<初出:2007年の再掲です>
巻二の八 長尾景虎のこと、付信長美濃へ侵攻する
こと
永禄四年(一五六一)三月ごろ、関東方面から知
らせが入る。「昨年末上杉憲政を擁して越後から関
東に攻め下った長尾景虎は、厩橋城を奪回しそこで
越年していたが、今年三月小田原城の北条氏康を攻
囲した。その帰りに鶴岡八幡宮に参詣し、その社前
で山内憲政から上杉の名跡と関東管領職を与えられ、
また憲政から一字をもらい『上杉政虎』と名乗るこ
とになった」とのことであった。こういった他地域
の“熱い”知らせは、為政者がどう防ごうとしても山
から河から海から、漂泊の人々が各地へ伝えていく。
「関東管領職を預かるとは長尾景虎もすごい身分に
なったものだが、『長尾兄』もちと歴史の勉強が足
りぬのではないかな?どうだ五郎左衛門!」
長尾景虎は織田信長より四つ年上なので、信長は
『殿』とは呼ばず『長尾兄』と呼んでいる。一度も
あったことは無いのに『兄』と呼んでしまうところ
がまた信長らしい。
「ははっ、さすがに殿の仰せの通りこの時分にすぐ
に関東管領職を受けるのはちとまずいかと・・一度
預かったことにしておき京都に確かめなくては正式
とはいえませんな!」
「ただ儂が上京(永禄二年(一五五九))した後で
長尾殿は二回目の上洛を果たしておるが、そのとき
足利将軍(義輝)から関東管領についての承諾を得
ているかどうかだが・・・」
「それについては、近江の和田惟政・黒田城の和田
定利の線からも知らせは入っておりませんので・・」
信長と長秀の二人が言わんとしているのはこういう
ことである。実は今を去ること二十三年前の天文七
年(一五三八)、上総真里谷武田氏が古河公方高基
の弟義明を小弓公方としたため嫡流の高基が怒って
北条氏康と結ぶという事件があった。同年氏綱・氏
康が小弓公方を滅ぼし、その功により北条氏康がす
でに古河公方高基から関東管領を与えられていたの
である。たてまえ上、関東十カ国の守護と関東管領
は室町幕府の将軍が決定し、関東管領職は代々関東
の上杉氏が受け継いでいたが、関東の実権は実質上
古河公方・鎌倉公方がにぎっていたため、『実績主
義かつ先行の北条の関東管領』が正当か『将軍公認
ではあるが名跡譲り受けで地すべり的に手に入れた
上杉(長尾)政虎の関東管領』が正当か、のちのち
まで遺恨を残すこととなる。このように全国の有力
武将は鵜の目鷹の目で「他国の動向がもっともらし
いか、道理に合わないか」を情報収集し、評価・批
判していた。いわゆる『世間の目』というやつであ
る。
それから間もない永禄四年(一五六一)五月十一
日、「美濃の斎藤義竜が急死」との知らせが当日の
うちに清洲に入る。丹羽五郎左衛門長秀は当初「上
総介信長が美濃の武将を調略して毒殺でもしたか」
と思ったが、信長が「五郎左と同程度しか木曽川周
辺を歩き回っていないし、できれば舅の山城守(道
三)には世話になったので、弔い合戦をして討ち果
たしたかった」というので、それも道理と納得する。
ただでさえ家内の統一が取れていないところへ義
竜の急逝も重なり、もうすでに美濃は尾張の手に落
ちたも同然に見えた。黒田城の和田新介定利からの
信頼できる知らせによれば、木曽川の向こうの美濃
の武将たちは、「はやく織田信長に攻撃してもらい、
降伏して旧領安堵してもらいたい」と思っているら
しいが、織田方の本音は「はやいところ仕掛けたい
が今年の秋の米収穫が終わってみないと戦費が足り
ているかどうか見えない」といった微妙な情勢であ
る。
ただいくら信頼できる武将であっても、状況に対
する判断には個人の先入観が入ることもある。大丈
夫なはずの美濃方面についても、森部から十四条の
合戦では簡単に木曾川を渡り洲俣を占拠するところ
までは「想定どおりの楽な進軍」であったが、いざ
戦ってみると斎藤家の重臣長井甲斐守衛安(もりや
す)・日比野下野守清実(きよざね)など、討ち取り
はしたが本気で攻めかかってきた。現実的には「大
多数の武将は尾張からの攻撃に降参したがっている
が、斎藤家重臣の中には反撃意欲満々の者もいる」
という状況であった。いつも笑顔で、丹羽長秀・柴
田勝家と分業体制をしいてきた信長であったが、こ
のときばかりはいかめしい顔で長秀に厳重注意を行
なう。「人というものは、信頼しても信用するな!
肝心なところは自分で確かめよ!」という叱責であ
った。長秀もこれには全く異存はなく、本人の甘え
からおきた事なので反省しきりである。信長からの
指示は、「美濃の主要人物、すなわち一族(義竜の
弟長竜)・美濃三人衆(安東伊賀守守就・氏家卜全
直元・稲葉伊予守良通)・軍師竹中半兵衛(重治)
らを完璧に調略すること」であった。同時に美濃
攻めは、義竜の子竜興の家内掌握の度合いと半分ま
で調略が進んでいる長竜との内部工作の進度を比べ
見ながら「無期延期とする」こととなったのであっ
た。それまでは三人で決めたとおり、国内産品を奨
励し十分戦費を蓄え国力を増強していく。
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<JR岐阜駅前の黄金の信長公像>
巻二の八 長尾景虎のこと、付信長美濃へ侵攻する
こと
永禄四年(一五六一)三月ごろ、関東方面から知
らせが入る。「昨年末上杉憲政を擁して越後から関
東に攻め下った長尾景虎は、厩橋城を奪回しそこで
越年していたが、今年三月小田原城の北条氏康を攻
囲した。その帰りに鶴岡八幡宮に参詣し、その社前
で山内憲政から上杉の名跡と関東管領職を与えられ、
また憲政から一字をもらい『上杉政虎』と名乗るこ
とになった」とのことであった。こういった他地域
の“熱い”知らせは、為政者がどう防ごうとしても山
から河から海から、漂泊の人々が各地へ伝えていく。
「関東管領職を預かるとは長尾景虎もすごい身分に
なったものだが、『長尾兄』もちと歴史の勉強が足
りぬのではないかな?どうだ五郎左衛門!」
長尾景虎は織田信長より四つ年上なので、信長は
『殿』とは呼ばず『長尾兄』と呼んでいる。一度も
あったことは無いのに『兄』と呼んでしまうところ
がまた信長らしい。
「ははっ、さすがに殿の仰せの通りこの時分にすぐ
に関東管領職を受けるのはちとまずいかと・・一度
預かったことにしておき京都に確かめなくては正式
とはいえませんな!」
「ただ儂が上京(永禄二年(一五五九))した後で
長尾殿は二回目の上洛を果たしておるが、そのとき
足利将軍(義輝)から関東管領についての承諾を得
ているかどうかだが・・・」
「それについては、近江の和田惟政・黒田城の和田
定利の線からも知らせは入っておりませんので・・」
信長と長秀の二人が言わんとしているのはこういう
ことである。実は今を去ること二十三年前の天文七
年(一五三八)、上総真里谷武田氏が古河公方高基
の弟義明を小弓公方としたため嫡流の高基が怒って
北条氏康と結ぶという事件があった。同年氏綱・氏
康が小弓公方を滅ぼし、その功により北条氏康がす
でに古河公方高基から関東管領を与えられていたの
である。たてまえ上、関東十カ国の守護と関東管領
は室町幕府の将軍が決定し、関東管領職は代々関東
の上杉氏が受け継いでいたが、関東の実権は実質上
古河公方・鎌倉公方がにぎっていたため、『実績主
義かつ先行の北条の関東管領』が正当か『将軍公認
ではあるが名跡譲り受けで地すべり的に手に入れた
上杉(長尾)政虎の関東管領』が正当か、のちのち
まで遺恨を残すこととなる。このように全国の有力
武将は鵜の目鷹の目で「他国の動向がもっともらし
いか、道理に合わないか」を情報収集し、評価・批
判していた。いわゆる『世間の目』というやつであ
る。
それから間もない永禄四年(一五六一)五月十一
日、「美濃の斎藤義竜が急死」との知らせが当日の
うちに清洲に入る。丹羽五郎左衛門長秀は当初「上
総介信長が美濃の武将を調略して毒殺でもしたか」
と思ったが、信長が「五郎左と同程度しか木曽川周
辺を歩き回っていないし、できれば舅の山城守(道
三)には世話になったので、弔い合戦をして討ち果
たしたかった」というので、それも道理と納得する。
ただでさえ家内の統一が取れていないところへ義
竜の急逝も重なり、もうすでに美濃は尾張の手に落
ちたも同然に見えた。黒田城の和田新介定利からの
信頼できる知らせによれば、木曽川の向こうの美濃
の武将たちは、「はやく織田信長に攻撃してもらい、
降伏して旧領安堵してもらいたい」と思っているら
しいが、織田方の本音は「はやいところ仕掛けたい
が今年の秋の米収穫が終わってみないと戦費が足り
ているかどうか見えない」といった微妙な情勢であ
る。
ただいくら信頼できる武将であっても、状況に対
する判断には個人の先入観が入ることもある。大丈
夫なはずの美濃方面についても、森部から十四条の
合戦では簡単に木曾川を渡り洲俣を占拠するところ
までは「想定どおりの楽な進軍」であったが、いざ
戦ってみると斎藤家の重臣長井甲斐守衛安(もりや
す)・日比野下野守清実(きよざね)など、討ち取り
はしたが本気で攻めかかってきた。現実的には「大
多数の武将は尾張からの攻撃に降参したがっている
が、斎藤家重臣の中には反撃意欲満々の者もいる」
という状況であった。いつも笑顔で、丹羽長秀・柴
田勝家と分業体制をしいてきた信長であったが、こ
のときばかりはいかめしい顔で長秀に厳重注意を行
なう。「人というものは、信頼しても信用するな!
肝心なところは自分で確かめよ!」という叱責であ
った。長秀もこれには全く異存はなく、本人の甘え
からおきた事なので反省しきりである。信長からの
指示は、「美濃の主要人物、すなわち一族(義竜の
弟長竜)・美濃三人衆(安東伊賀守守就・氏家卜全
直元・稲葉伊予守良通)・軍師竹中半兵衛(重治)
らを完璧に調略すること」であった。同時に美濃
攻めは、義竜の子竜興の家内掌握の度合いと半分ま
で調略が進んでいる長竜との内部工作の進度を比べ
見ながら「無期延期とする」こととなったのであっ
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