれません。

3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が

通じない可能性のある部分に純野が追記した

文言です。

4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合

はなるべく原文のままとしました。


06織田信長黒印状 天正元年十一月十六日

<本文>

淀(川の)鯉五(匹)が(我々の二条妙覚寺

の陣に)到着した。取(り)乱(れている)

時節にもかかわらず、(これらの)懇情は喜悦

(至極)である。お会いした時に改めて(感謝

の意を)伝えたいと思う。

 天正元年十一月十六日 信長(黒印)

 長岡兵部大輔(藤孝)殿

 ※天正元年=1573年


**純野のつぶやき**

元亀四年(1573年)の前回の書状(七月十日)

から今回の書状(天正元年十一月十六日)

までの信長・藤孝の周辺状況(トピックス)を

振り返ってみましょう。


*七月末~八月頭ごろ、岩成友通が淀城に

篭もっていましたが木下藤吉郎の調略により

番頭大炊頭・諏訪飛騨守が内応を約束します。

長岡藤孝が淀城を攻めようとし、岩成が出城

してきたところで両名が謀叛を起こし、岩成

を下津権内が討ち取りました。岩成の首は

五~六千人乗りの大船で高島に移動していた

信長の本陣へ届けられました。

*八月~九月、信長の軍は越前朝倉氏を攻め

滅ぼし、江北浅井氏をも攻め滅ぼしました。

*十月、北伊勢に軍勢を出し、一定の成果を

上げたのち岐阜へ帰陣。

となっていまして、この十一月十六日付けの

書状は、信長が若江城の三好義継攻めを見守

るため十一月四日に上洛し二条妙覚寺に陣取

っていたことから考えて、その本陣でのやり

取りと思われます。しかし、こんな簡単な届け

物にこのように丁寧な書状を送りますかね・・

相変わらず、いくさで忙しい時でも贈り物を

忘れない長岡藤孝、それに対する返書を忘れ

ない信長公、どちらもマメですね!



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佐久間信盛(さくまのぶもり)[6/6]

2017-05-22 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
佐久間信盛(さくまのぶもり)[6/6]

〔現代仮名遣い〕さくまのぶもり

※下線部は信長公記以外の記事によります。


1580年7月本門跡顕如光佐は、藤井藤左衛門・

    矢木駿河守・平井越後を使いとして、

    勅使近衛前久・勧修寺晴豊・庭田重保

    を同行させ、安土の信長にお礼を進上

    に参上する。信長方は、宮内卿法印・

    佐久間信盛が取り次ぎをつとめる。

    一行は織田信忠にお礼を述べたが、

    信長は会わなかった。信長は門跡・

    北の方・下間頼竜・下間頼兼・下間

    仲之に黄金を与える注文を下し、使い

    の衆にも黄金を与える。

1580年8月とうとう教如光寿も大坂退城となる。

    勅使は近衛前久・勧修寺晴豊・庭田

    重保およびその下使い荒屋善左衛門、

    信長方の使いは宮内卿法印・佐久間

    信盛、大坂受け取りの検使を矢部家貞

    がつとめた。

1580年8月信長は佐久間信盛・信栄父子に対し、

    大坂で十九条にわたる折檻状を書き上げ、

    楠木正虎・宮内卿法印・中野重吉を使い

    として送り、国外退去を命ずる。始め

    高野山まで下るも許されず、熊野の奥に

    逐電する。

1581年7月病死。


 ※1573年8月江北攻めの時には信長に

  対する舌禍事件、1578年4月の上月城

  攻めの時には信長の作戦への口返駁

  (言い返し)事件を起こすなど、どうやら

  佐久間信盛殿は口さえ開かなければ

  もっと著名な戦国人として人々の記憶

  に残れたような気がします。1580年

  8月の“十九条の折檻状”についても

  「本願寺派の大坂退城は自分の活動

  の賜物」とかなにか、相当信長を怒ら

  せることを言ってしまったと推測します。

  現代でも結構いそうなタイプの人ですね。


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