経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

    理科の教育に関して

2019-11-05 20:39:32 | Weblog
理科の教育に関して
数学と国語の教育に関して論じたので、話は理科社会教育に及ぶ。国語と数学の教育において練磨される事は、個人が(人間が)本来持っている(人間に内在する)論理である。この論理を磨くこと国語数学教育の目的である。ここではやや乱暴な言いかたをすれば、経験は一切捨象されている。
逆に理科社会が対象とするものは経験そのものであり、経験され観察された対象の間を如何に結合するかが、この二つの科目教育の目的である。理科と社会の間ではこの経験の内容(経験の対象となる内容)が異なる。理科は自然として(狭義の意味での自然、五感に感じられる、だから物的な)である。それに対して社会の対象は人間関係総体となる。また理科教育の目的は万人の功利であり、社会という科目の目的は公共の福祉となる。この二つを収約すればやはり功利となるであろう。
理科は物的な自然を対象とする。繰り返すがその対象は五感に映じる物的自然である。であるから早期(理科社会の教育は本格的には小学校3年くらいから始まる)の理科教育で目指すことは、自然に対する感動感銘である。初めのうちはそこには厳密意味での論理はない。科学的思考は国語と数学の公理的理論を背景として組み建てられるが、それが本格的に為されるのはもっと後年である。だから小学校段階の理科教育の目的は自然に対する感動を如何に惹起し刺激するかにある。極めて早期の段階では、朝顔やキュウリの種を植えて実がなるのを観察させるとか、動物を飼育(例えばメダカや兔)をさせる。寒暖の差を温度計を用いて観測させる。やかんで水を沸騰させ一枚のガラス版に吹き当てて、できる雫を見ればなぜ雨が降るかが解る。地球儀と懐中電灯があれば昼夜の推移は理解可能である。梃(てこ)を使って重い物を持ち上げさせても良い。水車の観察さらに凧(タコ)等の経験を応用する手もある。このような身近の経験実見を観察させる。もう少し高学年になれば磁石を使った電信方法、さらに電気で点滅する電灯や走る小型の車なども一方法である。石鹸の作り方、微生物の繁殖、さらに綿から綿糸を作る実験などもある。このような身近の現象を体験させ、その都度その機制を簡単に説明する。
何よりも肝要な事は感動である。面白いと思えば学びたくなる。理科社会はその点興味を喚起する現象にあふれている。単に観察実見させるだけでなく、これらの自然現象を劇画映像で拡大して提示してやる。この点では現在いくらでも方法がある。
なお国語算数の学習はさほど面白いものではない。面白いと思う者はよほどの秀才かいわゆる優等生である。逆に理科社会の素材は興味あふれるものがゴマンとある。興味を喚起させやすい。
理科で言うと、野生動物の生態、太陽系のからくり、蒸気のエネルギ-などは劇画で具体的に表現できる。この点では社会科も同じ。ともかくこういう手段を総動員して感動を呼び起こすことに理科と社会科の教育目的がある。より難しい理論的な事は後になって習えばいいのだ。

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  自然と歴史に興味を持とう。

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