経済(学)あれこれ

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(日本史短評)摂関政治の成立と藤原氏の婚姻政策

2020-05-05 13:30:08 | Weblog

(日本史短評) 摂関政治の成立と藤原氏の婚姻政策
藤原氏の婚姻政策は奈良時代から始まっています。不比等の娘である光明子が聖武天皇の皇后となったのがその一例、というより最大の一例になっております。それまで皇族以外から皇后(正妃)が出ることはありません。光明子立后はこの壁を破りました。それと台閣に一族から複数の議定官を出すことにより、太古以来の豪族諸氏の合議制という性格を破った事とがあいまって、藤原氏は平安初期には他氏とは異なる特別の家という性格を持つようになりました。桓武天皇は皇族同士の婚姻を進め、支配者としての血の凝縮を計りましたが、一方藤原南家・式家も後宮に娘を入れていました。南家は伊予親王事件で、式家は楠子の変で没落します。政界の実力者として残ったのは北家のみです。南家はともかく式家は政策家が多く、実力はあるが個性的で強引な人が多く出ました。代表が長岡京遷都を主導した種継です。その式家も薬子の変で仲成が処刑され没落します。残ったのは北家のみです。北家の人たちは良く言えば柔軟で着実、悪く言えば狡猾で陰険なところがあります。
桓武天皇の母系は百済からの帰化人でした。房前の孫内麻呂は百済王永継を妾として冬嗣を設けます。百済王永継は後宮廷に入り桓武天皇との間に皇女安世を設けます。かくして安世と冬嗣は異父兄妹になります。あえて言えば準皇族、少なくとも皇族との血縁関係はある(ような)ことになります。内麻呂の子冬嗣は楠子の変の時設けられた蔵人頭になっていました。宮廷政治の実力者であり天皇側近です。冬嗣は皇族との縁を介して娘順子を仁明天皇の妃としその間に文徳天皇が生まれます。冬嗣の子良房は桓武天皇の娘源潔子を娶り、間にできた娘明子を文徳天皇の妃にします。二人の間にできた子供が清和天皇です。良房は清和天皇を母親明子とともに天皇が成人するまで自邸に引き取り育てます。良房は本来公的存在である天皇を徹底的に身内化私物化し、見方によっては幼児化します。事実清和天皇は病弱でそのくせ女陰に溺れる天皇でした。
清和天皇の妃に良房の姪であり基経の妹である高子が后として入ります。高子と清和天皇の間にできたのが陽成天皇です。ここで藤原氏の摂関政治への道は一頓挫します。この件に関しては実に面白い逸話があるので別項で述べます。866年応天門が全焼し、伴義男が配流され、直後に良房が摂政になります。清和妃であり陽成天皇の母である高子は兄基経の指示に従いません。やむなく基経はク-デタ-を起こします。陽成天皇は粗暴な行為(宮廷内で殺人をおかしたとかいう)ゆえに退位させられ高子は廃后されます。
皇位は四代遡って仁明天皇の皇子時康親王に渡り光孝天皇が即位します。光孝天皇の後継は天皇の子供ですでに臣籍に下っていた源定省(さだみ)です。彼が即位し宇多天皇となります。宇多天皇の時代に阿衡事件が持ち上がります。「阿衡」とは漢籍にある中国の王朝の官位で皇帝と並ぶほどの栄職でした。天皇は基経の権威を高めようとして阿衡なる名称を付与したのですが、ある学者が天皇側近の学者を妬み「阿衡とは単なる名誉職で実権はない」と基経を指嗾します。基経は自邸に引きこもって出仕しません。やむなく天皇は関白の職位を設けそれに基経を任命します。関白とは「よろずもうしあずかりそうろう」と言い実権掌握者を意味します。宇多天皇は基経死後、藤原嫡流を遠ざけ、学者であり地方行政に実績のある菅原道真を登用し天皇親政を行います。藤原良房と基経によって摂政関白制度が出現しました。ここまでを前記摂関政治という人もあります。後期摂関政治は宇多天皇を一代おいて醍醐天皇から始まります。
世界中どこでも摂政はあります。君主が幼君であることはありえますから、それを代行する人物は必要です。秦の始皇帝の幼少期母親の趙妃が母后として摂政を務めました。この女性は淫乱で有名で始皇帝により幽閉されています。16世紀後半フランスでサン・バルテルミ-の大虐殺をやらかしたカトリ-ヌドメディシスは幼いシャルル九世の摂政でした。清帝国の末期に登場し事実上清を滅ぼした西太妃も摂政でした。聖徳太子は推古天皇の摂政ですし、斉明天皇を補佐した中大兄皇子も摂政です。孝謙女帝は母親光明太后により摂政されていたようなものです。しかし関白という職位は日本独特のものです。摂政は君主が幼少なので事実上全権者ですが、関白は成人君主を前提とするので形式論から言えば、摂政より影響力は低いはずです。摂政はほとんどの場合君主の血縁関係者が務めます。関白も同様です。要は天皇と血のつながりの有無遠近で決まります。また関白という語が有名なのは、後世英雄の代名詞とも言える豊臣秀吉が出て、太閤記で宣伝されたせいもあるようです。
醍醐天皇には基経の娘穏子が嫁ぎ朱雀・村上天皇を産みます。朱雀天皇には後嗣がなく、帝系は村上天皇に移ります。村上天皇には藤原師輔の娘安子が嫁ぎ、冷泉天皇と円融天皇を産みます。冷泉天皇の妃が藤原兼家の娘超子で三条天皇を産み、円融天皇の妃が同じく兼家の娘詮子で一条天皇を産みます。三条天皇の異母兄花山天皇は兼家の巧妙な罠にかかって退位させられ一条天皇が即位します。一条天皇には藤原道長の娘彰子が嫁ぎ後一条天皇と後朱雀天皇を産みます。三条天皇の皇子敦明親王は藤原道長の圧力で皇位継承を断念させられ、皇位は一条天皇と藤原彰子との間にできた後一条天皇が即位します。後一条天皇には道長の娘威子、後朱雀天皇には同じく道長の娘嬉子が嫁ぎます。後一条天皇には後嗣なく。帝系は後朱雀天皇に移ります。後朱雀天皇の妃には前記の嬉子と三条天皇の皇女禎子内親王(皇后)がありましたが嬉子には男児がなく帝系は禎子内親王が産んだ後三条天皇が即位します。後三条天皇の即位は1068年です。後三条天皇の妃藤原茂子との間にできたのが白河天皇です。この間関白藤原頼道は死去し摂関家の実力は後退します。
こう書いてきて天皇、藤原氏当主、藤原氏の娘などの関係が錯綜し、しかもかなり機械的でロマンに欠け、うんざりします。ただ摂関家は良房・基経の代で形成されたとは言えます。以後は摂関家嫡流内部での兄弟争いに移ります。忠平の子供実頼と師輔の兄弟はそろって村上天皇に妃を送り込みました。実頼の娘には男児がなく、師輔の娘は二人の男児を産み後嗣は師輔流になります。師輔の子供である兼通と兼家も競走し勝ったのは兼家です。前記の通り兼家娘詮子は兼家にとって理想的な娘で二人の天皇を産んでくれました。兼家の子供である道隆が摂関家として先行しますが彼は病死し、道隆の弟道長と道隆の長子伊周の間で激烈な政権争い(関白の地位をめぐっての)があり、道長が勝ちます。この争いには道隆の娘定子と道長の娘彰子の子供のどちらを皇位継承者とするかの争いでもあります。彰子は二人の皇子を産み次代の天皇が誕生します。道長の代以後は摂関家の後継者は摂関家の正嫡の長子が継ぎ摂関家は確立します。こう考えてくると、摂関家確立の最大の功労者は、師輔娘安子、兼家娘詮子、道長娘彰子の三人になります。
宇多天皇の前後では摂関家確立の手法がかなり異なります。良房は承和の変で淳和天皇の皇子であり仁明天皇の皇太子である恒貞親王を廃し、自分の娘明子の子供である文徳天皇を即位させます。良房は清和天皇を私物化し、基経は陽成天皇を強制退位させます。基経は宇多天皇に対してストライキを敢行します。力の直接行使が目立ちます。醍醐天皇以後争いは一定の家内部での兄弟間抗争に限定されます。藤原北家はまず、他氏を没落させ(応天門事件など)、京家・式家・南家などを自滅させ、学者を追い払い(菅原道真事件など)、賜姓源氏を政権中枢からから遠ざけ(安和の変)、あとは兄弟間の争いに終始し、勝者が摂関家として勝ち残ります。
摂関政治は娘を天皇の妃に入れ、皇子を産ませて外戚として政治の実権を握るというのが定法ですから、その成否は多分に生物学的次元で規定されます。まず年相応の娘がいないといけません。この娘が子供を産んでくれなければ意味がありません。さらに生まれた皇子が無事成長してくれなければ困ります。こうして幾多の悲喜劇が生まれました。中には喜劇的な例もあります。道長の長子で関白を50年近く務めた頼道は子供に恵まれませんでした。頼道の正妻は具平親王の娘隆子です。子供が生まれません。心配した道長は三条天皇の皇女禎子内親王を娶るように勧めます。ところで隆子はすこぶるやきもちやきでした。父と妻の圧力に耐えかねた頼道は一種の精神病になります。症状は幼児化です。幼児の言葉しか話せなくなります。巫女に占いをさせると具平親王の霊が出てきて恨み言を述べます。頼道と内親王の婚儀は取りやめになりました。摂関家は後継者に恵まれなくなり、以後摂関政治は院政にとって代わられます。
また藤原道長は御堂関白と言われていますが、彼は実際には関白に就任していません。終生台閣の首班である左大臣で通します。その代わりに内覧という資格を与えられました。内覧とは台閣で決まった内容を天皇に奏上する以前に見る権利資格です。しかし宮廷内部はすべて近親者で固めているのですから、道長の一存で決まるようにできています。
摂関政治は後三条天皇の即位そして頼道の死で終わります。頼道は恐妻家で子供をほとんど作りません。日陰の身であった側妾の産んだ庶子師実を後嗣としますが、そういう理由ですから師実の朝廷での影は薄くなります。師実の子供師通は豪胆で有能でしたが40歳に至らず突然死します。師通の嫡子忠実は若く政権を領導できません。こうして摂関家は実力を失って行きます。
道長の家系は分流します。嫡流の摂関家以外に諸家系が出現し、彼らはそれぞれの思惑で動きます。彼らの多くは院政に参加し院の近臣層になって行きます。院の近臣層の最有力者が村上源氏と閑院流藤原氏です。後者は師輔が村上天皇の皇女と密通してできた公季の子孫です。彼らの流れが実質的に天皇の正妃を出すようになります。こうして摂関による外戚政治は崩れてゆきますが、摂関家以外出身の正妃はすべて摂関家の養女となり、形式的には摂関家の子女として入内します。
以上が摂関政治のよって立つ婚姻政策の概略です。説明が面白いとは思えません。ここで平安女流文学とも関係の深い三つの挿話をお話ししましょう。蜻蛉日記の著者である右大将道綱の母(彼女は日本で初めて自我という主題を取り上げました)は日記の中で、私生活以外のものは取り上げません、と宣言しています。唯一の例外が安和の変です。醍醐天皇の子供である左大臣源高明は娘を村上天皇の皇子具平親王に嫁がせていました。この親王は師輔の娘安子の産んだ子供ですから、天皇になる資格を持っています。高明は藤原北家摂関流ともうまくやてっていましたが、保護者である師輔(師輔の娘が高明の妻)が死去すると情勢はがらりと変わります。藤原北家摂関流は合同し組んで高明を太宰帥に左遷します。実質的な流罪です。何が原因なのかは解りません。加えて高明の弟である兼明は無理やり親王にさせられます。一度「源」の姓を名乗り臣籍に下った者が親王に復する事は過去無いにも関わらずです。親王にしてしまえば政治の実権は取れませんから。安和の変の目的は高位にあり政権を獲得するかも知れない賜姓源氏の失脚です。
花山天皇は寵愛していた女御を失います。悲嘆に暮れている天皇に対して藤原兼家の子供道兼が、出家を勧めます。自分もお供して出家すると言い出します。花山天皇は兼家と直接の縁戚関係にないので、兼家は自分の年齢も考えて早く譲位して欲しかったのです。花山天皇が道兼の勧誘に載って出家するのと並行して兼家の息子たちは三種の神器を運び出し、兼家の孫にあたる一条天皇を即位させます。一条天皇は即位当時6歳でした。花山天皇はある寺へ連れ込まれそこで髪を落とします。側近が気づいた時は既に遅かったのです。日本では出家者は天皇にはなれません。そして通兼は、一度出家前の姿を父に見せてやりたいのでと、ドロンパしてしまいます。花山天皇が連行されてゆく道々には、そのころ台頭しつつあった清和源氏の源満仲の郎党がしっかり護衛し固めていました。そして花山天皇が(すでに法皇ですが)終生亡き女御の菩提を弔い清澄な生活を送ったかと言うと、そうではありません。出家後も派手に女関係を作っています。なお花山天皇の時紫式部の父親である藤原為時は蔵人式部丞でした。将来を嘱望される表舞台です。しかし花山事件で執政者が代わると前政権の関係者は警戒されます。為に為時つまり紫式部の一家不遇でした。源氏物語はその上辺はともかく内容は極めて政治的な本です。花山事件は式部の政治感覚に大きな影響を与えているはずです。
三つ目のお話は道長と伊周の争いです。花山事件で外戚となった兼家の後継者は当然長男の道隆です。道隆がおりから流行っていた疫病で死にます。跡目をめぐり、道隆の弟道長と長男伊周が対立します。道隆は娘定子を一条天皇の中宮に入れています。二人は非常に仲のいい関係でした。定子は漢学の素養が深く知的で明るく、天皇はそういう定子を愛していました。道長と伊周の争いは天皇をめぐっての嫁姑戦争に発展します。天皇の母親は兼家の娘詮子です。詮子は、定子だから道隆一家の派手好みを嫌い、弟の道長の才質を高く評価していました。天皇は定子への愛情ゆえに伊周に内覧をさせようかと思いましたが、詮子は天皇の寝室まで押しかけ天皇の意志を阻止しました。こうして道長が摂関家の主流に踊り出ます。定子のもとへ女房として奉公していたのが枕草子の作者清少納言です。華麗な宮廷生活とそこで展開される知的な会話と雰囲気が枕草子には見事に描かれています。道長はそういう兄道隆の栄華によほどあこがれていたようで、政権を握るとどしどし才媛を女房として召し抱えます。その一人が紫式部です。道長は12歳の彰子を一条天皇の中宮として入内させました。彰子の家庭教師であり相談役であり、また道長のスパイでもあったのが紫式部でした。少女のまま入内した彰子はかなり遅く二人の皇子を産みます。一条天皇の死去の数年前でした。


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