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『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

巻三の四 信長、力をためること

2025-07-06 00:00:00 | 連続読物『いいかよく聞け、五郎左よ!』
<初出:2012年の再掲です>


巻三の四 信長、力をためること

 永禄六年(一五六三)の夏、織田上総介信長とそ

の家臣団が小牧山城へ城替えを行ってから、尾張国

内の対抗勢力は於久地から犬山城へ逃げ延びた織田

信清のみとなっている。「敵対」とはいえ、信清は

信長の父信秀の弟信康の子であり、信長とは従兄弟

同士の間柄である。信長は、

「できれば無条件で服従してくれるか、あるいは他

国へ逃げてくれるか」

くらいの態度である。ちなみに、信清は美濃勢から

の支援を期待しているようだが、丹羽五郎左衛門長

秀の水面下での調略により、木曽川の河上関所に当

たる八百津町錦織の綱場の元締めなどから、

「表向き美濃のいうことを聞くが安全と金を保証し

てくれるなら尾張の物資も運ぶ」

という暗黙の了解を取り付けている状況である。

 柴田勝家・丹羽長秀らとの打ち合わせでは、家臣

団は今にも美濃に攻め入りたいくらい士気が盛り上

がっているのだが、慎重派の信長はここでも力をた

める。永禄六年(一五六三)十二月、信長は尾張瀬

戸の陶業の保護に着手する。松平家康が発端を作っ

た三河一向一揆の余波で、尾張国東部の瀬戸地域に

三河勢が乱入してきたため、陶業の保護は当然のこ

と国境警備強化をも目的としていた。信長による保

護を喜んだ瀬戸の陶業家たちは、当然しかるべき租

税すなわち瀬戸焼を進んでおさめたので、織田勢に

とっての安定した貴重な収入源が、また一つ確保さ

れた。

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巻三の三 信長、小牧山城へ移ること。ならびに元康、修羅の道に入ること

2025-06-29 00:00:00 | 連続読物『いいかよく聞け、五郎左よ!』
<初出:2008年の再掲です>

巻三の三 信長、小牧山城へ移ること。ならびに元

康、修羅の道に入ること

 永禄六年(一五六三)夏、織田上総介信長は先だ

って手を付けた「於久地城攻略」につき、家臣から

の「早く攻城戦を」との意見を抑え、まずは今期の

稲の生育状況を丹羽長秀・柴田勝家に聞く。彼らは

松井有閑・木下藤吉郎の報告をもとに「今年の作柄

は非常に良好」と上申する。どういうことかという

と、作柄不良の場合は米単価が安くなるため秋口に

コメを販売して稼げる利益が少なくなり、美濃への

進軍のための戦費がなくなるという理屈である。費

用もないのに軍を起こしては、国が疲弊し民を豊か

にすることはできない。

 信長は、五郎左衛門と黒田城:和田定利との情報

交換により、「直接於久地城を攻めなくとも、織田

一行が城替えするだけで連中は驚いて退城するだろ

う」という確定に近い予想を得ていた。七月小牧山

城へと城替えをおこなうと、敵勢は予想通りそれを

見ただけで驚き、降参退城の上犬山城へと移動した

のであった。まるで『源平盛衰記』に出てくる「平

家の聞き逃げ」と同じである。

 尾張方では想定通りの進行が続いていたが、三河

のほうでは信長以下が心配した通り、「軍を起こさ

ず戦費を蓄えておくべき元康」が「わけのわからな

い勝手」を行ってしまう。この年の三月、信長の女

『五徳』と元康の嫡男『竹千代(のちの信康)』の

婚約が成ったところまではよかったが、その後、信

長が小牧山城に移動しバタバタしている間に、

*今川氏真と手を切る

*松平家康に改名

と連続して進める。ここまでも、まだ悪くはないか

もしれないが、「戦費のないときに軍を起こしてし

まった軍将」は、手をつけてはいけない領域に手を

つけてしまう。すなわち、三河の産品であるきわた

(木綿)や唐納豆(麹菌を使った粘らない納豆)・

志都呂焼き・甲斐の紙・伊豆江川の酒など、各農家

や各商家が売買をし、敬虔な信者がその儲けの一部

を寺院に寄付していたのだが、当然寺院におさめた

金額は非課税である。松平家康一派はこの商流に絡

み、松平一派を通して課税しようとしたからおさま

らない。農家・商家・武家と檀家・寺院が複雑に絡

む内戦へと発達した。これが世にいう『三河一向一

揆』の発端であり、実はこれは「宗教戦争」ではな

く「経済戦争」だったのである。

 三河の戦況に関して、以前尾張の信長以下が決定

した通り、「三河での家康の動きには関知していな

い」ことを確認済みで、干渉するつもりは全くない。

尾張勢の加勢をあてにして内戦を始めてしまった家

康がこの『三河一向一揆』をおさめるのは、半年後

の永禄七年(一五六四)二月のことであった。

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巻三の二 松平元康、東海をかき回すこと

2025-06-22 00:00:00 | 連続読物『いいかよく聞け、五郎左よ!』
<初出:2008年の再掲です>

巻三の二 松平元康、東海をかき回すこと

 織田家にとっては特段の出来事もないまま永禄六

年(一五六三)に入る。攻めて来る敵もなく、近隣

国に攻め入ることもなく農林水産業に専念すること

ができたため、永禄五年(一五六二)秋尾張の国は

空前の大漁・豊作を迎えた。なかでも換金作物の王

者としての米は大豊作となったが、これは織田家の

情報網を用い、外部に対して情報操作を行なった。

どういうことかというと、できるだけ相場の高い時

期に大量の米を売り払うのが儲けの基本であるから、

常に米の相場を管理する必要があり、米の販売権を

持っている商人には

「尾張の米は本年そんなに豊作ではなかった」

と言いふらしてもらうように前もって金をつかませ

ておいたものである。あとは松井友閑・木下藤吉郎

が永禄六年夏の米の端境期に、どれだけ高く売り払

うかだけの問題である。二人の計算によれば、

「おそらく永禄六年に前年度の米の現物をうまく売

り払えば、犬山城攻め・美濃侵攻をおこなっても十

分おつりがでてくる」

という結論であるが、このことは上層部の織田信長・

柴田勝家・丹羽長秀と経済担当の二人以外に知らな

い極秘事項としておいた。

 戦略面から見ると、丹羽長秀と黒田城の和田定利

が水面下で進めている美濃国の内部崩壊、すなわち

美濃の背骨に当たる美濃三人衆(安東伊賀守守就・

氏家卜全直元・稲葉伊予守良通)の調略と稀代の軍

師と名高い竹中半兵衛重治の調略がどこまで進むか

が焦点となる。父信秀の失敗ばかり見ていた信長は、

自ずと慎重にならざるを得ず、おそらくこれら調略

を含めた工作が九割九分進まないと美濃侵攻への下

知を出さないであろう。もはやこれは、信長本人も

周囲もそう思っている確実なことなので、あえて議

論する家臣もいない。

 尾張の国自体としては想定どおりの安穏な日々が

続いていたが、またまた丹羽長秀らの頭を悩ます事

態が三河方面で続いていた。あれほど織田信長以下

から「三河での動きは慎重に」と釘を刺されていた

にもかかわらず、『三河の大たわけの殿』がわけの

わからない動きをしていたのである。岡崎に在城し

ている松平次郎三郎元康にとって一番の問題は、妻

築山殿と嫡子竹千代(のちの信康)が駿河の今川氏

真のもとに取りこめられていることであったことは、

元康だけでなく織田家の者も十二分に知っていた。

織田家側としては、美濃侵攻のころまで松平元康が

自重していてくれれば、京都方から経済的・政治的

圧力をかけさせて駿河からの捕虜奪還することなど

たわいもないことと見ていたのだが、この『気のは

やる殿』にはどうにも待ちきれなかったらしい。松

平次郎三郎元康は尾三同盟の直後の永禄五年(一五

六二)二月、上郷城を攻陥して鵜殿長勿長照を自刃

に追い込み、その二子を生け捕るという事件を起こ

していた。鵜殿長照が今川氏真の従弟ということか

ら、

「長照の子を生け捕りにすれば、縁戚関係上今川氏

真も捕虜交換に応じるはず」

と踏んでの事であろうが、氏真も

「絶対に築山殿と竹千代を元康にかえさない」

と宣言していなかっただけに、鵜殿にとってはいい

迷惑で、その死は無駄死にに近い。元康が取り戻そ

うとした築山殿にしても、氏真の従姉にあたるわけ

であり、氏真も

「どういうことか?三河の大たわけは何を考えてい

るのか?」

と顔をゆがめるだけである。氏真としても縁戚関係

は大事にしなければならず、駿河に残されていた子

息竹千代(信康)・妻築山殿と鵜殿の二子を交換す

るということとなった。

 この件に関して、駿河の今川氏真方から丹羽長秀

あてに

「先だって織田上総介殿と松平次郎三郎元康が清洲

城で同盟を結んだと聞いているが、今回の不始末は

織田上総介殿の指示ではないのか?どう考えておら

れるのか?」

と、言葉は丁寧であるが実は非常に厳しい猛抗議が

届いていた。織田方ではいつもどおり織田信長・柴

田勝家・丹羽長秀の三人で打ち合わせ、事前の設定

通り

「同盟とは言うものの三河の松平次郎三郎殿が三河

地域での停戦を申し出てきたのを引き受けただけで

他意はない。したがって、別に軍事同盟を結んでい

るわけではないので、今回の松平の殿の動きについ

ては、織田家としては援助もしていないし全く関知

していない。また、駿河方が三河に対してどう対応

されるかについても関知しない」

と、真実ではないがうそでもないような返答をして

おく。

 織田方からの返答を受け、今川氏真は駿河方とし

ての対応策を決定し実行する。先日の清洲城の会見

でも「父義元と比べて求心力が全くない」との評価

であった今川氏真にしても、たてまえ上ここまでの

非道を見逃すことはできず、見せしめのため吉田城

下で元康の縁戚と思われる松平家家臣の妻子を串刺

しの刑に処したのであった。ただ氏真の憤慨がこれ

だけでおさまるはずがない。永禄五年(一五六二)

九月、松平次郎三郎元康と今川氏真は岡崎城と吉田

城のほぼ中間に位置する御油で対戦し、松平軍が今

川軍を撃退する。歴史上あまり重要視されない小さ

な軍であったが、実は、

*三河で滞っていた松平元康が、単独で駿河の太守

 義元の子氏真の正規軍の進攻を食い止めた

*代々の松平家にありがちな家臣の裏切りもなく軍

 が進行した

*領地とまではいかないが、長沢・赤坂・御油のあ

 たりまで元康の経済圏に取り込んだ

という意味で画期的な成果をあげた戦いであった。

 がしかし、織田信長以下が口うるさく注意してい

たように、「今このとき松平元康は戦費を使う戦い

を起こしてはならなかった」のであって、この後元

康はさらに、周囲が目をむくほどのやり方で東海地

方を引っ掻き回すこととなる。

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巻三の一 信長、於久地の戦いに臨むこと

2025-06-15 00:00:00 | 連続読物『いいかよく聞け、五郎左よ!』
<初出:2008年の再掲です>

巻三の一 信長、於久地の戦いに臨むこと

 永禄五年(一五六二)初頭、織田上総介信長は三

河の松平元康と対等同盟を組んだあと、周辺諸国に

「あの国は戦費不足で身動き取れない」

と思われないように、見栄えのよい軍を行なう必要

があった。がしかし、

「できれば今は軍はしたくない。するにしても戦費

は最小限で抑え、秋口の米収穫時の相場形成により

美濃侵攻に要する費用を稼いでおきたい」

というのが信長の本音である。

 このとき、実働部隊の頭『柴田勝家』、諜報活動

部隊の頭『丹羽長秀』、経済活動部隊の頭『松井友

閑・木下藤吉郎』の活躍目覚しく、本当は美濃の斎

藤家を内側から崩壊させる準備は整っており、

「美濃侵攻を早く!」

と進言されていたのだが、もとより慎重な信長は九

割がた確実になるまで皆に「行け!」と命じない。

調子に乗って美濃へ進軍し、帰陣のときに斎藤山城

守から追い討ちをかけられ何度も死にそうな目にあ

った父織田信秀の姿を幼い頃から見ており、信長は

「儂は備後守殿と違い確実な戦いを続けていく」

と心に決めていた節がある。

 丹羽五郎左衛門長秀は、以前と同様、困ったとき

は黒田城の和田定利と相談することにしていた。今

回も

「軍は起こしたいが戦費を使うのは困る」

というわがままな相談であったが、定利からは、

「岩倉城が解放された現在では犬山城の織田信清が

唯一の残った障害。妾も簡単に調略できると思って

いたがなかなかの頑固者なので、『犬山を攻めるぞ

!』という姿勢を具体的に見せてはどうか?たとえ

ば一度、小牧・於久地の周辺まで進軍されては如何?」

という提案があった。早速松井友閑・木下藤吉郎に

費用対効果を計算させたところ、

「たいした軍費もかからず世間の聞えも悪くない」

という結論である。信長もすぐに承諾し進軍の下知

を出す。

 軍自体としては、これまでの経緯でわかるとおり

大して勝つつもりもないため、特筆すべきことはな

かったが、こういう気のない戦いに限って有力武将

の命が失われることがある。六月下旬のこの戦いで

は攻め方・守備方全んど犠牲者が出なかったが、信

長方の犠牲者の中に”岩室長門守”という名前があっ

た。実は岩室は信長の若衆の一人であり、桶狭間の

戦いのときから少なからぬ因縁がある。桶狭間に赴

くとき、信長は若衆五人を従えていた。長谷川橋介・

佐脇藤八良之・山口飛騨守・加藤弥三郎・岩室長門

守の五人である。信長にとって桶狭間の戦いは、

「たまたま駿河の太守今川治部少輔義元殿を討ち取

ってしまったが、恐れ多いことであり他意はない」

という低姿勢で語るべき軍であったため、主従六騎

で進発したことなどどうでもよいことであって、し

いて表ざたにすることはなかった。ところが戦後、

周辺諸国が信長のことを高く評価し始め「桶狭間主

従六騎駈け」などといいはじめて持ち上げたため、

信長は「それならば」とあえて否定せず噂話にまか

せていたものである。

 於久地の戦いの前まで五人は桶狭間で大した戦功

もあげなかったくせに、これら周辺諸国の評判を真

に受けてわがままに振舞ったため、家内で顰蹙を買

い信長からも疎まれていた。現実は信長が疎んだ家

臣が命をなくしただけであったが、信長・勝家・長

秀合議の上、周辺諸国への評判を考え、

「桶狭間主従六騎駈けの一人岩室長門守を失い、信

長は嘆き悲しんだ」

と発表することにしたのであった。

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巻二の十四 泰安洋行のこと

2025-06-08 00:00:00 | 連続読物『いいかよく聞け、五郎左よ!』
<初出:2007年の再掲です>

巻二の十四 泰安洋行のこと

 丹羽五郎左衛門長秀が清洲の城門から松平元康一

行を見送ると、軽い身震いがおきる。これはよくな

いことが起きる前兆である。

「信長も元康も互いに一般的なことをしゃべりまく

っただけで、もう少し具体的に注意しておいたほう

がよかったか・・」

という後悔がチラリと頭をよぎる。それは、

「各地の農・水産・林業の従事者は仏教各派の檀家

であることが多いので、税収調整のときは各宗派と

打ち合わせ無茶な徴税・禁制は避けること」

ということである。宗教家を相手に無茶をすると、

七十四年前の加賀国守護富樫政親のように無残な最

期を遂げるだろうことなど、ほぼ全国の武将が身に

しみて知っていることである。ただ、五郎左衛門の

悪い予感は、のちの「三河一向一揆」として現実の

ものとなることになるが・・・。

 松平元康は途中まで水野信元と同道し、三河国境

のあたりから待機させていた大久保家一行(忠員と

忠世・忠佐の親子)と岡崎まで戻っていく。あれだ

け信長の前で謝意を表し熊野牛王護符で起請の杯を

交わしたのに、

「大久保よ、いつもどおり起請破りを頼む」

と平気で言える神経がすさまじい。大久保も

「御意」

と歴代松平家の起請破りを受け持つことに生きがい

を感じているようで、まことに気味が悪い主従であ

る。舌の根の乾かないうちに、

「武田家との商い上の付き合いは今後も尾張には黙

って陰で続けていく」

と話し合っているのだから信じられない。要するに、

「うまく武田家と付き合い何とか周囲が気づかない

うちに甲斐の金山をこの手に・・・」

という企みである。元康はこのことが信長の情報網

にまだかかっていないことを今回の会見で確かめた。

が、信長が元々平家として伊勢盛時(=北条早雲)

殿を尊敬しており、関東が源氏の前に八平氏で統治

されていた時代を評価していることなどに思いもよ

らない。すなわち経路が若干違うものの『目的の地

(関東)』が完全に重なっているということである。

 ただ元康のほうもつらつら思い起こすと身震いす

る思いに駆られる。清洲城門での別れの場面、二人

小声で話すことがあり、突然信長が、

「竹千代よ、絶対負けない軍とはどういうものと思

うか?」

と質問してきたので、元康は、

「それはですな兄者、主君・幕府の命によって行う

軍は力強く、また朝家の命によって行なう軍は百戦

百勝でしょう!」

と答えたのだが、信長は遠くを見つめるような目で、

「皇軍の事か・・・」

とつぶやいていた。元康ほどの度胸のすわった人間

が、得体の知れない何か見てはいけないものを見て

しまったような恐怖感で一瞬凍りついてしまうほど

の透き通った目線であった。

「上総介殿はいったい何を・・・皇軍以上の軍・・・

いやそれはないと思うが・・・」

と元康はつぶやきながら岡崎城へと戻っていく。

 清洲本丸の片付けが終わり、浮かない顔の木下藤

吉郎に松井友閑が語りかける。

「藤吉郎もよくやったではないか!尾張の収入が増

えるよい仕事をしたと思うが、何か不満でもあるの

か?」

「はあ、それならばよいのですが・・・何か釈然と

しない・・・」

藤吉郎の漠然とした息が詰まるような感じは、その

後死ぬまで続くことになる。なぜなら水杯を交わし

たことによって、信長と元康が『対等の同盟』を結

んだことになったわけであり、元康は今後信長の全

ての家臣より立場が上になることが確定したからで

ある。

巻二 終了

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巻二の十三 信長・元康、同盟を結ぶこと

2025-06-01 00:00:00 | 連続読物『いいかよく聞け、五郎左よ!』
<初出:2007年の再掲です>

巻二の十三 信長・元康、同盟を結ぶこと

 信長の恫喝により、松平次郎三郎元康は(表向き)

洗いざらいしゃべり始める。以下は元康の談である。


*一度年少のころ(天文十七年(一五四七))、父広

 忠の舅戸田康光の裏切りにより熱田神宮預かりの

 身となったが、そのときのことは恨むどころか、

 織田信秀殿、三郎信長殿、加藤大宮司殿によくし

 てもらった覚えしかなく、大変感謝している・・・

 らしい

*すでに知っての通り(と本人が言う)自分は「気

 のはやる」性格なので、桶狭間のときは多少の粗

 相があったかもしれない。申し訳ないとは思うが、

 起こしてしまったことは後に戻せないので、これ

 からの付き合いで埋め合わせをしたい・・・らし

 い

*桶狭間戦後、父広忠が岡崎城に蓄えて置いた財貨

 に手をつけないで駿府勢が撤退したため、細々と

 三河衆の食い扶持をつないできたが、正直吉良殿

 追い落としの時の調略費用でそれを相当食いつぶ

 して今は苦しい・・・らしい

*『きわた(木綿)』の商いは昔から駿河と独立し

 て三河で行なわれてきており、信長が指摘したよ

 うな駿河からの税逃れという状況ではない・・・

 らしい

*信濃武田家は、信玄の父信虎が駿府に放逐された

 時から好ましい相手ではないと思っている・・・

 らしい


 信長は相変わらず、『皆紅に月出だしたる扇(地

が真紅で銀の月が書いてある扇)』で紅潮した胸元

をあおぎ、かたや元康も相変わらず『皆白に日出だ

したる扇(地が真っ白で金の日が書いてある扇)』

を正座した膝の上で開いたり閉じたりしている。

 まあ信長も、途中からあくび(当然扇で隠しては

いるが)をし始め、正直な丹羽長秀は扇も使わずあ

くびをする。これは遠まわしに「話を早く終われ!

尾張の得になる話をすれば許す」というなぞかけで

あったが、この年数えで二十一歳の元康には伝わら

ない。変わらず熱弁をふるおうとするので信長が手

を挙げて制する。

「あいやわかった!それまで!しかして本日その埋

め合せはどうするつもりで来城したか、二郎三郎殿」

「はい。やはりこれからも戦乱が続くことを考える

と、鎧の札(さね)を綴るのも皮や絹ではなくて

『きわた』のほうが安上がりで比較的頑丈でござい

ます。それゆえ『きわた』の需要はいやましに増え

てまいりましょう。できれば当家では関東向けの商

いに専念し京周辺への商いは織田家におまかせしと

う存じ上げます」

「具体的には?どうする?」

「現在木曽川経由で美濃・近江・畿内に送っていた

ものを海路に振り替え、水野殿経由にて桑名港水揚

げでいかがかと・・・」

信長が末座に座っている松井友閑・木下藤吉郎のほ

うをチラッと見ると、藤吉郎が手のひらを指ではじ

いて試算し、有閑とともに軽くこくっとうなづいた

後、二人で信長に頭を下げ、

「よろしいかと・・」

と申上する。


「木曽川から『きわた』の権利を奪うと信濃守が怒

らぬか?」

と丹羽長秀が問いかけると、

「ご心配なく。その分三河名産『茜の染料』を安く

供給して穴埋め致します!」

と答える。長秀は今度信長と目を合わせ、信長は末

座の皆と軽く目を合わせ、

「二郎三郎殿大儀であった。苦しゅうない、話はお

わりじゃ!」

と宣言して今回の会議を終える。なお、唐納豆(麹

菌を使った粘らない納豆)・志都呂焼き・甲斐の紙・

伊豆江川の酒などの利権に元康が介入し始めていた

ことは、信長・長秀・勝家の三人はつかんでいたが、

もうこの場では追求しない雰囲気である。世にいう

『尾三同盟』の締結であった。


「ありがたき幸せ!ところで兄者、拙も兄者と同じ

ように三人組を作っておりましてな。拙と酒井忠次

と石川数正の『三人が三河を経営する』という、し

ゃれておりますでしょう!あっはっはっ!はやく、

三郎兄者・五郎左衛門長秀殿・権六勝家殿の御三方

のように強くなりたい、追いつきたい!あっはっは

っはっはっ!」

舌口なめらかになった元康は、いつまでたっても話

が終わらない。柴田勝家が強引に鳴海熊野社から手

に入れた牛王護符に火をつけて水杯のうえで燃やす。

しゃべりに夢中の元康は勝家から勧められるまま杯

をほすが、その間もずっとしゃべりっぱなしであっ

た。

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巻二の十二 松平元康、全てを語ること

2025-05-25 00:00:00 | 連続読物『いいかよく聞け、五郎左よ!』
<初出:2007年の再掲です>

巻二の十二 松平元康、全てを語ること

 「二郎三郎殿は『吾妻鏡』を読んでおられるとの

事だが、あれは難しくはないか?」

「多少難しくはあります。が、やはり佐殿(すけど

の:源頼朝)の起こした鎌倉幕府がどのように平氏

(北条氏)の政権に移行していったかがわかり、大

変勉強になります。ところで上総介殿は『源平盛衰

記』を読んでおられるとの事。だれが源平期最強と

思われますか?」

「うむ。政治的には平清盛・重盛父子、戦術的には

平能登守教経殿、個別の戦闘では源大夫判官義経殿

といったところか・・・」

「確かに・・・」

対話は突然始まった。互いに「何で儂の好きな書物

を知っている?」と聞かないまま、間合いをはかっ

た切り出し方である。信長は『皆紅に月出だしたる

扇(地が真紅で銀の月が書いてある扇)』で紅潮し

た胸元をあおぎ、かたや元康は『皆白に日出だした

る扇(地が真っ白で金の日が書いてある扇)』を正

座した膝の上で開いたり閉じたりしている。信長の

扇の赤が平氏を、元康の扇の白が源氏を示している

が、二人とも今それにはあえて触れない。扇の要が

じっとりと汗ばんでいる。


「ところで上総介殿、殿のお子達は皆様お元気そう

で」

「うん?」

「奇妙公、茶箋公、三七公、御坊公にあられては健

やかにお育ちで、また五徳姫は別して愛らしゅうご

ざいますな!」

「ほほ~う、竹千代もそう思うか!ふむ!」

桶狭間以来の無作法を徹底的に叱責しようとしてい

た信長も、かわいいわが子らをほめられれば悪い気

はしない。思わず頬がゆるんでしまう。


「じゃが竹千代の息男は、まだ駿府の今川氏真殿の

もとにあるのではないか?確か子も竹千代と申して

おったか・・・」

「そのとおりでございます。嫁の築山も一緒でござ

います」

元康は信長の態度が和らいだのを見て「細工は流々」

とほっとしたが、それもつかの間、『御坊公』など

というよけいな名前を言ったのに気がついた。あい

かわらずそそっかしい。信長も一瞬頬がゆるんだが、

『御坊公』という名前で養子縁組相手である武田家

とのいざこざを思いだして不機嫌な面持ちになり、

再び元康をにらみつける。元康は「この殿にあって

は細かい策を弄しても仕方ない」と覚悟し、自分か

ら切り出す。


「それでは上総介殿、拙が呼び出された理由は承知

しております。何なりと」

「うむ。それでは単刀直入に確かめていこう。まず

は桶狭間での無作法についてである。丸根要害を守

備していた佐久間大学盛重と鷲津要害の織田玄蕃秀

敏から降参したい旨『番五の使い』が大高城のその

方に遣られたであろう。何故その方は『丸根・鷲津

は降参』の意向を無視して要害を総攻めにした?

『番五の使い』を襲うというのもけしからん。理由

を申してみよ」

「これは全く申しわけない。家臣に確かめたところ、

当時雨が降っており尾張方が走らせた『五の字』の

馬印が見えず、あまりにも猛烈な勢いでわが陣へ迫

ってきたため反撃したとのこと。大高城の拙に知ら

せがあったときには丸根・鷲津の総攻めにかかって

いたというのが事実でございます。三河侍だけの軍

であればこういうことは起こりえなかったはず。駿

河勢との混成軍であったために起きた不始末にござ

います。平にお許しを!」

雨が降って前方が見えにくかったのは事実だが、大

高城にいたのはほぼ三河勢であることぐらい、信長・

長秀・勝家は戦前に把握している。こういう白々し

い言い訳を堂々と澄ました笑顔で言えるところがな

んとも『三河の大たわけ』らしい。


「ふむ・・・。ではつぎに、御坊丸を養子に送った

武田家から、『三河勢が武田家に断り無く木曽ヒノ

キの商いに関わろうとしている。不愉快である』と

の知らせがはいっておるが、これについてはどうか?」

「それは逆でございまして、三河の『きわた(=木

綿)』を販売するのに、木曽の衆が三河の我々を通

さず直接『きわた』農家から仕入れ、美濃に流そう

としたので介入しただけの事。他意はございません。

三河が注意されるのであれば信濃にも同様に商いの

基本を守るよう注意していただきたい!」

信長と座に控えていた丹羽長秀・柴田勝家・松井友

閑・木下藤吉郎すべて、「うん?」という顔で松平

元康の方を見る。本殿障子の外では水野信元が頭を

抱えている。元康は「大声でまくしたてて逆に信長

を責める方向に話を持っていこう」と策を弄したの

だが、またまたそそっかしいことに尾張方が深く把

握していない『きわた』という言葉を発してしまっ

たのであった。しかも現在織田信長が斉藤道三の弔

い合戦を仕掛けようとしている美濃の国に対して、

尾張を介さず直接販売していたことを白状したこと

にもなる。二度目の冷や汗が元康の裏の首筋あたり

を伝って落ちる。障子の向こうでは、水野信元は地

べたに腰から落ちたのではないか?ただまだ、澄ま

した笑顔はまだ消えていない。


「ほほう、それでは松平二郎三郎元康殿、『きわた』

を含めた今後の三河国の産業と経営について何なり

と申してみよ!吉良殿を追い落とすだけの軍費は調

達できるらしいからのう!」

言葉は優しいが「あらいざらい知っていることを吐

け!」という信長の恫喝である。

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巻二の十一 松平元康、清洲に参上すること

2025-05-18 00:00:00 | 連続読物『いいかよく聞け、五郎左よ!』
<初出:2007年の再掲です>

巻二の十一 松平元康、清洲に参上すること

 とりあえず清洲城の障子を開け放った本殿下の様

子をながめ、信長に呼ばれていた丹羽五郎左衛門長

秀・柴田権六勝家・松井友閑・木下藤吉郎の四人は

膝から崩れ落ちそうになった。あれほど「勘弁なら

ぬ不届き者につき、徹底的に詰問してやれ!」と言

っていた信長本人が、目の前で松平元康とひしと抱

き合い涙まで流している。

「お会いしとうございました、三郎兄者!」

「儂もじゃ、竹千代殿!」

感動的な対面をしているのはこの二人だけで、回り

の者たちは、口をあんぐりあけてその様子を見てい

る。

 永禄五年(一五六二)一月十四日、柴田勝家と水

野信元の手配により鳴海城に宿泊した松平元康は、

一月十五日の午前中出発し当日午後清洲城に到着し

ていた。当初の予定では、「信長から呼ばれた全員

が清洲城本丸で待機し、元康が着座したところでお

もむろに清洲北矢倉から信長が出座。元康の桶狭間

以来の無作法を徹底的に追及する」という段取りで

あったが、鳴海から刻一刻と入ってくる『飛び馬』

からの情報に、そわそわして待ちきれなくなった信

長が北矢倉から降りてきてしまい、皆が外の騒々し

さに障子を開けたところ、階段の下で信長が参上し

た元康とひしと抱き合っていたという次第であった。

元康も元康で、普通ならば城門の前で輿から降り、

門番に到着を告げて待機するのが礼儀作法なのに、

清洲が『飛び馬』のために常時門を開けているのを

よいことに、勝手に門から「三郎兄者!三郎兄者~

~!」と叫びながら入り、御供の者と一緒に本丸ま

で走っていってしまったのである。かりにも対面す

る相手は尾張国の実質上の首領であるから、この日

元康は正式な装束『折り烏帽子に直垂』を身につけ

ていたが、走るときに股立ちをあげそこない何度も

何度も地べたにころびながら、「三郎兄者~、三郎

兄者~~!」と叫びながらそれでも前へと進んで行

ったのであった。

 現在尾張国の実質上の経営者であるから、信長が

自分で決めた決まりを自分で破っても、『構わない

といえば構わない』ともいえるが、このままでは元

康を清洲まで呼び寄せた意味がなくなってしまう。

 長秀が一度本丸から下におり、大声で呼ばわる。

「皆の者、三河岡崎城から松平次郎三郎元康殿の参

着である!」と、つじつまが合うように元康到着の

場面から始める。わざとらしく怒鳴り、信長と元康

のほうをギロリとにらむ。元康も長秀の言わんとす

るところを察し、「織田上総介殿にあられてはご機

嫌麗しゅうございます」と儀礼を尽くして申し述べ

る。信長は一度威儀を正し、「うむ。松平次郎三郎

元康殿、岡崎からの参着大儀であった。ささ、上の

座敷へ!」と手招きし上ってゆく。

 本丸の御座所へ入り表の障子をつっと閉めると、

切り替えのはやい信長は先ほどの涙顔はすでに消え、

いつもの(機嫌が悪いときの)重たい空気を発し始

める。元康は信長の顔色の変化に一瞬で気づき、後

ろにずれた折烏帽子をきちんとなおし、涙と鼻水を

懐紙で拭き直垂の裾を真直ぐ後へはらい、当時では

珍しい『正座』で相対する。表情はやさしい笑顔に

して信長に対峙する。『氷より冷たい目線の信長』

と『爽やかなすました微笑の元康』のやり取りはこ

うして始まった。

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巻二の十 松平元康の動きが読めないこと

2025-05-11 00:00:00 | 連続読物『いいかよく聞け、五郎左よ!』
<初出:2007年の再掲です>

巻二の十 松平元康の動きが読めないこと

 織田信長・丹羽長秀・柴田勝家の三人が三河での

松平次郎三郎元康の動きを心配するのには二つの理

由があった。一つは「元康の祖父清康の頃からの、

『松平家代々のけちでせっかちできまぐれで残忍な

性格』が身に災いしなければよいが」という心配で

あった。

 松平元康の祖父清康と父広忠は、当時知られてい

るとおり不運な死を遂げていた。祖父清康は天文四

年(一五三五)十二月、織田信秀が手中にしていた

西三河地区を奪還し尾張森山城まで進出したのだが、

その陣中で家臣阿部大蔵の息子弥九郎に弑逆されて

いる。世に言う『森山崩れ』である。当時は『不慮

の事態』と思われたが、信秀が張り巡らせていた

『風・鳥・草』の情報網によれば、どうも「はりき

って勢いよく進軍するのはよいが家臣の一部をえこ

ひいきし、そればかりか論功行賞のときに報償を与

えないことや、気に入らない家臣を簡単に斬殺する

ことさえあったので、家内で不満と恐怖がくすぶっ

ていた」というのが実情らしい。当時清康に協力し

た美濃三人衆(氏家卜全・稲葉伊予・安藤伊賀)や

森山城の織田孫三郎信光(信秀の弟)らもこの点口

酸っぱく忠言したが、聞く耳持たない清康はこのよ

うな無残な最期を迎えたのであった。家臣団に阿部

に同情する武士が多かった証拠に、阿部大蔵はこの

事件の後断罪されることはなく、流浪する広忠を補

佐する役割を果たした。

 広忠も父清康と同様不慮の死を遂げる。天文十八

年(一五四九)三月、一部には「松平広忠、病死」

とも伝えられたが、織田信秀の情報網によれば、

「広忠が天野孫七郎に命じて広瀬城佐久間全孝の暗

殺を企てたため、おこった佐久間が先んじて岩松八

弥を刺客に送り暗殺したもの」ということであった。

松平元康がきらめくような才能を持っていたとして

も、このような松平家代々の呪われた血を受け継い

でいる限り心配の種は尽きないということである。

 もう一つの心配は、「極端な行動は慎むように」と

水野信元を通じて忠告しておいたが、「はたして元康

が忠言にしたがってくれるかどうか」という点であ

った。これまででわかるとおり「元康は気のはやる

殿」のため、「もう少し具体的に忠言しておけばよか

ったか」と丹羽長秀は正直不安に思っていたのであ

る。不安は的中し、永禄四年(一五六一)夏、松平

元康は長沢城を攻陥し東条城の吉良義昭を追い落と

す。世に言う『松平元康の西三河平定』である。平

定というと聞えは良いが、ただ兵力も戦費も無い吉

良殿を追い払っただけの事である。元康のほうも戦

力・戦費の無い時節柄聞こえの良い戦いを行なった

つもりであろうが、もう少し周辺状況を考えて行動

してもらわないと困る。というのも、吉良家といえ

ばこのころ実権は全んどなかったにせよ、応仁の乱

まで「御一家」と称され、室町幕府に出仕した名家

である。また「御所が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が

絶えれば今川が継ぐ」とまでいわれた源氏の中でも

由緒正しい高家でもある。そのような家柄を相手に

大義名分の無い戦いを起こせば近隣諸国だけでなく

都まで「これはやりすぎであろう」という評価を下

し悪評をばらまかれる。しかも信長・長秀・勝家が

仕組んでおいた情報網によれば、元康が「尾張の

織田上総介殿了解の上で行動している」と家の内外

に説明しているらしいのである。そうなると三河だ

けでなく尾張一国を巻き込んだ大事になるのは必至

である。

 このまま事態が推移すれば、おそらく松平元康は

戦費の無いまま「織田上総介信長」の名をかたって

今川領駿河に攻め込むのは確実。そうなると駿河の

今川氏真を含め周辺諸国から「織田は非道」という

評価になってしまい、尾張国自体が一気に攻めつぶ

されてしまう可能性が出てくる。

 また元康自身についても、よからぬ情報がいくつ

か清洲に届いている。甲斐・信濃の武田信玄とは昨

年坊丸勝長を養子に送った関係から頻繁に情報が入

っていたが、いわく「武田家に断り無く木曽ヒノキ

の商いに関わろうとしている。不愉快である。織田

家の差し金か?」とのこと。これは使いを信玄の下

へ送り、丁重に説明し誤解を解いておいた。またも

うひとつは水野信元からの情報で、いわく「税収不

足に困った松平元康は三河国の寺に対し有利な禁制

を敷く代わりに上納金を要求している」とか、かつ

また「集めた税は一度駿府に納めることになってい

るのに元康が出し渋っているため、駿府と三河を取

り次ぐ武将たちが今川氏真から責められ困り果てて

いる」とのこと。このままでは松平元康をよく思わ

ない家臣が必ず出てくるはずで、清康・広忠と同様

に暗殺される可能性もないとはいえない。元康が得

意満面で吉良殿を追い払った様子が想像できるだけ

に、信長・長秀・勝家も気が滅入ってくる。何とか

この流れを止めなければならない。はやく元康を織

田家の範囲内に取り込まなければ心臓がいくつあっ

ても足りない。

 永禄四年(一五六一)年末、織田信長は松平元康

を清洲に呼び寄せるよう、丹羽長秀を通じて水野信

元に指示を出す。かつまた信長・長秀・勝家の三人

で緊急会議を開き、以下のように他者から見て異論

が出ないような筋立てを考え、確認し合う。


*松平元康が「織田上総介信長の了解で行動してい

 る」と申しているがこれは事実とは異なる

*一昨年上洛したときに「武衛公(義銀)が尾張国

 の転覆を図っている」ことを将軍義輝に申上した

 ところ、事態収拾について内諾を得たため、桶狭

 間合戦後武衛公・石橋殿・吉良殿を国外追放した

 が、その吉良殿を松平元康がどう扱うかについて

 織田家では関知しない

*以前から、駿河は今川領・尾張は織田領と認識し

 ているが、三河については織田信秀の頃安祥まで

 手中にしていたこともあり、どこまでがどちらの

 領土であるか判然としない。互に進出しあった後

 で三河の主吉良殿(義昭)が両国に対して何の異

 論も唱えないので父の代からそう認識してきた

*尾張織田家としては三河の松平元康の真意を確か

 めるため近々会談を持つ予定である

という、かなり強引ではあるが「うそでも間違いで

もない」筋立てとしたのであった。この筋立ては、

いつもの通り京都方面は黒田城の和田定利から兄の

和田惟政を通じる道筋で、駿府方面は松井友閑から

津嶋商人を通じて海路による道筋で、美濃方面は漂

泊の禅僧などによる道筋で、『風の噂』として流れ

るよう指示を出しておく。


「三河の大たわけの殿にも困ったものだ!なあ、勝

家」

「尾張の大うつけ(信長)が三河の大たわけ(元康)

をしかる

か。これは見もの、見もの!」

「こら権六、そういう言い方はないだろう!」

三人の会議はいつもどおり『破顔一笑』で終了した。

次に元康と会うことがこの戦国時代の行方を左右す

る重大案件になるとは、まだだれも気がついていな

い。

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巻二の九 前田利家赦免されること

2025-05-04 00:00:00 | 連続読物『いいかよく聞け、五郎左よ!』
<初出:2007年の再掲です>

巻二の九 前田利家赦免されること

 永禄四年(一五六一)五月の森部の合戦のとき、

織田信長から勘当されていた前田又左衛門利家が首

二つ持って信長の陣に参上したが、信長は会わない。

実は二年前の永禄二年(一五五九)、前田孫四郎利

家が信長の同朋衆拾阿弥を切り捨て、信長の勘気を

蒙り出仕差し止めとなっていたのであり、この軍で

利家は名誉回復のため戦功をあげようとしていた。

直近の桶狭間の合戦のときも利家は活躍はしたが、

信長の勘気は解けていなかった。

 織田家はもともと越前丹生郡織田荘で織田剣神社

の神官を代々つとめており、応永七年(一四00)

越前守護斯波義重が尾張守護を兼ねたのに伴い伊勢

入道常松(常昌)が同道し尾張へ入国したところか

ら尾張織田家が始まっている。いわば「生粋の宗教

の家系」であり、しかも熱田神宮と草薙剣を守るこ

とで朝家の手助けをしているという自負心と誇りを

持った「誇り高き」家系である。また織田弾正忠家

の宗旨をみても、信長の父信秀を含め禅宗の家系で

あり、「敬虔な禅宗信者」なのである。その信長の

同朋衆を斬るということは、仏教用語でいうところ

の『五逆罪』の一つであり、天地が裂けても許され

ざる行為である。信長自身、かなり安全を見て政策

を決める傾向があり、また性急な行動を避ける性格

でもある。例えば二年前永禄二年(一五五九)の岩

倉城攻撃時、城を鹿垣で囲い番人を置き包囲、その

後二~三ヶ月火矢・鉄炮を打ち込むなど、はたから

見ればのんびりしたものである。「もっと力攻めすれ

ばすぐに勝てるのに!」という家臣がいくらいても

信長はすましたもの。敵が音を上げるまでじっくり

と待ち、外から真綿でじわじわと締め上げていくよ

うなやり方を取る。ようするに一度決めた戦略や方

針を頭の中で変えるには時間のかかる性格といった

ほうが良いだろうか?当然又左衛門が何度許しを乞

いに来ようが、信長は当分許す気が無い。かつまた

この頃の又左は身の丈六尺に届かずヒョロヒョロし

ていた上口がうまく、桶狭間のときも信頼できる筋

から『利家は落ちた首を拾った』と聞いていたので、

信長に許す気はさらさらなかったのであった。ただ

まあ今回は自分の目の届く範囲で実際に活躍してい

たし、丹羽五郎左衛門長秀のとりなしと荒子城の兄

前田利久の懇願もあり、「よきに計らえ」と長秀に

命じておいた。信長本人は許していないが利家は織

田家に復帰という、玉虫色の結論であった。

 その後幸か不幸か信長・長秀・勝家が決めたとお

り、他国から攻められることも無く他国を攻めるこ

とも無く、永禄四年秋の収穫も順調にあがり、米相

場も松井友閑・木下藤吉郎と丹羽長秀が制御してく

れているので、いつどれだけ今年の米収穫高を売り

飛ばすかだけが課題となっている。が、ここに別の

問題が発生していた。丹羽五郎左衛門長秀が心配し

ていた通り『三河の大たわけの殿』がわけのわから

ない不規則な動きに出ていたのである。

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