『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

佐々木六角義治(ささきろっかくよしはる)[2/2]

2017-06-06 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
佐々木六角義治(ささきろっかくよしはる)[2/2]

〔現代仮名遣い〕ささきろっかくよしはる

※下線部は信長公記以外の記事によります。


1570年9~12月叡山の浅井・朝倉を信長が

    攻めているとき、江南菩提寺まで

    進出するも、兵力不足で戦えず。

1573年4月再度背反し鯰江城にこもり、

    信長方に攻囲される。

1573年9月浅井・朝倉討滅戦の後、信長の

    命を受けた柴田勝家に鯰江を攻められ、

    降参・開城。その後武田信玄を頼る。

1582年4月信長は佐々木六角義治をかくまい

    逃した咎により、甲斐の恵林寺を成敗。

    織田九郎次郎・長谷川与次・関長安・

    赤座永兼が奉行を務め、宝泉寺の雪岑

    長老・東光寺の藍田長老・高山の長禅寺

    の長老・大覚和尚長老・長円寺長老・

    快川長老らを含め百五十人余りを焼き殺す。


甲斐から逃れた義治は、のち豊臣秀吉の御咄衆に

なり、また秀頼の弓の師範になった。1590年

小田原の陣中、秀吉が津田宗久等を招いて開いた

茶会に参加している。1612年死亡。



 ※“ホタル大名”などとののしられても

  我慢に我慢を重ねて京極家再興を成し

  遂げた佐々木京極高次に対し、匿って

  くれた武田家の仏門長老を見殺しに

  して逃げた佐々木六角義治。あまりに

  も違いすぎる生き方です。六角義治が

  自害して自分の首級を武田家に渡せば

  ここまでの惨事にはならなかった気が

  します。


↓ランキングに参加中。クリック応援よろしくお願いします!
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする