『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

巻四の十 信長、美濃国を平定すること

2020-06-06 00:00:00 | 連続読物『いいかよく聞け、五郎左よ!』
<初出:2016年の再掲です>

巻四の十 信長、美濃国を平定すること

 永禄十年(一五六七)八月一日、美濃三人衆

(稲葉伊予守良通・氏家卜全直元・安東伊賀守

守就)が「身方に参るので人質を差し出したい」

と信長に申上する。村井民部丞貞勝・嶋田所之助

秀頼が西美濃へ受け取りに向かうが、信長は人質

も参上しないうちに軍勢を出し、井口と山続き

の瑞竜寺山へ駆け上らせ、井口の町に火をつけ

はだか城にした。これこそ織田信長・丹羽長秀・

柴田勝家の尾張の三巨頭が木下藤吉郎・松井有閑

などを用いて画策してきた「美濃国の内部崩壊」

の総仕上げである。

 実は前年の永禄九年(一五六六)九月に木下

藤吉郎が洲俣一夜城を造営し、木曽川・長良川

どちらの水運も織田方が掌握したことを美濃の兵

に見せつけた時、信長・藤吉郎の二人の発案で

尾張の兵の装束は全て三河木綿 (きわた)を

使用してきらびやかに仕立てさせていた。美濃の

兵が口をぽかんと開けてこのきらびやかな装束

を眺めていたのを現場の藤吉郎はニヤニヤして

みていた。ようするに「木曽川上流の武田信玄も、

三河を平定した松平家康も尾張の織田軍を支援

しているぞ!」という脅しである。ちなみに木綿

の供給の見返りとして、永禄九年十二月、松平

家康は従五位下三河守に任ぜられ「徳川家康」と

名乗ったのであった。すべて信長と和田伊賀守

惟政・新介定利の兄弟と細川兵部大輔藤孝の皇家・

将軍家連絡網を通じて実現されたものである。

永禄十年五月、信長の女五徳と徳川家康の嫡男

竹千代(信康)婚儀が成立した。古来日本の

婚儀は「新郎が新婦側の実家を大切にする」のが

基本であり、両家にとって願ったり叶ったりで

あった・・ように当時は思えたのだが・・

 永禄十年八月十五日、包囲された稲葉城の

敵は降参し、斎藤竜興は飛騨川経由で川内長嶋

に退散した。信長は小牧山城から美濃稲葉山城

へ移り、井口という名を「岐阜」という名に呼び

あらため、加納に楽市を設けるなど早速地域経営

に着手する。美濃国はこうして平定されたので

あった。一部の頭の固い美濃国の旧臣以外は、

「はやく信長公の経営する場所で盛んな商いを

やってみたい!」という人々ばっかりであった

ので、美濃平定後全く経済的混乱はない。九月

には一度お市との婚儀を拒否した浅井長政方から

急ぎ美濃福東城主市橋長利を介して、信長に

同盟を求めてくる。この秋の米相場は収穫期の

大雨により大暴騰し、2年前に仕込んだ古米を

計画通り藤吉郎・有閑が売りまくり、数十年に

一度と思われる莫大な利益が織田信長の元に

転がり込む。数年前は一度死にそうな目に会い、

時は淀んだように思えたが、時の流れは信長・

長秀・勝家が想像しなかった激しさでうねり

始めていた。

                巻四完


**純野のつぶやき**

以前書き溜めた読み物の再掲もこれで一段落

です。巻五は信長公が足利義秋(義昭)を担い

だ上洛戦となりますが、仕事が忙しいのでいつ

着手できるか・・ただ、当ブログの“信長から細

川藤孝への手紙”のカテゴリーにもあるとおり、

細川兵部大輔藤孝がどのようにかかわるかが

焦点になるでしょう。

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巻四の九 信長、手順前後のために命を失いかけること

2020-06-05 00:00:00 | 連続読物『いいかよく聞け、五郎左よ!』
<初出:2016年の再掲です>

巻四の九 信長、手順前後のために命を失い

かけること

 永禄九年(一五六六)九月上旬、信長は

何もしないで清洲城北やぐらに居る。何も

していないというか、泥だらけ・総崩れの

撤退戦で危ういところで命が助かったばかり

であったので心があらためて動き始める

までの待機状態ともいえる。信長はこの

数日気が付けば「何故このような手順前後

が起きたのか・・」とつぶやいている。

 事前に近江で足利義秋をかくまっている

和田伊賀守惟政と細川兵部大輔藤孝に

依頼しておいた通り、「足利の名を継ぐ

義秋として美濃の斎藤軍と尾張の織田軍

に講和を命ずる」手はずが整っていた。

ただし、一つ目の手違いがあり、実は義秋

側では「両陣営の講和が成った場合信長

が義秋を迎えに行き将軍として上洛させる」

目論見を立てていたのだが、和田伊賀守

も失念したのか信長側にこのことを連絡

できておらず、したがって信長側は美濃

と尾張の講和までしか物語をしらない。

もう一つの手違いは、美濃の斎藤竜興の

所にも講和の話が伝えられ「講和も致し方

なし」と覚悟を決めていたところであった

のに、何故かわからないが「義秋は講和

の後で完全に信長を担ぐ気でいる」と伝わっ

てしまったのであった。

 事情を知らない信長一行は、和田方から

連絡を受けた八月下旬に講和の前の参会

のために木曽川を渡り河野島に陣を取る。

ただ講和のための参会にしては斎藤軍は

あまりにも実戦武装を固めており、信長

以下「これはなにかおかしい。講和の参会

のための装束ではない。一度引き返した

方がよい」と全員一致で撤退することを

決めた。ところが季節柄、ものすごい

暴風雨に巻き込まれて木曽川・境川とも

に水が出て両軍立ち往生してしまう異常

事態となってしまった。信長の頭に不安

がよぎる。父信秀も美濃侵攻から撤退する

時に当時の斎藤山城守(道三)から痛い

目にあわされているし、「これでわが命

が終わるのか・・」と覚悟を決めていた。

予想通り「撤退は明朝から」と決めていた

前日の夕刻、撤退準備中の陣へ美濃軍が

攻め込んできた。不意を突かれた信長軍

は這う這うの体で木曽川を渡り撤退いや

逃げ延びたのであった。泥だらけの姿で

清州に戻る途中、近江方面から「足利

義秋が『準備万端整えてやったのに信長

は手はず通りに動かなかった!』と謗って

いる!」との噂話が飛び込んでくる。ことの

是非を調べる必要はあるが、死にそうな

目に合った上に信長の面目丸つぶれである。

実は足利義秋らは頼りにした佐々木六角

義賢から支援を断られ、丁度信長が河野島

に入ったその日に近江八島を脱出しており、

連絡の訂正が互いに取れなかったという

次第であった。

 信長は基本はのんびりした性格であるが

一度受けた仕打ちは絶対忘れず報復する

執念深さを持っている。

「おい、藤吉郎はおるか?」

「ははっ、ここにて!」

「信玄殿と打ち合わせた木曽川上流の商い

はどのようになっておる?」

「ははっ、先方の申し出どおり『過書

(=勘過状)』の費用をきちんと払い始めた

ところ、材木から金から当方の望むものは

何でも提供して頂いております。」

「なるほど、さすればこういうことは可能

かのう・・」

といい、内緒話のように藤吉郎に耳打ちする。

信長は話し終わると「ぷっ」と吹いて笑い

始めるし上様との話のはずなのに藤吉郎も

にやにやし始める。

「御意、さっそくとりかかりましょう!」

 永禄九年(一五六六)九月五日、木下藤吉郎

が主体となり、信長軍は飛騨川北方の渡し

から水路を下り洲俣に入り、一五六一年以来

久々に、洲俣城を柵を廻し造営した。竜興軍

の妨害を三千名で阻止し城を造営し保持する

ことに成功した。世にいう「藤吉郎の一夜城」

である。斎藤竜興の家臣たちもこの洲俣城

再構築を見てほぼ戦意を喪失したものと

思われる。なぜなら、木曽川の水運だけで

なく飛騨川・長良川まで信長の管理下に

入ってしまったことを示す出来事であった

からである。九月二十五日には藤吉郎から

信長へ飛報が届く。信長は今回の大洪水

で収穫直前の稲が各所で流されてしまった

と推定し、松井有閑に保管していた昨年

の米を高値で売る準備を命ずる。しばらく

は近江八島から追い出された足利義秋一行

については、先方から知らせがない限り

動かないと決めた。

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巻四の八 信長、離れている細川藤孝と強い結びつきを持つこと

2020-06-04 00:00:00 | 連続読物『いいかよく聞け、五郎左よ!』
<初出:2016年の再掲です>

巻四の八 信長、離れている細川藤孝と強い

結びつきを持つこと

 永禄八年(一五六五)の年末、美濃の内部

崩壊を促進するため、また美濃包囲網を確実

にするため、信長は武田信玄との関係修復を

図る。本年春先、信玄と東美濃の遠山領で

小さい衝突があったが実は両軍とも本気で戦う

つもりはない。「美濃攻略のためには木曽川

海運で物資を運ぶ必要があるだろうから、

過書(=勘過状)の費用をきちんと払って

うちを頼りなさい!」という信玄側の無言の

圧力なのであった。信長は一度遠山友勝の女

(むすめ)を養女にしていたものを信玄の子

勝頼に嫁がせるべくこれまで水面下で調整

しており、この十一月正式に認められたもの

である。これにより、織田軍と武田軍の緩い

同盟関係が成立することになった。信玄の

嫡子は義信であったが、この夏謀反の疑い

により信玄がこれを幽閉していたため勝頼

との婚儀となったものである。

 木曽川上流を武田氏とのゆるい同盟関係

で掌握したあと、信長は美濃国と畿内方面の

遮断を図る。この戦略には、尾張黒田城の

和田新介定利と近江八島で一条院覚慶

(のちの足利義秋)の世話をしている和田

伊賀守惟政の兄弟および細川兵部大輔藤孝

の助言があった。ただし、すべてが思い

通りにいかない場合もある。永禄八年十二月、

佐々木六角義賢の命を受けた和田伊賀守

惟政が、信長妹(お市)・浅井長政の縁組

に奔走したが、長政の同意が得られず一旦

中止となる。細川藤孝は事前に和田伊賀守

に「もうすぐ一条院覚慶の殿は還俗して

足利家の名を継ぐ用意ができており、また

源氏を継ぐ位階も成功(じょうごう)で

手にすることができるところである。

伊賀守殿しばしまたれよ!」と伝えていた

のだが、「ただ主君佐々木六角義賢が急ぐ

ように言っておる。取り急ぎ進めてみる」

と答えて先行した次第であった。結果、

浅井家の宿老の中で一五三0年来の美濃

の騒乱の時の佐々木六角氏との因縁を持ち

出すものが出てきて、ことはうまく運ばな

かったということである。

 現実には細川兵部大輔藤孝が予想した

通り永禄九年(一五六六)の二月、近江

矢島に在した一乗院覚慶が還俗して「義秋」

と名乗り、ひそかに禁裏に働きかけ従五位下

左馬頭となる。「細川藤孝が予想した通り

云々」の部分は実は正しくない。なぜなら、

一条院覚慶が還俗して足利氏を継ぐべき名を

名乗ること、従五位下左馬頭となることは、

当時足利十二代将軍義晴の御落胤ではないか

と噂されていた藤孝が、すべての京雀の連絡

網を活用して実現したことであったのだ。

藤孝は、和田伊賀守を経由して信長側から

の申し出をもう一つ聞いていた。曰く、

「兵部大輔殿の働きのお蔭をもって、木曽

川上流方面、近江・畿内方面からの兵站路

の遮断が済み、美濃包囲網はほぼ完成した。

できれば足利の名を正統に継いだ立場の

足利義秋殿から尾張・美濃の講和を促す形

をとってもらいたい。その情報が美濃国内

に伝われば、家臣らが信長軍と戦う気は

ほぼなくなったも同然にすることができる!」

という内容である。藤孝は、信長の望む

働きを行うことは、これまでの経緯から見て

わけもないことであると思ったが、信長の

「我攻めが利かない場合はゆるい攻め」と

いう今までの戦国武将にない柔軟な考え方

には舌を巻いた。藤孝側も信長側も、何の

問題もなく美濃国の内部崩壊を待つだけと

思っていたのだが・・

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巻四の七 信長、美濃を放置すること、付けたり、一乗院覚慶『義秋』を名乗ること

2020-06-03 00:00:00 | 連続読物『いいかよく聞け、五郎左よ!』
<初出:2015年の再掲です>

巻四の七 信長、美濃を放置すること、付けたり、

一乗院覚慶『義秋』を名乗ること

 永禄八年(一五六五)九月下旬、信長の軍は

這う這う(ほうほう)の体で美濃攻略戦から

引き退いた。堂洞取手攻めの陣中の信長・長秀

のところへ、「細川兵部大輔藤孝殿の差配に

より興福寺を逃れた一乗院覚慶(のちの足利

将軍義昭)が、八月に和田伊賀守惟政の和田城

に入った」との知らせが、惟政の弟である黒田

城主和田定利から寄せられてはいたが、今は

それどころではない。信長もよほど懲りたのか、

間近の小牧山の城へ戻ればよいものを、防御に

必要な軍勢だけを小牧山に残しすでに清洲の城

に落ち着いた。五郎左衛門は粛々と信長について

清洲まで来たが、愛馬『二寸(にき)殿』が怪訝

そうな目つきで信長のことを見るので、膝で首の

横を小突いて「じろじろ見るな」と無言で伝える。

 お城の本丸北矢倉の御座所で信長は、丹羽

五郎左衛門長秀・柴田権六勝家を呼び寄せ三者

会談を始める。開かれたふすまの外では、渡り

廊下に松井友閑・木下藤吉郎が着座している。

「まずは無事で尾張に戻れたことに感謝して

『にっ!』」

これは三人が集まる時に必ず笑顔で話を始める

約束なので仕方ない。丹羽五郎左衛門長秀・

柴田権六勝家も『にっ!』と笑顔で返す。

「武士(もののふ)は莞爾として死すべし!

(武士は恐怖に引きつった顔で死んではなら

ない。敵が腰を抜かすような満面の笑顔で死ぬ

べきだ!)」という父信秀の教えを守っている

だけである。

「五郎左衛門よ、軍場に残してきた我が軍の兵

の亡骸の引き受けと、論功行賞と、協力してくれ

た尾張と美濃のすべての者(民・百姓・商家・

僧侶)に礼金を頼む。」

「御意。有閑よ、できるか?」

五郎左衛門が普通の口調で有閑に問いかけ、

有閑も藤吉郎と目を合わせて一度『うん』と

頷いてから「何とかいたします。」とこたえる。

これまで同様、松井有閑の「何とか」は「確実

に」を意味している。

「まあ、それは有閑・藤吉郎に任すとして、今後

美濃攻略の軍はどうする?」

権六勝家もいつも通り直接的な聞き方をしてくる。

「どうしたものか・・・今回も事前情報では

堂洞取手は容易に攻陥できるような気がしたが、

まだまだ斎藤山城守(道三)の時代からの古参

が張りきって攻めてくるからの~」

「力攻め・我攻めは三郎らしくないと思うが?」

勝家と長秀が、ほぼ同時に同じことを言う。

「う~む、よし。任せた、よきに計らえ!」

三人はしばらく美濃方面は様子見ということで

意見が一致した。

「それと藤吉郎よ、美濃勢を内側から切り崩す

方法があれば何か考えておけ!」

「ははっ」

と答えたはいいものの、当分藤吉郎はこの宿題

で頭を悩ますことになる。

 一方、近江国和田城に入り和田伊賀守惟政の

庇護で命をつないだ一乗院覚慶は、この年の

十一月に近江矢島に移動し、翌永禄九年(一五

六六)二月僧籍から還俗し、名を『義秋』と

名乗ることとなった。またひそかに朝廷へ働き

かけ「従五位下左馬頭」の位官を獲得していた。

「従五位下」の位は、源頼朝がこの位を経由

して征夷大将軍になったことから「源氏にとって

由緒ある位」と考えられている。足利将軍家の

流れをくみ、一度僧籍に入った自分が還俗した今、

「自分が将軍の地位について、舎兄義輝が暗殺

された後の世を統べて見せる!」という『義秋』

の強い意志であろう。朝家への依頼は、和田

伊賀守惟政と細川兵部大輔藤孝の陰の働きで

実現したことは言うまでもない。

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巻四の六 信長、命からがら逃げ落ちること

2020-06-02 00:00:00 | 連続読物『いいかよく聞け、五郎左よ!』
<初出:2015年の再掲です>

巻四の六 信長、命からがら逃げ落ちること

 永禄八年(一五六五)九月二十八日、堂洞取手

攻めの最中、丹羽五郎左衛門長秀は本陣を吹き

すぎた生ぬるい風を頬に受けて、強烈な身震いに

襲われた。今までの経験から「この身震いが起きる

と何か良くないことが起きる。」と思ったが、戦況

は信長方にとって悪くないため陣中で誰にも伝え

ないでいた。ただ信長には伝えておく必要がある。

「のう、三郎」

「なんじゃ、五郎左衛門?」

「何か知らぬが今日猛烈な身震いがした。」

「うむ」

「ただそれだけじゃ」

信長はちらっとこちらに首を傾けただけで、堂洞

取手に攻め込む味方を大声で鼓舞している。五郎

左衛門にも「そちも攻めてこい!」と人差し指で

天主を指し示す。

 河尻与兵衛秀隆に続き丹羽五郎左衛門長秀が

天主に攻め入るが、敵もさる者、岸勘解由左衛門・

多治見一党が頑強に応戦してなかなか攻め落とす

ことが出来ない。その日は引き退き、先日信長方

に忠誠を誓った加治田城へと向かう。事前に佐藤

父子(佐藤紀伊守・佐藤右近右衛門)と会う約束

はしていたが、信長を目の当たりにすると「かた

じけない」と父子感涙を流し、信長は子息のところ

へ泊まることとなったのであった。翌日の行動予定

は限られた加治田城勢にしか伝えていなかった

はずなのだが・・

 翌九月二十九日、信長方は山下の町で頸実検を

行い、その後尾張に帰陣しようとする予定であった

が、加治田城勢の誰かが美濃勢と通じていたのか

もしれない、関の口から長井隼人正が、井口から

斎藤竜興が、計ったように挟み討ちをかけてきた。

信長は昨日の五郎左衛門からの『身震い』の一言

と悪い前例を瞬時に思い出してつぶやく。

「これでは天文十六年(一五四七)九月、わが父

織田信秀が美濃攻めの帰りに斎藤山城守(道三)

殿に追討ちをかけられて五千名以上討ち死にした

悪例の二の舞ではないか!」

「殿、はやく、はやく」

信長のつぶやきを無視するように五郎左衛門が

河を越えての撤退を促す。ここで命をなくしては

元も子もない。

 味方は七百~八百の軍勢しかないところへ、

三千を超える敵勢が挟み打ちで攻めかかったから

たまらない。ただ、父信秀の代から渡河戦に慣れ

ている信長方では、河を背にして一度『亀の甲の

型の陣形』を組んで防戦を図る。一列に河を渡っ

て逃げようとすると美濃勢の思うつぼとなるから

である。両側から攻めかかってきた美濃勢もこの

『亀の甲』を見るといったん矢合わせして十段

(108m)ほど引き退く。美濃勢も実は「本気で

信長を倒す!」と気合が入っている者と「今度

来られた時には是非お味方で!」と寝返りを狙っ

ている者が入り混じっており、斎藤竜興の鬨の声

には従うがうまく信長勢が逃げるのを願っている

者もいる。

 信長方は一度広野に移動して軍勢を立て直し、

『亀の甲』の内側から馬喰・手負い・雑人を先に

河を越させ、降り注ぐ矢を楯で防御しながら撤退

する算段である。手負い・死人がそれでも多数

発生した。通常殿軍(しんがり)はその軍の最強

の部隊がつとめるが、この時は手勢が少ないこと

もあり、自動的に一番危険な渡河の差配を五郎

左衛門が受け持ち、次に危険な殿軍には信長

自身と最強の兵数名が残り、最後の仕舞いを行う

ことになった。

 あらかた軍勢の渡河が終わり、取巻きのものと

残る信長が馬の鼻を敵軍に向けると、一瞬敵の

矢が止まる。殿軍としてしっかり撤退を成し遂げ

た敵将への尊敬の念からである。信長一行が河

を渡りきると再び矢の雨が降り注ぐ。河を渡った

あとは信長も足軽の動きのように馬を乗り回し、

全軍撤退したのであった。

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巻四の五 信長、太田又介の弓の技を褒めること

2020-06-01 00:00:00 | 連続読物『いいかよく聞け、五郎左よ!』
<初出:2015年の再掲です>

巻四の五 信長、太田又介の弓の技を褒めること

 飛騨・木曽川の川面をなでる風も朝夕はひんやり

感じられてきた。真夏の盛りに川に逆茂木を沈める

などして堂洞取手攻囲に着手してからもう一カ月

以上経過した。永禄八年(一五六五)九月下旬の

ことである。

 攻められている美濃勢も必死は必死なのだろうが、

本陣での織田上総介と丹羽五郎左衛門の会話の

内容を知ったら、目を剥いて怒るか、はたまた腰砕け

して戦う気をなくしてしまうか・・・


「のう、五郎左よ」

「なんじゃ、三郎?」

「真鶴を脱出して安房に渡海した『佐殿』はどう

なるんじゃろう?」

信長は源平盛衰記の文章を目で追いながら、五郎

左衛門長秀に何気なく声をかける。

「お~、佐殿真鶴脱出まで読み進んだか。その先を

知りたいのか?」

『佐殿(すけどの)』というのは源頼朝のことである。

位官として従五位下右兵衛佐を経て、源氏の棟梁

として征夷大将軍まで進んだことを尊敬して、通常

『佐殿』と言えば源頼朝を指す。

「ああ、いかんいかん、言うのはやめてくれるか。

五郎左はもう通し読みしたのであったな。これから

先を読む楽しみが少なくなるので聞かないでおこう!」

「まあよいよい。それはそうと三郎に弓の技を教えた

太田又介殿が二の丸・天主に弓を引く準備が出来た

そうじゃ」

「お~、それは見物」

 永禄八年(一五六五)九月二十八日、堂洞取手の

二の丸を焼き崩し、信長の軍は天主に攻め入る

ところである。信長の弓の師である太田又介牛一は、

距離五段(約54m)のところから三人張りの剛弓で

本陣から言われた柱にことごとく命中させている。

信長は「小気味良い技を見せてくれたもの」と三度も

誉めて遣わし、御感により知行も重ねて下したという。

軍は誰が見てもうまく進んでいるように見えたが、

長秀は突然強烈な身震いに襲われる。

「何か良くないことが・・・」

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巻四の四 細川兵部大輔、将軍のご落胤かもしれぬこと

2020-05-31 00:00:00 | 連続読物『いいかよく聞け、五郎左よ!』
<初出:2015年の再掲です>

巻四の四 細川兵部大輔、将軍のご落胤かもしれぬ
こと。

 引き続き堂洞取手攻めの本陣で、大汗をぬぐい

ながら長秀が信長に、『細川兵部大輔藤孝』の

生まれ育ちについて報告する。


*天文三年(一五三四)生れということは、偶然

にも信長と同い年である。

*当時の和泉半国上守護家の細川元有には元常・

晴員(はるかず)の兄弟がおり、当然兄の元常が

本家を継ぐことになる。丁度元有の嫁の実家三淵

家で当主晴恒に後継ぎが出来なかったこともあり、

弟の晴員は三淵晴恒の養子となり、『三淵晴員』

となった。ところが本家の細川元常に後継ぎが

出来なかったため、三淵晴員と清原宣賢の女

(むすめ)の間にできていた『藤孝』が、天文

九年(一五四〇)戻り養子として元常の養子と

なり、和泉半国上守護家の後継ぎとなったという

次第であった。無邪気な六~七歳の子供に与え

られた最初の試練であった。


「それならば同じ氏姓を繋ぐためにいつ・どこ

でもやられていることであろう。兵部大輔殿には

秘められた過去があるのではないか?」

「うむ、その通り。さすが三郎察しが早い。」


*ところが藤孝の母(清原宣賢の女)が出産した

のが足利十二代将軍義晴から暇を出された直後で

あったため、京雀の間では「三淵家の若様は将軍

の落とし胤なのでは?」という噂が飛び交って

いた。

*その後の人生を見ても、天文二十一年(一五五

二)数えの十九歳で従五位下兵部大輔に任ぜられ

たり、その二年後に義父元常の死により和泉半国

上守護家の家督を継いだり、永禄六年(一五六三)

三十歳で幕府御供衆に列せられたり・・・。とても

皇家・将軍家と関係なしで上れる地位ではなく

「何かの事情がある」という京雀の見方はますます

強くなったのであった。


「ということで、京雀は『将軍のご落胤につき華々

しく昇進している』とみているようでございます!」

「なるほど・・して当人は?」

「肯定も否定もせず、京都周りの取締りで力を蓄え、

皇家・将軍家を下支えしてきた様子にございます。」

「軍勢持たぬが金はある・・か。五郎左よ、今後も

和田兄弟と細川兵部大輔殿とは上手に力を合わせる

ように頼む!」

「御意!」

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巻四の三 長秀、信長に細川兵部大輔藤孝の来歴を説明すること

2020-05-30 00:00:00 | 連続読物『いいかよく聞け、五郎左よ!』
<初出:2015年の再掲です>

巻四の三 長秀、信長に細川兵部大輔藤孝の来歴を
説明すること。

 永禄七年(一五六五)八月、信長の軍は宇留摩・

猿はみ城を攻陥し、堂洞取手の攻略にとりかかる。

本来ならば本陣を移す時、人は鎧・兜を着用し、

馬は金覆輪の皆具で正装しておくべきだが、すでに

結果が目に見えた戦いであり、おまけにこの暑さで

ある。馬も猛暑に耐えられず前に進もうとしない。

鎧・兜を家臣に持たせ、軽装で信長でさえ愛馬を

自ら率いている。長秀の愛馬『二寸(にき)殿』は

信長軍の美濃攻めを間近で見てやる気満々だが、

信長に合わせて長秀も馬から下り自ら率いることに

した。

 本陣を移し終ると、美濃勢から“降参後の処遇”

を有利にする申出がひっきりなしに来るのを要領

よくさばき、時間が空いた時に細川兵部大輔藤孝

及び細川家の由緒来歴について五郎左衛門長秀

が信長に伝える。


*細川氏は元々清和源氏足利氏の一門であり、

足利義氏の一族義季が、三河国額田郡細川を

本拠としたことに始まる。嫡流は室町幕府

管領を代々襲い、南北朝期に足利尊氏の挙兵

に参じ、建武三年(一三三六)四国へ派遣され

たことによって四国を基盤としていた。延文

三年(一三五八)執事に就任以降、康暦の政変

(康暦元年=一三七九)で一時失脚したほかは、

応仁の乱の軍仕立てを含めて常に幕政の中枢に

あった。

*天文二十二年(一五五三)の最盛期芥川時代

には、守護細川氏綱・管領細川昭元・守護代三好

長慶のもと、勢力は山城・摂津・丹波・和泉・

淡路・阿波・讃岐・播磨・伊予の九ヶ国に及んだ。

*嫡流は当主が右京大夫を官途としたのでその

唐名から“京兆家”と呼ばれていたが、三好長慶・

義継・三好三人衆・松永久秀らの融合・離反の

動きに翻弄され没落していった。

*庶家としては典厩家・阿波守護家・淡路守護

家・備中守護家・和泉半国上守護家・和泉半国

下守護家・奥州家などが派出していたが、嫡流

の京兆家が没落していく一方、京の皇家・公卿

連・京雀たちの情報操作で舞台裏から実力発揮

し始めたのが和泉半国上守護家の流れにあたる

細川兵部大輔藤孝その人であった。


「うむ、承知。それで、細川氏の庶家にしか

当たらない出自の兵部大輔殿が、陰で京の都の

情報操作の取締りの地位にまで上り詰めたのは

何か訳があるのであろう!」

「御意。実は和泉半国上守護家の家督を継ぐ

までに物語がございまして・・・」

五郎左衛門長秀は話を続ける。

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巻四の二 信長と長秀、細川藤孝を評定すること

2020-05-29 00:00:00 | 連続読物『いいかよく聞け、五郎左よ!』
<初出:2015年の再掲です>

巻四の二 信長と長秀、細川藤孝を評定すること

 「のう長秀、一乗院覚慶殿が三好・松永の手を逃れて、

奈良の興福寺から無事脱出したそうじゃのう。」

「仰せの通り。三好・松永も足利将軍弑逆の混乱を収拾

できなかったと見え、『覚慶殿には手を出さない』旨

保証したらしいが、その判断がどのような結果になるか

どうか。現在覚慶殿は、近江の和田伊賀守(惟政)殿が

身柄を預かっております。」

「うむ。」

織田上総介信長と丹羽五郎左衛門長秀が美濃の宇留摩・

猿はみ城攻略の陣中で、足利将軍義輝が弑逆された

事件のその後の近国の動きを確かめる。和田惟政は

近江国佐々木六角義賢の忠臣であり、尾張黒田城主

和田新介定利の兄である。和田定利は織田家の意図

する報せが京の都へ確かに伝わるよう、兄とともに

強固な情報網を司っていた。またそれ以外にも、

定利が桶狭間の戦いの時からの丹羽長秀と旧知の

間柄であったり、織田家が応仁の乱のころから佐々木

六角家と共同戦線を張ったりと、“蜘蛛の巣”のように

浅からぬ縁の糸が尾張⇒黒田⇒近江の方面に張り

巡らされていた。その近江から京都への“蜘蛛の糸”

を上手に手繰っていたのが細川兵部大輔藤孝であった。

なお、“一乗院覚慶殿”とは弑逆された足利十三代

将軍義輝の舎弟であり、後の十五代将軍義昭となる

人物である。木曽・飛騨の夏の湿り気を含んだ川風を

浴び、大汗をかきながら語る信長と長秀の二人には、

数年後自分たちがこの人物を抱えて京の都に上る

ことになることなど、今は知る由もない。

「まあ、美濃方面は降参したがっている城が多いが、

油断すると本気で抵抗してくる輩がおるから注意が

必要じゃの。」

「仰せの通り。」

二人の会話通り、美濃攻略戦は想定通りに進んでおり、

「形式的に一攻めしてもらえば『すぐにでも降参いた

します!』と申し出る城ばかり」であることは、長秀が

自分の足で廻り事前に内諾を得て、信長に申上して

おいた通りである。信長が心配していたのは、森部の

合戦の時の長井甲斐守・日比野下野守などのように

徹底抗戦する家臣もいるということを意識しておか

ないとえらい目にあう可能性があるということである。

まあ、健気な忠臣とは言えるが素直に降参してくれ

た方が有難いような・・

「なあ、五郎左衛門。今回下働きがあった和田定利

は儂も会っておるし、その舎兄惟政殿のことはその方

から聞いておる。」

「御意。」

「ただ、和田惟政殿が京の都での働きを一任して

いる細川兵部大輔殿は、そちも儂も会っていない。

どのような人物じゃろうか?」

「そうでございますね・・・」

五郎左衛門が細川藤孝の人となり・来歴を信長に

説明する。

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巻四の一 一乗院覚慶、興福寺を逃れること

2020-05-28 00:00:00 | 連続読物『いいかよく聞け、五郎左よ!』
<初出:2015年の再掲です>

巻四の一 一乗院覚慶、興福寺を逃れること

 永禄八年(一五六五)五月、信長が尾張を平定し美濃

攻略に着手したその頃、京の都では大変な事態が発生

する。前年の永禄七年(一五六四)十二月、信長に御内書

を下したばかりの足利十三代将軍義輝が、なんと室町御所

で三好義継・松永久秀らに攻められ自刃したのである。

武芸自慢の将軍は所持した名刀で“斬り狂い”し、壮絶な

最期を遂げたと伝わる。室町御所は炎上してしまった。

いわば“家臣による主君弑逆”である。この事件は突然

起きたのではなく、以下のような歴史的な背景があった。

 室町幕府の初期のころは、三管領(斯波・細川・畠山

各氏)と四職(赤松・一色・京極・山名の各氏)が将軍家

を補佐して全国を統治する仕組みがうまくいっていたが、

『歴史は繰り返す』という例えどおり、平安期に皇家を

補佐する役割で藤原氏が強権を握ったように、室町期

でも将軍を補佐する名目で各氏が強権を奪い合う図式

となっていた。応仁の乱(一四六七)のころは山名氏と

細川氏の覇権争いの構図であったが、山名氏は赤松氏

に勢力を奪われその赤松氏も家臣の浦上氏に自刃に

追い込まれるなど没落してしまう。細川氏も京兆家

(細川本家)は応仁の乱後将軍擁立に関与して全盛を

誇るものの、阿波三好家との協力関係を誤り三好長慶

に実権を奪われ、その長慶も松永久秀に実権を徐々に

奪われ失意の中で死去することとなる。長慶死後は、

その養子義継・三好三人衆(三好長逸・三好政康・

岩成友通)・松永久秀らが融合・分離を繰り返し、

畿内は混乱状態になってしまった。その時にこの

“将軍義輝弑逆”が起こったのであった。何という

『諸行無常の世の中』であろうか・・。

 三管領・四職の各氏が往年の権勢を誇示できない

状態になった中、ひそかに京の都と今をときめく

織田弾正忠家を含めた畿内周辺地域を冷静な目で

監視している人物がいた。細川氏の支流である和泉

半国上守護家の細川藤孝である。織田家では、

「桶狭間の戦いで今川治部少輔義元殿を破ったのは

偶然であり他意は無い」ことや「織田弾正忠家が

尾張統一した」こと、また「美濃へ攻め込むのは

舅の斉藤山城守道三殿のかたき討ちである」こと

など、重要な知らせを京に伝えたい時は、弟:和田

定利(尾張犬山城家老で黒田城主)が兄:和田伊賀守

惟政(近江の佐々木六角家の家臣で甲賀武士の名族)

に伝え、京の都に広めてもらうという和田兄弟の連絡

網を利用していたが、実はこの京で織田家の知らせを

“京雀”に広めさせる後ろ盾を細川藤孝がつとめて

いた。「入ってくる知らせをどのように街で広めるか」

が藤孝の腕の見せ所である。時には厳しい文句で、

時には下らない洒落に隠して・・直接信長と藤孝は

会ったことはないが、京から下る遊行の僧などが尾張

国内に持ってくる知らせは織田家の目論見どおりで

あったので、織田信長・丹羽長秀・柴田勝家の三巨頭

にとって全く不満がない藤孝の働きであり、その人物

を高く評価していた。

 この時、その後の歴史に大きな影響を与える

『小さな』判断が二つ行われた。一つは、将軍弑逆

した三好・松永らは、義輝の下の弟の鹿苑院周高(※)

は平田和泉守に殺害させたが、上の弟「興福寺の

一乗院覚慶には手を出さない」という判断を下し、

殺害しない旨断りを入れていた。もう一つは、細川藤

孝が「一乗院覚慶殿はこのままでは約束など守る気

がない彼らに殺害されてしまう。なんとかお救いし

なければ」と判断したことである。永禄八年(一五

六五)七月、一乗院覚慶は細川藤孝らの勧めで興福

寺を抜け出す。後の足利将軍義昭の出立である。


【備考】※鹿苑院周高の「高」の字は、本当は「日」

    の下に「高」という字です。

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