『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

佐々木京極高次(ささききゃうごくたかつぐ)[2/2]

2017-06-01 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
佐々木京極高次(ささききゃうごくたかつぐ)[2/2]

〔現代仮名遣い〕ささききょうごくたかつぐ

※下線部は信長公記以外の記事によります。


高次は光秀の敗死により越前・若狭に逃れた

ものの、秀吉は高次の妹を側室(松丸殿)と

し、その縁により高次は許されて秀吉に仕える。

九州の役などに従軍。文禄の役には肥前名護屋

に出陣した。松丸殿に加えて高次室は淀殿の妹

(初)である閨閥関係も幸いし、また弟高知の

活躍もあって、1590年近江八幡山城二万八千石、

1595年大津城六万石。名族京極氏の復興を成し

遂げた。秀吉の死後は徳川家康に通じた。1600年

関ヶ原の戦いを前に、いったん西軍に属して北陸

征討軍に加わったが、9月大津に戻り籠城した。

西軍毛利元康らの猛攻を受けたが、9月14日すな

わち関ヶ原の戦いの前日まで大津城を支えて開城。

宇治ついで高野山に逃れた。家康は西軍の一部を

大津にひきつけた功績を賞し、仕官を恥じる高次

を高知に説得させて若狭小浜八万五千石を与え、

翌年さらに九万二千石に加増された。1609年5月

小浜で没。



 ※明智に与したにもかかわらず、妹が

  秀吉の側室になったり、淀殿の妹「初」

  を室にとったりしてギリギリの線で

  乱世を生き延びていきます。普通

  京極高次を例えていう“ほたる大名”

  については“寝床の暗闇の中の灯り”

  とみる研究家もいるようですが、

  純野から見ると、“細々とあるかないか

  わからないような存在でもしぶとく

  暗闇の中で動き回ることができる!”

  という意味ではないかと思います。

 ※その後京極家は丸亀城主となります。

  あしかけ十年くらい丸亀にいましたが、

  「平四ツ目結い」の紋が懐かしいです。


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