経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

   経済人列伝  福沢諭吉(一部付加)

2020-03-15 15:23:01 | Weblog
経済人列伝 福沢諭吉(一部付加)

福沢諭吉は1835年に中津藩士の次男として大阪の蔵屋敷内に生まれました。父親百助は11石を給付される下級武士でしたが、学者肌の人物で、その学識ゆえに蔵屋敷の経済官僚として大阪商人との折衝には必要な存在でした。晩年には供小姓、厩方と言いますから中級の地位にはあったのでしょう。45歳百助は卒中で急死します。諭吉はまだ1歳でした。父親の死で九州中津に一家は転居します。一家にとって中津は異郷でした。諭吉が中津にはなじんだとは思えません。
そういう事情で諭吉の初学は遅れます。14―15歳で漢学を習います。21歳長崎へ遊学。学費は長崎の地場役人の家事等の手助けをして稼ぎました。非常に役に立ったので養子にと、言われたそうです。同じく長崎に遊学していた家老の息子と折り合いが悪くなり、中津に返されます。諭吉はどうしても江戸か大阪に出て蘭学を勉強したいと、言って親戚の猛反対に会います。母親のみが理解者でした。
22歳大阪の緒形洪庵の適塾に入門します。あんまをして学費と生活費の足しにします。この塾の生活は百鬼夜行でした。若くて威勢のいい若者が集団で住んでいるのですからものすごいものです。旧制高校の寮の生活をもっと野蛮にしたようなものでした。逆に言えばすこぶる自由でした。まじめに学問をしている限りです。この塾からは幕末維新の人材が輩出します。大村益次郎(兵部大輔、日本の軍制の創始者)、大鳥圭介(幕府陸軍奉行、五稜郭で新政府に抗戦、後に許され新政府に出仕、京城公使)、橋本佐内(越前藩主松平慶永の懐刀、安政の大獄で刑死)、高松凌雲、長与専斎、菊池(箕作)秋坪、花房元淑などが出ています。長与と箕作の家系は後々まで、学者の家として栄えます。
24歳適塾の塾頭になります。諭吉の学問の出発は遅いのですが、やりだすと上達は早い。ほとんど独学に近いようです。適塾の学風は自由で、その点諭吉には向いていました。緒形洪庵にも信頼され、かわいがられます。25歳藩命で江戸に出府し、中津藩士に蘭学を教えます。この頃諭吉は深刻な体験をします。開港で横浜見物に出かけます。蘭学に自信のある諭吉は、語学上達の腕試しのつもりでした。いざ横浜に着いて、周りを見渡せば、たしかにアルファベットの表記ではあるが、さっぱり解りません。オランダ語などどこにも書いてありません。ここで諭吉は、世界は英語の時代になっていると、悟ります。
そうなると方向転換も早い。ともかくなんとかして英語の勉強をと試みます。適塾の同窓に共同勉強をしようと持ちかけましたが、いい返事はありません。やむなく手に入る辞書を買ってきて独習します。当時まともな英語学習の本はありませんから、せいぜい簡単な英蘭会話辞典くらいで勉強するのが関の山です。そして閑を見つけてはオランダ通司で英語をしっている人に聞きます。私は今アラビア語を勉強していますが、諭吉の苦労は解ります。充分な学習組織のない環境での勉強はなかなかに不便です。しかしオランダ語と英語は似ています。兄弟くらいの関係になります。オランダ語の素養があれば英語は習得しやすいでしょう。
諭吉にとって転機が訪れます。咸臨丸の渡米です。司令長官である木村喜毅の従僕にしてもらい、咸臨丸に乗り、サンフランシスコに行きます。諭吉は船酔いしなかったそうです。ここでウエブスタ-辞書他2冊の英書を買います。こうして諭吉の英学は進みます。この間藩の上士の娘と結婚します。
29歳、遣欧使節の随員として欧州に行き、西洋の社会の有様をつぶさに観察します。この点では渋沢栄一と同じです。この時諭吉は幕府から400両の支度金を与えられていました。その大部分を英書購入にあてます。買ってきた本の一部は翻訳して出版します。啓蒙と営利の二筋道です。「西洋事情」、「唐人往来」などの本を書いて西洋社会の紹介をします。
幕臣に取り立てられ、外国奉行支配翻訳方として150俵の扶持米が与えられます。幕臣としても決して低い地位ではありません。高くもないですが。この頃諭吉は、長州撃滅論を木村喜毅を通じて、幕府に上申しています。ともかく開国、攘夷はまっぴら、というわけです。その為には(長州を討つためには)外国の戦力に頼ってもいいと、言っています。この辺の政治感覚には私は疑問を抱きます。もっとも諭吉は政治行為そのものには関心がなく、常に権力の外にいました。
34歳、1887年に幕府の軍艦受取委員随員として渡米します。この時、推定5000両の金をあちこちから集めてもって行き、その大部分を洋書購入にあてます。幕府としては本以外にも買ってきてほしい物がありました。大胆かつ気ままです。自分で正しいと思えば周囲の事情は考慮しません。謹慎を命じられます。買ってきた洋書の一部は翻訳されます。諭吉の購入した本の量が膨大だったので、洋書の値崩れが起こったそうです。本屋からも恨まれたのでしょう。しかし西洋文明の輸入には大いに寄与します。
明治元年・慶応4年(1868年)それまでの私塾を大きくして、新銭座に学校を開きます。これが慶応義塾の濫觴です。4年後三田に移動します。諭吉はさっさと断髪し、刀も処分して、「読書渡世の一小民」をもって任じ、平民の生活に徹しようとします。初め諭吉は新政府を信じていませんでした。攘夷攘夷と言っていた連中が作ったものだから、たいした事はできまいだろう、と思い新政府への出仕は固辞しました。しかし周知のように、新政府の方針はがらりと変ります。文明開化です。こうして諭吉と新政府は協力しあう関係になって行きます。
諭吉の方針は、文明開化、西洋列強に追いつけ、です。富国強兵の政府方針とそう変りません。諭吉の仕事は西洋の文化や社会組織を日本に紹介し移入する事です。そのためには当時の世界語である英語に習熟しなければなりません。英語で書いた書物を勉強する事、つまり英学の教授指導が彼の役目です。翻訳、講演、著述、教育など福沢諭吉は英学の一手専売を始めました。「学問のすすめ」「文明論の概略」などはそのころの著作です。
明治維新における文明開化は異なる二つの文明の衝突でした。衝撃は日本の方にはるかに大きく、当時の積極的な日本人はこの大文明をどのように受け取り、消化しようか必死でした。でないと植民地になります。あちらに行った人は一握りです。なにをしようにも解らない事ばかりです。こういう時すでに三度渡米渡欧し、英語に達者で、翻訳能力に優れ多くの啓蒙書を出し、加えて優秀な門下生の一団を抱える諭吉の存在は貴重でした。当時としては唯一の開明的知的集団でしょう。他には旧幕臣のグル-プがありますが。明治政府としてもなにかあると彼に聴かなければなりません。例を一つ挙げますと東京府の警察制度があります。この制度の基礎は諭吉の考案によります。諭吉が特別警察制度に詳しいとはいえませんが、洋書のどこかを読めば大体の事は解ります。あとは諭吉の合理的な頭脳で翻案してゆけばいいのです。
横浜正金銀行と明治生命という二つの会社の樹立に諭吉は大いに寄与しました。前者は外為銀行です。後に国営になり、日銀と並んで日本の資本主義発展の金融上の基礎になります。この銀行は後、東京銀行になり三菱と合併して今日に至っています。保険という事業は理解されにくいものです。なにもなければ騙されたような気になります。しかし保険は必要です。保険のうち生命保険の必要性を説いてまわったのが諭吉です。単に必要性のみならず、この分野は公平を期すために確立統計の知識を必要とします。独立と数理をモット-とする諭吉にして初めて多くの人を納得させれたのでしょう。こうして明治生命が設立されました。翌年安田善次郎により安田生命ができます。両社は平成の不況期に合併しました。外為と保険という分野は経済学上の知識を特別に必要とします。
福沢諭吉の信条はまず人格の独立と自由です。この信条は民権論に傾斜します。彼が書いた「国会論」は国会開設運動の支柱の一つになりました。後には日清戦争を支持し、これを「文明と野蛮の戦い」と言います。国権皇張も言い出します。独立・自由と言いますが、私の見るところ諭吉という人は他者に縛られるのが大嫌いなようです。彼の心情がそのまま信条になったのだと、思います。また彼は実証性と功利性(役に立つ事)を好みました。この性向は実業の振興にぴったりです。
諭吉の歴史上の役割は何かといえば、それは西洋の技術と文化の、紹介・翻訳・輸入です。一時期この役割を彼は一手専売で引き受けました。そして彼自身の組織、慶応義塾をも大きくします。実業は彼の好むところですから、幾多の企業家は彼の意見を尊重します。諭吉が日本の経済人として果たした役割はここにあります。その点で渋沢栄一と好一対です。渋沢がもっぱら経済行為に徹したのに対して、福沢諭吉は教育したがって人材育成の方に重点を置きました。
諭吉は明治政府の顕官の中で特に大隈重信と親しくしていました。大隈を通じて三菱財閥の岩崎弥太郎とも親しくなります。慶応義塾は三菱の人材補給所になりました。
福沢諭吉は政治家としては今ひとつでしょう。彼の役割はあくまで技術・文化の輸入紹介にあります。この役割を個人でここまで大規模に行い、国家の運命にここまで大きく寄与した人はいないでしょう。それをあまり心労とすることもなく淡々・さっぱりと彼はやり遂げています。彼は大酒のみでした。1901年66歳死去。死因は脳卒中です。
(典拠 福沢諭吉---吉川弘文館)
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行



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