佐々木六角義治(ささきろっかくよしはる)[2/2]
〔現代仮名遣い〕ささきろっかくよしはる
※下線部は信長公記以外の記事によります。
1570年9~12月叡山の浅井・朝倉を信長が
攻めているとき、江南菩提寺まで
進出するも、兵力不足で戦えず。
1573年4月再度背反し鯰江城にこもり、
信長方に攻囲される。
1573年9月浅井・朝倉討滅戦の後、信長の
命を受けた柴田勝家に鯰江を攻められ、
降参・開城。その後武田信玄を頼る。
1582年4月信長は佐々木六角義治をかくまい
逃した咎により、甲斐の恵林寺を成敗。
織田九郎次郎・長谷川与次・関長安・
赤座永兼が奉行を務め、宝泉寺の雪岑
長老・東光寺の藍田長老・高山の長禅寺
の長老・大覚和尚長老・長円寺長老・
快川長老らを含め百五十人余りを焼き殺す。
甲斐から逃れた義治は、のち豊臣秀吉の御咄衆に
なり、また秀頼の弓の師範になった。1590年
小田原の陣中、秀吉が津田宗久等を招いて開いた
茶会に参加している。1612年死亡。
※“ホタル大名”などとののしられても
我慢に我慢を重ねて京極家再興を成し
遂げた佐々木京極高次に対し、匿って
くれた武田家の仏門長老を見殺しに
して逃げた佐々木六角義治。あまりに
も違いすぎる生き方です。六角義治が
自害して自分の首級を武田家に渡せば
ここまでの惨事にはならなかった気が
します。
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〔現代仮名遣い〕ささきろっかくよしはる
※下線部は信長公記以外の記事によります。
1570年9~12月叡山の浅井・朝倉を信長が
攻めているとき、江南菩提寺まで
進出するも、兵力不足で戦えず。
1573年4月再度背反し鯰江城にこもり、
信長方に攻囲される。
1573年9月浅井・朝倉討滅戦の後、信長の
命を受けた柴田勝家に鯰江を攻められ、
降参・開城。その後武田信玄を頼る。
1582年4月信長は佐々木六角義治をかくまい
逃した咎により、甲斐の恵林寺を成敗。
織田九郎次郎・長谷川与次・関長安・
赤座永兼が奉行を務め、宝泉寺の雪岑
長老・東光寺の藍田長老・高山の長禅寺
の長老・大覚和尚長老・長円寺長老・
快川長老らを含め百五十人余りを焼き殺す。
甲斐から逃れた義治は、のち豊臣秀吉の御咄衆に
なり、また秀頼の弓の師範になった。1590年
小田原の陣中、秀吉が津田宗久等を招いて開いた
茶会に参加している。1612年死亡。
※“ホタル大名”などとののしられても
我慢に我慢を重ねて京極家再興を成し
遂げた佐々木京極高次に対し、匿って
くれた武田家の仏門長老を見殺しに
して逃げた佐々木六角義治。あまりに
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自害して自分の首級を武田家に渡せば
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