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『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

巻二の十一 松平元康、清洲に参上すること

2025-05-18 00:00:00 | 連続読物『いいかよく聞け、五郎左よ!』
<初出:2007年の再掲です>

巻二の十一 松平元康、清洲に参上すること

 とりあえず清洲城の障子を開け放った本殿下の様

子をながめ、信長に呼ばれていた丹羽五郎左衛門長

秀・柴田権六勝家・松井友閑・木下藤吉郎の四人は

膝から崩れ落ちそうになった。あれほど「勘弁なら

ぬ不届き者につき、徹底的に詰問してやれ!」と言

っていた信長本人が、目の前で松平元康とひしと抱

き合い涙まで流している。

「お会いしとうございました、三郎兄者!」

「儂もじゃ、竹千代殿!」

感動的な対面をしているのはこの二人だけで、回り

の者たちは、口をあんぐりあけてその様子を見てい

る。

 永禄五年(一五六二)一月十四日、柴田勝家と水

野信元の手配により鳴海城に宿泊した松平元康は、

一月十五日の午前中出発し当日午後清洲城に到着し

ていた。当初の予定では、「信長から呼ばれた全員

が清洲城本丸で待機し、元康が着座したところでお

もむろに清洲北矢倉から信長が出座。元康の桶狭間

以来の無作法を徹底的に追及する」という段取りで

あったが、鳴海から刻一刻と入ってくる『飛び馬』

からの情報に、そわそわして待ちきれなくなった信

長が北矢倉から降りてきてしまい、皆が外の騒々し

さに障子を開けたところ、階段の下で信長が参上し

た元康とひしと抱き合っていたという次第であった。

元康も元康で、普通ならば城門の前で輿から降り、

門番に到着を告げて待機するのが礼儀作法なのに、

清洲が『飛び馬』のために常時門を開けているのを

よいことに、勝手に門から「三郎兄者!三郎兄者~

~!」と叫びながら入り、御供の者と一緒に本丸ま

で走っていってしまったのである。かりにも対面す

る相手は尾張国の実質上の首領であるから、この日

元康は正式な装束『折り烏帽子に直垂』を身につけ

ていたが、走るときに股立ちをあげそこない何度も

何度も地べたにころびながら、「三郎兄者~、三郎

兄者~~!」と叫びながらそれでも前へと進んで行

ったのであった。

 現在尾張国の実質上の経営者であるから、信長が

自分で決めた決まりを自分で破っても、『構わない

といえば構わない』ともいえるが、このままでは元

康を清洲まで呼び寄せた意味がなくなってしまう。

 長秀が一度本丸から下におり、大声で呼ばわる。

「皆の者、三河岡崎城から松平次郎三郎元康殿の参

着である!」と、つじつまが合うように元康到着の

場面から始める。わざとらしく怒鳴り、信長と元康

のほうをギロリとにらむ。元康も長秀の言わんとす

るところを察し、「織田上総介殿にあられてはご機

嫌麗しゅうございます」と儀礼を尽くして申し述べ

る。信長は一度威儀を正し、「うむ。松平次郎三郎

元康殿、岡崎からの参着大儀であった。ささ、上の

座敷へ!」と手招きし上ってゆく。

 本丸の御座所へ入り表の障子をつっと閉めると、

切り替えのはやい信長は先ほどの涙顔はすでに消え、

いつもの(機嫌が悪いときの)重たい空気を発し始

める。元康は信長の顔色の変化に一瞬で気づき、後

ろにずれた折烏帽子をきちんとなおし、涙と鼻水を

懐紙で拭き直垂の裾を真直ぐ後へはらい、当時では

珍しい『正座』で相対する。表情はやさしい笑顔に

して信長に対峙する。『氷より冷たい目線の信長』

と『爽やかなすました微笑の元康』のやり取りはこ

うして始まった。

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巻二の十 松平元康の動きが読めないこと

2025-05-11 00:00:00 | 連続読物『いいかよく聞け、五郎左よ!』
<初出:2007年の再掲です>

巻二の十 松平元康の動きが読めないこと

 織田信長・丹羽長秀・柴田勝家の三人が三河での

松平次郎三郎元康の動きを心配するのには二つの理

由があった。一つは「元康の祖父清康の頃からの、

『松平家代々のけちでせっかちできまぐれで残忍な

性格』が身に災いしなければよいが」という心配で

あった。

 松平元康の祖父清康と父広忠は、当時知られてい

るとおり不運な死を遂げていた。祖父清康は天文四

年(一五三五)十二月、織田信秀が手中にしていた

西三河地区を奪還し尾張森山城まで進出したのだが、

その陣中で家臣阿部大蔵の息子弥九郎に弑逆されて

いる。世に言う『森山崩れ』である。当時は『不慮

の事態』と思われたが、信秀が張り巡らせていた

『風・鳥・草』の情報網によれば、どうも「はりき

って勢いよく進軍するのはよいが家臣の一部をえこ

ひいきし、そればかりか論功行賞のときに報償を与

えないことや、気に入らない家臣を簡単に斬殺する

ことさえあったので、家内で不満と恐怖がくすぶっ

ていた」というのが実情らしい。当時清康に協力し

た美濃三人衆(氏家卜全・稲葉伊予・安藤伊賀)や

森山城の織田孫三郎信光(信秀の弟)らもこの点口

酸っぱく忠言したが、聞く耳持たない清康はこのよ

うな無残な最期を迎えたのであった。家臣団に阿部

に同情する武士が多かった証拠に、阿部大蔵はこの

事件の後断罪されることはなく、流浪する広忠を補

佐する役割を果たした。

 広忠も父清康と同様不慮の死を遂げる。天文十八

年(一五四九)三月、一部には「松平広忠、病死」

とも伝えられたが、織田信秀の情報網によれば、

「広忠が天野孫七郎に命じて広瀬城佐久間全孝の暗

殺を企てたため、おこった佐久間が先んじて岩松八

弥を刺客に送り暗殺したもの」ということであった。

松平元康がきらめくような才能を持っていたとして

も、このような松平家代々の呪われた血を受け継い

でいる限り心配の種は尽きないということである。

 もう一つの心配は、「極端な行動は慎むように」と

水野信元を通じて忠告しておいたが、「はたして元康

が忠言にしたがってくれるかどうか」という点であ

った。これまででわかるとおり「元康は気のはやる

殿」のため、「もう少し具体的に忠言しておけばよか

ったか」と丹羽長秀は正直不安に思っていたのであ

る。不安は的中し、永禄四年(一五六一)夏、松平

元康は長沢城を攻陥し東条城の吉良義昭を追い落と

す。世に言う『松平元康の西三河平定』である。平

定というと聞えは良いが、ただ兵力も戦費も無い吉

良殿を追い払っただけの事である。元康のほうも戦

力・戦費の無い時節柄聞こえの良い戦いを行なった

つもりであろうが、もう少し周辺状況を考えて行動

してもらわないと困る。というのも、吉良家といえ

ばこのころ実権は全んどなかったにせよ、応仁の乱

まで「御一家」と称され、室町幕府に出仕した名家

である。また「御所が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が

絶えれば今川が継ぐ」とまでいわれた源氏の中でも

由緒正しい高家でもある。そのような家柄を相手に

大義名分の無い戦いを起こせば近隣諸国だけでなく

都まで「これはやりすぎであろう」という評価を下

し悪評をばらまかれる。しかも信長・長秀・勝家が

仕組んでおいた情報網によれば、元康が「尾張の

織田上総介殿了解の上で行動している」と家の内外

に説明しているらしいのである。そうなると三河だ

けでなく尾張一国を巻き込んだ大事になるのは必至

である。

 このまま事態が推移すれば、おそらく松平元康は

戦費の無いまま「織田上総介信長」の名をかたって

今川領駿河に攻め込むのは確実。そうなると駿河の

今川氏真を含め周辺諸国から「織田は非道」という

評価になってしまい、尾張国自体が一気に攻めつぶ

されてしまう可能性が出てくる。

 また元康自身についても、よからぬ情報がいくつ

か清洲に届いている。甲斐・信濃の武田信玄とは昨

年坊丸勝長を養子に送った関係から頻繁に情報が入

っていたが、いわく「武田家に断り無く木曽ヒノキ

の商いに関わろうとしている。不愉快である。織田

家の差し金か?」とのこと。これは使いを信玄の下

へ送り、丁重に説明し誤解を解いておいた。またも

うひとつは水野信元からの情報で、いわく「税収不

足に困った松平元康は三河国の寺に対し有利な禁制

を敷く代わりに上納金を要求している」とか、かつ

また「集めた税は一度駿府に納めることになってい

るのに元康が出し渋っているため、駿府と三河を取

り次ぐ武将たちが今川氏真から責められ困り果てて

いる」とのこと。このままでは松平元康をよく思わ

ない家臣が必ず出てくるはずで、清康・広忠と同様

に暗殺される可能性もないとはいえない。元康が得

意満面で吉良殿を追い払った様子が想像できるだけ

に、信長・長秀・勝家も気が滅入ってくる。何とか

この流れを止めなければならない。はやく元康を織

田家の範囲内に取り込まなければ心臓がいくつあっ

ても足りない。

 永禄四年(一五六一)年末、織田信長は松平元康

を清洲に呼び寄せるよう、丹羽長秀を通じて水野信

元に指示を出す。かつまた信長・長秀・勝家の三人

で緊急会議を開き、以下のように他者から見て異論

が出ないような筋立てを考え、確認し合う。


*松平元康が「織田上総介信長の了解で行動してい

 る」と申しているがこれは事実とは異なる

*一昨年上洛したときに「武衛公(義銀)が尾張国

 の転覆を図っている」ことを将軍義輝に申上した

 ところ、事態収拾について内諾を得たため、桶狭

 間合戦後武衛公・石橋殿・吉良殿を国外追放した

 が、その吉良殿を松平元康がどう扱うかについて

 織田家では関知しない

*以前から、駿河は今川領・尾張は織田領と認識し

 ているが、三河については織田信秀の頃安祥まで

 手中にしていたこともあり、どこまでがどちらの

 領土であるか判然としない。互に進出しあった後

 で三河の主吉良殿(義昭)が両国に対して何の異

 論も唱えないので父の代からそう認識してきた

*尾張織田家としては三河の松平元康の真意を確か

 めるため近々会談を持つ予定である

という、かなり強引ではあるが「うそでも間違いで

もない」筋立てとしたのであった。この筋立ては、

いつもの通り京都方面は黒田城の和田定利から兄の

和田惟政を通じる道筋で、駿府方面は松井友閑から

津嶋商人を通じて海路による道筋で、美濃方面は漂

泊の禅僧などによる道筋で、『風の噂』として流れ

るよう指示を出しておく。


「三河の大たわけの殿にも困ったものだ!なあ、勝

家」

「尾張の大うつけ(信長)が三河の大たわけ(元康)

をしかる

か。これは見もの、見もの!」

「こら権六、そういう言い方はないだろう!」

三人の会議はいつもどおり『破顔一笑』で終了した。

次に元康と会うことがこの戦国時代の行方を左右す

る重大案件になるとは、まだだれも気がついていな

い。

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巻二の九 前田利家赦免されること

2025-05-04 00:00:00 | 連続読物『いいかよく聞け、五郎左よ!』
<初出:2007年の再掲です>

巻二の九 前田利家赦免されること

 永禄四年(一五六一)五月の森部の合戦のとき、

織田信長から勘当されていた前田又左衛門利家が首

二つ持って信長の陣に参上したが、信長は会わない。

実は二年前の永禄二年(一五五九)、前田孫四郎利

家が信長の同朋衆拾阿弥を切り捨て、信長の勘気を

蒙り出仕差し止めとなっていたのであり、この軍で

利家は名誉回復のため戦功をあげようとしていた。

直近の桶狭間の合戦のときも利家は活躍はしたが、

信長の勘気は解けていなかった。

 織田家はもともと越前丹生郡織田荘で織田剣神社

の神官を代々つとめており、応永七年(一四00)

越前守護斯波義重が尾張守護を兼ねたのに伴い伊勢

入道常松(常昌)が同道し尾張へ入国したところか

ら尾張織田家が始まっている。いわば「生粋の宗教

の家系」であり、しかも熱田神宮と草薙剣を守るこ

とで朝家の手助けをしているという自負心と誇りを

持った「誇り高き」家系である。また織田弾正忠家

の宗旨をみても、信長の父信秀を含め禅宗の家系で

あり、「敬虔な禅宗信者」なのである。その信長の

同朋衆を斬るということは、仏教用語でいうところ

の『五逆罪』の一つであり、天地が裂けても許され

ざる行為である。信長自身、かなり安全を見て政策

を決める傾向があり、また性急な行動を避ける性格

でもある。例えば二年前永禄二年(一五五九)の岩

倉城攻撃時、城を鹿垣で囲い番人を置き包囲、その

後二~三ヶ月火矢・鉄炮を打ち込むなど、はたから

見ればのんびりしたものである。「もっと力攻めすれ

ばすぐに勝てるのに!」という家臣がいくらいても

信長はすましたもの。敵が音を上げるまでじっくり

と待ち、外から真綿でじわじわと締め上げていくよ

うなやり方を取る。ようするに一度決めた戦略や方

針を頭の中で変えるには時間のかかる性格といった

ほうが良いだろうか?当然又左衛門が何度許しを乞

いに来ようが、信長は当分許す気が無い。かつまた

この頃の又左は身の丈六尺に届かずヒョロヒョロし

ていた上口がうまく、桶狭間のときも信頼できる筋

から『利家は落ちた首を拾った』と聞いていたので、

信長に許す気はさらさらなかったのであった。ただ

まあ今回は自分の目の届く範囲で実際に活躍してい

たし、丹羽五郎左衛門長秀のとりなしと荒子城の兄

前田利久の懇願もあり、「よきに計らえ」と長秀に

命じておいた。信長本人は許していないが利家は織

田家に復帰という、玉虫色の結論であった。

 その後幸か不幸か信長・長秀・勝家が決めたとお

り、他国から攻められることも無く他国を攻めるこ

とも無く、永禄四年秋の収穫も順調にあがり、米相

場も松井友閑・木下藤吉郎と丹羽長秀が制御してく

れているので、いつどれだけ今年の米収穫高を売り

飛ばすかだけが課題となっている。が、ここに別の

問題が発生していた。丹羽五郎左衛門長秀が心配し

ていた通り『三河の大たわけの殿』がわけのわから

ない不規則な動きに出ていたのである。

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巻二の八 長尾景虎のこと、付信長美濃へ侵攻すること

2025-04-27 00:00:00 | 連続読物『いいかよく聞け、五郎左よ!』
<初出:2007年の再掲です>

巻二の八 長尾景虎のこと、付信長美濃へ侵攻する

こと

 永禄四年(一五六一)三月ごろ、関東方面から知

らせが入る。「昨年末上杉憲政を擁して越後から関

東に攻め下った長尾景虎は、厩橋城を奪回しそこで

越年していたが、今年三月小田原城の北条氏康を攻

囲した。その帰りに鶴岡八幡宮に参詣し、その社前

で山内憲政から上杉の名跡と関東管領職を与えられ、

また憲政から一字をもらい『上杉政虎』と名乗るこ

とになった」とのことであった。こういった他地域

の“熱い”知らせは、為政者がどう防ごうとしても山

から河から海から、漂泊の人々が各地へ伝えていく。


「関東管領職を預かるとは長尾景虎もすごい身分に

なったものだが、『長尾兄』もちと歴史の勉強が足

りぬのではないかな?どうだ五郎左衛門!」

長尾景虎は織田信長より四つ年上なので、信長は

『殿』とは呼ばず『長尾兄』と呼んでいる。一度も

あったことは無いのに『兄』と呼んでしまうところ

がまた信長らしい。

「ははっ、さすがに殿の仰せの通りこの時分にすぐ

に関東管領職を受けるのはちとまずいかと・・一度

預かったことにしておき京都に確かめなくては正式

とはいえませんな!」

「ただ儂が上京(永禄二年(一五五九))した後で

長尾殿は二回目の上洛を果たしておるが、そのとき

足利将軍(義輝)から関東管領についての承諾を得

ているかどうかだが・・・」

「それについては、近江の和田惟政・黒田城の和田

定利の線からも知らせは入っておりませんので・・」


信長と長秀の二人が言わんとしているのはこういう

ことである。実は今を去ること二十三年前の天文七

年(一五三八)、上総真里谷武田氏が古河公方高基

の弟義明を小弓公方としたため嫡流の高基が怒って

北条氏康と結ぶという事件があった。同年氏綱・氏

康が小弓公方を滅ぼし、その功により北条氏康がす

でに古河公方高基から関東管領を与えられていたの

である。たてまえ上、関東十カ国の守護と関東管領

は室町幕府の将軍が決定し、関東管領職は代々関東

の上杉氏が受け継いでいたが、関東の実権は実質上

古河公方・鎌倉公方がにぎっていたため、『実績主

義かつ先行の北条の関東管領』が正当か『将軍公認

ではあるが名跡譲り受けで地すべり的に手に入れた

上杉(長尾)政虎の関東管領』が正当か、のちのち

まで遺恨を残すこととなる。このように全国の有力

武将は鵜の目鷹の目で「他国の動向がもっともらし

いか、道理に合わないか」を情報収集し、評価・批

判していた。いわゆる『世間の目』というやつであ

る。

 それから間もない永禄四年(一五六一)五月十一

日、「美濃の斎藤義竜が急死」との知らせが当日の

うちに清洲に入る。丹羽五郎左衛門長秀は当初「上

総介信長が美濃の武将を調略して毒殺でもしたか」

と思ったが、信長が「五郎左と同程度しか木曽川周

辺を歩き回っていないし、できれば舅の山城守(道

三)には世話になったので、弔い合戦をして討ち果

たしたかった」というので、それも道理と納得する。

 ただでさえ家内の統一が取れていないところへ義

竜の急逝も重なり、もうすでに美濃は尾張の手に落

ちたも同然に見えた。黒田城の和田新介定利からの

信頼できる知らせによれば、木曽川の向こうの美濃

の武将たちは、「はやく織田信長に攻撃してもらい、

降伏して旧領安堵してもらいたい」と思っているら

しいが、織田方の本音は「はやいところ仕掛けたい

が今年の秋の米収穫が終わってみないと戦費が足り

ているかどうか見えない」といった微妙な情勢であ

る。

 ただいくら信頼できる武将であっても、状況に対

する判断には個人の先入観が入ることもある。大丈

夫なはずの美濃方面についても、森部から十四条の

合戦では簡単に木曾川を渡り洲俣を占拠するところ

までは「想定どおりの楽な進軍」であったが、いざ

戦ってみると斎藤家の重臣長井甲斐守衛安(もりや

す)・日比野下野守清実(きよざね)など、討ち取り

はしたが本気で攻めかかってきた。現実的には「大

多数の武将は尾張からの攻撃に降参したがっている

が、斎藤家重臣の中には反撃意欲満々の者もいる」

という状況であった。いつも笑顔で、丹羽長秀・柴

田勝家と分業体制をしいてきた信長であったが、こ

のときばかりはいかめしい顔で長秀に厳重注意を行

なう。「人というものは、信頼しても信用するな!

肝心なところは自分で確かめよ!」という叱責であ

った。長秀もこれには全く異存はなく、本人の甘え

からおきた事なので反省しきりである。信長からの

指示は、「美濃の主要人物、すなわち一族(義竜の

弟長竜)・美濃三人衆(安東伊賀守守就・氏家卜全

直元・稲葉伊予守良通)・軍師竹中半兵衛(重治)

らを完璧に調略すること」であった。同時に美濃

攻めは、義竜の子竜興の家内掌握の度合いと半分ま

で調略が進んでいる長竜との内部工作の進度を比べ

見ながら「無期延期とする」こととなったのであっ

た。それまでは三人で決めたとおり、国内産品を奨

励し十分戦費を蓄え国力を増強していく。

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巻二の七 水野信元、清洲へ参上すること

2025-04-20 00:00:00 | 連続読物『いいかよく聞け、五郎左よ!』
<初出:2007年の再掲です>

巻二の七 水野信元、清洲へ参上すること

 今回の織田信長・丹羽長秀・柴田勝家三人の決定

どおり、水野信元を仲介して松平元康と秘密裏に打

合せを進める運びであったが、水野側から急遽「直

接上総介殿にお会いして申上したいことがある」と

の連絡が入る。ちなみに水野信元は天文十二年(一

五四三)七月父忠政の死により家督をついだ時から

今川氏に背き織田信秀に服属していたし、その子信

長とも天文二十三年(一五五四)駿河衆に小河城を

攻められた時に救援要請したほどの間柄であり、自

他共に「尾張の身方」と認めている。一方信元の弟

(忠政の三男)の水野忠重は松平元康についており、

三河・駿河との釣り合いを取っている。したがって

今回の交渉も織田信長→丹羽長秀・柴田勝家→(水

野信元→水野忠重)→松平元康という経路で進めら

れ、もし露見したとしても他国から見て道理の立つ

形となっている。水野信元が尾張清洲に来ても何の

無理も無い。

 清洲城では織田信長と丹羽長秀が待ちうけ、早速

水野信元が申上する。水野は紅潮した顔で、早口で

まくしたてる。

「上総介殿にあられてはご機嫌麗しゅうございます」

「まあそれはどうでも良い。金吾殿(忠政)の嫡が

直接来られるとは大儀である。早速はじめられよ」

「御意。すでにご存知かと思いますが、『尾張に降

参したい』旨申上するよう、三河の松平元康から申

し出がありました」

「うむ、聞いておる」

「その真意を確かめたところ、実は『現在、今川

氏真が自分を信用しているうちに三河を独立させる

いい機会とも考えたが、いかんせん駿河の属将とし

て出陣し岡崎に入ったため、国を経営するだけの資

金が無いし家臣もいない。どうせなら尾張から攻め

られた形にして一度三河を尾張に取り込んでいただ

き、自分を三河の主にしていただきたい』とのこと

でございました」

何とも都合のいい話である。


「ただ現在の三河は守護として吉良殿(義昭)がお

られるから、尾張が三河を取り込むには無理がある

ことぐらい竹千代もわかりそうなものだが」

「それは殿の仰せの通りですが、気のはやい元康殿

は『思い込んだら命がけ』のところがございまして」

「そうそう、その性格のために尾張のわれわれが苦

労していることをわかっておるのかどうか・・・。

また冷静に三河の国の様子を見た場合、知多・渥美

の海産物はそこそこ多いが、陸地は岩山が多く田畑

が作りづらい。換金作物の米が取れないとなると国

の税収が少なく、仮に尾張に取り込んだとしても経

営の難しい地域であろう」

「ですな。桶狭間開戦までの三河の財源は、海運業

者からの徴税と陸運業者、及び河川運輸業者からの

徴税となっております」

「うむ。知っておる」

「となると結論は一つ。『尾張は三河を攻撃しない』

ということになりますな」

丁度良い時に丹羽五郎左衛門が切れ味鋭く発言し、

織田信長も水野信元もあいづちをうつ。


「せっかくおいでいただいた水野の殿には申し訳な

いが、拙も上総介も『三河の大たわけ』に深い遺恨

を持っている。したがって今回の元康殿の申し出は

お断りしたい」

「承知致しました。ただもれ承るところによります

と、上総介殿は近々美濃の斎藤義龍に弔い合戦を挑

むことになるとのこと。それならば、『元康は尾張

を攻撃しない。尾張も元康の動きを感知しない』と

いうことにしておく必要がありますな」

「さすが水野殿!」

今度は水野信元の頭の回転の速さに、織田信長と丹

羽長秀が相槌を打つ。

「さすが機転の利く方は話がはやい。では五郎左衛

門、後はよしなに。信元殿、三河での武運長久を!」

 一段落すると、信長はそそくさとひきあげる。会

談後、細かい部分・足りない部分・危険な部分を二

人で煮詰めて行く。

*基本的には『降参したい』という申し出は受けな

いこと

*松平元康殿にあっては、駿河の今川家に代わって

三河に駐在していることを自覚すること

*「元康は尾張を攻撃しないかわりに尾張も元康の

動きに感知しない」という相互不可侵の立場を互い

に守ること

*守護の吉良殿との関係をよくよく検討すること。

下克上して長続きした者はいないので行動は慎重に

すること

*産業を奨励して税収を増やし国力をつけること

*協力者への手厚い保護を忘れないこと

などことこまかく言い含めておいた。

 慣例に従い、引出物(箱の中身は小袖とその下の

金であるが)を信元に渡し、「くれぐれも早まった

行動を取らないように」元康を諭してもらうようあ

らためて依頼する。水野信元も笑顔で「承りました」

と出発する。城門から送り出し中に戻ろうと振り返

った瞬間、強烈な身震いが五郎左衛門を襲った。何

か、非常に良くない何かが起きる前兆である。すぐ

にそれは現実のものとなる。

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巻二の六 信長、三河に出陣すること

2025-04-13 00:00:00 | 連続読物『いいかよく聞け、五郎左よ!』
<初出:2007年の再掲です>

巻二の六 信長、三河に出陣すること

 年明けて永禄四年(一五六一)、経済面では織田

上総介信長・丹羽五郎左衛門長秀・柴田権六勝家の

想定通りに事が運んでいる。また特段他国の軍勢が

尾張に攻め込んで来ないのも想定どおりである。

 ただこれも想定どおりだが、『三河の無作法者』

『三河の大たわけ』-松平二郎三郎元康(のちの徳

川家康)がまたわけのわからない行動に出てきた。

この時点で尾張側は三河地域について「自領に取り

込んだ」ともなんとも主張していないのに、何と元

康は広瀬・沓掛・挙母・梅ヶ坪・小河・寺部・刈谷

を転戦し、あろうことか今川方の板倉重定を中島城

から岡城へと攻め立てている。これらの情報は岩崎

城の丹羽氏勝と東部方面管掌の柴田勝家が、中立的

家柄水野家を含む『風・鳥・草』の織田流情報網で

確認しているので間違いない。周辺諸国は松平元康

のことを、「今川治部少輔義元殿が討ち果たされた

ため、小さい頃から駿府で世話になった元康が三河

岡崎城に籠もり、今川方として尾張国境を見張って

いる」と見ているわけであり、その元康が三河の城

を攻撃してしまっては、「何だ、単なる火事場泥棒

ではないか!」と悪評を撒かれてしまう。そうなる

と駿河の今川方・甲斐信濃の武田方に三河へ乱入す

るきっかけを与えてしまい、三人の構想実現に大き

な障害となってしまう。これは黙視するわけに行か

ない事態である。このとき織田信長・丹羽長秀・柴

田勝家の三人が緊急会議を開いたが、「朝廷も尾張

周辺諸国も、『尾張が火事場泥棒松平元康を征伐し

て三河を元々の所有者である今川家か朝廷に一旦は

戻すのが無理の無い筋立て』と思っている」という

見解で一致した。わけのわからない事態に直面した

ときは、正しい道筋で考え『世間』の見方に沿って

動くほうが無理の無いことを三人とも熟知している。

桶狭間のときの無作法を根に持っている三人は、即

座に三河の松平元康を攻撃する方針を固める。

 今回も織田流の攻撃方法をとる。すなわち岡崎城

までの各城の武将を調略し、「共同で元康を攻撃す

るか尾張方が元康を攻撃するのを妨げない」という

状態にしておき、最終的には岡崎城を包囲し、朝廷

から大義名分を得たうえで開戦し、元康を自滅に追

い込むという作戦である。

「そういえば今をさること四十五年前、殿の尊敬す

る伊勢宗瑞殿(北条早雲)も相模岡崎城の三浦義同

(よしあつ)を追い込み征伐しましたな。同じ岡崎

城ということで不思議な因縁を感じますな」

「うむ。五郎左衛門の言うとおり!」

二人が言っているのは、北条早雲に攻められて相模

岡崎城から住吉要害→三崎城→新井城と追い込まれ、

永正十三年(一五一六)七月まで四ヶ月の籠城のす

え、城外に討って出て自刃した三浦義同のことを指

している。この、「兵粮がなくなるまで許さない」

という残酷な「干殺し(ひごろし)戦法」は、「名

高い伊勢宗瑞殿が採った戦法だから」という理由で

のちに多くの武将が採用することになる。

 永禄四年(一五六一)四月上旬、手始めに信長の

軍は梅ヶ坪を攻撃し、高橋郡・加治屋村・伊保城・

矢久佐城に放火等を行う。桶狭間のときに、事前打

ち合わせで「今川軍が進軍してきたときに、『今川

勢に協力する』といいつつ手を抜く」という、尾張

に巧妙に協力した地域だったので、信長としては非

常にやりにくい攻撃ではあった。例えて言えば「ご

めんな!ごめんな!」と頭を下げながら攻めるとい

う、奇妙な戦いである。

 そうした矢先、現地からは「いくらなんでもあん

まりだ!」と率直な苦情があがってきていたが、松

平元康からも何と「降参したいので、自ら清洲まで

参上したい」という申し出があがってきたのである。

最初は「降参を隠れ蓑にして天白川近辺まで取り戻

す策略か」とも疑われたが、すぐに参集できる三河

衆の軍兵数を推定し、岩崎城や水野家の使いの者の

情報を総合すると、どうも正直に「降参したい」と

申し出てきているらしい。こうなると弱ったのは逆

に尾張のほうで、振り上げたこぶしをおろす場所が

無い。しかも「降参したい」といわれたからと言っ

て「今川義元亡き後の火事場泥棒を許した」とあっ

ては『尾張織田』の名前が地に落ちる。これには三

人とも頭が混乱し、弱り果ててしまった。

「どうしたものかのう、五郎左衛門」

「まあとりあえずは元康を清洲に呼んで、話を聞く

しかなかろうと思いますが」

「う~む。仕方無いとは思うが、軍の無作法者を尾

張領に入れさせてよいものかどうか・・簡単に入国

を許すと周辺諸国から『桶狭間後の織田の言い草は

全くの嘘であった』と思われるのが落ちであろう。

どうだ?」

「いや~、それは殿の仰せの通り・・どうしたもの

か・・」

「さすればこの権六が、三河国境で松平元康と非公

式に接触し、尾張に入国させず事を進めるしかあり

ませんな」

三人合意の上で権六の考えた筋立てを採用し、直接

元康とは会わず使いの者を行き来させることで元康

の意向を確かめることにしたのであった。元康に、

自分に限りない運と可能性があることに気づかせな

いよう、かつまた尾張の立場・面目が保たれるよう

元康に罰を与える形にしなければならず、関係者全

員非常に繊細な言い回しを貫く必要があった。


【備考】

織田信長と松平元康が尾三同盟の一年前に接触した

可能性があることについては、

*「学研歴史群像シリーズ五0戦国合戦大全」中の

「徳川家康の戦い:橋場明」

*「学研歴史群像シリーズ十一徳川家康」中の「ド

キュメント家康Ⅱ:小和田哲男」

から引用しました。

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巻二の五 信長、人物評定をすること

2025-04-06 00:00:00 | 連続読物『いいかよく聞け、五郎左よ!』
<初出:2007年の再掲です>

巻二の五 信長、人物評定をすること

 取り急ぎ、周辺諸国で尾張に攻め込んで来るほど

の事も無く、正直に言ってしまうとまずいが「織田

信長も柴田勝家もかなり暇」といった状況である。

ただあまり行動を起こさずにいると周辺諸国から

「何をたくらんでいるのか」と勘ぐられるので、頻

繁に美濃との国境木曽川方面や駿河との国境三河方

面に偵察隊として赴くことにして、体裁をつけるこ

とにしている。長秀と同様、馬から自ら、はでに着

飾り直垂・狩衣をつけて最前線で練り歩くのである。

本音では「偵察隊として敵前に姿を見せるもののし

ばらく軍は避けたい」という微妙な空気である。信

長としては大好きな『お鷹野』が、「しばらくは不

謹慎と見られる」という理由から長秀に禁止されて

おり、やや鬱々とした心境である。

 丹羽長秀は三人で打ち合わせたとおり、『商品相

場の操作・経費のかからない得する軍・問屋との口

銭交渉』という課題を、木下藤吉郎・松井友閑と毎

日打ち合わせながら鋭意進行している。目的は一つ

「美濃の斎藤義龍に対し、義父山城守道三の弔い合

戦を仕掛けるだけの軍資金を作り出すこと」である。

美濃武将の調略は以前同様黒田城の和田定利を通じ、

水面下で順調に運んでいる。

 信長もこの年数えで四歳になる奇妙丸(のちの菅

九郎信忠)の世話に手が回るようになり、自分が小

さい頃習ってきたのと同じく、弓矢・鉄砲・兵法と

乗馬・水練を教えるよう長秀・勝家に頼み、また中

国の史書(史記・戦国策など)や日本の史書(日本

書紀から源平盛衰記・吾妻鏡・太平記などまで)を

読ませて教養をつけるよう指示を下す。

 永禄三年(一五六0)年末、たまたまこの日は清

洲城で、畿内から関東までの国々の動きを分析して

いるうち、人物評定を行うことになった。

「ところで都のほうでは三好長慶殿がかなり力を持

ってきたそうじゃが、どうなっておるのかな?」

「そう、河内十七ヶ所の陣で畠山氏を打ち破り、細

川晴元殿とももめておるようですな」

「三管領(細川・斯波・畠山)もかたなしだな!世

の中これからどうなっていくのであろうか・・」

「とはいえ、その細川氏の中でも主家(京兆家)の

晴元殿も一時期のような勢いがなくなったが、庶家

(和泉半国上守護家)の流れを汲む藤孝殿という人

物がやりてとのもっぱらの評判でして」

「ほ~う、なるほど、細川藤孝殿か!近江の和田惟

政と黒田城の和田定利の兄弟もよい人物と付き合っ

ているものじゃ!」

「現在は第十三代足利将軍義輝の片腕と目されてい

るそうでございます」

「なるほど・・和田兄弟の話だけでこれまで対面し

たことがないが、どんな人物じゃ?政治手腕以外に

は?」

「古今の典礼に通じており、特に平安時代の史書・

歌書にかけては並ぶ者が無いとの評判が伝わってき

ております」

「すると古今和歌集なども、もちろんであろうな?」

「御意」

「美濃の件が一段落したら是非あってみたい人物で

あるな。次に関東の方面についてはどうなっておる?」

「駿河はご存知の通り今川氏真殿に統率力が無く、

現在国としてまとまっていないようですな。かえっ

て北条氏康殿が上総の里見殿を攻撃するなど調子が

良い」

「それは儂も耳にしたが、『里見から救援要請を受

けた越後の長尾景虎殿が上杉憲政殿に同道する形で

関東に進軍した』というところ以降はどうなったの

か教えてくれるか」

「御意。その後三国峠を越えた長尾景虎殿が厩橋城

を奪回し、上杉憲政殿を城主として入れたと伝わっ

ております」

「これはいい勝負だな!平家の流れを組む北条氏と

足利将軍への謁見を果たしている長尾氏とが関東で

雌雄を決するということだな!ただ元はといえば長

尾氏も桓武平氏であるから平家同士が関東で戦うと

いうことか!平家の儂も是非一度見に行きたいもの

だ!」

「こら、三郎、いくらなんでもそこまで無責任なこ

とは言うな!不謹慎である!」

 長秀から怒鳴られても信長はニヤニヤしている。

「今川・北条があての無い関東での戦いで戦費を使

い、長尾が上杉の臣下として同じく関東で戦費を使

い、武田は国内の武将統一と平定で戦費を使う。そ

うすれば米や他の産品の租税と販売口銭で軍資金が

貯まっていくのはどこの国だ?五郎左衛門も頭がぼ

けたか?」

五郎左衛門も信長がそこまで先読みしていたとは知

らず、「あっ!」と驚いたまま開いた口がふさがらな

い。信長は相変わらずニヤニヤしている。が、長秀

が一つだけ思いつき、

「金が貯まるのは尾張と三河ですな!」

と答えると、今度は信長の口が「あっ!」と空いた

ままふさがらない。冷静に考えると、意外にもこの

戦乱の世の中で十分な軍資金を蓄えることのできる

環境にあるのは尾張と三河だけであった。

「う~む。あの三河の大たわけは、桶狭間での無作

法を含めてやることなすことでたらめだが、非常に

強い運を持っていると見えるな」

「御意。好き嫌いは別にして、松平元康殿(のちの

徳川家康)とは、『しばらくは極端な軍はせぬよう』

打ち合わせしておく必要がありますな。あと、『大た

わけ』が自分の置かれた良い環境と強運に気づく前

に我が陣に取り込んでおく必要があるかと」

「儂もそう思う。特に長男竹千代が数えで二歳、今

年は長女の亀姫も生まれておるからかなり気合も入

るであろう。そのほか特に動きはあるか?」

「先ほど申し上げた三好長慶殿に関して、家宰の松

永弾正忠久秀殿という人物が、かなり力を蓄えてお

るようで、今回の河内十七ヶ所の陣の後、大和を制

圧して御城(多聞城)の作事を開始したとの事。あ

の管領を管領とも思わぬアクの強い三好長慶殿の下

でそつなく事業をこなすとは、これですな」

といいながら、長秀は自分の眉間の辺りを人差し指

で横にすっと引くしぐさをする。いわゆる「頭が切

れる」という意味である。

 新しい人物が新しい波を起こしてゆく。そして波

は時の流れとなり久しくとどまることは無い。すく

なくとも織田信長・柴田勝家・丹羽長秀の三人は新

しい波の頭にのっており、周囲に湧き上がる新しい

波頭を冷静にながめていた。

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巻二の四 『二寸殿(にきどの)』のこと

2025-03-30 00:00:00 | 連続読物『いいかよく聞け、五郎左よ!』
<初出:2007年の再掲です>

巻二の四 『二寸殿(にきどの)』のこと

 丹羽長秀もできるだけのんびりと、できるだけ敵

の目の届く木曽川に近い街路を、愛馬『二寸殿(に

きどの)』にまたがって行く。金糸・銀糸の『狩衣』

であでやかに着飾り、『二寸殿』も轡・貝鞍(螺鈿

細工の鞍)・泥障(あおり)・鐙・腹帯(はるび)

に鞦(しりがい)と皆具に仕立て、総体に金覆輪を

ほどこしてあり、目もくらむようなきらびやかさで

ある。『二寸殿』もこれには上機嫌らしく、しきり

に長秀の握る手綱を「ぐいっ、ぐいっ」と前に引っ

張って鼻を鳴らし、「いいね、いいね」と主人に伝

える。

 丹羽長秀が二寸殿にであったのはいまから三年ほ

ど前の弘治三年(1557)年末、織田信長が舎弟

勘十郎信行を誅殺した一件の直後であった。出合っ

た時三歳の駒であったので現在は五歳ということに

なる。当時日本では南部(陸奥・陸中=青森・岩手)

の駒が飛び切り有名で、また飛び切り高価でもあっ

た。というのも、日本全国で有名なため馬の価格自

体が高い上に、馬喰が南部から都まで往復する輸送

経費が加算されるからである。尾張国では名馬を購

入するというよりも、『飛び馬』として「長い時間

倒れず走る馬」を求めていたので、もっぱら近隣の

飛騨・木曽や越中の『脚の強い馬』を購入していた。

ちなみに馬は上背を地面から肩までの高さではかり、

四尺(約121cm)が大きい馬の評価基準となっ

ていた。源平盛衰記では四尺七寸(よんしゃくなな

き=約142cm)で「太くたくましい馬」と記さ

れている。(注1)

 ある時、飛騨・木曽の馬喰が上半身を真っ黒に汚

し、ぐったりして岩崎城下に馬を引いてきた。通常

であれば門を開け城内で価格交渉を始めるのだが、

門番が「あまりにもくさいので城外で待機させてあ

る」と申上してきた。五郎左衛門が門外に出てみる

と、小さい馬が糞をひり散らしながら大暴れしてい

るので、馬喰以外近づけない状況であった。馬喰が

ぐったりしている理由も、一目見ただけでわかる。

おそらく木曽の谷からここまで三十八里(約150

km)を六日ほどかけてたどり着いたのだろうが、

寝ずに世話していたようすがありありである。当の

馬喰も主たる丹羽長秀が出てきたというのに、

「だからわしはこんな馬つれてきたくは無かったの

だ。もうどうにでもしろ!わしゃ知らん!」

とわめき散らしている。ところがどうしたことか、

五郎左衛門がその馬に近づき目を合わせると、“ぶ

るるっ”と鼻を鳴らして急に静かになったので、馬

喰もあっけに取られている。正気を取り戻した馬喰

がやっと、厩で馬体を全てきれいに洗い上げたので

あった。その後も他のものが近づくとすこぶる機嫌

が悪く、五郎左衛門がそばにいるときだけ機嫌がよ

かった。

 木曽からつれてこられたこのはた迷惑な馬は、肩

の高さ四尺二寸(よんしゃくにき=127cm)し

かなかったため、もともと『木曽二寸(きそにき)』

と呼ばれていた(注2)。体は小さいがすばしこく、

木曽の山道できたえられた脚力をいかして、八方飛

びのように一瞬で飛びのく特技を持っていた。前足

を微妙に折りたたみながら後ろ足を蹴り上げるよう

にしてえびぞりし、思いっきり後方に飛び退るので

ある。この変わった飛び方が京の五条の橋の上でか

ろやかに弁慶の攻めをかわした牛若丸(=源義経)

を思い起こさせ、『五条二寸(ごじょうにき)』と

改名された。この『五条二寸』は木曽にいたとき、

気が向かないと全く動かないくせに、いくさ場で相

手が強敵と見ると乗り手の手綱さばきを無視して敵

陣に突進する癖があり、猛突進して急に止まるわ八

方飛びで飛び退るわで、全んどの乗り手を敵陣で振

り落としてしまった。そのためこれまでこの馬に乗

って戦に出て、生きて帰れた木曽の武将は一人もい

なかったそうである。またいくさ場で興奮すると、

八方飛びをしながら糞をひり散らすという悪癖をも

っており、『五条二寸』の乗り手を討ち取った敵将

も乱戦の最中に糞まみれとなり、勝っても身方から

笑われるという、実に情けない有様である。身方か

らも敵からも全く嫌われていた。長秀が馬を予約す

るときに木曽駒を管理する武田家から「この馬だけ

はやめておいたほうがよい」と何度も忠告されたが、

信長・勝家が面白がり、自分でも「そこまでひどい

馬なら見てみたい」という天邪鬼的興味から注文を

入れたのであった。

 最初のこの様子を見た城下の民からは、『糞二寸

(クソにき)』と陰口を叩かれたが、その後、身の

丈六尺の長秀が四尺二寸の小さい馬と心を合わせて

乗りこなし、数々の実績を上げる様子を見ると、尊

敬の意味をこめていつしか『五郎二寸(ごろうにき)』

と呼ばれるようになった。また馬に乗った丹羽長秀

に家臣が「殿っ、殿っ」と呼びかけるのを、自分が

そう呼ばれているのと勘違いして鼻を振るって喜ぶ

ので、家臣たちも冗談でこの馬に『二寸殿、二寸殿!』

と呼んでいたところ、この呼び方が清洲などにも伝

わり通例となったのであった。

 尾張に入って二年もたつと、二寸殿も堂々とした

ものである。今日もすばらしい馬具を身にまとい、

丹羽長秀をのせて未だ猛暑の木曽川沿いの道を行く。

肩高に比べてふさふさと豊かな黒いたてがみが、木

曽の川面の秋風にたなびいている。川沿いの道を悠

然とまっすぐと「二人で」進んでいく。


注1)現代のサラブレットは肩高160~170cm

なので当時の『大きい馬』はかなり小さい

注2)古語で「寸」という字を「き」と読んだ。し

たがって 「二寸」と書いて「にき」と読む

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巻二の三 五郎左衛門、再び動き始めること

2025-03-23 00:00:00 | 連続読物『いいかよく聞け、五郎左よ!』
<初出:2007年の再掲です>

巻二の三 五郎左衛門、再び動き始めること

 桶狭間の戦後処理も一段落し、丹羽五郎左衛門長

秀は織田上総介信長・柴田権六勝家と打ち合わせた

任務を実行すべく準備に入る。状況に応じて柔軟に

動けるように、三人はあまり杓子定規な業務分担は

していなかったが、実質上それぞれの特性が生きる

よう、

*織田信長:政治・経済・文化・軍事に関する最高

 意思決定、及び他国との連関の方向性指示

*丹羽長秀:他国との連関を取次ぎ衆としてとりま

 とめ、及び諜報・謀略を含めた情報活動

*柴田勝家:主に軍事活動の最前線と本城の間の兵

 站、本城からの戦略指示の実行と指導、及び優秀

 な軍兵の募集・訓練

となりつつあった。特別な案件はその都度打ち合わ

せを行なうこととなる。丹羽長秀は予定通り、美濃

方面の調略に取り掛かる。黒田城は、表向き城主和

田定利が「信長に忠誠を尽くす」旨の言質をよこし

ているので問題なし。於久地城は、中嶋豊後守が城

主として在城しているが、和田がにっこりと「お任

せを」と申上してきているので特に問題なかろう。

問題は犬山城の織田信清であるが、家系図から行け

ば信長の従弟にあたるので、時間をかければ説得で

きるはず。それよりも、「『父殺し』の主斎藤義龍の

元では働きたくない」と申上する家臣が美濃に多く

出てきており、兵員の士気が極端に下がっているら

しい。黒田城の和田定利のいうとおり、「織田軍に

軽く攻められてから降参し、すぐに織田信長に従い

たい」という兵が多く、「美濃の各地域が織田軍か

ら攻められるのを待っている」といった異常な状況

である。こんな様子ではまじめに主のために命をな

げうつ者などいない。逆に言えば織田信長・丹羽長

秀・柴田勝家三人の考え付いた『敵を内部から崩壊

させる戦略』は、表面的に武器を使って攻め込むよ

り、敵にはるかに甚大で残酷な被害を与えていた。

おそるべき青年たちである。

 また、一般的に諜報・謀略というと、何か「人に

わからないように・隠密に」という印象があるが、

かえって近隣各国に名の知れた超有名な武将が、相

手からわかるような場所を動き回るというのも、

「本当に何か調査しているのか、それとも陽動作戦

か」と敵を疑心暗鬼に陥れる戦略として効果的であ

った。

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巻二の二 信長、松井友閑から叱られること

2025-03-16 00:00:00 | 連続読物『いいかよく聞け、五郎左よ!』
<初出:2007年の再掲です>

巻二の二 信長、松井友閑から叱られること

 一般的に、戦国時代というと『下克上』という言

葉がすぐ出てくる。『下克上』というのは「下位の

ものが上位のものを凌駕すること」の意味であり、

もともと中国の春秋戦国時代に使われていた言葉が

日本に定着したものである。織田信長・丹羽長秀・

柴田勝家の三人が生きているこの時代にも『下克上』

という言葉は使われているが、三人とも「どれだけ

勢力を伸ばしても『下克上』だけは避けよう」と申

し合わせている。というのも中国古代の『下克上』

という言葉は、もともと陰陽五行説の『相生説』

『相剋説』に源を発していて、「下位の者が政権・

王位を手にするのは天の決めた運命的なめぐり合わ

せによる」という意味を持っている。決して「下位

の者が自由に上のものを討ち倒してよい」と言う意

味ではない。源平の争乱以来、主君を裏切ったり弑

逆したりした者がどういう末路をたどったか、三人

ともよく古書を読んで研究している。

・遠くは源義朝を尾張で謀殺した長田忠致

・近くは土岐頼純を殺害した斎藤道三

などが代表的な例である。『下克上』して長続きし

た者など聞いたことがない。今回の桶狭間の戦いの

時も、尾張国守護としての斯波義銀が織田信長の進

軍路を背後から襲う計画が事前にわかっていたが、

「守護から開戦の了承を得ている」状態にしておき

たかったため三人合意の上でわざと泳がせておき、

戦後殺害はせず国外追放としたのであった。どこか

ら見ても武衛公義銀に対して『下克上』はしていな

い。

 久しぶりに柴田権六勝家が、駿河衆の撤退した鳴

海・大高城の手当てを終えて清洲城に帰ってきた。

「殿、ご無沙汰致しましたが、ご機嫌いかが?」

とひげの中の大きな口を“にっ”と首を前に突き出し

て笑みながら申上すると、織田信長も薄ひげの真っ

赤な唇で“にっ”と首を前に突き出して笑みながら、

「その方こそ大儀であった!」

と答える。その横でいつもどおり、“ぶすっ”とした

表情の丹羽長秀が杓子定規に軽く会釈する。見慣れ

たいつもの光景である。勝家が長秀に

「五郎左衛門殿、岩崎城の面々はよく鍛えられてお

りますな。今回大変お世話になりました」

と述べる。これは桶狭間開戦前、丹羽長秀が黒田城

の和田定利を訪問することになり、東部方面の押さ

えに回る柴田勝家が長秀の出発した後の岩崎城を活

動拠点としたので、そのときのお礼を伝えたもので

ある。勝家が“にっ”と首を突き出して笑顔を見せる

と、仏頂面の長秀が思いっきり“にっ”と首を突き出

して笑みかける。長秀としては「こんな儀式は馬

鹿らしい」と思うが、信長が「父備後守(信秀)殿

から『武士は莞爾として死すべし』(武士は笑顔で

死ね!苦しみもだえる首を人に見せるな!)といわ

れておる。この三人だけで出会うときは笑顔で会お

う!」と申し出て、道理も間違ってはいないので従

うことにしている。長秀の引きつりそうな笑顔を見

て信長が“ぷっ”と吹き出し、この儀式が終わる約束

である。

 いつもの儀式が終わり、取り急ぎこのいくさでの

損得勘定と今後の見通しについて即座に打ち合わせ

に入る。これから先は笑顔の取り決めはない。

*まず今回の軍は、表向き「たまたま今川治部少輔

 義元を討ち取ってしまった」という話になってい

 るので、新規に手に入れた領地は"原理的に”無い。

 軍の作法をまもって進軍し、道理に基づいて戦後

 処理を行なったので、京都を含めた周辺各国から

 の評判は飛躍的に高くなったという『得』はあっ

 たものの、すぐに尾張の収益にはねかえってくる

 わけではないので今は評価できない。

*つぎにかかった経費について。

 ①参加した兵員は事前準備・城の守備隊も含めた

 延べ人数としてみると五千人×七日間=三万五千

 人・日。参戦手当てとして一人一日あたり四百文

 (四万八千円)支払うものとすると合計一万四千

 貫文(十六億八千万円)となる。死亡した者に対

 しても、この手当てを遺族に支払ってある。

 ②桶狭間に向かった追手・搦め手の員数を五千名

 とすると兵員が使用した武具・馬具等一式一人あ

 たま八貫文(九十六万円)として、合計四万貫文

 (四十八億円)

 ③丹羽長秀以下、敵の調略に使った経費を一万貫

 文(十二億円)他の経費もあるが、上記三科目だ

 けでも六万四千貫文(七十六億八千万円)かかっ

 ている。

*尾張の国の年間収入予想について。

 ①尾張では米を換金作物としているので、まず水

 田の面積を見ると五万町(五万ha)とする

 ②一町あたり四十石(五.四トン)収穫できるも

 のとすると国全体で二百万石(二十七万トン)が

 最大枠

 ③今現在の相場で一石あたり七百文とすると、米

 総収穫高は二百万石=百四十万貫文(一千六百八

 十億円)であり、税率を収穫高の一割五分とする

 と国としての税収予想は二十一万貫(二百五十二

 億円)となる。ただしこれも、梅雨明けから天候

 が順調に推移し、順調に秋に収穫できればの話で

 ある。


 三人がどこからどうつついても、「桶狭間の戦い

で年間予算の三分の一を使ってしまったのは事実。

この分では、あと一~二年の間は今回と同規模の軍

は避けるべき」という結論しかでてこない。

「軍を起こすとしたら勝って新規に領地を手に入れ

るなど必ず『得』することが必要」

との認識である。当面の間米以外の作物栽培を奨励

し、作物以外の工芸品も税率を下げるなど、領民の

生産意欲を向上させることが急務である。それに連

動して各種作物・工芸品の販売権を持つ問屋たちに

「一定期間販売口銭を我慢してもらい国の税収確保

に協力してもらう」よう交渉する必要もある。なお

米については例年六~八月の端境期に価格が上がる

傾向があり、「今年に限って端境期の米販売を絞り

こみ、米単価を高めにつり上げておき、他地域より

も先んじて収穫し高値の時に売りさばき現金化する。

多少の顰蹙は頭を下げてあやまる」という方針を三

人で確認した。

 織田信長・丹羽長秀・柴田勝家の清洲城における

重要な打ち合わせは、意外にも一時(二時間)もか

からないで終了した。

「五郎左衛門よ、お前もバタバタ忙しかっただろう

が、そのような中でここまでまえもって案をまとめ

てあるとは感服した。やはりあの、お前が鍛えてい

るという『ハゲザル』が下ごしらえしたのか?」

と信長が問う。

「『ハゲザル』というよりはちょこまか動いておる

から『ハゲネズミ』であろう」

と、勝家が自分のひげをくるくるよじりながらつ

まらなそうに茶々を入れる。

「『ハゲネズミ』は背が低いくせに目線を上から下

に向けるように話すし、何かすました顔をするし、

人の懐中に飛び込んでくるようなけなげさも見えな

いし、その代わり気がよくつくし仕事はやるし・・

おお、決して五郎左衛門の事を悪く言っているので

はないぞ」

「まあかまわぬ。城中の評判もあらかた権六が言っ

たとおりだ。もう少し世間並みの付き合い方がわか

ればいいのにと思うが、藤吉郎には藤吉郎の美学が

あるらしいからな。ただまあ、切れる切れる、ここ

がな」

といいつつ眉間の辺りを人差し指ですっと切るマネ

をする。

 三人の重要な打ち合わせが終わり雑談に入ってい

たところ、部屋の外から

「失礼仕る。丹羽五郎左衛門殿はおいでか」

と呼ぶ声がする。織田家が他の名家と違っていたの

は、重要な打ち合わせをしているときでも下臣の呼

びかけがあればそちらを優先することであろう。織

田信秀以前からこのしきたりがあったようだ。この

ときは桶狭間戦の下ごしらえで活躍した松井友閑の

使者が到着したようであった。呼びかけにこたえて

丹羽長秀が部屋の外に出て友閑の使者への応対をす

る。すぐに戻ってきてムッとした表情で信長をにら

みつける。

「殿、いや三郎!いいかげんにしておけよ!」

と長秀が怒鳴る。

「何をいきなり。儂には何のことか、何が何やら・・」

と困ったような振りをしながら、信長はあさっての

方向を向いている。

「では殿、ご説明申し上げる。尾張のどなたかが、

金を受け取るときは『新銭で』といい、金を払うと

きは『鐚銭(びたせん)で』といっておるものだか

ら、困った商人たちが松井友閑のところに苦情をあ

げてきておるらしいぞ。これで如何?」

このころ商取引上、中国は明の国から来た『永楽通

宝』が一文銭として流通していたが、古くなって欠

けたりした一文銭を『鐚銭(びたせん)』と呼び、

世間は嫌い敬遠していた。そのため地域によって、

新銭と鐚銭の交換率を決めて使用していたのだが、

松井友閑によれば信長は『一:四』などというひど

い交換率を指示していたようである。『新銭』で金

を受け取り『鐚銭(びたせん)』で支払えばえらい

ぼろ儲けができるという仕組みである。

「う~む、う~む、う~~む、『尾張のどなたか』

とは儂のことか。ばれたか。ばれたら仕方が無い。

申し訳ない。『これからは無茶はしないから』と友

閑に伝えておくように」

また信長も、こういうインチキを平気でやるし、

あやまり方も本気かどうかわからない。しかも

「これからは無茶しない」とはいったいどういう

ことか?何もいっていないのと同じではないか!

「では!」

といきなり席を立ちいつもの源平盛衰記を胸元に

突っ込み両側の股立ちを取り、廊下をたったと走

っていく。長秀も勝家も、信長の逃げる様を大笑

いで見送るしかなかった。

 ただ気がつけば、商品相場の操作・経費のかか

らない得する軍・問屋との口銭交渉というものす

ごい難事を丹羽自身と木下藤吉郎・松井友閑に任

した形になっている。信長の、自然に人を巻き込

んで働かせる能力は恐ろしい程であり、長秀は一

人身震いするのであった。

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<JR岐阜駅前の黄金の信長公像>
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