<初出:2014年の再掲です>
巻三の五 松平家康、三河一向一揆を平定すること
永禄七年(一五六四)三月、岡崎城の大広間脇の
一室で松平家康は苦々しい顔をして着座している。
正面には家康を睨みつけるように石川数正、あさっ
ての方を向いて鼻毛を抜く酒井忠次が座る。松平家
康の暗黒部分(起請文破り、密貿易など)を受け持
つ大久保家一行(忠員と忠世・忠佐の親子)は御城
から二十町(約二・二km)南方面に位置する上和
田の前線から、三河各地を行脚していまここにはい
ない。したがって今回は、家康は苦しんでも自分自
身で結論を出す必要のある寄り合いである。戦線を
終息させる手段はあきらかであり、両家老からすで
に解決案が出されていたのだが、家康だけが承服し
ていない。
例えば従来の鎧札(よろいざね)は絹糸で縅すの
が普通であったが、応仁の乱以降戦乱が常態化する
と絹糸の相場が大暴騰し、日本全国で
「鎧を大量に用意すると戦費がかさむ!」
と悲鳴が上がっていた。当時東海地方では、木棉
(きわた)の栽培から強い糸を作ることに成功して
おり、安価な「鎧札の縅し」として重宝され始めて
いた。農家は税を御国におさめ、一部を寺院に上納
していたが、松平家康は松平一派を通してこれに課
税しようとしたからたまらない。農家・商家・武家
と檀家・寺院が複雑に絡む内戦へと発達したのが
『三河一向一揆』の発端であり、実はこれは「宗教
戦争」ではなく「経済戦争」であった。
ようするに、
「儂が悪かった。寺社への寄進は従来通りで構わん」
と家康が頭を下げれば戦線は講和に向かうであろう
ことは、大久保家と一揆方の首領蜂屋半之丞講和と
の数度にわたる密談で明白となっていたのである。
「殿!はやくご決断を」
石川数正が口火を切る。
「儲けを取ろうとする殿のお気持ちは重々承知して
おりますが、今の蓄えではこれ以上戦線の維持がで
きなくなりますぞ!蜂屋一党も殿が詫びれば戦線を
終息すると内密に報せをよこしてきておりますぞ!」
「まあ殿が今川治部少輔殿(今川義元)の子息(氏
真)を御油で撃退した戦いは京の都でも評判とのこ
とですぞ」
口のうまい酒井忠次がニヤニヤしながら申上する。
石川は甘言の人酒井を匕首で刺すようににらむ。
「殿、困った時は殿が尊崇する尾張の上総介殿のま
ねをされたらいかがか?」
苦々しい顔をしていた家康が忠次の方に「えっ、そ
れは?」という顔を向ける。
「上総介殿は戦上手と思われておりますが、実は経
済に明るい丹羽五郎左衛門殿や計数に明るい木下藤
吉郎殿が領内の経営を任され、軍の組み立ては柴田
権六殿が指揮し、商いは松井友閑殿に実権を握らせ
ております。また領内の産業については、尾張国と
して保護する旨の免状を発給し領民から感謝され、
寺社への寄進と税収の確保を同時に実現しておりま
す。良いところはすぐにまねしてよいのでは?昨年
末の瀬戸の陶業保護のように」
「わかった。石川、酒井、よきにはからえ!大久保
家一行の話も正確であろうから、儂が自ら領内の民
に頭を下げた方がよければ頭を下げて回ろう!」
"『三河の気のはやる殿』は焦って国の状況をひっか
きまわすことも多いが、正しく時代を歩むことに関
しては信長との清州同盟と同様、適確な判断をする
人物である”と、近臣の石川・酒井・大久保は見て
いた。つき従う価値のある『気のはやる殿』である。
永禄七年(一五六四)二月二十八日、松平家康方
と蜂屋半之丞方の講和が成立し、三河一向一揆は終
結した。家康一行は“一向一揆を征伐したお礼のた
め”と称してはいたが、実質的には“不作法な軍のお
詫びと産業保護・寺社保護の約束”をするため、領
内の有力武将・商家・神社・仏閣のところを訪れて
いた。しばらく御城に戻れる暇はない。ついでの動
きが得意な家康は、この三河一向一揆の間、一月十
一日の三河上和田の戦いで東条城を攻撃し、三河の
領主であった吉良義昭を追い落とし、六角氏方に亡
命させていた。
「あとは信長兄者に相談して、吉良殿を放逐した大
義名分を作ってもらい、黒田城の和田殿(定利)を
通じて朝廷に認めてもらおう。いくらくらいかかる
かな?」
と、いざとなると人任せで、脳天気な殿である。た
だ恐るべきことに、大久保一家の張り巡らした情報
網で、信長と京都との連絡網の仕組みをほぼつかん
でおり、情報が戦略上重要であることを信長同様身
をもって知っている『気のはやる三河の殿』であっ
た。
巻三の五 松平家康、三河一向一揆を平定すること
永禄七年(一五六四)三月、岡崎城の大広間脇の
一室で松平家康は苦々しい顔をして着座している。
正面には家康を睨みつけるように石川数正、あさっ
ての方を向いて鼻毛を抜く酒井忠次が座る。松平家
康の暗黒部分(起請文破り、密貿易など)を受け持
つ大久保家一行(忠員と忠世・忠佐の親子)は御城
から二十町(約二・二km)南方面に位置する上和
田の前線から、三河各地を行脚していまここにはい
ない。したがって今回は、家康は苦しんでも自分自
身で結論を出す必要のある寄り合いである。戦線を
終息させる手段はあきらかであり、両家老からすで
に解決案が出されていたのだが、家康だけが承服し
ていない。
例えば従来の鎧札(よろいざね)は絹糸で縅すの
が普通であったが、応仁の乱以降戦乱が常態化する
と絹糸の相場が大暴騰し、日本全国で
「鎧を大量に用意すると戦費がかさむ!」
と悲鳴が上がっていた。当時東海地方では、木棉
(きわた)の栽培から強い糸を作ることに成功して
おり、安価な「鎧札の縅し」として重宝され始めて
いた。農家は税を御国におさめ、一部を寺院に上納
していたが、松平家康は松平一派を通してこれに課
税しようとしたからたまらない。農家・商家・武家
と檀家・寺院が複雑に絡む内戦へと発達したのが
『三河一向一揆』の発端であり、実はこれは「宗教
戦争」ではなく「経済戦争」であった。
ようするに、
「儂が悪かった。寺社への寄進は従来通りで構わん」
と家康が頭を下げれば戦線は講和に向かうであろう
ことは、大久保家と一揆方の首領蜂屋半之丞講和と
の数度にわたる密談で明白となっていたのである。
「殿!はやくご決断を」
石川数正が口火を切る。
「儲けを取ろうとする殿のお気持ちは重々承知して
おりますが、今の蓄えではこれ以上戦線の維持がで
きなくなりますぞ!蜂屋一党も殿が詫びれば戦線を
終息すると内密に報せをよこしてきておりますぞ!」
「まあ殿が今川治部少輔殿(今川義元)の子息(氏
真)を御油で撃退した戦いは京の都でも評判とのこ
とですぞ」
口のうまい酒井忠次がニヤニヤしながら申上する。
石川は甘言の人酒井を匕首で刺すようににらむ。
「殿、困った時は殿が尊崇する尾張の上総介殿のま
ねをされたらいかがか?」
苦々しい顔をしていた家康が忠次の方に「えっ、そ
れは?」という顔を向ける。
「上総介殿は戦上手と思われておりますが、実は経
済に明るい丹羽五郎左衛門殿や計数に明るい木下藤
吉郎殿が領内の経営を任され、軍の組み立ては柴田
権六殿が指揮し、商いは松井友閑殿に実権を握らせ
ております。また領内の産業については、尾張国と
して保護する旨の免状を発給し領民から感謝され、
寺社への寄進と税収の確保を同時に実現しておりま
す。良いところはすぐにまねしてよいのでは?昨年
末の瀬戸の陶業保護のように」
「わかった。石川、酒井、よきにはからえ!大久保
家一行の話も正確であろうから、儂が自ら領内の民
に頭を下げた方がよければ頭を下げて回ろう!」
"『三河の気のはやる殿』は焦って国の状況をひっか
きまわすことも多いが、正しく時代を歩むことに関
しては信長との清州同盟と同様、適確な判断をする
人物である”と、近臣の石川・酒井・大久保は見て
いた。つき従う価値のある『気のはやる殿』である。
永禄七年(一五六四)二月二十八日、松平家康方
と蜂屋半之丞方の講和が成立し、三河一向一揆は終
結した。家康一行は“一向一揆を征伐したお礼のた
め”と称してはいたが、実質的には“不作法な軍のお
詫びと産業保護・寺社保護の約束”をするため、領
内の有力武将・商家・神社・仏閣のところを訪れて
いた。しばらく御城に戻れる暇はない。ついでの動
きが得意な家康は、この三河一向一揆の間、一月十
一日の三河上和田の戦いで東条城を攻撃し、三河の
領主であった吉良義昭を追い落とし、六角氏方に亡
命させていた。
「あとは信長兄者に相談して、吉良殿を放逐した大
義名分を作ってもらい、黒田城の和田殿(定利)を
通じて朝廷に認めてもらおう。いくらくらいかかる
かな?」
と、いざとなると人任せで、脳天気な殿である。た
だ恐るべきことに、大久保一家の張り巡らした情報
網で、信長と京都との連絡網の仕組みをほぼつかん
でおり、情報が戦略上重要であることを信長同様身
をもって知っている『気のはやる三河の殿』であっ
た。